2月 17

◇◆ 14 ヘンデルのメサイア ◆◇ 

ヘンデルのメサイアに親しむことになった。自宅の近くに女子大があり、そこで毎年12月になるとメサイアを上演しており、そこで聞くことが重なっている。毎回感動する。素晴らしいと思う。ある箇所では毎回泣いてしまう。しかし、今回言いたいのは音楽のすばらしさについてではない。
 初めて聞いた時に、テキスト(歌詞)をざっとながめて驚いた。そのことを話したい。なぜ驚いたか。イエス・キリスト〔イエスはキリスト(メシア=救世主)である〕を讃える楽曲であるから、バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲のように、新約聖書からの引用で埋められていることを想像していたのだが全く違ったからだ。
 テキストの多くが新約聖書ではなく旧約聖書からの引用で埋められていた。特にイザヤ書であり、それはユダヤ民族のバビロン捕囚の奴隷状態からの救いをメシアの出現に求める内容であった。それを説明する本がいくつか刊行されている。
家田足穂著『メサイア テキストと音楽の研究』を読むと、教父アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えがキリスト教の基本にあるようだ。この考えは、旧約時代の古い契約としての予言はメシアの新しい契約によって成就され、予言が成就されることで旧約聖書と新約聖書が一致するという思想になった。
これがメサイアの歌詞台本のもとになっている。ここから旧約聖書の予言書や詩編の言葉を用いて「メシアの救いのわざ」やその「救いの完成」がうたわれるのだ。
これを読んで、アウグスティヌスの構想の壮大さにうたれる。これは発展という考え方の見事な例示である。すごいものだ。

さて、以下は、あくまでも私の想像であり、妄想である。しかし、妄想にも真実、真理の一片があると、私は考えている。
随分前になるが、中井ゼミの読書会で旧約聖書と新約聖書を読んだ。そこでイザヤ書の役割の大きさも理解していた。私は旧約聖書からは創世記やモーゼの物語は知っていたが、その後のユダ王国の崩壊と、バビロン捕囚による奴隷状態、そこからの再度の解放を求めたこと、それがイザヤ書の内容となっていたことなどは知らなかった。
そしてその学習の中でエジプトから奴隷状態のユダヤ人を解放したモーゼと、「バビロン捕囚」においてその奴隷状態からの解放を説いたイザヤが、ともにユダヤの民衆たちの怒りや恨みによって殺されたという説があることを知った。モーゼの墓はどこにも残されていない。解放を説くモーゼはユダヤ民族に自らの神への絶対的信仰を求め、神との契約、立法を打ち立て、その厳守を求めた。奴隷状態からの解放の過程でも辛酸をなめた民衆からは、奴隷のままの方が良かったと言う声も上がっただろう。イザヤも同じであろう。
2人は殺されたという説が正しいかどうかは別にして、そこには民衆とリーダーの関係の問題がよく現れていると思った。
受難はイエスだけではなく、何度も繰り返されてきたということになる。そして受難とは外の敵からではなく、むしろユダヤ民族という内なる敵、民衆の中に受難を生む要因はあった。イエスを裏切るユダはその象徴ではないだろうか。私は、古代ギリシャにおいてソクラテスが民衆によって死罪になった裁判も思い出す。
 そうした悲劇の中からイエス・キリストが出現している。メシアの出現の背景にはそうした人間の闇、弱さ、悪がある。だからこそ、メサイアは美しく、圧倒的な感動を私に与える。
アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えは、こうした問題のただ中から理解されるべきだと私は考える。

2023年1月20日

2月 16

◇◆ 13 身体の声に耳傾ける方法 ◆◇

人間の心や精神は、身体の状態に大きく左右されます。また、心や精神の状態は、そのまま身体に、大きく深く、影響します。
 ですから、常に身体を整えておき、精神の能力が十分に発揮できるようにしておくことが重要です。またそのためには、常日頃からその時々の自分の身体の状態を良く知っていることが必要で、そのためには、身体との毎日の対話が必要です。それがそのまま心や精神との対話になるのですから。

