8月 28

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』の4月号から連載して、今回がラスト。

9月号の 第6回(最終回) ディベート学習の課題
          教育の「内容主義」と「形式主義」をめぐって

1.90年代のディベート・ブーム
言語活動の充実のために、いくつかの問題提起と具体的提案をしてきたが、最後にディベート学習を取り上げたい。「全教科での言語活動の充実」「スピーチ、発表、討論」と言われたときに、真っ先に思い出されるのがディベート学習であろう。しかしディベート学習については、それを支持する声がある一方で、強い批判や疑問の声もある。この混乱と対立の中に、言語技術の教育のための核心的問題があると思うからだ。
ディベート学習は80年代後半から中高の教育現場で始まった。前号で紹介した「学習院言語技術の会」の高校版教科書でも、その中の1項目として取り上げられている。しかし当時は英語科(ESS)を中心とする、少数の先端的な取り組みでしかなかった。その後社会科や国語科にも広がり、90年代にはブームになるほどだった。ディベート甲子園も始まり、多数のディベート関連の本が出版された。
最近では一時のブームは去ったようだが、社会科や国語科の教科書ではディベートが紹介され、学校の正規のカリキュラムに入っているところも増えた。熱狂の時期は去ったが、定着し落ち着いたとも言えるようだ。

2.ディベート学習の是非をめぐる対立
ディベート学習とは、「ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと」(全国教室ディベート連盟)だが、この学習を効果的にするために、勝敗を争う競技形式で行われる。つまり、第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定し、賛成・反対の役割は、参加者の本来の主張とは無関係に決められる。
ディベート学習そのものは、ある主張をする際に、説得力のあるような論証をする練習、つまり、事実をよく調べて、十分な根拠に基づき、それを論理的に組み合わせて主張につなげる練習だろう。
賛成派は、ディベート学習によって、次のような能力が獲得できると主張する。論理的に物事を考え、他人の意見を聴き、自分の意見を効果的に伝え、相手(他人)の立場に立ち、情報処理や整理をし、多面的な視点を獲得するなど。また、それによって、問題意識や自分の意見を持つようになるとも主張する。
しかし一方で、それに対する強い批判や疑問もある。そうした反対派は、その目的に反対しているのではなく、その目的が達成できない、否、かえって逆効果だと言うのだ。その疑念や批判は、主にその競技的形式面に向けられているようだ。
勝敗を争うために、ディベートが単なる「口論の技術」「相手をやりこめる技術」になり、「詭弁家」を作ることになるのではないか。
参加者の意向とは無関係に、役割(肯定側・否定側)やテーマが与えられ、本来の主体性が損なわれるのではないか。本来は切り離せない人格と思想を、無理に分離させることは間違いではないか。学習効果はかえって小さくなるのではないか。
そうした問題点があるので、ディベートでは盛り上がっているように見えても、学習効果は小さいのではないか。

3.「生徒の主体性による共同的な探求学習」
 こうした批判に対して、「競技ディベート」支持派からは、「そうした懸念は当たらない。競技形式こそが学習効果を高める」との反論がある。しかし、ディベート支持派からも、「競技ディベート」への批判の声はあるのだ。「競技ディベート」と本来のディベート学習を区別しようとの意見だ。
それは主に社会科の先生方が中心だが、そうした立場を代表するのが『授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる』(国土社1998)だ。二人の編著者の一人は、もう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和氏(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)。もう一人が、県立小金高校などで教え、現在は大学の教職課程を指導している和井田清司氏(武蔵大学人文学部)。
この本では、勝負の側面が前面に出てくる「競技ディベート」(「ディベート甲子園」がその典型)には批判的で、それに対して「生徒の主体性による共同的な探求学習」を対置する。それは勝負にこだわらず、あくまでも認識の深化を目的とする。
この違いは、審査の違いになる。前者は先生などの専門家が行うが、後者はクラスの仲間が行う。
そもそも、杉浦氏たちがディベート学習を始めたのは、教師からの一方的な講義形式の授業に対する不満からだった。生徒が主体的に学習することをなんとか実現するための方法がディベートだったのだ。
実は連載の第3回で紹介した川北裕之氏の総合学習「環境学」では、最初の3カ月の「触発学習」で2回にわたるディベート学習を行っており、その指導者は和井田氏(当時の川北氏の同僚)だった。川北氏は、それがその後の現地調査の触発学習として極めて有効だったと述べている。
「ディベートで、ある一方の側から立論をつくることは、仮説を立てて調べることにつながり、これは研究の基本です。自分と異なる立場で戦うのはつらいし、負けたときはくやしいので、『環境学』のようにこのエネルギーを探究活動にむかわせるようにします。後日、自分の意見を表明する小論文を書かせると良いでしょう」。
 私は、昨年秋に杉浦氏のディベートの授業見学をさせていただいた。笑いが起こる和気あいあいとしたものだった。ディベート学習は、やはり指導者の力量が大きくかかわると思った。杉浦氏は、高校生段階のディベート学習の成否は、そのテーマ設定にあると考えている。
テーマは、善か悪かと言う単純な価値判断では決められない問題がふさわしい。問題がさまざまな側面を持ち、その側面の事実を丁寧に分析する必要がある問題だ。現実に社会的論争になっている問題(政策課題)が良い。肯定側も否定側も、それぞれ有力な根拠を持っていて、簡単には判断が出せない。そうした問題からこそ対立説の双方を知り、複眼的思考を学ぶことができる。
 例えば、「熱帯木材輸入禁止」をテーマにすると、環境保護と開発(貧困からの脱出)の対立・矛盾が問題になるが、単純な白黒図式にはならない。肯定側は両者の矛盾を言えばいいだけだが、否定の輸入側は、開発が重要だと言うだけではなく、開発と環境保護が両立するとか、開発で豊かになってこそ環境保護も可能になると主張する。否定側も環境破壊を公然と認めるわけにはいかないからだ。
こうした議論の「正解」は容易には出ない。そこで、正解よりも、認識の深まりが問題になる。それが評価のポイントでもある。そして杉浦氏は、この「正解がない」ことを、ディベート批判派は認められないのではないかと、推測している。これは核心的な問題だ。
また杉浦氏のディベートでは、審査するのは生徒だ。「学習はあくまでも生徒のレベルに応じておこります。ですから生徒が審査するのが一番良いのです。不十分でたどたどしい論争であっても生徒にとってはわかりやすいこともあるのです」。これが、生徒の「共同的な」探求学習、という意味だ。クラスの仲間とともに探求を深めることを追求するのだ。
 審査とは、真実を決めたり、意志決定をすることではない。あくまでも、いずれが説得力があったかを判断するだけだ。論争の評価が生徒の学習になる。そして、審査を下すことで、困難な真理認識は保留にし、それに向けた探求の欲求を引き出すのだ。
こうした杉浦氏のディベートに「詭弁家を育てる」との批判は当たらないだろう。しかし、それもやはり競技ディベートであることには違いはない。したがって、人格と思想の分裂との批判には答えなければならないだろう。

