8月 06

 中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。それを掲載します。
 参加者は15人でしたが、その中から12人が感想を寄せてくれました。

 最初のグループ(目次の1?10)は現在の中井ゼミのメンバーたち(一部ペンネームやイニシャル)です。
松永さんはこの読書会には参加していませんが、この本の原稿段階から意見をもらい、読書会の記録をまとめてもらっています。
あわせて、この本への感想を寄せてもらいました。
 目次の11,12の2人は、30年ほど前の大学生クラス(中井ゼミの前身)のメンバーで、
笹本さんとは10年程前に彼が県会議員選挙に出馬した時にそれを支援し、その失敗の総括をして以来です。
彼は山梨の甲府で「地域資源経営」に取り組んでいます。
 高山さんとは留学先のドイツでの濃密な関係がありました。彼は帰国後、演劇集団をつくり、
現在では演出家として世界を股にかけて活躍中です。最近では「あいちトリエンナーレ」の『表現の不自由展』の中止をめぐり、
「Jアート・コールセンタ」を立ち上げる対応をしたことで話題になりました。
 高校作文教育研究会のメンバーからは2人が参加してくれましたが、宮田さん(13)はその1人。
熊本県立農業高校の教員ですが、私が信頼している一人です。 
 ゆげさん(14)は、世界史専門塾ゆげ塾の塾長。塾生が鶏鳴学園と被ることがあり、交流があります。
本を送ったことへの返信から一部を掲載しました。

■ 目次 ■

1 「絶望」だけが人間を前に進める  花房 真衣
2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔
3 使い捨て人間さようなら    白檀 栴
4 母の死の真相と私の使命    鈴木 明規
5 いまを生きる「根源」  高松 慶
6 自分を超える力        塚田 毬子
7 資本主義と家父長制      田中 由美子
8 己の限界と向き合うこと    K・K
9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」 安藤 雷
10 ただ見ているだけでいい    松永 奏吾
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11 「地域の自立」と中央コンプレックス 笹本 貴之
12 悪こそは未来         高山 明
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13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求  宮田 晃宏
14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました
                 ゆげ ひろのぶ

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1  「絶望」だけが人間を前に進める     花房 真衣

 序文(「はじめに」)に書かれているようにこの本にはマルクスの代名詞のひとつである『資本論』について
触れられていない。『資本論』以前のマルクスの唯物史観がその土台であり、その唯物史観こそが世界を変えたという、
それは一体どういうことなのか。今回の読書会を通し、マルクス主義がなぜ失敗、堕落という結果を辿ったのかを
マルクス自身に内在した問題にせまることで解することができた。一方で、20代のマルクスの偉大さの一端も体感した。
これは、一人で書に向かっているだけでは得られなかったことである。
 何より、マルクスの唯物史観を探ることでヘーゲル哲学の理解に少しだけ近づけたように思う。
ヘーゲルは存在の運動によって外化する本質を「ただ見ていればいい」というが、それは何もしなくてよいということではなく、
「対象への働きかけは不可欠である」ということ、中井さんが言った「人は死ぬまで前に進み発展する可能性がある」
ということを私なりに解釈すると、その可能性があるからこそ対象に働きかけることに意味がある。
教育もその働きかけに他ならないだろう。自分より若い世代に少しでも有益な働きかけができたらと思うと同時に、
私自身も教育、学びを得られる機会に貪欲でありたい。
 そしてもう一つ、ヘーゲルの「絶望」だけが人間を前に進めるという言葉。
今回も前回も中井さんが口にされたが、本書にその「絶望」が何を意味するのかが書かれていて、はっとする。
果して自分に「それまでの自己では一歩も前に進めない」と自覚する時が来るのだろうか。自己改造は厳しい。
しかし前に進まず終わることも空恐ろしい。
 読書会に参加したおかげで、独学では到底具体化できなかった先人たちの言葉の数々が生きたものとなり、
自分自身の在り方に引きつけて考えることができた。
しかし、こうして感想文を書いてみると、感じたことや捉えたと思ったことが言葉に表せず歯がゆい。
今後どこまで自分の言葉で語れるようになるのか。今回はようやくその始まりにたどり着けたかなという感触をもった。

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2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔

 私は林業を生業としているが、最近、「個人が所有している森林であれば、その公的側面よりも、
私的側面を中心に扱っても良いのか」ということが問題になった。
 本書を読んで、これは山林所有者個人の考え方の問題ではなく、現代の「私的所有」「農村と都市の対立」
「(山林資源という)使用価値と交換価値の対立」という矛盾がそこに現れているだけではないのか
というふうに考えることができた。
 しかし、ではそうした「矛盾が、発展の契機である」、とはどういうことなのか。それは「契機である」というよりも、
矛盾を発展の契機であるというふうに対象に働きかける欲求が認識する側に生まれた時、
その働きかけ方によって矛盾を発展の契機とすることができる、ということなのだと思うが、
その働きかけ方はどう考えれば良いのか。
これについては、フォイエルバッハテーゼからその答えを考えることができるのではないか。
 フォイエルバッハテーゼが書かれている章(p124)では、テーゼ4、6を除いてマルクスの記述の仕方
(「AではなくB」というだけの考え方)は悟性的であり、代案が出てくる必然性、
その代案が発展であるということが示されないということだった。
 自分の仕事に引きつけても、従来の林業と、これからの林業を対置し、前者を低いものとして否定的に考えていたが、
本来は「テーゼ4」のような発展的、必然的(新しい林業が新しいだけでなく真であるということをできるだけ示すよう)
な考え方をしなければならない。今までの業界の考え方を、単に自分の考えとは違うというものを低いものとして扱い、
切り捨てるのではなく、現状のものの中に大事なものがあるという姿勢で、そこにあるものを大切にし、
かつその限界や矛盾を見出し、それを示せるような働きかけ方ができるのか。それを本書を読んで考えた。

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3 使い捨て人間さようなら  白檀 栴(びゃくだん せん)

 数か月前に中井ゼミに入る前に、私は、資本主義社会の中でどこか自分が使い捨て人間であるように感じていた。
利益重視の組織から搾取され、ひたすら働いて死に向かって生きているようで、行き場を失い、苦しさを覚えた。
この本を読んだ後は、今、自分が置かれている時代を俯瞰して見ることができるようになった。
そして、マルクスの言葉から、自分が問いを立てられることは、その答えを出す能力があると思えるようになった。
 マルクスの思想は世界を変えたが、限界があった。
「マルクスは、自分自身の内なる悪を直視できなかったのではないか。」
ここは、ヘーゲルの思想との大きな違いであると思った。
ヘーゲルの思想には、「矛盾を克服し、さらなる発展段階に進む存在が新たに生まれる」という発展の考え方がある。
そして、「ある対象とその本質を、その生まれてから滅びるまでの前後の進化全体の中に位置づけなおしたものが、
その対象の概念なのである。」という概念レベルの捉え方がある。
これまでの私の生き方は、自分の中にある悪を見ることも、人と対立することも避けてきた。
しかし、概念レベルの視点で望遠鏡を覗き、組織の中で自分と他者との意見の対立を明確にして、
正義や真理に向き合って行動を起こすことで、新しい自分に出会えることがわかる。人生は面白いと感じる。
私は、今、自分以外の組織全員が反対しようが、医療職者としてどうあるべきか、
目の前の人を救うためには何をしなければならないか、問い続けながら、真理に向って進む生き方をしたいと思う。

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4 母の死の真相と私の使命     鈴木 明規

 『現代に生きるマルクス』の読書会後の感想で、私は「看護師としての病院勤務を終えたときに書いた総括は
総括になっていなかったのではないか」と発言した。
それは、自分自身に対する概念的把握ができていなかったという反省であった。
再度考え直したい。
 2019年に中井ゼミに入った当時、私の内部には2つの欲求があった。
一方は、母親の「交通事故死」(6才当時、父から聞いた)を根拠にした救命医になりたい、命を救いたいという欲求であり、
他方は、大学院で教わった公衆衛生の立場や外来業務の経験を根拠にした、
病気を生み出す個人の生活や社会の仕組みを変えたいという欲求であった。
今思えば、前者は前の段階の当為から来る欲求、後者は次の段階の当為から来る欲求であった。
 2020年、中井ゼミの場で、6才当時から母の死因に関する疑いがあったこと、それを父に聞けずにいることを文章にして出した。
中井さんからは「30代にもなって親の死因を知らないでいるというのは社会性がない」と批判を受け、
真実を知るための調査を始めた。
父は「世の中には聞かない方が良かったと思うこともある」と頑なに母の死因を話そうとしなかったが、
母の短大時代の先生、母方の叔父に話を聞き、母が精神科の専門病院に半年ほど入院していたことを知った。
周囲が反対する中、その事実と、父や母を理解したいという思いを綴った手紙を父に送った結果、
父はようやく手紙で母の死因について答えてくれた。そこには、母の死因は産後うつの末の飛び降り自殺であったこと、
父も自ら命を絶つことを考えたが、子どものことを考えて我に返ったことなどが綴られていた。
 母の死の真実を知ったとき、ようやく病気や死の原因や、それらが周囲の人間に与える影響の全体が見えた。
同時に、身体的な意味での救命を目的に生きてきた自分を反省し、個人の生き方やその家族、
社会との関係の全体を中心とした医療をやりたいと思うようになった。これを概念的に捉えれば、
母の死の真相を知ったことを契機に、人間の本質、つまり、身体と精神を統合した人間の全体性を捉え、
次の段階の当為が前の段階の当為(身体的な救命を目的とした医療)を止揚したということだと思う。
 現在は医学部に進学し、患者中心の医療という現段階での当為を実現するために、生物学を基礎とした医学の問題、
医療における医師?患者、医師?看護師などの差別構造の問題、差別意識を生み出す医学教育の問題と闘っている。

