8月 30

言語をその起源から考える  中井浩一 その2

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが昨日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは本日30日に掲載。

========================================

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
さて、判断がある程度、一般的に行われるようになると、 
判断(文)そのものが意識される段階になる。
これが観念世界が観念世界として対象になる段階。メタ言語の始まりである。

なお、これが具体的には二においてのどの段階かは、実証的に調査されるべきだろう。
私は二の(7)の段階だと推測している。
二の(8)で述語部が述語部として意識されるのは、三の(1)を経た、三の(2)の段階だと考えられる。

さて、この文そのものが意識された時に、デハナイの形が現れる。

まず「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識される

それ以前に以下のようなことがありうることはわかっている段階だ。
(これらが「含み」になっていることに注意!)
Aは白い
Aは黄色い
Aは青い

「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識されるとは、
「Aは赤い(赤である)」ハ と意識され、
この判断(文)が疑われ、問われる場合であり、
その中に、
「Aは赤である」ハ ナイ、
つまり「Aは赤デハナイ」
は内在化されている。   
ここに「問う」ということが明確に意識され、
同時に肯定と否定そのものが強く意識される。
つまり、「Aは赤デハナイ」が意識されている

それは
Aを対象として意識した最初の段階が繰り返されることになる。

Aとは何か。

Aは白い
Aは黄色い
Aは青い
以下続く
を検証していくことになる。(これが今後の「含み」となる)

そして、その作業の果てに
(それらを含みとし、「Aは赤デハナイ」が前提として意識され続ける中で)、
結局は
やはり「赤だった」となる場合もある。

それが
「Aは赤デハアル」である(だからこの例は少ない。しかし、それだけの含みを持つ)
それは
「Aは赤デハナイ」が対象化され、それが問われた結果、否定された場合に現れる。

二の(6)で潜在的に現れた存在と無、肯定と否定の理解は、ここで顕在化する。はっきりと意識される。

以上が文から文が生まれる過程だ。1文が分裂して2文が生まれる過程である。
「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…(以下続く)」が
分裂したと考えられる。そして「Aは赤デハアル」は、そうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものと
考えられる。それが「含み」ということだ。

(2)述語部の「対比」「比較」
この段階で、
赤でハナイ、では何か。白でアル。
という形が現れ、それが「対比」「比較」の始まりである。

この「対比」「比較」は、
すでに
Aを対象として意識した最初の段階、
Aとは何かが問われた段階で潜在的には現れている。

Aは赤い(まだ「赤」という意識はない)
Aは白い  上に同じ
Aは黄色い
Aは青い

しかし、
その対比が対比として意識されるには、
判断(文)が判断(文)として否定される段階が必要なのである。

そして、この段階こそ、
述語部が述語として、意識される段階である。
述語の意識が生まれるのは、
判断(文)への違和感、判断の対象化のこの段階からであると考える。

そして、この違和感、差異の意識から
述語が相互に比較・検討され、
その差異が、対立、矛盾へと深まっていくのではないか。

そこから本質、実体と属性、個別と特殊と普遍、類と種、といったとらえかたが成立するのではないか。
※ここで名詞の分類が必要

そしてこの先に、多様な例文が出てくる ※松永さんがたくさんの例を出している
赤でハナク、白でアル。
生物だが、動物でハナイ。
植物だが、薬草でハナイ。

四 実証研究

事実のデータによってこそ、認識を深め、確かなものにすることができる。
しかし、事前に仮説として深い洞察が用意されていなければ、多様な偶然性の中に本質や真理への道を見失うだろう。

実証主義は次の区別をどこまで理解しているか
(1)現時点の言語世界 これまでの発展過程が一切無視されて現象する
(2)歴史的発展の中での、各時点、各段階での言語の状態
 古事記、日本書紀、万葉集、平安文学、随筆、漢文脈、日記、物語、伝承

松永さんが日本語の根源を考えるなら、上代語の文献、古事記、日本書紀、万葉集などのデータの分析
こそ必要なのではないか。
私が一で示した観点から、以下を考えるためのデータ収集が必要ではないか。

○認識の発展、名詞の発生
 それぞれの段階
○判断がある程度、一般的に行われるようになり、
判断(文)そのものが意識される段階とは、実際にはどの文献に現れてくるのか。
○述語が比較され、その差異が、対立、矛盾へと深まっていく
本質、実体と属性といったとらえかたが成立する。
この先に、多様な例文が出てくる ※
○名詞の分類との関係
 普通名詞、代名詞、固有名詞 

五 仮定条件と確定条件

松永さんは、この「デハナイ、デハアル」を書き上げた後に、学会用の論文を書き上げた。
そこで複文の仮定条件節と確定条件節におけるデハナイ、デナイの区別を問題にしている。
仮定条件節にはデハナイは現れず、デナイが使用され、確定条件節の内部にはデハナイが現れる。
この事実の説明に取り組んでいる。また、文をまとめた名詞句内にデハナイが入ることが可能であることも
説明している。

仮定条件とデハナイの関係について、松永さんは前回の「デハナイ」でも取り上げていて、
私は「日本語の基本構造と助詞ハ」では、次のように説明した。
「ある文(肯定文)を意識した時に、デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、
今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件「?ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった
肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、
1つの対象(焦点)が意識されては消えていく。関口なら『達意眼目は常に1つだ』と言うだろう」
(メルマガ314号)。この考えは、今も変わらない。

こうした問題を一般的に考えるには、まず、文を文として意識する段階ことから初めて、文から名詞句が
生まれる過程、文から文が生まれる(主文と副文の分裂)過程の説明と、そこでの仮定条件と確定条件の
違いがどこから生まれるのか、そこでの順節と逆説の区別がどこから生まれるのか、これらすべてについての、
論理的な説明がまず先にあるべきだろう。

文が文として意識され、デハナイからデハアルまでの運動を経て、その全体の含みを持って生まれるのが
名詞句ではないか。
文が文として意識されれば、そこには潜在的に文の否定、述語の否定があるから、その文で問題になっている
対象は何かと改めて問われ、新たな述語が意識される。これが文から文への分裂だろう。
つまり、三の(1)は、文から文が生まれる過程なのだ。そこで書いたように、これは1文が分裂して
2文が生まれる過程である。「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…
(以下続く)」が分裂したと考えられる。そしてそうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものが
「Aは赤デハアル」なのだ。そこにはたっぷりとした「含み」がある。
この過程は名詞が生まれる過程、定存在の分裂とその止揚である独立存在への運動と同じである。
そしてここまでの過程を踏まえて最初の文を意識した時に、名詞句が生まれるのではないか。
そこにはたっぷりとした含みがある。だからそこにはデナイ以外にデハナイもデハアルも含まれているのだ。
含まれているものは外化する。ただし実際にはデハアルは例がないらしい。それは、意識が一度には1つの
ことしか意識できないことから説明できるのではないか。