身体と対話するには、まずは、基本中の基本から始めるのがよいでしょう。
 人間は生きるためには、食べて、出して、寝ることが必要です。ですから、身体との対話は、まずはこの3つの状態を毎日観察すればよいのです。
 食べて、出しては、他の動物とまったく同じ物質代謝であり、これが基本中の基本です。
食べることがどうなっているか。食欲はどうか、食べることの喜びや、視覚、嗅覚、味覚の機能はどうだろうか。
次に出すこと(大便と小便)がどうなっているか。快便か否か、便秘や下痢などをしていないか。その色合いや形状、匂いはどうか。これはかなりたくさんの情報を含みますから、それらの観察と分析によっていろいろなことがわかります。自分自身の疲れや心の状態、仕事などでのストレスなどが見えてきます。
 さて、もう1つの寝るですが、これは自分の身体と心のリセットの機能です。動物は〔人間も動物です〕毎日、眠ることで死んで生き返る。それをきちんと繰り返すことで生き続けられるのです。
 寝ているときには、自分の中の無意識が働き、身体と心を回復させるように働きます。自分の潜在力を働かせ、疲れやゆがみ、こわばりをときほぐしてくれます。それがうまくいかないと、回復ができなくなり、本来の力が発揮できなくなります。ですから、眠りの状態の観察が重要です。
 寝つきはどうか。寝起きはどうか。よく眠れるか。眠りは浅いか深いか。いびきの状態はどうか。夢は見るか、どんな夢か。夢は一言でいれば、無意識からのメッセージです。
この食う、出す、寝るの3つについて、毎日観察しましょう。それで身体との対話の基本の基本は十分でしょう。

 この3つ以外でもう1つ挙げておけば、それは呼吸です。生きるための絶対条件である物質代謝には、食べて出しての他にもう1つ呼吸があるのです。
大切な状況にあっては、その時の自分の呼吸を意識し、その息の深さや浅さ、息の長さを観察すると、自分の状況がわかります。息を深くすることで落ち着くことができます。その呼吸の自覚の方法が「呼吸法」とか瞑想とかヨガとかに発展していきますが、これは先の話になります。

以上は身体の日常的な運動でしたが、身体には非日常的に起こる大きな変化があります。病気です。これについても言いたいことはたくさんあるのですが、野口晴哉の『風邪の効用』 (ちくま文庫) を紹介しておくに、今はとどめます。
病気を悪いものとしてとらえ、治して病気の前の状態に戻すことを目標にしているようでは話になりません。病気こそ身体からの最大のメッセージです。

これで大切なことは終わりです。身体の声に耳傾けるには、まずは以上をやってみることです。

2023年1月15日

2月 15

◇◆ 12 改めて、「公開の原則」 ◆◇ 

すべては公開されるのが原則である。ところが世間では全く逆に理解されているのではないか。プライバシーは晒されてはならない。プライバシーの保護は絶対である。公開はある限定された条件下でのみ行われる。公開されることが例外なのである、と。
こうしたことを考える際によく例にされるのは、裁判所の審理ではすべてが明らかにされることである。そこでは隠すこと、隠されることは何一つ許されない。
例えば離婚をめぐる家庭裁判所の裁判では、結婚生活と離婚の原因に関する限り、個人の私的なことの全てがそこで明らかにされていく。 DV も不倫も性的不能も、犯罪歴や依存症、嗜好性も、何から何までである。そこには当然ながら嘘も張ったりもある。家庭裁判所の調停が効力を持つのは、夫婦間の秘密のすべてが世間にさらされることを避けたい、という思いがあるからである。
このように家庭裁判所の審理ではすべてが明らかにされるのだが、これを例外と考えるか、これこそが本来のあり方だとして考えるかで、対極の考えが生まれる。普通は、これを特別とし、一般にはプライバシーは保護されると理解されている。それがこの特殊な場面においてのみ、それが公開されると理解する。しかし実際は逆なのである。

この裁判でのように、すべてが明らかにされることこそが、基本的で一般的なあり方なのである。個人情報も、その人の死後は公開される。私信、恋文やラブレターまでが公開される。作家や政治家などの伝記、評伝、研究書などを思ってみればわかるだろう。あ
政治上の秘密文書も機密文書も、秘密にできる期限は限られる。役所や会社での「マル秘」「内部機密」「厳禁」も同じである。どれだけそれを厳しく管理しようとも、それはすべて期限付きであり、期限が過ぎれば全てがオープンにされ批判され判断にさらされるのである。またそうでなければならない。
また、その内容が憲法や法律に違反する場合には、その内容を内部告発して外部に明らかにすることこそが正しいのではないか。
 個人のプライバシー保護も同じである。それは絶対的なものではなくあくまでも限定されたものでしかない。
つまり、公開こそが原則なのである。それがある一定の条件下では、ある一定の期間に限っては、秘密にすることが許されるだけなのである。

