2月 20

◇◆ 17 再生医療の矛盾と倫理 ◆◇ 

再生医療は困難を極めるのだが、それはなぜなのだろうか。
動物の細胞には、培養下において、全ての組織に分化し得る能力を持つ細胞(万能細胞)が存在する。しかし、これらの細胞を適切な条件で培養しても、秩序だった組織は形成されず、細胞の塊ができるだけである。それはなぜなのだろうか。
また、臓器移植では、ドナーに由来する臓器を移植する際に、拒絶反応が起こる。人体は自分と他者を厳密に区別するのだ。こうした「拒絶反応」は再生医療への大きな障害であり、再生医療とは「拒絶反応」との戦いである。
しかし、そもそも「拒絶反応」はなぜ起こるのだろうか。「拒絶反応」をただの障害、邪魔者と考えることを止め、私たちは逆に、なぜ「拒絶反応」は起こるのか、万能細胞はなぜ組織にならないのか、その意味を深く、深く理解する必要があるのではないか。私たちが何者であるかを理解するためである。

再生医療の問題を考えるには、生物の進化の過程を考える必要があると思う。私たちの地球の歴史である。
地球は物質で構成されていたのだが、ある段階で生命が生まれた。生命にはその「中心」、つまり「目的」が明確な形で現れて来る。それは自己保存、自己保持である。つまり「生きる」こと、「生き続ける」ことである。
生命は単細胞から始まった。そして単細胞が集まって多細胞の生物が生まれる。細胞が全体の中に組織され、より機能分化が進んだ生物が生まれる。すべては目的を果たすためだが、この進化の過程で個々の細胞の自立性は失われていく。生物の目的、生きるために、その部分は全体の要素としての機能を果たすようになる。目的のためのものでしかなくなる。
こうした生物の進化の最初の段階は植物である。植物では基本的には組織切片から全体を再生することができる。挿し木を思えばよくわかることだ。これは自らの成長過程を、元に戻して再生できるということだが、それは原始的な機能を持っているから可能なのである。
しかし、動物が生まれ、さらに人間が生まれてくる過程で、こうした再生機能は失われていく。動物では、受精卵以外の組織はこうした能力を持たない。トカゲのしっぽ切りが有名だが、それはしっぽだけの再生であって、自分の丸ごとの再生はない。
物質から生命が生まれ、植物から動物、人間が生まれるまでの過程は、後者は前者の低さを克服(止揚)していく過程であり、よりよい機能分化、機能の高度化の過程である。その過程では、原始的な生物の持っていた機能(例えば再生機能)は失われてきた。進化の過程は高度化をめざすバトンリレーであり、そこでは何かを犠牲にして、高度化が進んできたのであり、それをもとにもどすことはできない。
しかし、ではその進化の目的とは何なのか。なぜ進化が起こり、機能分化が進み、高度化が進むのだろうか。なぜ人間は生まれたのだろうか。人間は他の動物と同じく、ただ生きるために、生き続けるために存在しているのだろうか。人間とは何なのか。
ここで人間の使命、進化の意味が問われる。これにどうこたえるかで、再生医療への評価はまるで違うものになる。
地球から生命、植物、動物、人間と生まれてきた。この地球の進化の最先端にある人間は、ついに自己意識(「自分とは何か」)を持ち、思考の能力を形成し、認識ができるようになった。
その目的は、自然界の進化・発展の意味を理解し、その全過程を完成させることである。その全過程に対して責任を持ち、その完成を実現するのが人間の使命なのではないか。
したがって、人間がその使命をはたさないで、人間だけの幸せを考えることは許されないのではないか。

 ここでヘーゲルの力を借りたい。彼の『精神哲学』は精神(人間)が地球からどのように進化してきたか、その進化の意味と、人間の使命を説明する。その『精神哲学』から生物の発生と、植物から動物までの進化の過程の説明部分を引用する。

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生物(植物)
 〔ここまでは物質について触れてきたが、物質の最後に言及した「中心」がより明確に現れるのが生命を持つものである〕。生物においては、生命を持たないものを支配している必然性より、もちろんより高い必然性 が現れる。すでに植物にあっては、その〔個体内において〕中心が周辺(葉脈や神経など)に注がれ、〔逆に〕諸区別は中心に集中されている。〔他方で、その成長発展の過程でも〕内から外に向けての自己展開が起こり、自己自身を区別し、そうした諸区別からつぼみができ〔次の種子ができる〕ということで、自己を一つの統一した植物として次々と外に現わしていく 。これは植物の「衝動」 といっても良いだろう。
しかしこの統一性〔生命のサイクル〕は不完全なものにとどまる。なぜなら植物が分肢していく過程は植物の主体が自己を外化するものであるが、その各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである。