また、対象世界の認識において、対象の変化を原因と結果でとらえることができるようになっている段階
(二の(5))を前提として、文のレベルでの分裂でも、A→Bの原因と結果の捉え方から、確定条件と
仮定条件が生まれる。
 他方で、順節と逆説は、文と文との対比、比較の意識(三の(2))から生まれてくる。

では、確定条件と仮定条件の違いは何か。
確定条件とは現実、現在の直接性に止まり、それが肯定される段階であるのに対して、現実や現在が否定
されるのが、仮定条件である。それは未来や過去が意識され、現在とは違う状況を意識する。
これはより高度な段階である。
現実や現在の直接性が肯定される確定条件内のデハナイは、現実、現在の直接的内容だけが意識されているのであり、
現実が、現在が否定された仮定条件では、その「否定」(?ならば)に意識が集中しており、現実、現在の
直接的内容には意識は向かないのではないか。
意識は常に、その時々で、1つのことしか意識できないからだ。

おわりに
 拙稿はすべてが仮説である。しかしこれらの仮説の根底には、私の立場があり、その論理的な必然性が
あると考えている。それを具体化して提示するためにも、これらの仮説を提出しておきたかった。
 なお、松永さんがデハナイ、デハアルに着目したことの意味の大きさを強調しておきたい。
外的対象を意識する段階と、文(認識)そのものを意識する段階には発展段階として決定的な違いがある。
この後者のメルクマールがデハナイである。ここに着目したのは松永さんの資質と姿勢の賜物だと思う。

2016年8月10日

8月 29

言語をその起源から考える  中井浩一 その1

松永奏吾さんは長く、デハナイ、デハアルについて研究してきた。2014年の春には「デハナイ」をまとめた。
その論文とこのテーマへの私の考え「日本語の基本構造と助詞ハ」は、このブログで公開している。
松永さんはそれを踏まえて、2015年の夏に、全面的な書き直しをした「デハナイ、デハアル」を提出した。
それについての私との意見交換があり、それを踏まえて9月に一応完成させたのが、今回掲載した
「デハナイ、デハアル」である。
今回も、この問題への私見をまとめた。「言語をその起源から考える」がそれだ。前回の私のコメントの大枠は、
今も変わらないが、名詞の導出や、文の意識の導出やそれ以降の扱いがまだまだ不十分だったと考えている。

「言語をその起源から考える」(中井浩一)を、本日(8月29日)と明日30日に分けて掲載する。

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが本日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは明日30日に掲載。

========================================

一 言語を考える際の観点、立場

一番肝心なことは、言語を考える際の根本的な立場を確立することだと思う。この点で、
私は明確に以下のような立場と観点にいたっている。松永さんには、それらについて明確な言及や説明がない。
これらについて、自分はどのような観点、立場に立つのかを明確にし、これから20年で、
私が出した論点のすべてに自分の答えを出してもらいたいと思う。

(1)認識は生物の生命行為の延長。 (これは唯物論の立場になる)
動物が飢えて、外界のものを食べて、消化して自分の体の一部とする。これが発展したのが思考、
認識であるにすぎない。

対象の意識とは、生物と外界との分裂、矛盾(飢えや痛み、性欲など)が感覚された(意識された)
ものであり、生物にあっては、ただちにこの分裂の止揚の運動が起こり、分裂はただちに解決される。
それが生きることだからだ。それができないときは生物は死ぬ。
その生命活動の延長上に人間の認識や言語活動がある。

ここからわかることは、人間の認識も生命活動と同じく、常に生死に関わる全体的、根源的なもの
(変革意志による)である。部分的、断片的ではない。なぜなら生命活動がそもそもそうだから。
部分や断片の認識も、常に全体的、根源的なものに支配されている。

(2)対象の運動と人間の認識の運動
生物の生命活動の延長が思考や言語行為であり、生命活動一般の活動はそれは人間と外界との対立・矛盾から
生まれ、その解決に終わる。言語活動も同じであり、人間と外界との対立・矛盾から生まれ、その解決に終わる。
ここに、外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題がある。

対象が意識される時は、対象の運動を静止して捉えられる。運動しているものを制止させることに伴う矛盾が、
認識の運動を生む(関口存男の名詞論から)。

(3)言語活動とは人間の意識の活動である。
人間と外界との対立・矛盾は、人間の意識に反映される。そして意識の内的二分を引き起こす。
それはまずは対象意識と自己意識の分裂となる。
人間と外界との対立・矛盾の解決は、人間の意識内では対象意識と自己意識の統合の活動となる。
外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題と、意識の内的二分、対象意識と自己意識の
分裂と統合の活動とをどう関係させて理解するか。それと、言語の運動や発展をどう結び付けるか

(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
感覚レベルの認識(感知)からはじまりそれが思考による認識になり、その思考内部でも、現象レベルから
本質レベルへ、個別から普遍(類や種)へと深まっていく。それが説明されねばならない。
それと名刺の分裂と統合、助詞ハはどう関係するか。

(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
対象がまずは「存在」として、次に「定存在」としてとらえられ、次いで「独立存在」
(属性とその属性の基底とからなる全体。ここで名詞が成立する)としてとらえられる。
この3つの段階が区別されねばならない。
そして、存在から定存在へ、定存在から独立存在へと、対象がどう運動・発展し、認識がどう運動・
発展するのかが問われる。

(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階。
松永さんは、今回の論文で、文を意識する段階を始原の段階のものと、無媒介につなげている。
人間の原初の対象意識と、無媒介につなげている。
その媒介過程こそを丁寧に考えるべき。

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
対象の意識とは、人間の意識の内的二分であり、対象意識と自己意識への分裂である。
それは分裂の統合のための運動を生み出す。それはただちに統合のための実践・行為を引き起こすが、
その実践・行為の中に認識が発生し、「その対象は何か?」との意識の運動が始まる。

意識の運動の最初は「何か」がただ意識されるだけ、
それがとりあえず、「何か」〔A〕として意識される。
この「何か」〔A〕が「存在」である。

(2)「定存在」
その「何か」〔A〕は最初は人間の感覚に現れてくる(外化する)ので、その感覚レベルに現象する性質と
一体のものとして現れ、意識される。

たとえば、Aが赤色(まだ「赤」という意識はない)として現象する場合、
〔A〕と「赤い」は一体である。 これが「定存在」である。

(3)「独立存在」
しかし、この一体性は、性質にも多くの違いがあること、その性質も変化することを意識することで壊れる。

五感でAの多様な性質がとらえられていく。
色以外にも、においや形や堅さなどが五感でとらえられる。

たとえば
〔A〕と「赤い」が一体
〔A〕と「丸い」が一体
〔A〕と「香る」が一体
〔A〕と「柔らかい」が一体
〔A〕と「甘い」が一体

その時に、1つの対象〔A〕と、その対象の持つ多様な性質(「赤い」「丸い」「香る」「柔らかい」「甘い」など)
の両方が意識される。

それが反省されるようになると、対象が〔A〕とその性質とに区別されて意識され、それは、「性質群」と
「A」として意識される。
これは最初の〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂したことを意味するが、その分裂は再度、止揚される。
それが「諸性質を持ったA」である。

