6月 17

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の4回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の4回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第3節 問いから答えへ
 答えについて
 父親とその病気との区別
 答えの根拠
 問いと答えの関係
第4節 答えを出した結果どうだったのか。
課題を明らかにする

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第3節 問いから答えへ

答えについて

 第2節では川合末男の問いとは何だったのか、そしてなぜそのような問い、しかも明確で強い問いが生まれたのか、ということについて述べてきた。次に、この第3節では、問いに対する答えがどういうものだったのか、どうやって川合は答えを出したのか、ということについて考える。しかし、それは答えやその根拠を分析することによって、そもそもの問いがなぜ生まれたのかを考えることにもなる。
 まず答えについて分析していくと、問いと同じように川合の答えは明確だ。父は自分の将来を心配して死んでいったという答えを、繰り返し繰り返し述べている(11)(14)(18)(20)(21)(23)(27)(29)。また、その答えは「父は何を心配して死んで行ったか」という問いにしっかりと対応していることも確認したい。それは問いが明確であることも示していると思う。問いが明確でない限り、それに正確に対応した答えというものは出てこないだろう。横道にそれることを許さない厳しさが川合の問いにあったと言えるのではないか。
また、答えの内容にも納得させられるものがある。それは、父親の心配が家族の命に関わる内容だということにある。家から出ることもなく家族に頼りきりだった川合の父親にとって、家族の命以上に大きな心配があっただろうか。だから生計を立てて行く手段が唯一決まっていなかった川合末男の将来についての心配が最も大きかっただろうと納得できるのだ。もちろん、まず父親自身の命を心配してはいただろうが、自分が死ぬかもしれないとなれば、家族のことが最も心配だったと思う。

父親とその病気との区別

川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いの答えを求めていく中で、父親の奇妙な行動を理解し直している点は興味深い。
例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった」といった行動(12)の意味を、何とか理解できるようになっている。そして川合は父親にも色々な心配があり、特に息子である自分についての心配が大きく、それが上記のような不思議な行動に表れたのではないかと理解するようになったのだった(13)(14)。これは「父親が自分の将来を心配して死んで行った」という答えを得たことで、そのように理解できるようになったのだろう。作文の中で考え続けた答えと、かなり直接的な影響が見られるので分かりやすい変化だ。
他にも、「遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった」といった行動(4)を捉えなおすようになった。「中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか」と捉え直している(9)。ここでは川合が中風と父親とを一応区別できるようになったことが成長だと言えるだろう。以前は、父親について中風という病気の面でしか理解してこなかったのではないだろうか。そこには、父親と父親の病気についての混乱があったと思う。それが父親に自分への心配が強くあったのではないかと考え、父親に中風とは別の面があることを認め、父親と父親の病気を一応別のこととして理解するようになったのだ。
また、父親への理解が深まり、父親とその病気を区別することによって、実は病気についても理解が深まっている。以前は「中風という病気はいやな病気だなあ」(5)、「私だけは、こんな病気になりたくない」(6)というように中風に対する拒否感、嫌悪感が強く出ていた。しかも他方で根拠の弱い情報に流されていて、遺伝で中風になるのだろうと中風を受け入れてしまっていた(7)。しかし、それが「はたして、まきというものがほんとうなものかどうか」(8)というように、とても冷静に中風という病気を捉えられるようになっていて、中風という病気を知ろう、中風に向きあおうという姿勢も感じられるようになったのだ。「まきというものがほんものか」と中風を冷静に捉えているのも、病気と父親とを区別できたからではないだろうか。そして、父親とその病気を区別するようになったのは、父親の病気とはまた別の面、つまり「父親の心配」を徹底的に考えたからだろう。
父親とその病気の区別という理解の変化を含め、なぜ川合は明確で強く、それも納得いくような答えを出せたのだろうか。「父は何を心配して死んで行ったか」という問いから、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、一番大きかったのにちがいない」のような答え(14)との間に何があったのだろうか。

答えの根拠

そこで注目するのは、当然答えの根拠ということになる。この作文の中では、「四 兄弟たちと家」がその根拠に当たる部分だ。「そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない」(15)、と川合自身が根拠として位置づけている。
それは、大きくは家の貧しさの問題と言えるだろう。具体的には、自分以外の家族が生活費を稼ぐ手段がすでに決まっていて、自分だけが何も決まっていないという状況を主な根拠として挙げている(17)(19)(24)(25)(26)(28)。ここでも、繰り返し繰り返し、同じことが言いかえられていることに注目したい。問いや答えだけでなく、根拠にも強いものを持っていたと認められるだろう。
特に(25)においては、かなり明確に根拠を説明している。川合が兄や姉についてそれぞれの事情を説明しているのだが、「一番大きい兄さんは」「二番目の兄さんは」「三番目の兄さんは」「一番大きい姉さんは」「二番目の姉も」というようにたたみかけるような表現となっている。そして、仕事が決まっていないということは、川合が生きていけるかさえ分からない状況だったということを意味する。
また、川合が述べている通り、家の財産は決して多くなかったようだし(16)、しかもその少ない財産を継ぐのは末子の川合末男ではなく、兄の多慶夫だったのだ。つまり、川合はとりあえず生きていけるかどうかさえ分からなかった状況だったのだ。ちなみに、それは農家の次男以下の問題として、一般的なことだった。無着はそれを学級で学習を組織し、男だけの問題ではないという意見を得るに至っている。無着が生徒たちの現実問題を1つずつ取りあげ、それに対する考え方を作らせていることは見逃せない。
川合は中学3年であることも挙げている(21)。この作文が書かれたのは、川合が中学3年の10月のことで、あと半年もすれば卒業なのだ。当時の山元村では中学卒業後はほとんどが労働者になっていた(卒業する前から、すでに労働者でもあったのだが)。実際、1951年に山元中学校を卒業した『山びこ学校』の卒業生42名のうち、高校へ進学したのは4名(内2名が全日制、残り2名は定時制)のみだった。川合も多くの生徒と同じように高校への進学はしなかった。本人の希望どうこうではなく、まず経済的にそんな余裕がある状況ではなかったのだ。働かないと生きていけないのだ。それに加えて、川合は就職の難しい時代背景(22)も挙げている。
これらの根拠は、客観的な事実であって、その意味で根拠としてふさわしいと思う。これらの根拠は父親が川合の将来の職業をどうするのかということを一番心配していた、ということを納得させるものがある。川合の仕事が決まらない限り、彼が生きていけるかさえ分からない状況なのだ。それにしても、なぜ答えの根拠として冷静に主に兄弟の就職状況を提示し、他にも自分の年齢や財産の少なさ、時代背景が挙げられたのだろうか。それらを根拠として提示した理由までは分からないのだ。「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを考える時に、なぜ川合から答えの根拠となるそれらの事実が出てきたのだろうか。