動物全般
こうした外的自立性の克服 について、植物よりもさらに歩みを進めた のが動物の有機体である。動物にあっては各分肢は他の分肢を生み出し、すなわち各分肢は他の分肢の原因であり結果であり、手段と目的であり、従って自分自身であると同時に自己の他者 である。〔しかし、これだけなら植物と同じである。ところが動物は〕それだけではなく、その全体 が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕。
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以上は『精神哲学』第381節(岩波文庫では第5節)。訳文、小見出しは中井。

「植物の各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである」。
挿し木が、この具体例である。葉や枝から全体が再生する。ここでの論理がクローン技術、再生医療の論理である。
動物は「全体が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕」。
私がここで考えたのは人間の再生医療、「臓器移植」などがなぜ難しいかの根拠である。植物の段階では各部分は相互外在的であり自立性が高く、相互に入れ替えが可能で、全体の再生も可能だった。全体の契機になっている程度が低いのだ。動物、ましてや人間は、各部分の自立性は低く、相互の入れ替えや全体の再生は不可能で、他の動物(人間)との入れ替えもムズカシイのだ。それは部分が全体の契機になっている程度が高いと言える。
そして人間に到っては、個々の個体が自己を完成させ、他者との間に絶対的区別を持つ。それが自己意識を生み、個性がそこに確立する。それは自分が自分以外の何者でもないこと、自分は自分という一回性の生を生きるものであることを意味するのではないか。そしてこの個体性が各人の自立性の根拠であり、各人の思想の独立性へと発展していくのである。
同時にまたそれが「拒絶反応」を引き起こすのである。人間が自分以外のものを拒否する機能は、人間が自己意識を持った証であり、地球の進化の最先端にあることの証でもあるのではないか。

人間の尊厳性とは何を意味し、何を根拠とするのだろうか。
それは、人間が自然の進化の過程の最先端にあることであり、人間を生んだ目的であり、人間の使命である。この地球の全自然過程を完成させること、それが人間が人間であるという意味なのであり、ヘーゲルはそれを人間の概念と呼んだ。
そうであるならば、人間が自らの概念を実現する努力をし続けている限り、物質から人間が生まれるまでの過程は、基本的には正しかったことになる。
ところが、再生医療とは、この進化の過程に抗い、それをもとに戻す試みなのである。人間をまた植物レベルへと戻すこと、退行させることなのである。
私はそれは基本的に間違いであり、絶対的には無理があるのだと思う。私たちは植物レベルに戻らないし、戻れないのではないか。
私たちは自分の使命に責任を持つべきであり、自分を生み出した進歩、進化の過程に責任を持つべきではないか。それが再生医療における「倫理」、クローン技術、遺伝子操作における「倫理」なのではないか。
もちろん、人間の使命、その概念の正しさは、私たちが何をするかで決まることである。私たちはどちらを選択するのか。概念の実現を自らの目標としその使命を全うするのか、できずに終わるのか。それこそが私たちの最後の倫理であり、正しさの基準なのだ。

2023年1月31日

2月 19

◇◆ 16 「iPS細胞」の姑息 ◆◇ 

京都大学の山中伸弥は「iPS細胞」の研究・開発によって2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
iPS細胞の目的は再生医療の実現にある。拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されているのだ。