ここで、「A」は「諸性質の基底」として反省され、名前が「A」としてつけられると、それが名詞の始まりである。 
そして「諸性質を持ったA」が意識される。これが「独立存在」である。

(4)判断の始まり 
この〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂し、その分裂は再度「諸性質を持ったA」として統合される運動が、
「判断」の始まりである。

その判断は以下のように並ぶ。

Aは赤い(赤である)
Aは丸い(丸である)
Aは堅い
Aはくさい
 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が、潜在的にだが成立している。

(5)「外化」から「変化」へ
対象は、ある性質として感覚に現れてくる。それが「外化」だが、その性質は変化する。
五感でAの変化がとらえられていく。

たとえば
緑だった葉が、赤や黄色になっていく。
小さかったものが大きくなる。
動いていたものが動かなくなる。
あったものが消える。
存在していたものが無になる。

緑だった葉が、赤や黄色になっていく。

最初は〔A〕と「緑(である)」は一体であるが、こうした変化を意識することで、この一体性は壊れる。

ここに、変化、つまり存在と無、否定と肯定が、潜在的には生まれている。

この変化が、後に時間の経過による運動としてとらえられると、原因・結果という捉え方が生まれてくる。

(6)存在のアルと判断のアル
Aがなくなってしまったり、変わってしまうことを、人は繰り返し経験し、観察する。
そうした認識の結果、Aとアル(存在)が区別して意識されるようになる。
Aの性質の1つとして、アル(存在)が意識される。

Aとして意識されたAは、存在していない限り意識されないのだから、Aとアルは初めは一体である。
しかし、Aの消滅や変化の現象をとらえられるように認識が発展するようになると分裂し、
Aはアルとして意識される。
同時に、Aはナイ、も意識される。
ここに存在と無、肯定と否定の関係の意識が潜在的に現れる。

このアルもAの性質の1つではあるが、他のすべての性質がこのアルの上に成立すると言う意味で、
すべての性質の基底にあるものである。

これが「存在のアル」だが、これが転じて「判断のアル」になる。

(7)判断の確立 主語と述語
アルとナイによって、肯定の判断と否定の判断が生まれてくる。

Aは赤い(赤である)  Aは赤くない
Aは丸い(丸である)  Aは丸くない
Aは堅い        Aは堅くない 
Aはくさい       Aはくさくない

 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が明確に成立する。
 
(8)判断の発展

Aは赤でアル
Aは白でアル
Aは黄色でアル
Aは青でアル

こうした認識の全体的な反省から、「色」という抽象化された名詞がとらえられ、
性質の中での本質的な序列が問われるようになり
また主語の方では、「類」や「種」がとらえられるようになっていく。

こうして、判断、述語部、主語であるAの認識が深まっていく。
主語と述語の分裂、名詞の種類、述語部の多様な品詞が生まれて行く。
感覚から思考へ、思考内でも現象から本質、個別から普遍へと。
主語も述語部も感覚でとらえるレベルから始まるが、思考でとらえる一般化によって「類」や「種」がとらえられる、
述語部も主語も本質的な序列が問われるようになっていく。
また、運動が運動としてとらえられ、原因・結果で変化が捉えられるようになる。

この項については、概要しか今は書けない。

明日につづく。

8月 28

デハナイ、デハアル 松永奏吾 その2

■ 目次 ■

デハナイ、デハアル 松永奏吾 

0.問題提起

1.AはBである
1.1 名詞「A」
1.2 判断

2.デハナイ
2.1 AはBではない
2.2 AはBではなくCである
2.3 AはBではないか?
※ここまでが昨日(8月27日)掲載。

3.デハアル
3.1 AはBではないが、Cではある
3.2 AはBではあるが、Cではない
  3.3 AはBではある

4.結論と今後の課題
※ここまでは本日(8月28日)に掲載。

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3.デハアル

3.1 AはBではないが、Cではある

デハナイの助詞ハは、文、判断を対象化する。何かを対象化することは、即、その対象について問うことであり、
文、判断を対象化して問うことの中には、肯定と否定とが内在している。すなわち、「AはBである」を
対象化して問うということは、即、「AはBであるか、ないか」を問うことである。ただし、はじめに出て
来るのは否定の方である。なぜなら、否定の意識なくして、「AはBである」という判断が問題になることは
ないからである。つまり、何かがおかしい、その疑いからしか認識は始まらない。かくして、「AはBである」
に対する疑いから否定の意識が顕在化して、「AはBではない」という否定判断が生じる。
ところが、「AはBである」に対する疑いからはじまって、それが反転して、肯定されることもある。
これは、「AはBである」がそのまま直接的に肯定されるというのではなくて、「AはBである」が
いったん疑われ、否定された上で、しかしやはり肯定される、という屈折的な認識である。
つまり、「AはBである」が、否定されると同時に肯定されるという認識のしかたである。
同一の対象について、肯定と否定が同時に対立的に現れるのは、逆接文を典型とする。

 (19) 山田は真面目な学生ではないが、一応、学生ではある。

(19)では、「山田は学生である」という判断を問うた結果、否定がまず為され、しかし同時に肯定も為されている。
「山田」は、一面から見ると「学生らしからぬ」が、別の一面から見ると「学生」である。(19)では、
「山田は学生である」という判断に内在する、否定的側面が「真面目な学生ではない」と表現されている。
そして、それと同時に為された「(山田は)学生ではある」という肯定は、「山田は学生である」という判断が、
助詞ハによって対象化され、いったん疑われた上で為されている。すなわち、この肯定は、疑いを内在化させている。
言い換えると、「学生ではある」とは、疑いを、ないし、否定を含みもつ肯定である。助詞ハによって、
疑いが内在化された肯定、それがデハアルである。

3.2 AはBではあるが、Cではない

 (20) 山田は学生ではあるが、真面目な学生ではない。

(19)と(20)はどちらも逆接文であるが、(19)では逆接文の後件に、(20)では逆接文の前件にデハアルが現れている。
この(20)のように、デハアルが逆接文前件に現れる場合、「?ではあるが」、「?ではあるけれど」など、
逆接句の形式をとることによって、ある特殊な逆接句を形成する。すなわち、(20)のような譲歩、ないし、
(21)のような前置き、である。

 (21) 僭越ではございますが、スピーチをさせていただきます。
 
譲歩も前置きも聞き手を意識した表現である。譲歩は、聞き手に同意しつつも反論するという文に、
前置きは、聞き手に対して、発話することの不適切さを前もって断りながらも発話するという文に現れる。
デハアルが逆接文の前件に現れて、デハアルの含みもつ疑いが、逆接文の後件で表されている。
なお、(19)のような逆接後件に現れるデハアルと、(20)(21)のような逆接前件に現れるデハアルとでは、
後者の実例が圧倒的に多い。これは、逆接文に限らず、複文一般のもつ表現構造と関係がある。すなわち、
複文一般は、前件が従属節であり、後件が主節であり、主節とは、主張、結論を述べる場所である。
かたや、デハアルは、屈折的な肯定であるから、デハアルの述べる内容は、確固たる主張、明瞭判然たる結論ではない。
したがって、主節、後件にデハアルは現れにくい。逆にいえば、デハアルは、後件の主張、結論と対立する内容を
述べるのにこそふさわしい。それがすなわち、譲歩であり、前置きである。

