8月 15

第三文明社の子育て支援誌『灯台』9月号で
進路・進学決定のための特集を行っています。

私はその総論に当たるインタビューを受け、それが掲載されています。

以下がその内容です。

【タイトル】
仕事の話を聞かせて、
子どもの?問題意識?を育もう

鶏鳴学園学園長 中井浩一
取材・文/長野修

【リード】
有名大学に行けば一生安泰という時代は、終わった。これからの時代は、自分のテーマ、問題意識をしっかりと持った自立した個が、人生を切り開く。そのための鍵とは何か?

【本文】

●親からの自立が最優先
 進学・進路の決断を行なうためには、「自己理解」が不可欠です。つまり、自分の関心があることから人生のテーマを見つけ、問題意識を明確に持てば、進路進学は自ずと決まります。
 しかし、今の子どもたちにとって、これは非常に難しいのが現実で、それ以前の問題としてまず考えるべきは、親からの自立です。
 今問題になっているニートやフリーターは、少子化・核家族化が進む中で、親との一体感を非常に強く持ったまま育っているので、自立心が希薄です。そうすると、自分は何をしたいのか、自分の人生のテーマは何なのか、そういう問題意識を持つことができません。結果として自分の道を選び取ることができないのです。
 
●中高は、問題意識を育てるスタートライン
 昔は「大学に入ってから何をすべきか考えればいい。今は受験勉強だけをしろ」と言われたものです。これは、大企業に就職すれば生涯安心という終身雇用の時代には通用しましたが、終身雇用が崩壊し、離職率も高まっている現代にあっては、当てはまりません。今は、どんな局面でも自分で道を見つけ出し、乗り越えるための力が必要なのです。それを可能にするのが、問題意識なのです。
 従って、中学、高校時代は、自分のテーマ(問題意識)を見つけるためのスタートラインに立つ時期だと考えましょう。二十代である程度明確にし、三十代でそれを完成させる。ずいぶん遅いと思うかもしれませんが、今の社会では、このくらいの長い期間が必要です。

●親は自分の仕事の苦労を語れ
 問題意識を育てるために必要なことは、子どもに社会の現実をリアルに感じさせることです。具体的にはどうするか? 親が自分の仕事を語ることです。
 仕事の楽しさはもちろん、仕事の苦労や悩み、職場の課題、その背後にある社会の問題点などを、生々しく語るのです。そこで初めて子どもは、仕事をするということ、生きるということがどういうものなのかをリアルに感じ始めるのです。
 また、親の話を聞くことで、子どもは「親のようになりたい」とか「なりたくない」という生き方のモデルを持つこともできます。そこから問題意識が生まれ、自立心が芽生えます。親が自身のことを語ることが最初の一歩なのです。

●対象理解を通じて自己理解を進める
 進学進路の決断には自己理解が不可欠だという話をしましたが、これには時間がかかります。自己理解が不十分な場合は、「対象理解」に力を注ぐことも重要です。
 例えば、社会に関心を向けたり、職業や大学について情報を集め、調べます。社会という外側の世界を理解することを通じて、自分が何に関心を持てるか、持っているかを調べるわけです。つまり、対象理解を媒介として自己理解を進めるのです。
 対象理解を進めるためには、情報収集と現場を知ることが重要です。情報に関しては、インターネットや書籍などで十分収集できますが、それだけではなく、大学の勉強や職業について、実際に人に会って話を聞くことが大切です。

●大学は、興味関心で選ぼう
 大学選びは、仕事と結び付ける必要はありません。大学は職業訓練校ではなく、自立するための問題意識やテーマ探しが目的なのですから。例えば、法学部だけが弁護士になる道ではありません。工学部を出てロースクールで学べば特許関係に強い弁護士になれるし、医学部で学べば医療事故を専門とする弁護士にもなれます。要は、自分の興味関心があるものを学ぶのです。仕事を決めなくても、問題意識さえ持てればやりたい仕事が見えてきます。
 これからの時代に必要なのは、学歴ではなく、人間としての強さです。強さがあればどんな困難も乗り越えられます。その強さは、その人自身が培ってきた、テーマ=問題意識が土台となるのです。