4.ディベートの意義
私はディベート、特に「探求学習」型のディベートの大きな意義を認める。その理由は、この過程は思考の過程そのものであり、思考学習そのものだからだ。
それは、事実と意見を区別することから始まる。これは木下是雄氏の方法論と同じだ。もちろん区別するのは、より深く、より全体的な視点から両者をつなぐためだ。これは意見文が、根拠(事実)とその根拠に基づく意見の2つの部分からなることを明確に意識させる。
次に、ある立場(主張)を支えるための根拠(事実)を構成するのだが、事実を深く丁寧に考えねばならない。あるテーマに関する賛成と反対の両方の立場から考えることで、対象の全体をながめることになり、それぞれの立場が対象のどの面を、どの立場から考えているかを、冷静に検討することになる。これは確かに、多面的に物事を考えることであり、これによって「複眼的思考」ができるようになる。考えるということは、このように対立や矛盾を手がかりに進んでいくのだ。ここまでは誰も反対はないだろう。
さて、では、自分の本当の考えと違う役割を与えられた場合はどうなるのだろうか。ここでは、事実と主張の分断とともに、自分と自分の意見をも、一旦は切り離すことが求められる。それは相手の意見とその人格を区別する態度を学ぶことにもなる。
さてここで、当然ながら、「人格と思想を切り離す」との批判が待っている。しかし、つねに人格と思想が一体であるならば、論争の際に自分と相手の意見対立は、即互いの人格を否定しあうことになる。本当にそれで良いのだろうか。また、それでは「相手の立場に立つ」ことは不可能になるのではないか。

5.2つの態度
こうした批判の前提には、人格と思想はつねに一体のものであり、切り離すことはよくない、という考えがあるのだろう。それは思想の内部に対立や矛盾を認めないことになる。しかし私たちの考えの内部には、つねに懐疑や動揺がある。これが実際の姿ではないか。社会内部の賛成・反対の対立は、それぞれの陣営の個々人の内部にも、矛盾や対立を引き起こすはずだ。逆も真だ。そして、対立・矛盾によってのみ個人の認識は深化し、相互理解も拡大する。だから、われわれは矛盾や対立を歓迎すべきなのだ。
また、ここには「正解主義」が隠されていると思う。つねに、論争には正解があり、正解はわかっている。そうした思い上がりがないだろうか。つねに「答え」があり、それは教師が知っており、それを教師は生徒に教えることができる。「答え」があるのなら、手っ取り早くそれを教えればよいだけで、途中の困難な過程は省略できる。これが従来の教育で、これが「内容主義」なのだ。
一方、この反対の「形式主義」的な考え方がある。教師や大人もつねに「正解」を知っているわけではない。しかし自発的な「問い」を引き出し、それを深める方法は教えなければならない。その過程では繰り返し、疑惑や反問、立場の転換が起こるが、それで良いのだということも教える必要がある。
そして、教室内部の議論や、資料統計だけでは解決できないのだから、現実社会の現場に出ていく必要を強く感じるようになるはずだ。
こうした二つの立場と態度が、現在の教育現場にはあるだろう。言語活動や論理を教育するには、教師自身はどちらの立場に立つ必要があるのか。それを、各自が自分に問うべきだろう。それが一番肝心なことではないか。

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