3.3 AはBではある

デハアルの含みもつ疑いが表現されずに、デハアルだけが単独で現れる場合もある。

 (22) 山田は、確かに、学生ではある。

(22)は、「山田は学生である」という判断を疑いつつも肯定するが、ここに否定的側面は表現されず、
デハアルの「ある」の中に疑いが内在化されている。その含みを外化させると、先の(19)(20)のようになるわけ
である。この (22)のような例は、書き言葉による文章中よりむしろ、話し言葉にこそ多く見られる。(22)は、
デハアルのもつ含みを、含みのまま残したような文であり、このような文は、明晰さを意識して書かれる文章
にはふさわしくない。逆に言えば、日常の会話では、不正確な言い回し、言い淀み、発言の逡巡、といったことは
むしろ常態でさえある。(22)のようなデハアルは、含みを言い表すことなく、含みを含みとして言い残した表現である。
その含みは、デハアルの助詞ハの中にある。

4.結論と今後の課題

助詞ハは、何かを意識したこと、何かを対象化したこと、何かを問いとして立てたこと、を表す助詞である。
「これは?」という問いから始まって、「これはA」という形で「A」という名前が付けられると、
ここに名詞が生まれる。その「A」が対象化され、問われ、答えが出されると、「AはBである」が成立する。
ここにおいて主語と述語が現れ、助詞ハは問いを立て、答えを導く助詞となる。こうして名詞と助詞ハが生まれ、
そこから形容詞、動詞などが生まれていく。
しかし認識が発展して、高度なレベルにまで到達していく過程で、対象が現実世界のものから、認識上の判断
(文)そのものへと拡大する。「AはBである」が対象化され、疑われ、否定されると、「AはBではない」が
現れる。さらに、「AはBである」が対象化され、疑われながらも、肯定されると、「AはBではある」が成立する。
助詞ハは、自ら問いを立て、答えを導く、「設問」の助詞である。意識が対象としてとらえたものを、
問いとして設定する。問いを「?」で示し、答えの導かれた結果を「→」の先に示すと、上に要約した
一連の運動は、以下のように図示できる。

・これは?    → これはA。
・Aは?     → AはBである。
・AはBである? → AはBではない。
・AはBである? → AはBではある。

 こうした認識の発展は、設問というその本質の現れてゆく過程である。その過程で、助詞ハの本質も明らかに
なり、その多様な機能が現れてくる。本稿では否定と肯定の対比の意識がどのように生まれるかを説明した。
助詞ハの他の機能も、この延長上に証明できるはずである。また「AはBである」の基本文から詠嘆文、
勧誘文、譲歩や前置きなどの形態が派生することを説明したが、他の形態もすべてここから派生したものとして
説明できると思う。
こうしたことを今後の目標としたいのだが、当面の課題として以下が設定できる。

認識の発展、設問というその本質の現れてゆく運動は次のような例に展開する。これらの例のうち、
特に(23)(24)のような条件用法を考えることを第一の課題にしたい。

 (23) 廊下を走ってはいけない。
 (24) 寄せては返す波。
 (25) くわしくはここをクリック。
 (26) では、始めましょう。
 (27) 実は…

 また、次の(28)のような、「対比」と言われる例が、助詞ハの本質からいかにして出て来るかという論理を
考えることを、第二の課題としたい。

 (28) コーヒーは飲んでもよいが、酒はダメだ。

8月 27

デハナイ、デハアル 松永奏吾 その1

松永奏吾さんは長く、デハナイ、デハアルについて研究してきた。2014年の春には「デハナイ」をまとめた。
その論文とこのテーマへの私の考え「日本語の基本構造と助詞ハ」は、このブログで公開している。
松永さんはそれを踏まえて、2015年の夏に、全面的な書き直しをした「デハナイ、デハアル」を提出した。
それについての私との意見交換があり、それを踏まえて9月に一応完成させたのが、今回掲載する
「デハナイ、デハアル」である。
14年の「デハナイ」が学会を意識するあまり、自説の展開が中途半端に終わったので、今回は学会を意識せず、
言語学の前提や常識を棚上げにし、ゼロから言語学のすべての前提(専門用語やカテゴリー)を導出することを
めざしてもらった。学会相手ではなく、ひたすら自分自身に対して対象(言語、日本語、助詞ハ)の本質を
明らかにすることに専念してもらった。その分、前進があったと思う。
その後、松永さんは2015年の年末から今年16年の4月にかけて、学会用の論文「デハナイ、デハアル」を
書き上げた。松永さんの指導教官だった野村剛史氏との意見交換を経て、現在はそれをさらに練り上げているところだ。

今回も、この問題への私見をまとめた。「言語をその起源から考える」がそれだ。前回の私のコメントの大枠は、
今も変わらないが、名詞の導出や、文の意識の導出やそれ以降の扱いがまだまだ不十分だったと考えている。

「デハナイ、デハアル」(松永奏吾)を、本日(8月27日)と明日(8月28日)に分けて掲載し、
「言語をその起源から考える」(中井浩一)を、8月29日と30日に分けて掲載する。

■ 目次 ■

デハナイ、デハアル 松永奏吾 

0.問題提起

1.AはBである
1.1 名詞「A」
1.2 判断

2.デハナイ
2.1 AはBではない
2.2 AはBではなくCである
2.3 AはBではないか?
※ここまでが本日(8月27日)掲載。

3.デハアル
3.1 AはBではないが、Cではある
3.2 AはBではあるが、Cではない
  3.3 AはBではある

4.結論と今後の課題
※ここまでは明日(8月28日)に掲載。

言語をその起源から考える 中井浩一
※8月29日と30日に掲載。

========================================

デハナイ、デハアル 松永奏吾

0.問題提起

 「AはBである」は、日本語の基本文である。この助詞ハは、一文の要である。ところが、この
「AはBである」を否定すると、「AはBではない」となって、もう一つの助詞ハが現れる。この
二つ目のハは一体何であるか、なぜ助詞ハがここに現れるのか。また、助詞ハを伴うことによって、
デハナイという否定はどういう意味をもつのか。さらにまた、デハナイならぬデハアルという形もあって、
「AはBではあるが…」などのやや特殊な文脈に現れる。この特殊性はどう説明するべきか。
 以上の、デハナイとデハアルの問題を考えるのがこの論文の目的である。しかし、「AはBではない」
にせよ、「AはBではあるが…」にせよ、これらの文は、「AはBである」という基本文から派生した
存在なのだから、「AはBである」から考えないわけにはいかない。基本文としての「AはBである」から、
いかにして「AはBではない」と「AはBではあるが…」が出て来るかという論理を示さなければならない。
それはすなわち、助詞ハ自体の生成してくる論理にまで戻って考えなければならない。
この論文の目的は、デハナイとデハアルの意味を明らかにすることにあるが、それは助詞ハの本質を明らか
にする一つの過程でもある。この考察により、「AはBである」が日本語の基本文であり、助詞ハが日本語
の要であることの意味が、いっそう明確になるはずである。