この、公開こそが一般的原則であるとわきまえていることは、私たちが表現者であり、批判者であるうえで、決定的に重要である。そこでは対象と闘うのであり、どんな闘いも、それがどんなに普遍的な人類の基本問題だったとしても、それ自体はどこまでも、個別・具体的なものであり、それとは固有名詞の具体的な世界で戦うのである。批判者、告発者の実名を公表するかどうかも問われる。その対立は最終的には裁判になるのであり、そこでは文字通りすべてがオープンになる。
公開が原則なのだから、それがその時点でどれだけ制限されるか、その幅が問題になるだけなのだ。それは、その時点での諸条件の中で判断していくしかないのだが、制限は一時的なものであり、最終的にはすべてが個別具体的に明らかにされるのだ、ということを意識していなければならない。その時には、すべてを固有名詞で明らかにできるようになっていなければならないのだ。そうした取材と批判がそこでは求められるということだ。
このことは、そうした特殊な職業や仕事にのみ関わることではない。人間が社会の中で生きていく上で、決定的に重要なのである。それによってその人の物の見方、判断、自分の行動原理が180度変わってしまうからである。
 私たちの言動のすべては、隠すことはできず、ごまかすこともできず、いつかはすべてが白日の下に暴かれることになる。自分の言動のすべてに対し、自分の人生に対して責任を取る覚悟を持って、生きるしかないのである。それを意識し、その覚悟をもって生きることが、私たちがよりよく生きるために必要なのではないか。
それは神の前に一人立つことと同じなのである。
                         2022年8月8日

2月 14

◇◆ 11 「カタログ」文化 ◆◇

反文化の運動からは、たくさんの試みが生まれた。「カタログ」文化もその1つだ。例えば『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)は全世界の若者たちに支持された。
これは、若者が自分たちの生活、共同体、社会や精神世界を新たに作り、生き直すためのカタログであり、そこには全世界の知的遺産から、有効なものだけが選択され、新たに意味づけられ、並べられる。
東洋も西洋も、仏教もイスラム教もキリスト教もゾロアスター教も、禅や瞑想も心理学も精神分析学も文化人類学もマルクス主義もアナーキズムも、チェ・ゲバラも毛沢東も、体操も太極拳もベジタリアンも玄米食も、マリファナによる意識の拡大も、全てが横並びである。
思想も身体性の問題も男女の性関係も、様々な技術も、全てが対等で横並びである。
従来の伝統的学問の体系を無視し、自分たちに利用できるものなら、何でも自由に使う。もともとの意味付けを無視し、自分たちに生かせればよい。自分たちにとって有効か否かだけが問われる。
ゲーリー・スナイダーの「四易」Four Changesの全文がそこに掲載されていて、私は納得した。「四易」は「人口」「汚染」「消費」「人間の社会と個人」の変革の提言であり、生態学、文化人類学と仏教の教えを背景とし、生物学的かつ文化的多様性を荒廃させている権力機構と資源利用の格差を告発する。『全地球カタログ』とは、その「四易」をカタログの一つとして出している雑誌だったのである。
私が大好きだった ヘルマン・ヘッセが「反文化」の先駆者として、アメリカで一大ブームが生まれていたことにも驚いた。「荒野の狼」(ヘッセの問題作のタイトル)というロックバンドも生まれていた。ヘッセなどを取り上げた『アウトサイダー』という本が売れた。前後の文脈とは関係なく、「反文化」という視点から何でも引っ張ってくるのが反文化の反文化たるところなのである。
これにはアメリカのプラグマティズムの影響も強くあるだろう。「文化としての英語」ではなく、「道具としての英語」であり、現実に有効かどうかが問題であり、使えるものなら何でも使う。
こうしたあり方は、現在のネット文化の中での知識や技術の扱われ方の先駆けだったのだ、と今思う。これは「学問」や「教養」といった権威や階層性、その意識のこわばりを徹底的に解体しようとするもので、そこに覚悟と清々しさがあるのだが、人類の歴史、技術史、科学史、哲学史を踏まえた全体性や体系性を持たないという決定的な弱さをも持っている。
                         2022年8月4日  23年1月追補

2月 13

中井の短い文章を8つ、毎日掲載します。

すでに発表した文章群に続くもので、通し番号をつけておきます。

1つ1つが、みなさんへの問題提起のつもりです。みなさんの刺激になることを願っています。

本日から、毎日以下を掲載します。

10 「反文化(カウンター・カルチャー)」運動の3人  
11 「カタログ」文化
12 改めて、「公開の原則」
13 身体の声に耳傾ける方法
14 ヘンデルのメサイア
15 ジョブズと『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)
16 「iPS細胞」の姑息
17 再生医療の矛盾と倫理

