3月 17

半年の予定で、月刊『高校教育』誌に「高校での『言語活動』の充実のために」という連載を始めました。新しい学習指導要領の問題提起を受け止めようというものです。
4月号では以下を書きました。

第一回 「国語科」とは何か  (軽視されてきた「形式」)
                         鶏鳴学園 中井浩一

1 新学習指導要領が私たちに問いかける問題

新たな学習指導要領には画期的な点がある。1.全教科での言語活動を求め、2.その中心に国語科を位置付け、3.高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視したことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回「総合学習」が入った以上のものになるはずだ。なぜなら、この本当の意味は(1)全教科に「総合学習」を行うことを求め、(2)従来の教科の壁を壊し横の連携を求め、(3)「国語科」とは何かを初めて真っ正面から問題にしたからだ。

新学習指導要領のこの大きな変化は、もちろん現在の教育課題の大きさ、深刻さ、緊迫度に対応するものだろう。しかし、前回の「総合学習」の導入時と同じことが懸念されるのも事実である。つまり、条件面(人、物、金)の不十分さである。学校内の体制、教育委員会の支援体制が弱いのではないか。何よりも、学校現場の先生方の意識と能力に大きな疑問符がつく。矛盾はさらに大きくなるかも知れない。

しかし、現状を何とか変えて、より良い教育を実行しようとしている管理職や一般の先生方には、大きなチャンスであり、追い風であることは間違いない。これから半年間の本連載では、そうした方々を支援するために、具体的な課題のいくつかを明らかにし、その解決の方向を示したいと思う。「総合学習」が導入された時にも、本誌に「総合学習の現状と課題」を連載させていただいたが、それと同趣旨のものだ。

2 今の高校生の課題は何か。

校長先生以下、管理職の方々にとって、学習指導要領が変わるときこそ、学校現場を変えていく大きなチャンスだと思う。今回は、教科の厚い壁を壊し、全教科の横の連携をうながし、学校全体でその教育目標に取り組むことを求めている。

 だからこそ、それぞれの学校の教育課題、教育目標を再度確認する必要があるし、そこから始めるべきだろう。それぞれの学校の課題は、読者のみなさんに考えていただくとして、私は少し一般的な話をしたい。

今の高校生に広く見られる問題とは、将来像がなく、親からの自立が進んでいないことだろう。それゆえに彼らは「自分」に自信がなく、他人に評価されないと不安でたまらなくなるようだ。その依存心、依頼心はますます強まっている。

 こうした原因としては、1.「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っていること。2.体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化。3.自己決定=自己責任が求められる厳しい社会になったが、それに相応しい教育が行われていないこと、などが挙げられよう。

 そこで、根本的な対策が問われるのだが、まず教育目標としては「自分作り」を高く掲げなければなるまい。今の高校生は「自分」が弱い、または「自分」がないのだから、それを作り上げるしかないのだ。世間では「自分探し」なる言葉がはやっているが、「探し」て見つかるようなレベルのものではあるまい。「自分」とは、高校生一人一人の問題関心、「問い」、テーマのことである。それを獲得するには厳しく長い学習の過程が必要だろう。

 では、そのためにはどうしたらよいのか。1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること。しかし、1だけでは不十分だ。2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること。3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること。

 以前は?だけでも自分のテーマを見いだすことができたが、現在はそれは難しい。だから現実や社会の現場に連れ出し、そこで現実と格闘している人々と「出会う」経験をさせることが必須になっている。

 こうした背景を考えるとき、今回の学習指導要領の有効性、その「追い風」の意味が明確になるだろう。私もまたこの連載で、「自分づくり」の方策を具体的に明らかにしていきたい。

3 「国語科」とは何か
 
私自身は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。そして世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた。そうした私には、今回の学習指導要領は深く頷けるものがある。

私の国語科への疑問とは、それが事実上「文学」教育、「道徳」的な教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないかということだ。内容を教えようとしていて、形式(「型」の重視)の指導が弱すぎるのではないか。「答え」が重視され、「問い」を立てることが軽視されていないか。感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)を学習させられ、論理=思考(集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深める)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係づけられていないのではないか。

以上国語科の問題として述べたが、実はこうした問題は他教科でも同じであり、そうした矛盾が国語科の特殊性故に、国語科に集中する面があるのだろうと思う。

今回の学習指導要領で、そこに初めてメスが入ることになる。良いことだ。全教科の言語活動を国語科が指導する。そんな力は、今の国語科にはないだろう。その現状を、まずはしっかりと見つめ、学校全体で言語活動への取り組み方を考えていかなければなるまい。

それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。私は学習の事柄をその内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」中心、つまり「知識」の獲得に重点がおかれ、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科ととらえるのが正しいと思う。「内容」中心ということは、つまり「知識」の獲得に重点がおかれることだ。国語科だけが「形式」を学ぶ教科だということは、国語科は「思考・論理のトレーニング」「型の学習」をする場であり、「知識」の「運用能力」を獲得する場だということだ。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理のトレーニング=能力 → 国語科

 しかし、世間では「形式」は極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、外的で装飾的なものでしかない。そうした理解が一般的だ。(だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。)

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式(「型」)こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えばテキスト理解だが、その内容(イイタイコト)は、形式を読むことで、初めて的確に深く理解することができる。逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ(詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照されたし)。

どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。内容主義は「答え」を教え込むことになりやすく、「問い」を出す力を育てる形式の学習が弱いからだ。これは国語科だけの問題ではない。実は、どの教科の中でも、内容の面と形式の面があり、いずれも内容に大きく偏っていると言える。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科内部の形式面の重視につながるだろう。

実は、この形式軽視の問題は、もっと基本の部分にまで広げて考えなければならないだろう。生徒の生活習慣、学習習慣、挨拶や礼儀、ルールや規律などだ。それがここまで崩れてしまったのはなぜなのか。もちろん、一部にはこうした形式を重視し、その指導に勤める方々がいる。しかし、その指導もまた「内容主義」的に、上からの押しつけ的になっていないだろうか。まことに、病は重いのである。

4 理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係するのか

話をもどそう。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。例えば、理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるのだろうか。例えば、事実や客観性重視が理科や社会科、「思い」や生徒の主体性重視が国語科だ、という見解がある。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
ディベートについてはどうだろうか。社会科や英語で取り組まれているようだが、国語科の関わりはどうか。理系や英語などではレポートなどの指導でパラグラフ・ライティング(パラグラフ理論)を取り入れるところが多いようだが、国語科では無関心なようだ。こうしたことはどう考えたらよいのだろうか。

次号からは、こうした点を取り上げて、論点を整理し、具体的な解決策を提言していきたい。実は、私は一〇年以上にわたって高校段階の表現指導の研究会を組織してきた。そこでは国語科だけではなく、理科、社会、数学、英語、家庭科などの先生方とともに、研鑽を重ねた。その成果もお伝えできればと思う。

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