【プロフィール】
なかい・こういち 1954年東京生まれ。京都大学卒業後、大手予備校講師などを経て、現在国語専門塾「鶏鳴学園」塾長。国語教育、作文教育の研究を続ける傍ら、教育改革についての活動も行なう。著書には『高校が生まれ変わる』(中央公論新社)、『「勝ち組」大学ランキング』、『大学入試の戦後史』、『大学「法人化」以後』(以上、中公新書ラクレ)等がある。

5月 06

 5月3日のJ-CASTニュースで、東大の一人勝ち状況にコメントしました。
 以下が私の校正した文面ですが、ラストが変更されました。

東大「一人勝ち」ますます進む 
京大や早慶は「何をやっとるのか」

(連載「大学崩壊」第2回/国語専門塾代表・中井浩一さんにきく)

「東大一人勝ち」。他大学からため息とともに漏らされる言葉だ。研究・運営費の多さを指すらしい。ただ、研究だけでなく、東京大学は「キャリア官僚」を最も多く輩出してきた大学でもある。しかし、「官僚が国を支える」時代が終わりを告げ、東大の存在意義に疑問符を投げかける声も出てきた。東大を「優遇」する必要は今後もあるのだろうか。「『勝ち組』大学ランキング どうなる東大一人勝ち」(中公新書ラクレ)など大学関連著書も多い、国語専門塾「鶏鳴学園」代表の中井浩一さんにきいた。

(中見出し)
ますます「一人勝ち」が進み、差が広がる

――「東大一人勝ち」について中井さんが取り上げた本の出版が2002年でした。その後04年に国立大学が独立行政法人化されました。「東大一人勝ち」の状況に変化は出てきたでしょうか。

中井 ますます「一人勝ち」が進み、差が広がっています。運営交付金が多いとか、論文発表数や引用数が多いとか、そういう数字に表れるランキング的な話ばかりでなく、総合的な力で他大学は水をあけられています。教養部改革や大学院重点化でも、法人化や産学連携の体制作りでも、東大が一番早く、根本的なことを行っています。改革のパワーでは最強であると言っていいと思います。

――差が広がるのはなぜでしょうか。運営交付金など「国費」投入額が国内1位であり続けていることが影響しているのでしょうか。2008年度の運営交付金(当初予算)は、東大は約882億7000万円で、2位京大より274億円以上も多く受け取っています。

中井 お金の問題も影響してないとはいいません。しかし、本質的にはまったく別問題だと考えています。そもそも独立行政法人化以降、旧国立大は、国立大時代よりはるかに自由に独自の視点で動けるようになりました。ところが未だに東大の背中を見ながら様子見をしている。これは私立大もそうです。東大が先にやって、うまくいけば自分たちも導入、失敗すればしないという姿勢です。京大など2番手、3番手は何をやっとるのか、ということです。新しい価値観、新しい動きを打ち出す気構えが感じられない。これでは東大に「一人勝ちしてくれ」と言っているようなものです。

――今話に出てきた京大は、物理や化学などの理系のノーベル賞受賞者が、東大より多いとよく言われます。東大とは違う独自性を発揮しているとは言えないでしょうか

中井 そういう部分を全否定する気はありません。しかし、ノーベル賞受賞者が京大を卒業したのって何十年前の話ですか。差があるといってもごくわずか数人差です。確かに、京大には例えば1970年前後ごろ、今西錦司や桑原武夫、梅棹忠夫など学問をリードする人材がいて輝いていた時代がありました。しかし、それ以降は凋落がはなはだしい。その原因は、学内を優遇する親分・子分人事にあります。

 一方東大は、90年代に建築家の安藤忠雄や京大卒の上野千鶴子を教授として外部から迎え、最近では早大卒の政治学者姜尚中を迎え入れるといった、思い切った人事をしています。学内の序列で順番を待つ人がいるのに、よそから教授を連れてくるのは大変なことです。また、やはり90年代ですが、東大は教養教育の新しいカリキュラムを実施し、そこから生まれた本を出版、「知の技法」と「ユニヴァース・オブ・イングリッシュ」はベストセラーになりました。こうしたことをする力が東大にはある、ということです。他大学では感じられないパワーが確かにあります。