再生医療の研究は数十年前にさかのぼる。
1981年には、マウスの胚盤胞から「ES細胞」を作ることに成功した。 ES細胞は受精卵が胎児になるプロセスで、分裂が始まった後の胚盤胞の中にある細胞を取り出して培養されたもの。あらゆる組織の細胞に分化することができる多能性幹細胞である。
 その17年後、1998年に「ヒトES細胞」を作ることに成功した。ヒトES細胞を使い、人間のあらゆる組織や臓器の細胞を作り出すことにより、再生医療が可能になると期待がふくらんだ。
しかしES細胞の技術をヒトに適応するには問題が多い。受精卵(胚)の採取が母体に危険を及ぼすこと。ヒトになる可能性を持つ胚を壊すことは、ヒトを救うためにヒトを殺すことであるから倫理的な問題が伴う。そのためにその作製や実験等には厳しい制約を課す国も多い。
また、患者本人のES細胞を作ることは技術的に難しく、他人のES細胞から作った組織や臓器の細胞を移植した場合、拒絶反応が起こるという問題がある。
 そのため、胚からではなく、皮膚や血液など、比較的安全に採取でき、かつ再生が可能な組織からの分化万能性をもった細胞の発見が期待されていた。
そこに山中のグループが2006年にマウスの、2007年に人間の皮膚細胞からiPS細胞の樹立に成功したのだ。
「iPS細胞」の技術とは、皮膚などの細胞に遺伝子操作を加えることで「ES細胞」のような幹細胞を作ることである。これなら受精卵のようなレベルの倫理的な問題はない。
また、再生医療への応用のみならず、治療薬の候補物質を探る「創薬」の可能性が期待されているのだ。患者自身の細胞からiPS細胞を作り出すことで、今まで治療法のなかった難病に対して、その病因・発症メカニズムを研究したり、薬剤の効果・毒性を評価することが可能となるからである。
もちろんいいことだけではない。iPS細胞は遺伝子操作によって生み出すために、その安全性(ガン化のリスクなど)の課題が指摘されている。つまりリスクにおいては完璧なものではないのだ。
以上については、「ウィキペディア(Wikipedia)」、京都大学 iPS細胞研究所のホームページ、「再生医療ナビ」を参考にした。

さて、私はこうした経緯を知ったことで愕然とした。「夢の IPS 細胞」と謳われているが、これほど姑息でペテンに近い技術だったのか、という驚きである。とても情けなく、うら悲しい気持ちになった。
それは要するに、「倫理問題」を消したのだ。それが目的だったのだ。
問題を本当に解決するのではない。これは問題をなくしてしまうという解決法であり、問題を考えなくて良いとしただけなのだ。問題はあるし、残されている。それをそのままにして、問題を見ないで済むようにしたのだ。
本来は、この真逆の方向に進むべきではないか。
倫理問題や、再生医療の問題、クローン技術の問題、遺伝子操作の是非など、大きな問題は、本来は、徹底的に深め、矛盾を深化させて考えていかなければならない。ところがここではなんと軽く、浅く、問題を素通りしたことだろうか。
「母体への危険」とか「ヒトになる可能性を持つ胚を壊す」とかといった、現象的で表面的で感情的なレベルにとどまり、再生医療や遺伝子操作が持つ本質的な問題をとらえようとしない。そこに現れる「拒絶反応」も、ただ再生医療の障害としてしかとらえられていない。問題は「消す」。なくなったことにしてしまえばよいのだ。なかったことにしてしまえばよいのだ。
クローン技術や遺伝子操作、再生医療はどこまで許されるのか。その根拠は何か。人間の尊厳とは何か、生きるとはどういうことか。
これらの問いに、山中や山中にノーベル賞を与えた責任者たち、iPS細胞の追従者たちは自分の答えを出すべきであり、私たちも自らの答えを出さなければならないのではないか。

                 2023年1月30日

2月 18

◇◆ 15 ジョブズと『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ) ◆◇ 

昨年11月に、NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」シリーズで「世界を変えた“愚か者”フラーとジョブズ」が放送された。
それをたまたま見ていて、そこに『Whole Earth Catalog』(『全地球カタログ』)が出てきて驚いた。あのジョブズが、「反文化」の運動の真っただ中から生まれていたのだ。知らなかった。
 番組の宣伝では以下のようになっている。
「宇宙船地球号」という概念を唱え、人類と地球との調和を説いた思想家バックミンスター・フラー。「現代のレオナルド・ダビンチ」とも「狂人」とも称されたフラーの思想は、無数の若者たちを突き動かす。その中に、若き日のスティーブ・ジョブズがいた。フラーの思想は、時空を超え、ジョブズに受け継がれ、世界を変えていく。そして生まれた伝説のスピーチ。常識に抗い続けた、ふたりの「愚か者」が起こした奇跡の物語である。