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5 いまを生きる「根源」   高松 慶
 
 「根源にさかのぼる」という言葉がある。だが本来、根源は過去を探すことで見つかるものではなく、
いまの現実に至るまでの全過程を生きている。
では、その本来ある姿の根源をとらえるには、どのような態度が認識する側に求められるか。
 以上が感想と問いである。

 「根源がいま現実に至るまでの全過程を生きている」とはどういうことか。
中井さんは、マルクスの『根源』という言葉の使い方には内化しかなく、外化の観点が抜けがちと言っていた。
根源は発展を通じてたえず自己の内へ深まり、深まった自己を外化してきた。歴史をそのようにとらえなければ、
意識が根源らしきものにとどまり、そこで安住しがちになる。いまの現実を本質の観点から変革する運動が起こらない。
 私はここ1年で葬儀屋として、流産や人工妊娠中絶による死産の遺族対応を続けた。
その過程で、刑法(1907)上初めて、人工妊娠中絶は原則犯罪とされ、死産があった際の公的な届け出義務、
火葬・埋葬義務が1952年に両親に課されたことを知った。
 「なぜ胎児を殺してはならないのか」という問いが法律として現れることを通じて、
「人間が人間として生きるとはどういうことか」という問いがだれでも自覚可能な形になる。
そしていまの私が法律を発展の一契機として位置づけて遺族対応をすることによって、問題意識は一層外化する。
そうして、人間が生きることの根源はより問題意識として明確化する。
 
 だが根源への問いを深めるはずが、なぜある原始的な段階の一時点を根源としてとらえることにとどまりがちになるのか。
その原因が端的に言えば人間の悪なのだろうか。
 マルクス個人の経験を見ると、彼は1848年の革命に失敗した。敵であるブルジョアジーに負け、革命運動の仲間とも決別した。
 中井さんからすれば、マルクスが革命に失敗した経験は、彼にとって当時の社会全体の矛盾、
自分の所属する組織の中の矛盾、何より彼自身の矛盾を見るチャンスだった。だが、結局自覚できなかった。
結局唯物史観を根本から反省するには至らず、その代償は社会主義国家が崩壊する過程に現れた。
 悪の中身を、自分の失敗の中にある矛盾、一言で言えばタブーをタブーのまま放置し、のさばらせ、
なし崩しに黙認することだとする。その意味での悪と、過去の一時点としてまだ原始的な段階という意味での根源に
しがみつくことは、私は相通じることだと思う。
 私は、人間が何かをタブーだととらえるようになる、あるいはタブーだととらえられているものを犯すということに
寄り添いたい。そういう態度で、根源を見たい。死産時の対応も同じ態度から努力してきたのであり、今後も意識的にそうありたい。

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6 自分を超える力         塚田 毬子

 私はこれまで他者との関係に悩んできたが、「対象の内在的理解」を自分なりに試みたことがある。
他人を真剣に理解したいと思ったとき、この方法を参考としてやってみた。その成果として私に残ったのは、
他者への理解が深まった実感ではなく、他者を通して自分を理解することを一生懸命やっているような空しい感覚だった。
いくらやっても他者には触れられず、自分の中を堂々巡りしているような感覚。後から考えれば、
私が目指したのは「内在的理解」だが、実際にやっていたのは「外的反省」であり、
そもそも私が抱いた他人を理解したいという欲求は、自分を理解したいという欲求以上のものではなかったように思われた。
そうすると私は、私を超えた他人を捉えられないのだろうか。
 この反省を自分の課題として持ちながら、『現代に生きるマルクス』を読んだ。
ここで中井さんは徹底的にマルクスと関係し、真理を表現しようとしている。ここに表れるマルクスは中井さんのマルクスだ。
やっていることのレベルは大いに違うが、読んでいると自分の失敗からくる嫌悪感が内に溜まっていくようだった。
自分の能力から見ると正しいことばかり書いてあって息が詰まるとも思った。
 その嫌悪感は、自分が見る他者が自分そのものであることに対する嫌悪感だ。
他者は自分ではないから素晴らしいのに、私が認識しようとした途端に生きた他者が死ぬようだった。
私は他者の内に自分を見ているだけで、何を見ても自分を見るだけなのだ。
その広がりのない世界を脱するために他者を欲しているのに、である。
 しかし他者が自分の他者となるのは、自分がそれを捉えたからだ。自分の内にあるものがそれに反応してこそ
他者との関係が始まるのだから、自分の全く外では他者を捉えられない。自己内二分がある限り絶対に不可能だろう。
つねに限られた自分の認識で他者を理解するしかなく、より良くするためには自分の認識能力を上げるしかない。
が、その中で最も重要で難しいと思われるのは、自分の内部で自分を超える力を捉えることだ。
ゴミのようでもあり宝のようでもある現実は常に私を超えて存在するが、
自分のうちにも自分を超える力があるとこの本に書いてある。それもまた自己内二分がある限り絶対に存在し、
捉えることが可能なものだろう。可能なら実現するはずだ。それを獲得することが私の退屈を打ち壊せる方法だと思った。

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7 資本主義と家父長制      田中 由美子

 本書を通して、私がゼミに参加し始めてからの十二年間の前進は、まだ私の本質内部での成長に過ぎなかったのだ
ということが整理された。それが一つ、重要な気づきだった。
 私がどういう原理原則の社会の中の、どういう家庭で育ち、私はどういう人間なのか、今ようやくその大枠が見えてきたが、
私はまだその本質を超えられず、「本質レベルでの『終わり』の地点」、「概念の立場から見るならば、
まだ、発展の過程の前半が終わったにすぎない」のだろう。直面する問題に向き合い、その展開を最後まで見届け、
これまでの自分を終わらせなければならない。

 もう一点、私はこれまで、実家に家父長制的な問題があったと考えてきたが、今回「ブルセラショップの女子高生」
を読んだときに、そのもっとベースに「私のものをどうしようが私の自由でしょ」と言う「女子高生」と同じ
資本主義の論理があることが意識された。私的所有の自由以上の意識に乏しかったのではないか、
それが問題の核心なのではないかと思われた。
 たしかに、かつての家父長制の影響は、今現在の家庭や社会にまだ強く及んでいる。
特に、家父長制における女という立場と、資本主義、という組み合わせの矛盾は大きい。
 エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』によると、私的所有を認める経済と、家父長制という組み合わせは、
人類の経済発展の歴史の中で必然だった。牧畜などによる富の増大によって、それまでは氏族共同体が所有していた
生産手段や生産物が、生産に主に携わる一人の男を中心とする家族の中の、その男、個人の所有となった。
つまり、私的所有を核心とする経済体制が始まった正にそのときに、家父長制が生まれたという。
 それは、人類が当初、氏族共同体の一メンバーとしてだけ生きてきた社会に、初めて個人が生まれたという意味で
大転換だったが、他方で、私有財産を手にしたのはごく一握りの男たちだけだっただろう。その後の歴史の中で、
より多くの人に私的所有が認められるようになっていくが、封建制が終わっても、この国で戦後になるまで、
女には、男兄弟も息子も無いというような場合を除いては、夫からの相続権さえなかった。
多くの女は、個人と私的所有を基盤とする資本主義社会に生きながら、長い間、少なくとも法的には私的所有権を持たず、
また、家庭内における意思決定権も無かった。
 戦後、その矛盾は法的には解決され、家父長制は法的な制度としては終わりを迎えた。
それは世界的にも、人類史上何千年ぶりの大転換の時期だっただろう。両親はその前と後を生きた。
 しかし、今回こうして資本主義と家父長制を並べて考えてきて、経済体制と家族制度は単純に比べられるものではない
にしても、その二つは、その個人や自由のレベルにおいて、大差のないものではないかと思われた。
以前から、家父長制的なものに対しては、家族個人の人権と責任を十分に認めない古臭いものとして、批判的にとらえてきた。
しかし、資本主義や自由経済の「自由」については、その問題が社会にあふれていても、
私の根っこにその「自由」に対するひいき目がある。戦後両親は、戦争や大家族のくびきからも放たれ、
自由経済社会を活き活きと生きた。その高度経済成長の中で私は育った。
しかし、資本主義の「自由」も、大したものではない。
フランス革命の人権宣言が、私的所有の自由を保障するものでしかないという、マルクスによる批判の箇所は以前にも読んだが、
今回の読書会を通して、それを自身の意識の問題として自覚した。
 そして、資本主義がある意味その程度のものでしかないから、家父長制が制度としては廃止されても、
その経済体制の下で、家父長制的な意識が今も根強く私たちの中に残っているのではないだろうか。そういうことを考えた。

