4月 16
日本教育新聞の連載コラムの2回目が、4月13日に掲載されました。
学校の「個性」とは何か、というタイトルで、大阪府教育委員会が中堅府立高校二一校と協働で行ったプロジェクトを取り上げました。
学校の「個性」とは何か
教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をもたらしている。本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。
「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その中堅校の「特色作り」に取り組んで大きな成果をあげたのが、大阪府教育委員会が中堅府立高校二一校と協働で行ったプロジェクトだ。二〇〇五年から開始し、大阪教育大学(大脇康弘教授たち)も参画している。四年目の〇八年度には事例校を5校(刀根山、久米田、市岡、吹田東、布施高校)に絞り、校長とミドルリーダーの役割、学校革新の分析などを進めてきた。今年二月にはその報告と討議が行われ、私も参加した。
ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。それを行政、現場と研究者の三者が協力して実現しようとしている点がすばらしい。
私が一番感動したのは、学校教育の目的を「すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすること」と、参加校の皆さんが口をそろえて発言していたことだ。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合う。
商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。
4月 10
日本教育新聞に4月6日から毎週4回にわたってコラムを連載しています。
4月6日は拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の宣伝をかねて、以下の問題提起をしました。
「思考力・判断力・表現力」の育成のために
次期学習指導要領の改訂の柱は「思考力・判断力・表現力等の育成」「言語活動の充実」である。すべての教科で「観察・実験やレポートの作成、論述」の指導が求められる。そして「これらの学習活動の基盤となるものは、数式などを含む広い意味での言語であり、その中心となるのは国語である」(以上、中教審答申より)。
私は四半世紀にわたり、高校生を主な対象とした国語専門塾を主宰しているが、こうした方針には全面的に賛成である。しかし実際の国語教育の現場では、本来すべきことと正反対のことが、長く行われてきたのではないか。つまり「文学教育」と「道徳教育」である。
小中高の国語の授業では、評論よりは物語や小説に多くの時間がさかれている。それもテキストの分析や論理の解明よりも、情緒的で「文学」的なことに大きく偏っている。それは国語が道徳教育になっていることと結びついているだろう。
学校教育全般がそうだが、特に国語の時間は、道徳や倫理のすり込みに特化していることが多いようだ。求められるのは、決まり切った道徳的結論を探し出すことでしかない。きれいごとや建前が支配し、本音や現実のリアルな部分が切り捨てられる。しかし、本来は現実に深く切り込み、現実を動かしている「論理」と徹底的に格闘することこそが、国語力ではないか。そうであって初めて「思考力」が鍛えられ、現実をしたたかに生きていく力を得られるはずだ。
その実際の方法をまとめた本をこの2月に上梓した。『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)である。これは評論の読解、論理トレーニングの本だが、日本における国語教育、大学の一般教養教育、国語学や言語学などに対する問題提起の書でもある。本紙の読者の皆さんにも、是非、私の問いを受け止めて、一緒に考えていただきたいと願っている。
3月 11
今月の『中央公論』誌(2009年4月号)に、「大学病院、その赤字経営の実態とは」というサブタイトルの原稿を掲載しました。
本タイトルは「アルバイトで隠れる医師の本当の給与体系」です。
こちらは、内容全体の一部しか表していませんが、刺激的なタイトルを編集部はつけたがるのです。
大学病院を国立大と私大の両面から、その経営・財務面で考えるための、いくつかのポイントを提示しました。
これは問題の入り口でしかなく、問題提起でしかありません。
これを入り口にして、問題の全容と、その解決策をまとめて、新書で刊行する予定です。
教育問題も、医療問題も、同じ構造があります。
表の顔と裏の顔があり、裏の顔は関係者しか知らないことです。そして、表の面だけが議論され、進められていきます。
裏も含めた全体を表に出すことからしか、何も始まらないでしょう。