1.AはBである

1.1 名詞「A」

 人間と世界との関係は、ある対象の存在を意識することから始まる。その時、自己に対して、対象が対象
としてそこにある。これは、自己と対象の分裂という事態である。この分裂を統合するべく、人間は自らに対して、
対象に対して、問いかける。「おや(これは何だ)?」と。これが思考の始まりである。この時、対象は、
問いの対象「何か」としてそこにある。人間が対象を意識するとは、自己と対象の分裂を意識することであり、
対象を対象としてとらえようとすることであり、対象を対象としてとらえようとすることの中には、
対象への問いが内在している。
日本語では、「これは(何だ)?」という疑問文が、この始原的思考を表す。「これ」は手元にある対象を指示し、
「これは?」のハは、対象化の意識=対象に対する問いの意識の現れである。と同時に、「これは?」という
問いは、答えを求めて発せられる。すなわち、ハは、問いに対する答えを導く。問われたものは答えられなければ
ならないからである。助詞ハは、対象を問いとして意識し、その答えを導く助詞である。
「これは?」という問いに対する、さしあたりの答えとして、その対象を「A」と呼ぶことにする。
「これはA」と。いったん「A」という音形を与えられた対象は、その後は「何か」ではなく、
「A」として意識され、記憶される。眼前にその対象が存在せずとも、ただ「A」と発声するだけで、
脳裏にその表象を思い浮かべることができるようになる。「A」は、人間が手を使わずに、思考によって世界を
とらえようとする、その欲求の形象化である。
問いの対象「何か」に対して、「A」という形を与えることによって、さしあたり、先の問いは解消される。
と同時に、「A」は、先に「何か」として意識された対象が、「A」として意識し直された結果である。
つまり、「A」の中には、「何か=A」という統合がある。ここに名詞「A」が発生する。この名詞「A」は、
問いを解消したという点では、自己内の分裂の統合形式である。ところが、「何か」を「A」と名付けること、
すなわち「何か=A」という統合は、人間の恣意によって与えられたものであるに過ぎず、対象自体の運動を
反映してはいない。対象自体の運動は判断に現れるのである。

1.2 判断

「A」と名付けられた対象は、現実世界の中で絶えず変化し、発展する。「A」だと思っている対象の中から、
いろいろな諸性質「B」や「C」や「D」が出て来る。これが現実の存在物自体の運動である。認識の側では
これをどうとらえるのか。
日本語では、先に「A」と名付けられた対象が、改めて問い直され、「Aは」と表現される。「A」を、
問いの対象「何か」として、改めて提示する。そして、「A」について理解された内容「B」が問いの答え
として表されると、「AはB(である)」となる。名詞「A」が「Aは」となることによって、ここに改めて
分裂が生じ、それが「AはB(である)」という文になることによって、改めて「A=B」という統合が成立する。
こうして「A=B」「A=C」「A=D」といった判断が現れる。「A」という対象が、「B」や「C」や「D」
という性質、本質をもっていたのだという風に理解するのだ。

 (1) この花は赤い。
 (2) この花はバラである。
 (3) バラは植物である。

 (1)は、ある「花」が「赤い」という性質を外化させていることを言い表す。しかし、それは個別的事柄であり、
感覚的な認識内容に過ぎない。すなわち、「この花」は決して「赤い」と同一ではない。「この花」は「赤い」と
いうだけでなく、現実に他の無数の性質を外に表してゆく。それはちょうどあたかも、「この花」について、
どんな形か、どんな匂いか、などの問いの答えを得てゆくことでもあり、「この花はB」「この花はC」
「この花はD」…とその諸性質で認識され表現されてゆく。この段階で述語部に現れる「B」「C」「D」が
形容詞である。
次に、「この花」が、「B」「C」「D」…という性質をまとめたものとして捉え直される段階がある。
先の「何か=A」というさしあたりの規定の内容が具体的なものになってゆく。「A」の分裂が進展し、
「A」に関する認識が深まってゆくと、「A」と他との差異が明らかになってゆく。かくして、(2)のような
種別名が表れる。さらに、(3)の「植物」という名は、「動物」という対象との対立関係が意識されて初めて成立する、
より高度な名詞、分類名である。これが名詞の発展である。
これら(1)-(3)のような文は、現実世界の対象自体の在り方と対応しており、対象に内在する性質の発現を表す文である。
これらが判断の文の原型である。対象として意識された対象「A」が主語、対象から現れ出た性質「B」が述語である。
この主語と述語の二項は、元々、名詞「A」の中に内在していた二項である。名詞を対象化し、問いとして意識した
ものが主語であり、対象の中から発現した性質が述語である。(2)の「バラである」にしても、(3)の「植物である」
にしても、(1)の「赤い」と同様、対象自体の中に根拠がある。
なお、(2)(3)のデアルという形式は、「ある」を含みもつことによって、これらの文が単なる命名文ではなくて、
在り方を表す文であることを表してもいる。すなわち、(2)(3)の「AはBである」は、対象「A」が「Bとして存在
する」という意味合いをもつ文であることを表している。つまり、デアルは、あくまで主語「A」の存在を表しており、
「A」に係る要素である。
元々、意識は、対象の「存在」を意識することから始まるから、対象として意識された名詞、主語の中には、
存在が内在している。「AはBである」のデアル、そして、「Aはアル」のアルは、その、対象「A」の存在が
表明されたものである。この抽象的な存在だけを表すアルが具体化したものが、動詞一般である。
つまり、動詞も「AはBである」から論理的に生成する。

かくして、ある対象を対象として意識することから、その対象を問う(「これは何か?」)助詞ハが生まれ、
その答えとして名詞「A」が生まれる。その名詞「A」の中にある「何か=A」という統合の分裂から主語と述語
が現れ、その再統合から文が生まれる。ここから他の言葉や品詞、他の文の形態などのあらゆる言語表現が生まれる。
助詞ハは、対象を意識し、名詞を対象化し、問い、そこから答えを導き出すものである。
以上のことから、「AはBである」が日本語の基本文であり、その中心にあって、「A」から「B」を導き出すもの、
助詞ハこそが、日本語の要なのだと言えるだろう。
以上は私の仮説であるが、この仮説をもとにしてどこまで日本語の本質に迫れるか、それに挑戦してみたいと
思っている。次章からデハナイとデハアルの問題を考えるが、それはこの仮説の意味を深め、その仮説の有効性を
証明する作業でもある。