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8 己の限界と向き合うこと     K・K

 自分が信じて精いっぱい努力した結果が、当初の目的を達成できなかった点において失敗したとき、
その失敗とどのように向き合い、どのように総括すべきか。その問いが「現代に生きるマルクス」の読書会後に、
一番強く残った。
 第V章「唯物史観」のp.205~208に、方法とその限界に言及している。マルクスが1848年の革命の失敗後、
唯物史観そのものを根本的に反省したり、大きな修正をしたりしていないと書かれている。
 自分に引き付けると、自分の課題を乗り越えるために取り組んだ仕事が結果として失敗した経験を思い出した。
本来するべきことを頭でわかっていても、行動に移せなかった。そのとき、具体的に何ができなかったのか、
何が行動を踏みとどまらせたのか。これらを言葉にしていくことが、失敗と向き合う第一歩になる。
私は、まだその振り返りが不十分で、根本的な反省にまで深められていないのではないか。
マルクスの失敗への向き合い方を読みながら、そう思った。
 自分の限界と向き合うとはどういうことか。失敗で明らかになった自分の行動の限界と、
その限界がこれまでの生き方とどのようにつながっているかを考え、言葉にすることではないか。
限界となった事実の把握と、その選択をせざるを得なかった自分のこれまでの生き方や、
その時の心情を結びつけて言葉にできるかどうかではないか。
 根本的な限界には目をつむり、さほど苦にならない枝葉の部分のみ努力して、
都合よく失敗した事実を自分の記憶から消したい。
 しかし、それは自分を絶対視して、客観的に見られなくなるばかりではない。自分に例外を許してしまうと、
自分以外のすべての現象に対して、客観的にとらえることができず、真理を見抜けなくなるのではないだろうか。
だから、成長して前に進むためには、つらいけど自分の限界と向き合うしかない。

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9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」    安藤 雷

 「現代に生きるマルクス」では、マルクスがフォイエルバッハの圧倒的影響下にあることが明らかにされている。
フォイエルバッハは「発展の論理」の半分しか我が物にしていない。内化のみで、外化が欠けている。悟性的だとも言える。
このため、疎外態が敵視され、「根源への解消」や「逆転」が解決策となる。これはマルクスにそのまま受け継がれている。
そこに大きな問題があることもまた「現代に生きるマルクス」で示されている。
 しかし、発展が内化かつ外化の運動であることからすれば、内化のみでは不十分であることは自明に見える。
どうしてこんな「初歩的」なところで躓くのだろうか。読書会でのこの質問に対する中井さんの答えは
「そもそもヘーゲルが分かりやすく発展を示せていない」。我々には、中井さんがシンプルな形で示してくれている。
だが、当時はそうではなかった。空前絶後のものを生み出した当の創始者が、誰にでも分かりやすい形でシンプルにまとめる
のは困難なのだと思うし、そこまで求めるべきではないとも思う。だからこそ、その後の世代に果たすべき役割がある。
 だが、マルクスはその役割を果たせなかった。なぜか。1848年の革命の挫折を、真っ当な形で十分に反省できなかったからだ。
その結果として、唯物史観からはある意味で手を引き、下部構造である経済学の研究に自分自身を限定した。
さらには、革命運動への関わり合いも限定的なものとなり、組織における指導者と構成員の相互関係からも切り離された。
つまり、内化と外化の両方を押さえるのではなく、片方のみに自分自身を限定し続けたのだ。
これでは発展の論理を分かりやすく示し、かつ、それを発展させることは難しい。
 「現代に生きるマルクス」では、こうしたマルクスの思想の不十分さをマルクスの生き方の問題に求めている。
若きマルクスの初心と覚悟、人権宣言の不十分さに対する衝撃と怒り、1848年の革命の挫折の意味。
これらと関連付けて、マルクスの思想の意義と限界が示されている。徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」の
見本になっていて、これこそが正しいやり方だと思う。生き方と思想の関連が至る所で言及されており、
自分自身はどうだろうかと何度も思わされる。

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10 ただ見ているだけでいい         松永 奏吾

 『現代に生きるマルクス』の2章で中井さんは概念論レベルの発展を説明する。
古い自分の崩壊から、新しい自分の誕生へ。本質論レベルの発展についてはすでに、ヘーゲルのドングリの例や、
牧野さんの「発展とは本質に帰る変化」という説明を、中井さんの解説つきで繰り返し聞いていたが、
それはどうも「発展」という感じがしなかった。いや、正確には、おもしろいなあ、なるほどなあ、という気持ちで
まず圧倒されるのだが、わずかに心のどこかでおかしい、と感じていたような気がする。しかし今、あらためて、
この2章の概念論レベルの発展の説明を読むと、ドングリの話はどう見ても発展ではないなと感じることができるし、
どうも前からおかしいと感じていたような気がしてくるから不思議である。
人生ではじめて「発展」という言葉に出会った時があるはずで、そのはじめの感触を思い出してみると、
どうもはじめから分かっていたような気がするから不思議である。(プラトンの想起というのはこれか。)
その時の「発展」という言葉の感覚は、新しい段階へと進んでいく感じ、明るく外に広がっていく感じ、そういうものだった。
それと比べたら、ドングリの永遠に繰り返す成長過程の方はなんというか、もっと静かなもので、ぐるぐる廻る神秘の連鎖。
本質論の世界は、生物の本などにある生命循環や食物連鎖の絵図のイメージである。
 その言葉を「よく見れば」、その言葉にはじめて向き合った時の感覚によれば、分かるはずのことを、
中井さんの論理的説明によって思い出させられる。ヘーゲルの言葉もそうで、本書で重要な三項になっている
「限界、制限、当為」もほんとうは、それぞれの言葉の感覚そのままに理解できる、ふつうの話である。
ただし日本語の場合、「限界」はまだしも「当為」になると日常生活用語ではないという問題が別にある。
そもそも、本質も概念も認識も自由も論理も発展もすべて漢語であって幕末から明治の近代化の際にこしらえた言葉である。
しかしそれは根本問題ではなくて、言葉を「よく見ていない」こと、その言葉のはじめの感覚を忘れていることをもっと自覚したい。「発展」という言葉をヘーゲルがあまり使っていないということを中井さんから聞いたが、使おうが使うまいが、
それが「成長」と同じ言葉だと分かれば、人は、私は、どうすれば成長できるのか、という問題くらい大事な問題もないはずで、
それがヘーゲル論理学の核心になる、というのも当たり前の話である。
 ヘーゲルの「ただ見ているだけでよい」というのもこの言葉通りの意味であって、本当に見ているだけでよいのかも知れない。
むしろ問題は、ものを見ることができない、ということにある。私は日本語の助詞ハについて長年考えているが、
一段階自分の認識が進んだと思った時、ふりかえってみて、自分がどれだけ「ハ」を見ることができなかったかということに
気づいて愕然とする。よく見たらそのままじゃないか。
 言語を対象にした場合、言語で言語について考えるということになり、手段も言語、目的も言語になる。
が、そもそも言語は手段である。言語という手段をつかって言語という手段のことを考える地獄におちいる。
どこにも対象が見えないのだから、私は何も見ていないことになる。
何に使うのかもわからない道具を人生かけて作り上げる地獄である。冗談じゃない。こういうことを書くのは、
今、やっと、「ハ」が見える感じがしてきたからである。ものが見えるようになればただ見ているだけでいい。
これが2章を読んで考えたことである。
 私のマルクスとのはじめの出会いは、高校の世界史の教科書で、ロシア革命の物語の背後に、マルクスの理論があると知った時。
教科書を読んで感動したのはロシア革命の書いてあるページだけだったかも知れない。
ナロードニキという知的なやつらがロシアの田舎の農民に話しかけ、話しかけることによって世界を変えようとしていた。
レーニンのことはあまり覚えていないが、彼らの知性の親玉がマルクスだと書いてあった。当時の感覚を今の言葉にすれば、
それまでの世界史は「発展」には見えなかったが、ここに「発展」の具体例があった。
人間の知性の発展がそのまま世界を発展させたところに感動があった。
 3章のマルクスは、物語のようだった。中井さんは1、2章で発展の論理を説明した後、こんどはその論理の具体例として、
マルクスという人間の成長物語を描き出している。マルクスが古いものと闘い、革命に挫折し破綻する姿を描いているが、
そこに1、2章で説明された、現実と理想、限界、制限、当為が反映していると思う。
 中井さんはいつも、ヘーゲルから学んだことを自らやって見せ、ヘーゲルやマルクスを批判したあとにはその代案を確実に出す。
おそらく2章と4章が重要なのは、そこが中井さんの代案を出したところだからである。
中井さんの、ヘーゲル、マルクス、牧野さんとの違いは、人間のはじまりの段階の捉え方にあると思う。
すべては欲求衝動、空想、妄想、夢、悪からはじまるという理解が中井さんであり、それをはじまりに置く以上、
どこまでもそれを展開させて終わらせることが発展だということを示しているのだと思う。
 3章に話を戻すと、マルクスに「寄り添う」ことを徹底的にやったという中井さん自らの説明があったが、
対象に「寄り添う」ためには、実証的な調査が必要で、この3章の徹底した実証性もすごいものだと思う。
「経済学批判」への序言に対して精密な注釈を施し、初期マルクスの、あまりまとまりのない、おそらくは読みづらい
大量の文献を丁寧に調べ、物語にとってどうでもよいところをカットしたんだろうと推測される。
初期文献の中にあるマルクスの思い、問題意識をはじまりとして捉え、それが展開し、崩壊する過程を、
諸文献を巧みに構成することで物語っている。「ただ見せるだけ」にしてある。実証的に事実に語らせ、
マルクスという存在を運動させることによって、あとは読者が「ただ見ているだけ」でよいという状況にしてある。
ヘーゲルは「ただ見ているだけでよい」と言いながら、自分の体系を「ただ見ているだけ」で分かるようには書いていない。
中井さんがここまで分かりやすく、「ただ見ているだけでよい」状態にしてくれた。私はこの3章に感動した。