私はすでに「反文化」と『全地球カタログ』については、10「『反文化(カウンター・カルチャー)』運動の3人」と11「『カタログ』文化」で簡単に述べている。20代の私は大きな影響を受けた。しかし、その限界にもぶつかり、その後30代からはヘーゲルとマルクスを学んできた。
この番組の私にとっての意味は、あのジョブズもまた「反文化」の運動の真っただ中から生まれていた、ということを知ったことだ。調べてみると彼が生まれたのは1955年、私が1年早い。つまり同世代である。同じ時代の空気の中で生きた「仲間」だった。
さて、改めてこの番組で知ったこと、確認したことは以下のようなことだ。
『全地球カタログ』は60年代から70年代の反文化の運動、ヒッピーたちのバイブルだった。これは商品のカタログなのだが、本や思想、その思想の実践のための様々な道具が紹介され、現代文明批判とそれに代わる生き方の指南書だった。
『全地球カタログ』は1968年に創刊され、年2回の刊行。数百ページ。この創刊号にはバックミンスター・フラーが紹介されている。「宇宙船地球号」の提唱者である。『全地球カタログ』のネーミングにもフラーの「宇宙船地球号」の影響があるだろう。このカタログの熱烈な支持者の中に若き日のジョブズもいた。
『全地球カタログ』は一時は250万部が販売されたが、70年代半ばにはその終刊号が出た。その裏扉には「ハングリーであれ、愚かであれ」が書かれた。ラストメッセージである。
終刊号を出した後、残された2万ドルの収益金をどうするかが問題になった。結局、若者たちが次の世界を創るための資金とされ、それによって教育プログラムやプロジェクトが用意された。ジョブズはその一つに参加しコンピューターのプログラミングを学んだ。それがジョブズがジョブズになる始まりの一歩になった。
その後のジョブズ物語は有名であり、私でも知っている。ジョブズは友人とアップル社を立ち上げCEOを務めたが、1985年には失脚しAppleを去った。11年後の1996年、業績不振に陥っていたAppleに復帰し、2000年CEOに就任。完全復活である。
彼の業績としてはApple ? ?、iPod、iPhoneおよびiPadなどを世に送り出したことが挙げられる。科学技術のイノベーターであり、すぐれた工業デザイナーであり、起業家であり、経営者である。Apple??が世に出た当時、コンピュータとは巨大政治機構、軍事機構、大企業の独占物だった。それを、すべての民衆のものへと解放した。ITによって人々の生活と文化に革命を起こしたと評される。
他方で、人を人とも思わない傲慢な態度、会社内での独断専行が問題にされる。番組でも取り上げられていた。
その彼が死を前にして2005年にスタンフオード大学の卒業式に呼ばれ、祝辞を述べた。その中に、自分が大きな影響を受けたものとして『全地球カタログ』を挙げ、周囲に流されず、自分の信ずる道を行くように励まし、最後にその終刊号にあった「ハングリーであれ、愚かであれ」を贈る言葉とした。

