1月 19

『学校マネジメント』(明治図書)2月号に寄稿した。
2月号では特集「政権交代で、教育政策は何が変わるか」が掲載されている。
私は「教育委員会制度」について執筆した。
タイトルは「国民的な大議論を」で、以下である。

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政権交代の時代
 政権交代が実現した。民主党を中心とする連立政権は、官僚に依存しない政治主導を掲げ、マニフェスト(政権公約)の実現に全力であたっている。来年度から高校の授業料を無償化し、教員免許更新制を来年度限りで廃止する予定だ。また、教育委員会制度や学校運営のあり方も検討対象に挙がっている。もちろん、教育行政の改革は最後に回るので、この政権が最初の二年を持ちこたえられなければ実現することはないだろう。今の民主党政権もいつ倒れるかは不明だ。元に戻ることを願い、様子見に徹している人も多い。しかし、自民党政権時代に戻ることはない。これからは、政権交代が前提で、すべてが動いていくことになるのだ。こうした大きな転換期には、従来のあり方に囚われず、問題を直視し、本質的に議論して克服する方向をさぐるべきだろう。

マニフェストの問題
 これまでの日本社会は、基本的には上下下達の一律で単一な「ムラ」社会だった。それが有効に機能して高度経済成長が可能だった。確かに東西冷戦下では、その言論は二分されたが、それぞれの陣営内部では、画一化のタコツボ化は進んでいた。では、冷戦体制が崩壊後、マスコミや思想界、私たちの社会は多様な豊かさを持つに到っただろうか。否、むしろ、マスコミや世間の動向は、いつも一色に染め上げられるようになっている。小泉政権への対応もそうだった。今の民主党政権に対しても、同様だ。

 総選挙での報道では、マニフェストのあり方を根本から問題にするような意見はほとんど見られなかった。その意義は、それまでの一般的抽象的で無内容な標語を排し、現実の具体的な政策を、具体的なスケジュールと共に語るようになり、その達成度がチェックできるようになったことだ。しかし、それゆえの大きな課題もあるのだ。それは、根本理念が見えにくく、本来「手段」でしかないものが「目的」化しやすいことだ。「戦術論」ばかりになり、「本質論」が軽視されやすいことだ。今回の場合は「高校の授業料無償化」がそうで、一般的に格差是正の目的からこうした政策が出てくるのはわかるが、「高校教育」には日本の教育全体の矛盾が集約されていることへの洞察がない。教育行政全般の改革でもそうだ。

教育行政の改革
 民主党のマニフェストでは、地方分権の考え方のもと、特に文科省→教育委員会→学校という上意下達の仕組みを改め、それぞれの自律性を拡大しようとするねらいがある。「中央教育委員会」をつくって文科省を廃止する。教育委員会の教育行政機能は首長部局に移し、「教育行政全体を厳格に監視する『教育監査委員会』を設置する」。さらに「公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営することにより、保護者と学枚と地域の信頼開係を深める」。「教育監査委員会」は、教育が首長や政治からの距離を取れるようにとの意図から構想されている。

 私は、改革の大きな方向性はこれで正しいし、現状の課題に対応した物だと評価する。しかし、これは大きな方向でしかなく、細部を詰めていく中で、沢山の複雑な問題が浮き彫りにされるだろう。例えば、歴史教科書の採択などで首長がどこまで関わることが正しいのか。

 実は、地域の教育委員会や学校が自律できないでいるのは、制度の問題ではない。例えば、全国学力テストは強制ではないのに、参加しないのが犬山市だけなのはなぜか。犬山市のように自主的なカリキュラムや自主教材を作成している市町村が少ないのはなぜか。実は、こうした地域の教委の改革を阻害しているのは、文科省ではなく県レベルの教育委員会であることが多い。

 こうした問題は、やはり歴史を遡らないと見えてこない。戦後の「第二の教育改革」では、そもそも文科省を廃止し、それぞれの地域に自律した教育委員会と学校を作ろうとした。また、政治から距離を置けるように、公選制の教育委員による合議的な委員会を想定したのだ。この上下関係からの自律性、政治からの独立性は、今こそ実現しなければならない目標だろう。

 それがつぶされたのは、東西冷戦下での、国内の保守と革新の政治対立だった。それゆえに、上意下達のシステムが強化され、各教育委員会と学校の自律性は失われた。地域の教育委員会や学校は上ばかりを見るようになり、県の教育委員会は「平等」の名の下に、県下の教委を一律に統制することを目標にしている。

国民的な大議論を
 それは教育委員会や学校だけの問題ではない。最大の課題は、国民一人一人の意識の問題だ。「お上だのみ」の体質であり、権利に対応する責任を引き受けないあり方だ。文科省の権限を縮小することを求める一方で、「いじめ自殺」などが起こると、マスコミやそれに煽られた世論は一斉に文科省を攻撃する。しかし、その責任は、第一に関係する児童とその保護者に、第二にその学校に、第三に地域の教育委員会にあるのではないのか。

 文科省に依存し、上から一律の指導を求めているのは、マスコミや国民自身ではないか。そうしたあり方を根本から変えなければならないだろう。今後は、改革も一律ではなく、各自治体や各学校が、それぞれの多様な制度で創意工夫することを認めていけないだろうか。「教育監査委員会」や「学校理事会」も、手を挙げたところで、まずやってみるような方式は取れないだろうか。

 いずれにしても、事は、半世紀に一度の大改革である。国民一人一人の意識の変化を促す必要がある。一九八〇年代に、中曽根政権が行った臨時教育審議会(臨教審)は、国民的な大論争を呼び起こした。それに匹敵するほどの国民的な議論が起こらなければならないだろう。来年度から、そうした場を設置して、国民的な議論を喚起していくような仕掛けが必要ではないか。

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