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11 「地域の自立」と中央コンプレックス   笹本 貴之

 読書会には10年ぶりくらいの参加となりました。10年前に鶏鳴学園での学びに区切りをつけて以来、
私は地元甲府で一からペレットストーブ販売事業を立ち上げ、5年前からは上記事業のショールームにカフェとシェアスペースも
併設する施設の運営もしています。
 この間、私は生産力をつけて、地域で生産関係をつくってきたのだと思います。そして地域経済に紛れながら、
それをつぶさに見てきました。これは11年前に「地域の自立」という言葉を掲げて選挙を闘いながら、
実は私自身がこの地域で自立できていなかった、という深い自己反省の結果として、どうしてもクリアーすべき課題への
取り組みでした。
 今回、中井さんの『現代に生きるマルクス』を読んで、このように私の10年間の取り組みを振り返ると共に、
やはりこのまま地域経済に留まるのではなく、もう一度、そこから見えてきた(地方の)地域のあるべき姿、
つまり「地域の自立」を世間に問いたい、という意識が強くなってきました。
 しかし、今回の読書会でZOOMの画面を見ながら、私が無意識に考えていたことは、
「この参加者たちに、私たち地方の経営者の苦悩がわかるだろうか? いや分かるはずがない」ということでした。
そしてこのことは、20-30代に鶏鳴学園で学んでいるときにも、ぼんやりと思っていたことだったと思い出しました。
 私のこのコンプレックスは、未だ経済的にも精神的にも中央に従属している地方の地域社会における中央コンプレックス
そのものなのでしょう。そのことの克服をテーマにする私自身の中の深いコンプレックスに愕然としながら、
「中央でのグローバル経済に対して、地方の豊かなローカル経済を対置」している今の私のレベルから、
より発展的な見方のできる人間になろうと、希望を持ちました。

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12 悪こそは未来          高山 明

 およそ30年ぶりに中井さんの読書会に参加させてもらいました。大学時代以来です。
高校時代に鶏鳴学園に出会い、中井さんの授業を受け、牧野さんにドイツ語を学び、ドイツに留学し、
フライブルクに引っ越された中井さんと貴重な時間を過ごし・・といったことが一気に思い出されました。
Zoomの画面には鶏鳴で研鑽を積んだ笹本さんの顔もあり、30年という月日が一気に吹っ飛んで今に接続されたように感じました。
 『現代に生きるマルクス』を読んでいて、30年前から一貫しているなと思ったことがあります。
それは「至らないもの」に対する中井さんの姿勢で、若さ、感情、空想、妄想、夢、無意識、失敗、間違いといった、
ともすると簡単に「悪」だと否定されてしまうものへの姿勢でした。高校時代、中井さんの授業に出席していた時に
最も救われたのはその姿勢でした。自分の至らなさを可能性として見てくれている、
そこに一人の人間が成長するチャンスがあるとこの人は信じてくれている。
この感覚は私のそれまでの学校生活では体験したことのないものでした。その眼差しにどれだけ救われ、励まされたことか。
「寛容さ」や「あたたかさ」という言葉で表現したくなる姿勢ですが、実は個人の人柄や性格といったものを超えて、
そうした見方こそ発展の論理を地でいこうとする中井さんの実践であり、能力なのだと本書を読みながら改めて思いました。
それはマルクスの見方にも貫かれていました。とりわけ、マルクスが至らないもの(悪)を切り捨ててしまったこと
(発展の論理を地でいけなかったこと)を批判し、本書全体を通してその限界を乗り越え、発展させようとする叙述には、
頭だけでなく胸も打たれました。
 
*今後個人的に考えていきたい点をメモしておきます。
 フォイエルバッハ・テーゼの4は、宗教の「解消」を扱っています。私は演劇をつくっていますが、
演劇は宗教から派生した芸術であるため、テーゼ4で批判されている宗教と深く関係していると思いました。
私は演劇を都市(「自然」の対としての「都市」=「社会における諸関係の総和」の意味に使いたい)に戻すことを
テーマに演劇活動をしています。芸術的に表象化された世界、「王国」として「雲の上」ならぬ「舞台の上」に
固定された演劇をどのように生活のなかに戻すことができるか。(ちなみに、古代ギリシャ劇場では舞台の後ろに
自分達が生活する都市が見えました。都市生活の基礎を支えている共通のデータベースである神話が舞台上で解体され、
批評されますが、観客は客席にいながら舞台と都市の「二重化」を体験していたわけです。)
解消でも除去でもないかたちで「舞台芸術」にすぎない現在の演劇を批判し、演劇を都市へと返すこと。
その方法がテーゼ4に先取りして書かれているように思いました。この方法(能力)を自分のものにし、
演劇を更新したいです。(それはきっと、本質的に古代ギリシャ演劇へと戻ることを意味するのでしょう。)

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13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求     宮田 晃宏

 今回、初めて中井先生が主催する読書会に参加させて頂いた。私は、熊本県の高校教諭で教科は「農業」、
採用は「食品製造」である。しかも、農業高校出身で大学も農学部の農芸化学科出身であり、
その後、少々の社会科学を学んできたが、哲学を勉強したことはない。このような状況下で初めて参加ということであった。
 私の「マルクス」の印象と言えば、共産主義の象徴であり、ソビエト連邦時代のクレムリン「赤の広場」でエンゲルス、
レーニン、スターリンと共に掲げてあった肖像画である。スターリンの率いたソビエト連邦は第二次世界大戦で2,800万人
(全世界8,500万人、日本310万人、ユダヤ人590万人)とも言われる犠牲者を戦死者よりも餓死者や強制収容所で多く出し、
私はヒトラーを遥かに凌ぐ史上稀にみる独裁者だと捉えている。また、この他にもカンボジアの国民の1/3を虐殺した
ポル・ポト、キューバ危機を引き起こしたカストロ、ルーマニアのチャウシェスク、北朝鮮の金日成、
中国毛沢東の文化大革命、プラハの春、ハンガリー動乱、日本の連合赤軍事件というように例を挙げるとキリがないが、
共産主義を基にした国家・組織には正直言ってかなり悪いイメージを持ってきた。
 ただ、私が住む熊本市南端の隣町に嘉島町というのがあるが、この町出身に松前重義という人物がいる。
松前重義は、東海大学の創設者であり、共産主義の思想に寄り添っていたことでも知られている。
しかし、私は悪いイメージはなく、逆に好印象を持っている。そこで、「なぜ松前重義は共産主義に寄り添っていたのか」
と疑問に思っていた。
 また、今にして思えば、共産主義国家や組織が起こした出来事や事件にばかり目が行き、
「では、共産主義とは何か?」を深く知ろうとはしていなかった。それで今回の読書会に参加することは、
世の中や人間の根幹を考えるいい機会となった。加えて、自分の思想信条の根幹を確固たるものにするために
哲学は重要であると考えるようになっていたので、その入り口に立てたのは良かった。
これからも折をみて時間を作って学んでいきたい。

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14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました   ゆげ ひろのぶ

