4月 13

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

5月号の第二回 『理科系の作文技術』

1 隠れたベストセラー
理系のレポート、論文と言えば、物理学者だった木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)が有名だ。大学研究者の隠れたベストセラーだと言われ、三〇年近く前の本だが、今もよく売れているようだ。二〇〇九年五月刊行の版で、すでに六六版を数えている。作文技術だけではなく、パラグラフ理論(段落の構成法)を日本に紹介したのも本書の大きな功績だ。
それだけではない。木下氏は学習院大学の学長の時に、学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・文系だけではなく教科横断)と「言語技術の会」を組織し、小学校から大学までの一貫した言語教育の体系と教科書を作り、日本の教育に対して大きな問題提起をした。これは今回の学習指導要領の完全な先取りだったのではないか。
「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
私は、木下氏の問題意識に強く共感するし、偉大な先駆者としての彼の活動を高く評価している。また言語技術研究会の成果からは多くを学ぶべきだと考えている。それについては、この連載でも稿を改めて、検討したい。

2 「主観的な感想」を排除する
それにしても、こうした活動は、木下氏が理科系の方だったからこそできたのだと思う。文系、特に国語教育関係者には到底無理だったろう。
『理科系の作文技術』が、圧倒的に支持されたのはなぜだったろう。もちろん、シンプルで誰にでもわかる方法を提示したからだが、それだけではないだろう。理系に限定することで、「心を打つ」ことを目的とする文学的な「美文」の伝統を切り捨て、それまでの文学偏重の風潮に風穴をあけたのではないか。それが爽快感を与えたのではないか。
木下氏は言う。「理科系の仕事の文書」とは「事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまない」。その中には、「原則として『感想』を混入させてはいけない」のだ。
そこで、木下氏は「いい文章」というときに人がまっさきに期待する、「人の心を打つ」「琴線に触れる」「心を高揚させる」「うっとりとさせる」というような性格をいっさい無視する、と宣言する。
以上を前提にすれば、レポートの書き方は以下のような実にシンプルなものになる。1.事実と意見で書くべき内容の精選、2.事実と意見の峻別、3.それらを順序よく明快・簡潔に記述する。3.のためにはイイタイことを「目標規定文」でまとめ、その目標に収束するように全体の構成を練る。ここでパラグラフ理論を使用する。
レポートの構成は序論、本論、結びの組立で、序論では、主題(テーマ)、なぜその主題を取り上げたか、その問題がなぜ重要なのか、問題の背景、問題への取り組みの方法などを書く。
その文体は、事実を書く「記述文」「説明文」、意見を書く「論理を展開する文章」だけで良いことになる。
しかし、これは理科系に限定されるものではない。木下氏は文系の大学生向けの『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)で同じ事を主張し、「レポートに書くべきものは、事実と、根拠を示した意見だけであって、主観的な感想を排除しなければならない」とし、「この点に、レポートといわゆる作文との大きなちがいがある」としている。
この木下氏の見解は、理系、文系を問わず、多くの大学の先生方のものである。また、多くの高校の先生方の考えでもある。高校生のレポート指導などに熱心に取り組まれている理科や社会科の先生方も、こうした前提で指導されているようだ。そして、そこから排除された「主観的な感想」部分を引き受けるのが国語科の役割になっているのだ。