ではこの番組で私は何を考えたか。
ジョブズは現代の「英雄」であろう。コンピュータをすべての民衆に解放した。彼のスマホはSNS社会を創った。マルクス流に言えば、下部構造の決定的な変革を推し進めた。反文化の中から彼が生まれたことには大きな感慨がある。
しかし、反文化は、どこまで彼の思想や生き方に影響していたのだろうか。調べると、若き日の彼が反文化の価値観の中で生きていた証しはたくさんある。LSD、仏教、ベジタリアン、風呂に入らない、いつも裸足かサンダル履き、等々。その影響は後年まで続いたようだ。例えば、癌で亡くなる際にも、最初は西洋医学を拒否し、東洋医学や民間療法に頼ろうとした。しかしそうした影響は、どこまで彼の世界観や人間観の根底にせまっていたのだろうか。彼がイノベーターであり、デザイナーであり、起業家であり、経営者であることに、どう関係していたのだろうか。
もちろん、コンピュータをすべての民衆のものへと解放したことは大きい。しかし、その民衆たち自身が抱えている諸問題には、どれほどの自覚を持っていたのだろうか。SNS社会は肯定面だけではなく、不信、疑心暗鬼の不安に満ち満ちた世界を生んだのではないか。民衆の間の断絶と軋みを深めたのではないか。
学生たちに贈った言葉「ハングリーであれ、愚かであれ」は、死を前にしたジョブズの言葉としては、あまりにも表面的で軽い言葉ではないか。そこからは、彼の人間認識、世界認識をうかがうことはできない。
私の強い違和感は、そこには「批判」がないということである。『全地球カタログ』や反文化への賛辞だけで、その不十分さ、未熟さへの反省の言葉がない。
そこには自らの若き日々への反省がない。自分の若き日をどう反省するか、その時に受けた影響をどう総括するか。それが示されないで、思い出の垂れ流しがされている。
本来は、「反文化」の運動を総括し、スナイダーの「四易」について、生態学と仏教について、資本主義や社会主義についてのジョブズ自身の立場を示すべきではなかったか。そうした批判の姿勢を示すことこそが、卒業する学生たちへの祝辞にふさわしいのではないか。
私には「反文化」への批判がある。それはすでに述べたことだが、ここで再度出しておく。
「『反文化』の運動の限界とは『疎外』『根源』の理解の不十分さ、つまりそこには発展についての深い理解がなかった」
「(カタログ文化の)あり方は、現在のネット文化の中での知識や技術の扱われ方の先駆けだったのだ、と今思う。これは「学問」や「教養」といった権威や階層性、その意識のこわばりを徹底的に解体しようとするもので、そこに覚悟と清々しさがあるのだが、人類の歴史、技術史、科学史、哲学史を踏まえた全体性や体系性を持たないという決定的な弱さをも持っている」。
こうした私の批判は、そのままジョブズに当てはまる。否、その問題が一層拡大された姿で現れていると思った。
彼はITによって人々の生活と文化に革命を起こしたが、その結果の現在と未来について、何が課題で、どう解決できるか。それを真剣に考えていただろうか。そこでの自らの責任についてどう考えていたのだろうか。
多くの人がジョブズの、人を人と思わないような傲慢さについて述べているが、彼には人間の悪の面、弱さの面に十分な自覚がないように思われる。それは自分に対してだけではない。自らが開発したITの問題点についてであり、人間の未来の文明文化の在り方についてである。
最後に、この番組についても述べておく。この番組がジョブズの原点である反文化を紹介したことには意味がある。
しかしそのひどさも言わなければならない。そこに批判精神がないことである。フラーやジョブズに対して手放しの賛辞しかない。ジョブズの傲慢さの指摘は出て来るが、ジョブズへの根本的な批判がゼロである。つまりジョブズと彼が変えた世界を深く認識しようという意志と覚悟がない。この番組には、反文化や『全地球カタログ』をどう評価するかという立場もない。無責任極まるものである。
そして実はそこに、ジョブズ自身の姿が重なるのである。そもそもジョブズ自身にそれがなかったのではないか。

2023年1月30日

2月 17

◇◆ 14 ヘンデルのメサイア ◆◇ 

ヘンデルのメサイアに親しむことになった。自宅の近くに女子大があり、そこで毎年12月になるとメサイアを上演しており、そこで聞くことが重なっている。毎回感動する。素晴らしいと思う。ある箇所では毎回泣いてしまう。しかし、今回言いたいのは音楽のすばらしさについてではない。
 初めて聞いた時に、テキスト(歌詞)をざっとながめて驚いた。そのことを話したい。なぜ驚いたか。イエス・キリスト〔イエスはキリスト(メシア=救世主)である〕を讃える楽曲であるから、バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲のように、新約聖書からの引用で埋められていることを想像していたのだが全く違ったからだ。
 テキストの多くが新約聖書ではなく旧約聖書からの引用で埋められていた。特にイザヤ書であり、それはユダヤ民族のバビロン捕囚の奴隷状態からの救いをメシアの出現に求める内容であった。それを説明する本がいくつか刊行されている。
家田足穂著『メサイア テキストと音楽の研究』を読むと、教父アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えがキリスト教の基本にあるようだ。この考えは、旧約時代の古い契約としての予言はメシアの新しい契約によって成就され、予言が成就されることで旧約聖書と新約聖書が一致するという思想になった。
これがメサイアの歌詞台本のもとになっている。ここから旧約聖書の予言書や詩編の言葉を用いて「メシアの救いのわざ」やその「救いの完成」がうたわれるのだ。
これを読んで、アウグスティヌスの構想の壮大さにうたれる。これは発展という考え方の見事な例示である。すごいものだ。