 御本は、自身の学力では及ばない所、多々でしたが、ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、
度肝を抜かれました。確かに、「マルクスは古い」と言われます。トヨタの工場に人がいない時代なので、
「剰余価値説」は時代にそぐわないと言われます。
 しかしながら、「弁証法的に、封建制から資本主義、そして社会主義への発展」は現在でもなお、圧倒的な説得力があります。
 もちろん、学問の再構築が必要であり、貴塾も当塾もその人材を準備しているところに強烈な使命感があると
勝手に推測しております。

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8月 05

中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 この本は、現在の私の持てる力のすべてで、マルクスと勝負した結果であり、これまでの35年ほどの
私の研究の総決算となっています。何カ月も集中して作業をしていたために、書き上げ、刊行されてからも、
しばらくは、私自身は茫然とした状態でした。
 読書会で『現代に生きるマルクス』をテキストとして取り上げたのは、刊行した後の私の心に一区切りを
つけることが目的でした。読書会で参加者と意見交換することで、この本の意義、意味を客観的に見つめ直し
たかったのです。読書会に参加してくれたみなさんに感謝しています。
 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。
 この読書会の記録と、参加メンバーの感想を、発表します。

 本日は読書会の記録、明日には参加メンバーの感想を掲載する予定です。

■目次 

読書会の記録
テキスト:『現代に生きるマルクス』中井浩一
記録者:松永奏吾
読書会日時:2022年4月24日
参加者:15人

1.参加者の読後の感想
2.全体
3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)
4.マルクスの人生(第三章)
5.若きマルクスの闘い(第四章)
6.唯物史観(第五章)
7.読書会を終えての感想

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〇=参加者の発言  ●=中井さんの発言

1.参加者の読後の感想

〇これまでばらばらだったマルクスが、この本を読んで全体が整理された。
マルクスがヘーゲルを理解するための具体例になった。
たとえば、下部構造が上部構造に止揚されるということは、上部に責任があるという意味だと理解した。
自分自身については、「発展」の理解。低レベルの当為で存在と一致するのではなく、
高いレベルの当為と存在を一致させるために、自分の認識能力をあげなければならない。(Aさん)

〇六章で、マルクス自身が自覚できていないことを中井さんが明らかにしているところがすごいと思った。
「問い」を立てて答えを出すことの重要性を思った。(Bさん)

〇マルクスに寄り添って書かれている。特に、1848年の革命の失敗の話と、人権宣言のところが、
マルクス自身にとってどういう意味をもっていたのかという視点で書かれていた。(Cさん)

〇四章が大きく響いた。中井さんが畳みかけるように、マルクスがフォイエルバッハとヘーゲルのつぎはぎに
なっていることを問題にしていた。また、自分の階層の自覚ということ、自分の限界の自覚ということが
どうすれば可能なのかが自分の課題としてある。(Dさん)

〇三章から四章で、マルクスの革命運動の失敗後の絶望を思った。二章で、ほんとうに「終わり」を終わらせる
ことのできる人というのは、認識の主体性が必要なのだと思った。(Eさん)

〇最近、他者がない感覚がある。他者を見てもその中に自分を見ているだけ。
六章に「自己の内部の自分を超えるもの」と書いてあったところが響いた。
また、六章に「人間の無意識に踏み込んだのが唯物史観」とあったのが参考になった。(Fさん)

〇発展と発展でないものが対比して書かれていて、ヘーゲルを学ぶ媒介としてマルクスは有り難いと思った。(Gさん)

〇今自分の生き方を白紙にしているところ。自分の心からやりたいこと、社会の発展につながるものを考えるヒントになった。
また、前回の読書会で問題になっていた、個人がどこから生まれるかということも引き続き問題になっていた。(Hさん)

〇私有財産の問題を考えた。山林管理の仕事をやっているが、山の所有者が個人の勝手で何もしないと
地域全体の問題になる。この問題を発展の契機として次に何をすればよいのか、考えている。(Iさん)

〇はじめに、四章の5、五章の5に感銘を受けた。一、なぜ売春は禁じられるのか。
これは社会が向き合っていない問題。二、思想は人の生死にかかわり、能力のない人がやると問題になる。
誰がやれるのか。三、「宗教は究極的には終る」とあるが、いつか。(Jさん)
●宗教の終わりはとうぶんない。数千年はない。しかし、終わりが何かということは、はじまりが何かと同様、
考えないわけにはいかない。

〇七章が響いた。しばらく学習から離れていたのでまとまったことは言えない。(Kさん)

〇山梨で地域資源をどう活かすかをテーマに仕事をしてきたが、11年経ってようやく経営が安定してきたので、
今後どうするかという現在、また学習を再開しようと思っている。(Lさん)

〇難しかったが、四章の「鶏鳴学園の実践」のところではじめてストンときた。(Mさん)

〇マルクス主義、社会主義、共産主義といえば、毛沢東、スターリン、ポルポトなど、非常にイメージの悪い人ばかりで、
あの人たちのことが頭に浮かびながら読んだ。彼らはなぜああなったのかということを考えながら読んだ。(Nさん)

2.全体

●今回の本は、マルクスに徹底的に「寄り添って」書いた。
マルクスの思想を内在的に理解すること、生成の必然性を示すことを心掛けた。特に三章。
こうした内在的な理解がなければ、マルクスを超えることはできないと思っている。
●本書で最重要なのは、二章と四章。
二章は存在論と認識論の捉え方について、中井の「足場」となる思想をはっきりと出した。特に、二章の3の(5)。
四章はマルクスを根源的に捉えて超えようとしたところ。
●マルクスを理解しマルクスを超えるためには、ヘーゲル哲学の理解が必須。(はじめに)
●マルクスの唯物史観は、人間が無意識に「前提」としていることを問うものだった。(はじめに)
●1960年代70年代に学生時代を過ごした人間にとって、20cの世界にとって、マルクス主義、社会主義は
それに賛成にせよ反対にせよ、ひとつの「転換軸」になっていた。(おわりに)
●牧野紀之の運動が失敗したことの総括をこの本の中で中井がしなければならない。
マルクスも牧野も自分たちの活動の総括ができていない。(おわりに)
●「付論」(2010年)は、中井がマルクスから自立したと思った時点の文章。それはそのまま牧野からの自立を意味する。

3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)

●ヘーゲルの「存在は運動し、自らの本質を現わす。
だから認識はそれを見ているだけで良い」という認識論には、「結果論的考察」、「ミネルバの梟」といった問題がある。
●われわれの中にある欲求、衝動というはじまりの中に、未来がある。
その正体を言葉にし、認識のレベルにまで高めればよい。この、中井の「欲求、衝動」というものの捉え方が、
ヘーゲル、マルクス、牧野との立場の違い。
●「見ているだけ」というのは、何もしないでよいという意味ではない。対象がその本質を現わすように
、対立矛盾を深めるように、つまり発展するように主体的にはたらきかけることが、まず必要。
それがなされたならば、対象は発展して自らの本質、概念を示す。だから、認識はそれをただ見ているだけで良い。
●ヘーゲルの「存在論、本質論、概念論」という三段階の理解がすべて。
●マルクスはヘーゲルの存在論の論理(限界、制限、当為)を使って時代の変革、社会の変革の説明をしているが、
そもそも存在論の論理で発展(概念論)は説明できない。マルクスの概念論の理解は不十分だった。
●「分裂のない一体の状態→分裂、対立→一体の状態にもどる」は、本質レベルの発展。
概念レベルでは、「対象が生まれ(古いものが崩壊し)→対象が本質を実現し(古い世界を止揚し)→
対象が完成し崩壊する(新たな世界が生まれる)」となる。
●人間の成長、発展をどうやって認識するか。人間には、存在と当為の分裂、当為の選択の問題がある。
選択の基準となるものが概念。

4.マルクスの人生(第三章)

●マルクスの唯物史観は、フランスの人権宣言に対する批判という側面がある。
その自由、平等、安全、所有の権利は、ブルジョアの権利、利己的人間にとっての権利であって、
全人類のためのものではない。マルクスの先見性。
●しかし、マルクスはそれを理解しない他の思想をすべてイデオロギーとして切り捨てた。
本来は、人権宣言の「自由」を発展のはじまりの段階のものとして位置付ければよかった。
●マルクスはエンゲルスと共同で『ドイツイデオロギー』『共産党宣言』を出した。
個人主義の克服、共同性、協同性を主張したマルクス自身の、理論と実践の統一。
●1848年の革命の失敗のあと、マルクスは堕落することなく前進した。が、その時の反省に問題があった。

5.若きマルクスの闘い(第四章)