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◇◆ 10 「反文化(カウンター:カルチャー)」運動の3人 ◆◇

 中井ゼミのメンバーに、うた、詩、音楽、舞踊・舞踏に、またその根源は何かに、強い関心を持っている人がいる。私もかつて20代には、そうしたことに強い関心を持っていた。

1960年代から70年代にかけて、全世界に「反文化」の運動が展開された。人間の自然破壊を問題にし、資本主義、帝国主義への批判を根底に持ち、そうした諸問題への批判が、西洋文明そのもの、西洋の近代思想全般への批判に拡大した。そしてその解決のためには、すべての根源に迫り、根源を考え、根源から変えていこうとする運動になった。
それはマルクスの思想に大きな影響を受けている。疎外と根源性という観点である。マルクスの資本主義への批判の根拠は、それが人間を疎外するというものであった。その疎外の現実のあり方の研究から、剰余価値や搾取の構造を明らかにし、プロレタリアートがブルジョアジーの国家を打ち倒すことで疎外を解決しようとするものだった。
つまり問題は疎外であり、その解決のためには、すべての根源にさかのぼればよいことになった。
この疎外論は、始まりに原初の統一があり、そこからの疎外に問題があるから、始まりの始原、根源に戻れば良いとするものだったのだ。(本当はこれはフォイエルバッハの立場であり、マルクスは最初の始原に対立矛盾を考えようとする。この2人の根底にはヘーゲルの本来の発展観がある。)
社会、経済、政治への批判は、日々の生活やそこでの意識の改革、男女の性関係や性意識の改革まで拡大され、人間の体や心のこわばりの問題としてもとらえ直され、人間の無意識、そこでの欲求や衝動の抑圧の問題としてもとらえ直された。
こうした西洋文明への批判は、東洋への関心ともなり、西洋と東洋を総合しようとする志向ともなった。
この「反文化」の運動は、第2次大戦後のアメリカとヨーロッパの若者たちから生まれたもので、全世界に広がった。アメリカでは「ビート」がその中心で、そのビート運動の中心は詩人たちであった。アメリカには変革運動は詩人から生まれる伝統がある。その詩の内容は、社会と文明を批判するものだが、それは詩の形式をも生まれ変わらせようとする。詩は目で読むものではなく、朗読するもの。人間の呼吸、息、心臓、といったからだの運動やリズムにひきつけて詩をとらえ直す。
それは、人と人との直接的なコミュニケーションを生み出す媒体であり、そこには人間の共同性、共同体が現れる。
ビート運動の中心には2人の詩人がいた。アレン・ギンズバーグとゲーリー・スナイダーである。
ゲーリー・スナイダーは、東洋への関心が強く、若き日に日本の大徳寺で禅の修業をした。日本の若者たちと「部族」をたちあげ、共同体運動や環境保護活動を展開した。ここに日本のヒッピーたちの始まりがある。
こうしたアメリカの思想運動に総合的な奥行きを与えたのが、オルダス・ハクスリーである。彼はもともとはイギリス人であり、著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員。D・H・ロレンスの弟子であり小説家である。『すばらしい新世界』が有名だ。後にアメリカに移住して「反文化」運動と接点を持ち、大きな影響を与えた。
ハクスリーは子どものころから身体性の問題に強い関心を持ち、意識の拡張にも関心をもっており、神秘主義に親しみ、鈴木大拙とも親交があった。全世界の文化的な遺産を総合的にとらえなおし、東洋と西洋を1つにすることに主眼があった。マリファナ(大麻)が人間の精神活動において有効であることを発見した先駆けの一人。こうした立場の表現としては最晩年の小説『島』がある。

さて、この「反文化」の運動に、私自身は20代において出会い、大きな影響を受けた。しかし、その限界を意識し、その克服のために、ヘーゲルとマルクスを学ぶために牧野紀之のもとで修行することになった。それが私の30代だった。今、その限界とは「疎外」「根源」の理解の不十分さ、つまりそこには発展についての深い理解がなかった、と考えている。
そのヘーゲルとマルクスについての私見を本としてまとめた今、この「反文化」の運動についても、今後、総括していきたい。今回はそのための「導入部」である。

                             2022年8月4日