2.デハナイ

2.1 AはBではない

名詞「A」の中にある「何か=A」という統合それ自体がすでに矛盾をはらんでいたが、文「AはBである」
における「A=B」という統合も、それ自体が矛盾をはらんでいる。すなわち、「この花は赤い」にしても、
「この花はバラである」にしても、「この花は植物である」にしても、いずれも「A=B」を表明していながら、
現実には、「この花」は「赤い」と同一ではなく、「バラ」と同一でもなく、「植物」と同一でもない。
つまり、「AはBである」だけでは、現実をとらえきれない。
「AはBである」は、名詞「A」を問いの対象としてとらえ、「Bである」と答える文であるが、
対象のとらえ方、認識がより高度になってくると、文(判断)そのものを対象としてとらえる、ということが起きる。
何かを意識の対象とすることはその対象について問うことであるが、文、判断を意識の対象とする場合、
すなわち、文、判断を問う場合、その問いの中には肯定と否定が内在している。つまり、問われた判断は、
肯定されるか否定されるかしなければならない。ただし、「AはBである」という判断を問うことは、
まずは、その判断を疑うことから始まる。すなわち、肯定よりも否定が先に現れる。助詞ハによって、
文が対象として意識され、疑われ、否定が表明されると、デハナイが現れる。

 (4) この花はバラではない。

 (4)が、文を対象としてとらえていることを図式化すると、次のようになる。

 (5) [この花はバラである]はない

(4)は、助詞ハによって、(2)の「この花はバラである」という文を対象化し、否定した文である。
まず、文を意識し、それを対象化することによって二つ目のハが現れる。対象化はただちに肯定文への疑問であり、
「AはBである」という判断に対する疑問が助詞ハによって表現されて、「AはBである」の中に内在していた
否定が、助詞ハによって分離されて現れる。この二つ目のハ、デハナイのハもまた、文という対象を意識し、
文という対象を問いとして立てる、と同時に、その問いに対する答えを導いて、ここに否定判断という統合が
成立する。否定が成立すると同時に、肯定も意識され、(2)が肯定判断として捉え直される。

2.2 AはBではなくCである

 「AはBではない」という否定判断は、「A」と「B」との統合の否定である。しかるに、「AはBではない」
とは、「A」と「B」との分裂を表しているだけである。すなわち、「AはBと違う」と。この「Bと違う」もの、
「Bではない」もの、それはこの世に無限である。つまり、デハナイは、無限の差異を表してしまう。
故に、「この花はバラではない」という否定判断は、「この花」を改めて対象化し、問いとして意識する。
「この花はバラではない」、では、「この花は何であるか?」と。その問いに対する答えが次のように現れる。

 (9) この花はバラではない。[この花は]トルコキキョウである。
 (10) この花はバラではなく、[この花は]トルコキキョウである。
 (11) この花はトルコキキョウであって、[この花は]バラではない。

ここに、「Bではない」と「Cである」という対立が現れる。否定と肯定の対立が意識される。
「Bである」に対して「Bではない」が定立され、「Bではない」に対して「Cである」が定立される。
肯定から否定へ、否定から肯定へ、という運動の過程において、デハナイに変質が生じる。すなわち、
元々、「AはBである」という文を対象化して成立した「AはBではない」が、「Bである」という肯定に対する
否定となり、そこから、否定の否定たる「Cである」を導き出すようになる。「AはBである」という文全体ではなく、
「Bである」という述語を対象化して否定するものとなる。つまり、デハナイが肯否の対立を意識して用いられる
ようになる。(9)-(11)について言えば、「バラ」と「トルコキキョウ」の対比に意識がある。
さらに、このデハナイの変質が進むと、次のような例をも生み出していく。

 (12) バラにではなく、トルコキキョウに水をやった。
 (13) 今日ではなく、明日行く。

 これらのデハナイは、すでに判断の否定でなくなっており、「ではなく(て)」という形で一語化した接続詞
のような形式である。「Bではない」が、BとCの対比を意識して用いられ、Bを否定し、Cを肯定する、
すなわち、「BではなくC」という一対の認識パターンをもった文型の中で使われるようになる。

2.3 AはBではないか?

 「AはBではない」とは、「AはBである」という判断を対象化して問い、否定した文である。
この時、助詞ハの問いは、自ら答えを導く問いであり、自問自答的である。それに対して、「AはBである」を、
他者に向けて問い掛ける場合がある。これには二通りのしかた、二通りの疑問文がある。

 (14) この花はバラであるか?  
    うん、バラだ。/ いいや、バラではない。
 (15) この花はバラではないか? 
    うん、バラだ。/ いいや、バラではない。

(14)と(15)の応答から分かるように、「AはBであるか?」という問いと、「AはBではないか?」という問いに
対する返答のし方は、同じである。(14)は「?であるか?」と問い、(15)は「?ではないか?」と問うているのに、
返答のし方は同じになる。
(14)の疑問文において、対象化され、問いとして立てられているのは「この花」であるが、その答えは出されずに、
他者にゆだねられている。すなわち、「この花はバラである」という判断は成立しておらず、「この花は?」と
いう問いはカによって延長され、他者に向けられる。返答者たる他者によって、肯定か否定の判断が下される。
一方、(15)の疑問文において、対象化され、問いとして立てられているのは「この花はバラである」という判断
である。すなわち、「この花はバラではないか?」という問いにおいては、「この花はバラである」という判断
が対象化されている、つまり、判断は既にある。質問者自らは「バラである」ということを判断しかかっている。
ところが、他者に向けては、「ないか?」という形の問い掛けが為される。
これが、デハナイカという疑問形式である。
要するに、助詞ハによって、(14)では「この花」が問われているのに対して、(15)では「この花はバラである」
という判断が問われている。返答者の側もそれを受けて、「この花はバラである」という判断に対する同意を、
「うん、バラだ」と肯定で答える。かくして、(14)と(15)の返答のしかたは同じになる。
ただし、問いの内実は異なる。(14)で対象化され、はっきりと捉えられているのは「この花」であって、
それが「バラである」かどうかの判断は不分明である。それは、他者にゆだねられている。
一方、(15)は「この花はバラである」という判断を既に対象化し、はっきりと捉えている。
質問者は自らの答えを既に想定し、「この花はバラである」という判断に傾いている。
故に、このカという問い掛けは、自らの判断を他者に対して確認するものである。
さらに、「AはBではないか?」という問いが、「AはBである」を対象化したものであること、
「AはBである」という判断に傾いていること、ここから、次のような用法が生まれる。

 (16) なんと美しい花ではないか! 
 (17) ひどいではないか!
 (18) 話をしようではないか!