「フォイエルバッハ・テーゼ」は20代のマルクスが、世界を相手に一人で立った文章。
●「環境が人間を作る」ことと「人間が環境を作る」ことを統合するには社会を変革するしかない(テーゼ3)。
●テーゼ4こそが最重要であり、マルクスのすごさ。
ふつうは相手の意見に自分の意見を対置するだけだが、テーゼ4はフォイエルバッハ自身の考えを発展させ、
そこから自分の主張を導出している。これがほんとうの批判。このテーゼ4から直接テーゼ6が導出され、
テーゼ4と6の対立から他のテーゼが導出される。
●フォイエルバッハの疎外論は、発展の正反対の立場。疎外論は対立矛盾をわるいものとみなし、問題を「取り除く」。
●疎外論は「根源」に戻ろうとするが、根源に戻ったら、再度そこからの捉え直しで現在の外化された現実、
現象にまで進まなければならない。対象を真に発展させるために。
●マルクスは、先生を選べなかった。ヘーゲルの発展論とフォイエルバッハの疎外論のつぎはぎになっている。
●疎外論の本丸である宗教に対して、マルクスは疎外論の枠組みでしか考えられなかった。
宗教そのものへの批判ができておらず、堕落した宗教の形態を前提としてそれを批判しているだけ。
マルクスの宗教に対する浅い理解から、マルクス主義自体が宗教に転化してしまった。

6.唯物史観(第五章)

●唯物史観の最大の問題は、それを「能力」の問題として見ていないという点にある。
方法と能力は一体であり、方法には能力が必要。しかしその能力を上げる前提には、生き方の問題がある。

7.読書会を終えての感想

〇概念論の話のところに、存在論に出てきた「限界、制限、当為」が出てくるのはなぜか?(Aさん)
●存在論にあるものは本質論の中にも概念論の中にも止揚されてある。
ただし、それを本質論の意味で使うのか、概念論の意味で使うのかという違いは、明確に意識しなければならない。
マルクスにはそれがない。

〇欲求衝動の中に未来がある、と言われて、今の自分はそれが分からなくなっていると思った。(Bさん)
●欲求衝動がなくなると人間は死ぬ。

〇一、マルクスにとって唯物史観の一般化がなされた時点は、中井さんだと「付論」を書いた時点だろうと思った。
二、「経済学の方法」に唯物史観が書かれていないのは、1848年の革命後のマルクスの方針転換による、という説明は納得がいった。三、ヘーゲルは自分の弟子をどうやって教育していたのか?(Cさん)
●ヘーゲルもマルクスと同様、弟子をちゃんと教育できていない。これは大きな問題。

〇1848年の革命の失敗後、自分の限界の自覚と克服ができなかったマルクスは、運動から退いてしまった。
どうやって自分の能力の低さを反省し克服していくかが大事。(Dさん)
●マルクスは革命後の失敗を克服できないことを正直に表明し、自分のできないことを仲間に、
後世に託すことを表明すればよかった。それをせず大御所になってしまったことの俗物性。

〇ほんとうに根源が根源であるのなら、今の中にその根源がどう生きているのかを捉えないとおかしくなると思った。
根源だけ見ても現状への考察は出てこない。(Eさん)
●はじまりにあったものが根源ではなく、はじまりから今に至るまでのすべてを貫き、自己を実現してきたものが根源である。

〇マルクスの初期のユダヤ人問題の叙述などを読むと文学的なものを感じるのに、
マルクスはなぜ宗教、人間に浅い理解しかもてないのか。(Fさん)
●フォイエルバッハ・テーゼも文学的。文学的能力だけでは自分の限界は超えられない。

〇自分が3月に提出した総括の文章は、中井ゼミに入る前と後とで、自分のそれまでの生き方がどう発展したかを
ちゃんと総括することができていなかった。(Gさん)
●自分の人生の「区切り」を考える時には、古い自分がどう壊され、新しい自分がどう現れたかを、
発展を、まとめなければならない。

〇世間には「能力を上げる」と称する下らない方法がたくさんあるが、哲学を根本にしないと能力は上がらない。(Hさん)

〇自分は林業をやっているが、自分たちの新しい林業と従来の林業を対置していることに気づいた。(Iさん)
●古いものの中から新しいものの現れて来る必然性を見抜くことが大事。

〇資本論とか共産党宣言よりも前のマルクスを知った、マルクスがヘーゲルから出ていることを知った。
マルクスの若い時代がすごかったことを知った。(Jさん)
●私がすごいと思うマルクスは、ほぼ若い時代に限定されている。革命の失敗後ではなく。

〇この10年間、自分の人生のやり直しをやってきて、ようやく一息ついたところ。
この読書会に出たことで、自分を見つめ直しこれからのことも考えたい。(Kさん)

〇一、認知症の高齢者を相手に仕事をしていて、変わらない相手に言ってもしかたがないという気持ちを抱いているが、
それは相手の問題ではなく、認識している自分の問題。
二、自分の見ている患者は基本的には治らないが、それでも何か新しいなにかは生まれているのかなと思った。(Lさん)
●人間は生きている限り前に進み、新しいものを生み出そうとしている。
それを見ている人間がどうはたらきかけるか、によって変わる。人は死ぬまで発展することが可能。

〇自分の教えている農業高校にいるのが、ブルセラ高校生と同じ。彼らとの関りを考える時に、
今回学んだようなことが考えるヒントになるのだと思った。(Mさん)

〇最後の能力の話がすとんときた。(Nさん)

〇昔、高校でおちこぼれだった自分を、鶏鳴学園で拾い上げてもらった。
本の中の、空想や妄想や夢、悪のとりあつかい方、叙述に、あたたかいものを感じた。
当時の自分の抱えきれないものを思い出した。
宗教、芸術も同じこと。自分のやっている演劇は宗教から生まれた。
フォイエルバッハ・テーゼ4に衝撃を受けた。彼が批判している宗教にあたるものを自分自身が、今やっている。
自分はそれを社会の中にどうやったら返せるか、だけでなく、
それを再度外に出せるか、活かせるか、という課題に取り組んでいる。(Oさん)

12月 28

2021年が終わります。
読者の皆さんにとって、どのような1年でしたか。

コロナ感染症が2年目の今年も社会全体を支配し、その中でオリンピックが強行され、あいかわらず滅茶苦茶なことが、無理やりに通ってしまうことが多かった。
コロナ感染症は、私たちの社会の問題をくっきりと示してくれました。

私個人にとっては、マルクスについての本を刊行するための作業に打ち込んだ1年となりました。
2022年1月下旬に『現代に生きるマルクス』が社会評論社から刊行されます。
サブタイトルは「思想の限界と超克をヘーゲルの発展から考える」。
A5判並製、290ページほど。本体価格2500円(予定)です。

マルクスの思想、唯物弁証法、唯物史観を検討する本を出すことは、2020年に『ヘーゲル哲学の読み方』(詳しくはメルマガ392号参照)を刊行する時に、次はマルクスと決めてありました。その準備もこの数年で進んでいましたし、今年の春には原稿を書き上げられる予定でした。
それが、ほぼ今年1年、この原稿とひたすら向き合うことになったのです。

その意味は、すでに「おわりに」に書いたので、それを読んでいただきたいと思います。

へとへとになりましたが、今のベストはつくしました。
私の課題ははっきりと見えていますから、少し休み、態勢を整えて、それに取り組んでいきたいと思います。

今回のメルマガに『現代に生きるマルクス』の目次と、後書きに当たる「おわりに」の一部を掲載します。
関心を持っていただけた方は、是非『現代に生きるマルクス』を読んでください。

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目次

はじめに

?章 理想と現実の間 ヘーゲルとマルクスの間
?章 存在は運動し、自らの本質を外に現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い。
?章 マルクスの人生  ?『経済学批判』への序言から?
?章 若きマルクスの闘い 「フォイエルバッハ・テーゼ」 
?章 唯物史観
?章 「経済学の方法」(「経済学批判序説」の第三章)
?章 時代の限界と時代を超えること

おわりに

付論 ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか

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「おわりに」


 本書の原稿は2021年1月に完成する予定だった。すでに30年以上マルクスについて学習してきており、この3年ほどはマルクスの唯物史観や資本論について中井ゼミで集中的に取り上げて考えてきた。マルクスの思想について書くべきことはすでに固まっていて、それを書くだけのつもりだった。前著『ヘーゲル哲学の読み方』を書く時に、次の本はマルクスと決めてあり、その準備を進めてあったのだ。しかし1月に終わるはずの原稿執筆が3月にのび、5月になり、夏の終わりに伸び、そして10月までずれ込んでしまった。これは当初は考えられなかったことだ。

 自分の考えの根本は変わっていないマルクスの思想はフォイエルバッハとヘーゲル哲学を二つを中心点とする楕円運動だと考えている。しかしいくつかの点で私には不十分な点があった。
一つはマルクスの人生において、1848年の革命の挫折の前後の転換について重く考えるようになった。これは、マルクスの思想の発展をどうとらえるかという問題、前期のマルクスと後期のマルクスをどう関係させてとらえるかという問題、「初期マルクス」の理解の問題に関係する。
 そこで、マルクスの人生とその時代背景を改めて学習した。そのために、城塚登『若きマルクスの思想』、廣松渉『唯物史観の原像』、吉本隆明『カール・マルクス』などを読み、そこで示されている参考文献などをながめた。
また、いわゆる「初期マルクス」のテキストである『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』『経済学・哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』などを読み直した。
こうした作業のために時間がかかったのだが、それだけではない。