3 「主観的感想」をどう取り扱うべきか
さて、ここまで来れば、読者のみなさんも、何かおかしいと思われるのではないか。そもそも木下氏は国語科が文学教育になっていることを批判し、論理教育をすべきだとして活動を始めたのではなかったか。それが、結局は、国語の文学化を強めてしまっては本末転倒だろう。
論理教育の一貫性という立場からは、排除された「主観的な感想」をどう考えるべきだろうか。それは論理の範疇ではなく、「文学」に任せる領域になるのだろうか。私は、主観的な思いや感情にも論理が貫徹されていると考えている。それらに取り組み、解決できるような論理でなければ、使い物にならないのではないか。
理系の研究者が、「仕事の文書」から「主観的な感想を排除しなければならない」としても、彼もまた研究中に、激しい心の動揺や高揚感、不安や恐怖などに襲われるのは事実だろう。そして、それが研究に大きな役割を果たしていることも疑えない。したがって、研究者もこの問題を直視すべきではないか。木下氏も、この問題を取り上げた上で、公的文書からは「主観的な感想」を排除すべしと、言ってほしかった。
ただし、誤解のないように断っておきたい。私は木下氏のレポート指導法を否定しているのではない。それは文章を書く上での基本中の基本をわかりやすくまとめたすぐれた原則であり、すべての若者に教育すべきトレーニングだ。
私はそれを肯定し、それを強烈に推進することに賛同した上で、さらにそれを発展させるための提言をしたいのだ。
木下氏の不十分さとは、排除した「主観的感想」の取り扱いについては触れず、それを文学(国語教育)関係者にゆだねてしまったことだ。しかし、事実(客観的側面)と意見(主観的側面)の区別をするためには、主観的側面における「意見」と「主観的感想」の違いと関係について、改めて問わねばならなかったはずだ。
もちろんそれを彼の責任にするのは酷なことだ。彼が依拠した欧米流の文章指導でもそれは無視されていたのだろう。本来それを仕事とするべき国語教育関係者こそが、この問題に取り組むべきだった。
さて、この問題を考えよう。主観的側面、つまり人間の意識にはさまざまなレベルがある。木下氏は、その内で明確に言語化できた主張だけを「意見」とし、他をすべて「主観的感想」とくくってしまった。しかし、その中には心情的なレベルはもちろん、言語化できないもやもやしたレベルの意見もあるのではないか。
発生的に考えれば、人間の意識の最初の段階に心情と意見の分離はない。それらが混然一体の状態があるだけだ。そして、心情が言語化されていく過程で、意見もまた言語化されていき、両者の分離も自覚されていくのではないか。したがって、両者は切り離せない。まず、混沌とした経験を描写する文章があり、その中から意見文が立ち現われてくるのであり、意見文の前に、またそれと並行して、経験や混沌とした感情や想いを丁寧に描写する文章が必要なのだ。
それは事実と心の動きを正確に丁寧に追っていくもので、文学的な美文とか「人の心を打つ」文章とは、別のものである。こうした文章と、意見文やレポートとの関係をしっかりとらえておくことが必要なのだ。
しかし、ここは、一般論をすべき場所ではないし、大学生や研究者を問題にしているわけでもない。私たちの課題は、眼前にたたずむ中学生や高校生である。私が「主観的な感想」にこだわるのは、それが中学生や高校生の学習やレポートでは決定的に重要だと考えるからだ。
実験や文献調査のまとめなら、正確な事実に基づき、正しい論理展開で答えを出すことが求められよう。そこでは正しい思考過程と正解が問われる。そして、それも基本的で大切な能力である。しかし、今の彼らに第一に必要なのは、学校や教室内で完結できる実験や文献調査ではなく、フィールドワーク、体験学習などで、現場に出ていくことではないだろうか。そこでは、「体験」や「心情」が大きな働きをする。

4 高校生にとっての理想のレポートとは
中学生や高校生。彼らは大学の研究者とは違う課題を持っている。彼らは未だ専門家ではなく、大学の研究者でもない。その前の段階にあり、今まさに、将来の進路・進学を決めるという岐路に立たされている。しかし、今の時代が、それを困難にしていることは前回書いたとおりだ。その彼らにとっての緊急の課題は「自分探し」「自分作り」にある。
 そのためには、1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること、2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること、3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること、が必要だ。
そうした彼らに必要な表現とは、1.の「体験」を描写し、自己理解を深めていく文章であり、2.のように、ある対象について学習する際にも、その対象理解の中で1.や3.のような自己理解をも深められる文章だ。つまり、その対象を取り上げるのが自分にとってどういう意味があるのか、自分の進路・進学とどう関係するのかをも書くのだ。
そうした2.の文章では、先に書いたように、実験や文献調査以上に、フィールドワークや現地での調査・取材こそが重要になってくるはずだ。なぜなら現場には厳しい問題が剥き出しで転がっており、その問題と闘っている人へのインタビューでは、問いかける高校生自身が厳しく問い返されることになるからだ。
当初の仮説、先入観、常識がひっくり返されるような体験。自分自身が否定されるようなショック。そこに強烈な心の動きがおこり、深刻な反省が迫られる。それをしっかりと書くことで自分を見つめ、それによって改めて対象を深く考え直すことが可能になる。
彼らには必要なのは、整った論理や正解の前に、「答え」の見えない「問い」に耐えていく力、そこからより深い「問い」に到達するような力だろう。それによって「自分を作っていく」ためである。
 では、そうしたことが可能になるような指導法、レポートの構成と文体とはどういったものになるのだろうか。それを考えるために、次回から理科や社会科ですぐれた実践をされている方々の生徒作品を取り上げて、具体的に考えていきたいと思う。

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