(中見出し)
創造性、先見性ある人材を

――東大の存在意義としては、学問の分野だけでなく、「官僚養成機関」としての役割も大きかったと思います。高度成長期など「国を支える、国を引っ張る官僚」が求められた時代もありました。しかし、昨今では官僚が国を引っ張る時代ではなくなり、「官僚養成機関」としての東大の価値は低下したのでは、という見方もあります。

中井 確かに東大が育成してきたのはキャッチアップ能力に優れた人材でした。先行するものがあって、それをうまく効率的に早く追いかける力がある人間でした。その最たるのが官僚です。東西冷戦以降、そうした人材では、すべての運営がうまくいかなくなった。もっと創造性、先見性ある人材が求められるようになりました。しかし、東大はそうした人材を育成して来られなかったし、今もできていません。

 しかし、キャッチアップ能力しか持ち得なかったのは、何も官僚だけではありません。日本の政治家だって財界人だって同じようなものです。結局はアメリカの後追いをする発想の枠組みでしか行動できませんでした。東大以外のほかの大学、例えば京大や早稲田や慶応は、以前から創造性ある人材を育成していたのでしょうか。要するに、官僚の役割低下の問題は、東大だけの問題でも官僚だけの問題でもない、ということです。

――では、東大一人勝ちはまだ続くし、それで構わない、ということでしょうか。

中井 今のままの発想と能力では、同じ状態が続くだけでしょう。それでいいとは思いません。東大が育てられなかった創造性、先見性ある人材を輩出する大学が出て来なければなりません。しかし、それにはお金の話の前に意識改革が必要です。これは社会一般、国民意識にも当てはまると思いますが、大学の教員自らがキャッチアップ能力しかなかったことを反省できるかどうかです。

 まずは安易に東大批判をする風潮をやめるべきです。批判すべき所は勿論批判すべきですが、他と比べて優れているところは素直に認めるべきでしょう。アンチ東大、なんて言っている限り永遠に東大を超えることはできません。アンチの姿勢を心地よく感じるのは、70年代までの学生運動のノリで、それは実はありがたがっていることの裏返しです。もっと独自の価値観で堂々と勝負していい。アメリカ追随の政治しか持ち得ない日本社会ではもうだめなように、一人ひとりが考え直す時期かも知れません。このまま東大一人勝ちを許し続けるようでは、日本の将来は明るくありません。

 真のエリートを教育するにはどうしたらよいのか。私の塾ではすでに4半世紀にわたり、それを実践してきました。拙著「日本語論理トレーニング」「脱マニュアル小論文」などを参考にして、是非大学の授業をチェンジしてほしいものです。

中井浩一さん プロフィール
なかい こういち 1954年生まれ。京都大文学部卒業。一般企業や大手予備校勤務の後、ドイツへ留学。1989年に国語専門塾「鶏鳴学園」を設立、現在も代表を務めている。著書に「日本語論理トレーニング」(講談社現代新書)、「脱マニュアル小論文」(大修館書店)、「大学『法人化』以降」(中公新書ラクレ)、「大学入試の戦後史」(同)など多数。

(写真キャプション)「東大はがんばってる、なんていうと文句を言われることもある」と話す中井浩一さん。中井さんは京大OBだ

4月 29

日本教育新聞の連載コラムの4回目が、4月27日に掲載されました。

 「塾」について書きました。
前回同様、日本社会の同質性、その偏った平等感(いわゆる「悪平等」)と能力主義についての論考です。

塾 見えない存在

カナダから教育学の研究者が幣塾を訪れた。ブリティッシュ・コロンビア大学のジュリアン・ディルケス助教授で、彼は「私塾」を研究しており、日本全国の大手から町塾まで数10もの私塾を訪問調査している。最近は韓国、台湾などのアジア諸国までまわっている。ジュリアンによれば、塾の存在はアジア圏に限られ西欧では例外的だという。

 確かに日本では塾の存在抜きに、教育については語れない。しかし日本では塾をテーマにした研究はほとんど存在しない。その事実にジュリアンは驚いていた。「研究上の宝の山が手つかずで放置されている。おかげで私が先駆者の栄誉を得た」と笑う。日本では塾は「見えない存在」であり、敵役としてのみ現れるのだ。