 本書は私の30代までの人生の総括になった。
 私は「マルクス主義者」ではないし、かつて一度もそうであったこともない。むしろ20代には、その政治主義に反発し、それと違うところから、もっと生活の根本、意識の根底から世界を変えることを考えていた。当時の私は政治闘争や経済の問題には関心がなく、文化の革命に専ら関心があった。それはライヒの『性と文化の革命』やカール・ロジャースの人間関係論、身体や心のひらき方、エコロジー運動や共同体運動である。しかしこうした運動に行き詰まり限界を感じた時に、私の前に見えてきたのがヘーゲルとマルクスの世界であった。そして牧野紀之の下での修業が始まった。
 しかし今思うのは、1960年代70年代に学生だった若者達にとって、マルクス主義に賛成であろうが反対であろうが、または全くの無関心であっても、大きな違いはない。すべてがマルクスが設定した枠の中にあったと思うようになった。 事実としてそうであった。本書では、その枠組みそれ自体を相対化し、その全体をはっきりと確認し、それを吟味したいと考えた
それを強く意識し始めたとき私の筆は止まった。10代20代の私自身の姿が浮かんできた。
 60年代70年代の世界の動乱が思い出された。学生紛争が生活の日常の中にあった。大学は封鎖され、教授連が壇上に並ばされ、吊し上げられる。中国の文化大革命の小型版がどこでも無数に繰り返された。
左翼の内部で共産党系と新左翼の対立があり、内ゲバで頭をかち割られた知人がいた。その最果ての連合赤軍事件。
 「アメリカ帝国主義」のベトナム戦争への反対運動があった。世界中に起こった反乱や共同体運動。性の解放、女性の解放。左翼だけではなく右翼の動きもあり三島由紀夫の割腹自殺もあった。
 私は自分の20代の挫折に区切りをつけ、次のステージに進むために牧野紀之の下でヘーゲル、マルクスを学習した。牧野は『先生を選べ』の原則を厳しく追及するように方向転換し、その成果を下にして、「自然生活運動」を試みた。それはマルクスが打ち出した、私有財産の止揚、精神労働と肉体労働の止揚、「一つ財布の共同生活」の実施を目標としたが、それをヘーゲルの発展の立場からそのレベルで実行しようとするものだった。しかしそれは2年ももたずにあっけなく崩壊し失敗に終わった。それは、1990年4月から92年のの3月までであり、私の30代後半の2年間である。その総括は牧野にはできていないので、私がしなければならない。その課題の前で私はたじろいだのである。
 それらを強く意識し、それに向けて答えることを目標の一つとして本書を書き上げた。まだまだ不十分だが、今の自分の力は尽くした。

2 
 2001年に『ヘーゲル哲学の読み方』を刊行した。これから私が自分の考えを展開していくために、その全ての基礎として最初はどうしてもヘーゲル哲学について書かなければならない。そこに私の立場を示さなければならないと、思い定めていた。そしてその次はマルクスの唯物弁証法と唯物史観を書くと決めていた。
 ヘーゲルとマルクスの二人の思想が私にとっての大前提であり、そこから自分の考えを少しずつ作ってきたからである。この2人についての私の立ち位置を示した後で、やっと各論を展開できる。

 ヘーゲルの弁証法とは、一言で言えば、発展の立場であり、その方法と能力である。この発展とは何かという問いに答えを出すことが、ヘーゲルの目的だったし、私の目的でもある。そしてその発展の立場から、マルクスの唯物史観を考えると、そこによくわからないものが出て来るのだ。
 一番大きいのはヘーゲル哲学が観念論だというものだ。
 さらに、マルクスの上部構造を下部構造が規定するという命題も、よくわからない。これはヘーゲルの前提と定立の関係から考えなければならないし、絶対的真理観から考えなければならないと考えた。
 そうした大きな観点とは別に私が一番考えたのは、マルクスの唯物史観の定式5の叙述である。ここは革命成功の条件を発展の立場からとらえており、私には最も重要な箇所に思える。しかし、ここがわかりにくい。比喩ばかりで、きちんとした説明になっていないように思う。
 私は、それをもっとわかりやすく表現するための代案をアレコレと考えたのだが、その結果、発展について理解が深まったと思う。それをまとめたのが本書?章3節の(5)である。
それらはすべて前著『ヘーゲル哲学の読み方』の中に出しておいた(例えば第?部第4節や第?部第5章)。本書での主張の伏線のつもりであった。これは私自身の発展観をつくる上での礎になった

3 
 付論「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」は10年ほど前に執筆し、中井ゼミのメルマガに発表した文章である。
 これは私にとって思い出深いものである。ここで初めてマルクスに対する私の立ち位置が定まったと思うからだ。
 私が牧野紀之のもとでヘーゲルとマルクスを学んでいた時に、1つの疑問が私の中にあった。それは、マルクスによるヘーゲル批判で、ヘーゲル哲学は「観念論」であり、「逆立ち」しているというものだった。これは牧野の学習会では大前提であり、疑う余地のないこととされていた。しかし私は最初から、何かもやもやするものがあり、いつも納得できなかった。腑に落ちないのだ。しかし、誰ひとりそれに疑問を出す人はいない。私も自分のもやもやを言語化できない。どこにどう納得できないのかすら、最初はわからなかった。しかし、その違和感は強く、その疑問はいつもついてまわった。だんだんとおかしさが明確になっていった。まず「逆立ち」している、といった物言いが、いかにもバカっぽい表現に思った。真っ当な批判ではない。それならば、ヘーゲル哲学は「観念論」だ、という物言いも同じほどのバカっぽさがそこにあるのではないか。自分の答えが出たのが、50歳になるころだった。その考えをまとめたのが、この付論である。
 それからもう10年になるが、この10年はここに潜在的にあったものを明確な形で示すための時間だった。
 この付論が基礎となって、そこに潜在的にあったものが、やっと本書の形にまでまとまった。そして、今回のこの本が今後の研究のための基礎となる。


 本年2021年には、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになり、話題となった。環境危機とマルクスを結び付けた本だ。マルクス本がベストセラーになるのはいつ以来になるだろうか。
 この本に大きな反響があったのは、地球温暖化対策としてのCO?排出量の規制の運動の国際的高まり、「持続可能な開発目標」やSDGsへの強烈な批判があったからだろう。それは「アヘン」であり、真の解決策へと向かうことの障害となる。そしてそれを超える、真の環境保護運動のあり方を、正面から問題にしたことが大きな反響の理由だろう。
 こうした斎藤氏の主張には私も同感である。ただし、SDGsの立場やCO?削減を強引に推し進める立場の本質が何かを、その生成とここまでの展開の中で、具体的に明らかにしたいと思う。その政治的、経済的立場、社会関係の中での立場が何か。その限界と、それを超える運動が生まれる必然性とその条件を示したいからだ。
 この本の反響が大きかったもう1つのポイントは、マルクスがその最晩年に、成長経済至上主義を引っ込め、エコロジーと共同体の思想に大きく転換していたという主張である。
これも内容としては、そういう可能性はあると思う。しかしan sich(潜在的可能性)をただちにfuer sich(顕在化した思想)とは言えないだろう。
 もし、マルクスにそうした考えの転換、変更があったとしよう。そこでの私の関心は、そうした内容よりも、そうした場合の革命運動の指導者の責任の問題にまず向かう。
社会運動のリーダーの責任とは、思想における重要な変化や変更があった場合には、それを公表することではないか。なぜ公表できなかったのか。自分の研究ノートや手紙は、公的なものではない。『共産党宣言』のロシア語版の前書きにちょこっと書くのでは到底その責任はとれない。以前の考えに現在の考えを対置し、その違いの意味を説明するのが、革命運動の指導者の最低限の義務であり、思想者に必要な誠実さではないだろうか。こうしたことがマルクスとエンゲルスには弱すぎる。
 斎藤氏に、こうしたマルクスへの批判がないことが気になる。なぜなら、これは民主主義の問題の核心に関わるからだ。共同体を無条件に良しとするわけにはいかない。その中での個人のあり方が問われるからだ。近代以前の共同体には個人が存在しなかった。個人の出現は近代の資本主義社会と結びつく。しかし、個人がいると悪の問題が起こり、社会内部の対立・闘争が必然的に起こってくる。これに組織は、共同体はどう対応できるか。これが民主主義の問題だが、そこでは情報の公開と共有が不可欠だろう。
 また唯物史観や唯物弁証法について、私有財産、分業、国家について、斎藤氏はどう考えているのだろうか。

(以下略)