これらの例も、カという形式をもっている以上、他者に問い掛けてはいるが、その内実から見れば、
(16)(17)は詠嘆文、(18)は勧誘文である。ここから、デハナイカが、詠嘆や勧誘を表す形式になる。
特に、(17)は「形容詞の終止形+ではない」、(18)は「助動詞+ではない」という形態をとっている点を見れば、
「AはBではない+か」ではなく、「ではないか」というこの形態で完全に一語化していることを示している。
ここに至ると、デハナイカはすでにデハナイではなく、デハナイがデハナイでなくなる。そしてそれが、
たとえば「ひどいじゃん!」のように、ジャンという形態にまで形を変えると、助詞ハは埋没し、問いの意識も消える。

明日(8月28日)につづく。

1月 03

日本語の基本構造と助詞ハ  その5

三 日本語の基本構造と助詞ハ            中井浩一

 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
  2.1 現実世界で対象が意識される場合
(1)対象として意識する
(2)名付け
(3)文(判断)が生まれる 
(4)「判断のある」と「存在のある」
(5)「存在のある」と他の性質  
(6)「存在のある」と他の動詞
(7) 肯定と否定 
(8)全体から部分へ、部分から全体へ 
  2.2.言語世界で対象が意識される場合
(1)文全体が意識された場合
(2)文から述語部に

                                     

 1.松永さんの論文について

 松永さんは東大の大学院で野村剛史氏のもとで日本語学を研究してきた。20代の後半に始め、
すでに10年以上の期間になる。松永さんの評価できる点は、日本語の助詞、特に助詞ハの研究に
専念してきたことだ。助詞は日本語の根底をなしており、その中でもハは核心だ。こうした大きな
研究対象に取り組むことは普通は避けられる。大きすぎ、根本すぎて、すぐに成果は出ない。
評価されにくい対象なのだ。

 そのハの研究にあっても、デハナイに着目したことも、すぐれた直感だったと思う。ここにはハの
根源的な機能が隠されていると思う。

 問題に気づけた人は、その答えを出す能力を持っている人だ。マルクスがそう述べているが、
松永さんにもそれが言えるはずだ。ただ、助詞は、そしてハは、ムズカシイのだ。日本語の基本構造が
そこにあり、それをつかまない限り、真相は見えてこない。

 この4年間、私は松永さんと一緒に野村氏の助詞ハ、ガ、ノに関する論考や関口存男の『冠詞論』を
読みながら、言語一般の発生(名詞の生成)からの展開、文(判断)の成立の意味、名詞の変質・消滅
までを考え続けてきた。

 同時に、ヘーゲルの判断論、アリストテレスの形而上学を読みながら、人間の認識そのものの成立過程、
展開過程を考えてきた。その両者は基本的には同じことなので響き合い、相互に深まりあうことになった。

 松永さんはこの2年ほど、繰り返し、デハナイの意味について論考を書いてきた。しかし、それはまだ
まだバラバラで混乱していた。1つの原理原則から、すべてを押さえようという覚悟が感じられないのが、
一番不満だった。それを繰り返し指摘してきた。名詞の生成と分裂(判断)から、すべてを捉えつくせ!

 今回掲載した論文(今年の3月に書き上げられた)で、松永さんは初めて、それをなんとかやりとげたと思う。
全体を1つの原理で貫徹しようとしたことが、何よりも優れている。全体も、細部も、一応は論理的に展開され
ているし、「3.デハナイ」と「6.否定と対比」がよく考えられていると思う。その志の高さから、すでに可
能性としては、日本語学の研究者の中ではトップだろう。

 それだけに、これからどう生きるかが重要だ。それは学会との関係や距離を定め、在野の存在で終わることも
覚悟し、ひたすらに真理に向かって突き進めるかどうかだ。

 その点で、一番気になったのが、今回の論文を野村氏の理論を踏まえて展開したことだ。踏まえるのは良いが、
対立点が明示されず、野村氏の理論に対する自分自身の立場を表明していないことだ。これは「ひよっている」の
ではないか。このことは、もっと根本的には学会との関係、そこで前提とされている専門用語の使用法としてあら
われている。

 今回の論文は、多くの前提を持っている。主語と述語、肯定と否定、文と単語、名詞、判断、個別と普遍、
助詞、助詞ハの基本用法、確定と仮定、用法などなど。しかし、本来は一切の前提なしに、それらすべての生成の
根源から説明しなければならない。そうでなければ、助詞ハには迫れない。それに迫るには、そもそも言語とは何
かを、一切の前提なしに解き明かさなければならない。その覚悟があるのだろうか。

 そのことと重なるが、今回の論文の内容で言えば、デハナイを「述語部」内の分裂と理解した点が致命的な誤り
だと思う。私は、デハナイは、文が文のままに対象化されたものととらえる。

 今、松永さんに問われているのは、どこまで根底的に、根源にさかのぼって言語、日本語を捉える覚悟があるのか、
という点だ。

 2. 代案

テーマは、助詞ハとは何かだ。今回の松永さんの論文に即して批判をすることは不可能なので、端的に、
私の代案を示しておく。

 2.1 現実世界で対象が意識される場合

(1)対象として意識する
 言葉の始まりが問われる。それは人間に、外界の現実世界の何かが対象として意識されることだ。
「ムッ!」「ウン!」。ここにすでに対象と自己との分裂が起こっており、その対象は何かという疑問、
問い(つまり自己内二分)が潜在的に存在している。人間の個人的レベルでは、赤ん坊の空腹や排泄物での
不快感などを想像してほしい。それが人間集団のレベルでは狩猟・採取段階の労働や家族関係の中でも生まれてくる。

この対象を対象としたという意識には助詞ハも潜在的には生まれている。それは「その対象ハ何か」という形で意識
される(これが主題のハの潜在的状態)。また、「存在のある」も潜在的には生まれている(後述)。

(2)名付け
 次の段階では、とりあえず、その対象をAと名付ける。これが名詞の始まりであり、ドイツ語では無冠詞。このAが、
その対象は何かという問いへの一応の答えであり、一応の解決になっていることに注目したい。(この点は関口存男
の『無冠詞』)から学んだ)。

(3)文(判断)が生まれる
 しかし、それはただ名をつけただけで、その対象が明らかになっているわけではない。さらにその問いに答える
ためには、対象世界自らが分裂し、自らの本性を示すことが必要だ。それがその対象から1つの性質(B)が現れること
である。

A=B、A ist ein B、

AはBであると表現される。この時、その対象は何かという問いへの答えは、より深く、対象の
内実に迫っている。これを判断と言う。ここで対象は対象としてはっきりと意識され(それが主語になる)、それに
ハがつく(主題のハの顕在化)。

 主語(主題)とは対象として意識された対象のこと。対象から分裂して現れた部分を述語部という。
AからBが現れたのだが、これをヘーゲルはAがAとBに分裂したと言う。判断は外的世界の二分と統一だが、同時に
それを認識する意識の内的二分とその統一でもある。そして判断においてA(主語)はナカミの空虚な入れ物でしかなく、
そのナカミはB(述語)で示されるとヘーゲルは言う。ここで意識はA(主語)からB(述語)へと重心を移動している。