私の塾では大学のゼミのように、少人数による自由討論で授業が進む。「こうした授業は初めて見た。他はどこも、ほとんどが画一的授業形式で、学校と何が違うのかわからなかった」とジュリアンは言う。「塾では市場原理が働くはずなのに、多様性が生まれないのはなぜか」。

これらの指摘は、日本の教育、日本社会の急所を突いている。それは社会や価値観の同質性だ。多くの塾は第二の学校でしかなく、通塾とは2回学校に行くだけのことなのだ。そして、この同質性(平等性)を守るために大きな分断が生まれた。建て前と本音、平等主義と能力主義の分裂である。後者は塾や予備校が担当し、学校内では私学が引き受けている。

最近では、学校と塾の連携として、塾教師が学校に入ったり、予備校の受験情報やテクニックが学校に導入されている。話題になった東京杉並区立和田中学校(藤原和博氏が当時の校長)の「夜スペシャル」も同じだ。しかし、こうした試みは表面的な彌縫策でしかない。社会の同質性、それゆえの教育の分断。この本質的な問題を直視しない限り、何も始まらないだろう。

4月 20

 日本教育新聞の連載コラムの3回目が、4月20日に掲載されました。
 「高大接続テスト(仮称)」について書きました。

 日本的な平等観と能力主義の再検討を

高大接続のための新たなテストが検討されている。すでに昨年11月から関係者が集まって協議を始めた。参加メンバーは国立大学協会や私立大学の諸団体、全国高等学校長協会、大学入試センター関係者ら22人の委員。文部科学省も支援している。

このテストの目的は高校生、大学生の学力低下への歯止めである。すでに10年近く前から大学生の学力低下が叫ばれ、高校生の「学力の底が抜け」てしまったと言われてきた。

高校では何十年も前から全入であり、高校生の基礎学力の低下が進行していた。少子化で大学全入時代を迎え、大学入試の簡易化が学力低下を一層助長している。その責任をめぐり、高校側と大学側とは、互いを非難し合ってきた。高校内部、大学内部でも私学と公立・国立などの対立がある。文科省内の小等中等教育局と高等教育局との縦割りの問題も大きい。

今回の新テスト導入でも、高校側からは「推薦入試やAO入試の定員を拡大しておいて、高校卒業時の学力に問題があるとは笑止」「卒業認定は校長の権限だ、別に基準はいらん!」。地方では「われわれの高校はどこもきちんとやっているし、統一テストで高校生を脅さないと学習意欲が喚起できない関東都市圏の公立高校とは違う」などと強い反発がある。そもそも大学入試やセンター試験に問題があるのだから、その改善から始めるべきだ。

しかし、今回すべての利害関係者が同じテーブルについたことは大きい。相互の疑問を率直に話し合って欲しいと思う。ただし注文がある。これまでは常に現状に追われ、その追認とその表面的な対応に終始してきた。そして本質論や根本理念の議論はほとんど行われなかった。本質論とは、戦後の日本的な平等観(いわゆる「悪平等」)と能力主義の在り方の問題である(詳しくは拙著『大学入試の戦後史』を参照されたい)。今度こそ、そうした議論を率直に行って欲しいと思う。当事者だからこそそれができるし、有効だと思うからだ。

4月 16

日本教育新聞の連載コラムの2回目が、4月13日に掲載されました。

 学校の「個性」とは何か、というタイトルで、大阪府教育委員会が中堅府立高校二一校と協働で行ったプロジェクトを取り上げました。

学校の「個性」とは何か

 教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をもたらしている。本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。

 「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その中堅校の「特色作り」に取り組んで大きな成果をあげたのが、大阪府教育委員会が中堅府立高校二一校と協働で行ったプロジェクトだ。二〇〇五年から開始し、大阪教育大学(大脇康弘教授たち)も参画している。四年目の〇八年度には事例校を5校(刀根山、久米田、市岡、吹田東、布施高校)に絞り、校長とミドルリーダーの役割、学校革新の分析などを進めてきた。今年二月にはその報告と討議が行われ、私も参加した。

 ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。それを行政、現場と研究者の三者が協力して実現しようとしている点がすばらしい。

 私が一番感動したのは、学校教育の目的を「すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすること」と、参加校の皆さんが口をそろえて発言していたことだ。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合う。

 商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。