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8月 09

せっかくの夏休みですが、今年はコロナの影響で、落ち着かない思いですごすことになりそうですね。心の中がざわざわ、ざわざわとしています。

こんな時でも、自分のテーマを持って生きている人は、いつもと変わることなく、静かに一心に、自分の仕事に取り組んでいるはずです。
私もそうでありたいと思っています。

そうしたテーマを作っていくきっかけにしてほしく、今年も、中井ゼミの夏の集中ゼミを開催します。

オンラインですからぜひ、参加してください。

1.近況報告

今年の5月には、私の初めての哲学本『ヘーゲル哲学の読み方』が刊行されました。
これが、これからの仕事の口火を切るものになります。

現在は、次の本の刊行に向けて、研究と原稿執筆に専念しています。
タイトルは未定ですが、「マルクスの読み方」といったものになるでしょう。
この夏休みと秋に、原稿を書き終えて、
冬には刊行したいと思っています。

内容上の柱は、マルクスの有名なテキストに即して4本設定しています。
(1)フォイエルバッハ・テーゼ
(2)『経済学批判』序文 唯物史観
(3)『経済学批判』序説 経済学の方法
(4)『資本論』第1巻

ここまでの研究の進め方ですが、
(1)から(4)まで、昨年の夏から今年の春にかけて検討してきました。

それを踏まえて、(1)については今年の5月に再度読書会で取り上げました。
「疎外」の理解の問題、宗教批判のあり方の問題をまとめました。

このレベルで、(2)(3)についても、再度考えています。

さらには、(3)のマルクスの方法を、ヘーゲルの方法(絶対的理念)と比較するために、6月、7月は、ヘーゲルゼミで、ヘーゲルの理念論を再読しました。
前回(2,3年前)読んだ時よりも、確実に深まっています。

以上を踏まえて、最後にもう一度、『資本論』を検討して、
本の原稿を書き上げる予定です。

8月22日、23日に中井ゼミを行いますが、
基本的には、この(1)(2)(3)の原文と、牧野紀之さんによる訳注や、解説を参考にしつつ、私の現時点での到達点をお話しします。

本の原稿はすでに(1)(2)について書き始めています。
まだまだ草稿段階ですが、最後の段階で、すべてを貫く結論、問題提起を定めて、
書き上げることになるでしょう。
今の私の最善のレベルで、書き上げたいと思います。

2.夏の集中ゼミ

8月22日(土曜)、23日(日曜)に中井ゼミを行います。

内容上の柱は3本です。
(1)フォイエルバッハ・テーゼ
(2)『経済学批判』序文 唯物史観
(3)『経済学批判』序説 経済学の方法

それぞれの原文の核心部分を確認し、その問題点を考えます。
訳注では牧野紀之さんのものを参考にします。

初めてマルクスやヘーゲルを読む人にも、一緒に考えてもらえるような内容にするつもりです。
ドイツ語が読めない人も、訳文を見てもらえば大丈夫です。

まだ、詳細は決まっていません。
関心のある方は、連絡ください。
ただし参加には条件があります。

4月 10

私の初めての哲学本が4月25日刊行です。

タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』

サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」

出版は社会評論社

270ページほど
定価は2300円(+消費税)です。

参考にしていただくために
目次と前書きにあたる文章(「読者に」)を以下に掲載します。

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目次

第1部 発展の立場
第一章 ヘーゲルの時代とその課題
第二章 発展とは何か

第2部 ヘーゲル論理学の本質論と存在論
第一章 ヘーゲルの論理学における本質論
第二章 存在論における「変化」 存在とは何か 変化とは何か 
第三章 本質論の現実性論 
第四章 ヘーゲルの三つの真理観 本質と概念の違い 

第3部 物質から生物、生物から人間が生まれるまで 
第一章 物質から生物への進化
第二章 生物から人間が生まれるまで

第4部 ヘーゲル論理学と概念論
第一章 ヘーゲルの論理学と労働論(目的論)
第二章 普遍性・特殊性・個別性と、概念・判断・推理

第5部 人間とは何か  
第一章 人間と労働
第二章 自然の変革 ?自然への働きかけから自己意識が生まれ、「自己との無限の闘争」が始まる
第三章 社会の変革
第四章 個人としてどう生きるか 私たちの人生の作り方 
第五章 人間の概念、人間の使命

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読者に

 本書の読者として想定しているのは、哲学の専門家ではありません。
 日々の生活の中で直面した問題を本気で考え、困難な現実と真剣に戦っている方々こそ、私の読者だと思っています。
その人たちに届く言葉で、届くように語ろうとしました。

 それでもヘーゲル哲学は難しく、私の理解がまだまだ及ばないところがあり、それゆえに難しい用語が並び、
読むのが困難だとしか感じられないところがたくさんあると思います。
 そこで、全体の構成と私の意図を最初に説明します。これを念頭において読んでいただければ、
闘うための武器としてのヘーゲルゼミ哲学の項目リストができるはずです。
 まず、第1部を読んでください。これが本書を読んでいただくための前提となります。
 第2部はヘーゲルの論理学の内の本質論と存在論の説明です。ここはヘーゲル哲学を読む上で、
どうしてもクリアーしておかなければならない部分なのですが、前提となる哲学用語の知識がないと、最も難しいところです。
 全体を飛ばすか、流し読みをするとして、第4章だけはしっかり読んでください。
これがヘーゲル哲学が現代を生きる人にとっての最大の武器になるところだからです。
本質と概念の違いは大切です。
さらに可能なら、第1章の(9)の根拠の限界と、その克服の方法(7)、
第3章の(4)の偶然性と必然性の区別には目を通してほしいです。
読者のみなさん自身で、日々の経験を例にして考えていただけば、
諸問題の本質や解決策を考える上でヒントになることがたくさんあると思います。
 第3部では具体的に、物質から生物、生物から人間が生まれるまでの過程を追いました。
生物に関心がない人は飛ばしても大丈夫です。
 第4部は第2部を受けて、ヘーゲル論理学の全体とその概念論の説明です。難しければ飛ばしてください。
 第5部が本書の本丸です。人間とは何か、私たちはどう生きるべきかを考えています。
 その際、自然と人間、その両者をつなぐ労働という3者の関係で考えています。
 人間が自然に働きかける際には、人間社会自体を変革することを媒介としています。ですから、
第2章に自然の変革が、第3章に社会の変革が置かれています。最後に、個人の人生と、人間の使命を示して終わっています。
 難しいところは飛ばしながら、骨子を考えてみてください。

 ヘーゲル哲学の概説書、解説書は、多数あります。本書もそうした形式をとっていますが、
概説書や解説書を書いたつもりはありません。私がヘーゲル哲学を紹介したいのは、
それが現代社会の中で生きて戦っていくうえで、それを根底から支える武器として、最大、最高のものだと思うからです。

 ヘーゲル哲学とは、一言でいえば、発展の立場であると思います。
自然も人間も、私たちの社会も、すべてが発展によって生まれ、運動し、
対立と矛盾による消滅を繰り返してきたものなのであり、
それを理解するためには発展として理解しなければならない。
そうでないと、諸問題の理解ができず、問題と本当に闘っていくことができなくなる。
 だから、ヘーゲルは発展とはどのような事態であり、発展として物事を理解するとはどういうことなのか、
それを明らかにしようとしました。
 また闘う際には、できる限り、本質に即して、有効に闘い抜きたい。
そのためには、自分自身と、他者や社会とどう関わっていくかが大きな問題です。
ヘーゲルは人間の本質を「自己との無限の闘争」をする存在としてとらえました。
 本書ではそれをできるだけ簡潔にわかりやすく描こうとしました。
 
 本書が解説書ではないというもう1つの理由は、ヘーゲル哲学をありのままに説明するのではなく、
そこに潜在的(an sich)にあるにとどまっているものをも、
現代の中に発展させた形で示すことをめざしたからです(これが本当の批判です)。
 それができなければ、ヘーゲル哲学の概説や解説をしたことにはならないでしょう。
発展について語りながら、発展させる能力を持たない人間を、読者は信用できないでしょうから。
 本書で示したことは、ヘーゲルの中にそのままあるか否かに関わりなく、
本来の発展という考え方から当然出てくるものを、私に可能な限り明確に、簡潔に表そうとしたものです。
 当然その中には、ヘーゲルへの批判も含まれています。
それは、私には、本来の発展の本来の考え方からの逸脱に思える部分であり、
ヘーゲルの世間への妥協、彼の弱さの現われに見える箇所です。
そうした個人の事情はあったにしても、大きくは時代の限界としてとらえるべきでしょう。
 私たちは、現代の立場から、ヘーゲルの先に進まなければならないはずです。
他に、マルクス、エンゲルスについても言及しましたが、ヘーゲル哲学に対しての態度と同じスタンスで臨んだつもりです。
 読者もまた、本書に対して、同じスタンスで読んでいただけるようにお願いします。