さて、以下は、あくまでも私の想像であり、妄想である。しかし、妄想にも真実、真理の一片があると、私は考えている。
随分前になるが、中井ゼミの読書会で旧約聖書と新約聖書を読んだ。そこでイザヤ書の役割の大きさも理解していた。私は旧約聖書からは創世記やモーゼの物語は知っていたが、その後のユダ王国の崩壊と、バビロン捕囚による奴隷状態、そこからの再度の解放を求めたこと、それがイザヤ書の内容となっていたことなどは知らなかった。
そしてその学習の中でエジプトから奴隷状態のユダヤ人を解放したモーゼと、「バビロン捕囚」においてその奴隷状態からの解放を説いたイザヤが、ともにユダヤの民衆たちの怒りや恨みによって殺されたという説があることを知った。モーゼの墓はどこにも残されていない。解放を説くモーゼはユダヤ民族に自らの神への絶対的信仰を求め、神との契約、立法を打ち立て、その厳守を求めた。奴隷状態からの解放の過程でも辛酸をなめた民衆からは、奴隷のままの方が良かったと言う声も上がっただろう。イザヤも同じであろう。
2人は殺されたという説が正しいかどうかは別にして、そこには民衆とリーダーの関係の問題がよく現れていると思った。
受難はイエスだけではなく、何度も繰り返されてきたということになる。そして受難とは外の敵からではなく、むしろユダヤ民族という内なる敵、民衆の中に受難を生む要因はあった。イエスを裏切るユダはその象徴ではないだろうか。私は、古代ギリシャにおいてソクラテスが民衆によって死罪になった裁判も思い出す。
 そうした悲劇の中からイエス・キリストが出現している。メシアの出現の背景にはそうした人間の闇、弱さ、悪がある。だからこそ、メサイアは美しく、圧倒的な感動を私に与える。
アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えは、こうした問題のただ中から理解されるべきだと私は考える。

2023年1月20日

2月 16

◇◆ 13 身体の声に耳傾ける方法 ◆◇

人間の心や精神は、身体の状態に大きく左右されます。また、心や精神の状態は、そのまま身体に、大きく深く、影響します。
 ですから、常に身体を整えておき、精神の能力が十分に発揮できるようにしておくことが重要です。またそのためには、常日頃からその時々の自分の身体の状態を良く知っていることが必要で、そのためには、身体との毎日の対話が必要です。それがそのまま心や精神との対話になるのですから。

身体と対話するには、まずは、基本中の基本から始めるのがよいでしょう。
 人間は生きるためには、食べて、出して、寝ることが必要です。ですから、身体との対話は、まずはこの3つの状態を毎日観察すればよいのです。
 食べて、出しては、他の動物とまったく同じ物質代謝であり、これが基本中の基本です。
食べることがどうなっているか。食欲はどうか、食べることの喜びや、視覚、嗅覚、味覚の機能はどうだろうか。
次に出すこと(大便と小便)がどうなっているか。快便か否か、便秘や下痢などをしていないか。その色合いや形状、匂いはどうか。これはかなりたくさんの情報を含みますから、それらの観察と分析によっていろいろなことがわかります。自分自身の疲れや心の状態、仕事などでのストレスなどが見えてきます。
 さて、もう1つの寝るですが、これは自分の身体と心のリセットの機能です。動物は〔人間も動物です〕毎日、眠ることで死んで生き返る。それをきちんと繰り返すことで生き続けられるのです。
 寝ているときには、自分の中の無意識が働き、身体と心を回復させるように働きます。自分の潜在力を働かせ、疲れやゆがみ、こわばりをときほぐしてくれます。それがうまくいかないと、回復ができなくなり、本来の力が発揮できなくなります。ですから、眠りの状態の観察が重要です。
 寝つきはどうか。寝起きはどうか。よく眠れるか。眠りは浅いか深いか。いびきの状態はどうか。夢は見るか、どんな夢か。夢は一言でいれば、無意識からのメッセージです。
この食う、出す、寝るの3つについて、毎日観察しましょう。それで身体との対話の基本の基本は十分でしょう。

 この3つ以外でもう1つ挙げておけば、それは呼吸です。生きるための絶対条件である物質代謝には、食べて出しての他にもう1つ呼吸があるのです。
大切な状況にあっては、その時の自分の呼吸を意識し、その息の深さや浅さ、息の長さを観察すると、自分の状況がわかります。息を深くすることで落ち着くことができます。その呼吸の自覚の方法が「呼吸法」とか瞑想とかヨガとかに発展していきますが、これは先の話になります。

以上は身体の日常的な運動でしたが、身体には非日常的に起こる大きな変化があります。病気です。これについても言いたいことはたくさんあるのですが、野口晴哉の『風邪の効用』 (ちくま文庫) を紹介しておくに、今はとどめます。
病気を悪いものとしてとらえ、治して病気の前の状態に戻すことを目標にしているようでは話になりません。病気こそ身体からの最大のメッセージです。

これで大切なことは終わりです。身体の声に耳傾けるには、まずは以上をやってみることです。

2023年1月15日