(4)「判断のある」と「存在のある」

A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花は美しい

 こうした判断の中に現れてくる「ist」や「である」は「判断のある」と言われる。

 これに対して、A ist.  Aはある
これを「存在のある」と呼ぶ。

 ここで、「判断のある」と「存在のある」の関係が問題になる。しかし、本当は、この「ある」がそもそもどこから
生まれてくるのかが問われるべきだ。

 それは対象を対象として意識した時、そこに対象の存在が潜在的に含まれているのだ。それが顕在化し、外化した
ものが「存在のある」なのである。つまり、対象Aを対象(A)として意識する時、それは(存在したA)であり、
それを意識した時にAは(が)ある。A ist. と表現される
 
 そして判断とは、その意識された対象Aが分裂し、そこから性質(B)が現れることなのだから、そこに「存在の
ある」が存在しており、それが転じて「判断のある」が現れていくるのだ。つまり、「判断のある」は、対象Aに
潜在化していた「存在のある」から生まれたものと言える。ただし、以上は、論理的な説明で、時間的な順番ではない。

(5)「存在のある」と他の性質 
 A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花はきれいだ

 これは判断である。
 ではA ist.  Aはある  Die Blume ist. この花は(が)ある
は何か、これも判断なのか。

 私は、これも先の判断文と同じ判断であり、Die Blume「この花」の分裂の1つだと考える。ist(sein)「ある」も
「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、
「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。

 しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも
根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。

 なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、
「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」
とは「この花はある」ということなのだ。

(6)「存在のある」と他の動詞
(1) Die Blume ist. この花は存在する
(2) Die Blume riecht.  この花はにおう
(3) Diese Blume zieht Leute an.  この花は人を引き付ける

 私は先に、(1)「この花は存在する」は判断だと述べた。では(2)や(3)はどうなるのか。
(2)や(3)も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断
とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、
述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質が外化したものでしかないということだ。
その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

(7) 肯定と否定
 判断で肯定と否定の形があるが、それはどこから生まれるか。それは「存在のある」(sein)とその否定、つまり
「存在しない」=「無」(nicht)から生まれる。
この「無」は対象(A)として意識された対象(A)が実際に存在しなくなる、消滅したり変化したりすることで意識される。
この「存在」と「無」が、判断の形式のレベルで捉え直されたときに、「肯定」と「否定」が意識されるようになる。
ここに「否定」が生まれ、「反対」「対極」という考えが生まれる。肯定の否定は否定だが、その否定の否定は肯定である。
この花は赤い、この花は美しい、この花はバラだ、この花は香る といった肯定表現に対して
この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない、この花は香らない が否定表現だ。

(8)全体から部分へ、部分から全体へ
 認識が進むと、最初に意識した対象全体から、その部分へと意識が移ったり、その逆に部分から全体へと意識が移っ
たりする。その意識の中には全体を否定し、その反対の部分へという意識があり、それは「否定」「反対」という考えが
前提となっている。これが全体と部分の「対比」の意識にもなる。

 以上は、そもそも現実世界からある対象が意識される段階から始めて、名前が生まれ、さらには判断が生まれてくる
段階を見てきたのだが、そうした判断の形式が、普通の日常で、ごく普通に使用されるようになると、現実世界とは
別の言語世界(観念の世界)で、同じことが繰り返されるようになる。

 2.2.言語世界で対象が意識される場合

 ここからは、対象は現実世界のものではなく、言語世界での文や語句になる。ある判断(文)や、文の中のある語句
や単語が、対象として意識されるのだ。

 そこで、ここでは、わかりやすいように、意識された対象を(  )でくくって示すことにする。

(1)文全体が意識された場合

 ある文、判断が対象として意識される場合を考える。
(A ist ein B)、(AはBである)が対象として意識される。
「ムッ!」「ウン!」。ここにはすでに対象と自己との分裂が起こっており、対象化された判断への問い(つまり自己
内二分)が内在化して存在している。

 その問い、疑問には、対象化された判断への「否定」(疑い)が内在化されている。逆に言えば、まったくの「肯定」
の場合には、対象と自己との分裂が起らず、その判断が意識の対象とはならない。

 その否定を外化させれば、次のようになる。
(AはBである)はない。
(AはBで)はない。

 「ムッ!」「ウン!」とある判断が対象として意識され、その判断への疑問、問い(つまり自己内二分)が自覚され
るが、検討の結果、最終的には「否定」でなく「肯定」になった場合は次のようになる。

(AはBで)はある。
これは(AはBである)はない。と思ったが、結局は(AはBである)であった。ということだ。

 なお、松永さんが仮定条件にはデハナイが現れない理由を考えているので、それへの私見を出す。人に文が意識され
れば、その文を意識してハが現れるのが普通だ。仮定条件とは、その(意識された文)が仮定条件として意識されるこ
とだ。それが「?デナイならば」と表現され、「?デハナイならば」とならないのはなぜか。「ならば」の機能の中に、
文を意識するというハと同じ機能が含まれているからだ。

 これは、人は1回に、1つのことしか意識できないことをも意味する。ある文(肯定文)を意識した時に、
デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件
「ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、1つの対象(焦点)
が意識されては消えていく。関口なら「達意眼目は常に1つだ」と言うだろう。

(2)文から述語部に

 ここで意識の対象が文(判断)全体から、その述語部Bに集約される場合を考える。

それはBが意識される場合であり、Bへの疑問が潜在的にある場合だ。それが自覚された表現は次のようになる。
Aは(Bである)はない。
Aは(Bで)はない。

 次に、このBの否定が意識されると、そこに内在化された問いは「それに対する肯定は何か」になる。
Aは(Bではない)。 (Cで ある)。
(Dで ある)。
(Eで ある)。
(Fで ある)。

否定と肯定でBとCDEFなどの他の性質が比較され、性質同士の関係が差異から区別、対立、矛盾へと進展していく。
これが「ハ」の「対比」の機能とされるものの内実である。

なお、
Aは(Bで はない。(Cで ある)。

ここから、
Aは(Bで はなく)、(Cで ある)。
また、Aは(Cで あって)、(Bで はない)。
が出てくる。

もう1点補足する。今検討したAは(Bで)はない、と「1.」で取り上げた AはBでない、とはどう違うのか。

この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない と
この花は赤くハない、この花は美しくハない、この花はバラでハない。 

この「は」が入るか否かの違いは何か。これは現実世界の否定がただ反映された表現と、言語世界で述語部が意識され、
そのが否定が意識された表現との違いである。

以上で松永さんが問題にした諸点についての私見の概要の説明を終える。なお、以上の説明ではこれを主に認識の運動
として表現したが、もちろん、対象世界がそのように運動するから、人間がそれを認識できるのである。

また、「1.」では現実世界と意識との関わり、「2.」では言語世界内での意識の動きを説明したが、「2.」の
言語世界は「1.」の現実世界の反映として、現実世界とつながっているから、文や語句の意識といっても、現実世界
の対象意識とも重なることは当然である。しかし言語化された上での意識とそれ以前の意識を区別することは重要だと思う。

                     2014年10月31日