問いと答えの関係

ここで、「父が何を心配して死んで行ったのか」という問いがなぜ生れたのかという第2節の話を思い出したい。川合には、父親の病気や理解しにくい行動があり、そこに問いを持っていて、それが父親の死や、無着成恭の働きかけによって、より明確な問いになったということを述べた。しかし、さらに辿ってみると、父親の理解しにくい行動には父親の心配が原因にあるということだった。そして、心配があるということは、そうさせるだけの事実が根本にあったということであり、川合末男に父親に心配があることを納得させたのもその根本の事実であると第2節で私は述べた。
では、その問いの始まりとなる根本の事実とは何なのかというと、やはり川合が答えの根拠として挙げた内容がそれに当たるのではないか。それは、大きくは家の貧しさであり、兄弟の就職状況や家の財産の少なさ、また中学3年というタイミングのことや、他にも就職の厳しい社会背景のことだ。
つまり、問いと答えが同じ事実から生まれているということだ。ある事実から問いが立ち、その答えを求める時には何か全く別の新しい事実に向かったわけではないのである。問いが立ったということの中にすでに強い事実があり、その事実を言葉にして明らかにするのが答えを求めることになっている。
川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に言葉にできるようになり、この作文を書くことになったのは無着成恭の一言がきっかけだった。それは「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」という一言だった。ここで分かるのは、無着の一言がすでに川合の問いの答えになっているということだ。川合は「父は何を心配心配して行ったか」という問いを持ち、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ」(14)という答えに至るわけだが、その答えへの気付きのようなものがすでに無着から与えられていたのだ。
川合の中に言葉にならない問いがあったところに、無着からの答えの提示によって川合の問いが明確に言葉にできるようになったことをどう考えれば良いのだろうか。まず問いがあり、答えを求めて行くというのが普通の理解だと思うが、実際には答えへの気付きのようなことが、逆に問いを明確にさせることもあるのではないだろうか。そして、それは答えと問いが同じ事実から出てきているからでは起きることではないだろうか。
よって、自分の将来を父は心配して死んで行ったという答えの根拠として、冷静に兄弟の就職状況や、他にも自分の年齢や財産の少なさ、時代背景などを川合がなぜ挙げられたのかというと、そもそもの問いがそれらの事実から生まれたからではないだろうか。明確な問いを言葉にできた時点で、根本にある事実についての認識はある程度確かになっていて、それは答えの根拠でもあるのでそのまま提示することができたのではないだろうか。

第4節 答えを出した結果どうだったのか。

課題を明らかにする

 「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを考え、答えを川合は出したわけだが、さらに進んで川合が自らの次の課題を明らかにしていることにも注目したい。それは作文の「五 私の考え」の部分にあって、生き残っている母親だけでも安心させること、そのために良い職業に就くことだと言っている(30)(31)。「五 私の考え」では自分の課題を考えているが、それは「父は何を心配して死んで行ったか」を考えてきたことを受けている。「お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う」(32)というように、良い職業につくという自分の課題と父親の心配の中身とを一致させて考えていることからも分かる。
 さらに、自動車の運転手になることを望んでいた川合は、「よい職業」とは何かということを警察予備隊を1つの例として考えている(33)。当時の背景にふれると、この作文が書かれたのは1950年10月だが、同年の8月に警察予備隊が発足していたのだった。6月には朝鮮戦争が勃発していた。定員7万5000人の警察予備隊は安定した収入のある職業だった。その警察予備隊について考える際に、川合は教科書や本を参考にした(34)(37)。まず、本のどこから引用したのかが明確だ。しかも「今でも覚えている」と言う。問題意識の強い人間が文献に当たったとき、学習がどれだけ深いものになるのかを示唆している。
また、職業について、金銭的な収入源という面(35)、世の中への貢献いう面(36)(39)、自分の才能と欲求という面(38)に注目している。その上で予備隊について世の中への貢献という面から、そして才能や欲求という面からそれぞれ批判をしている(40)(41)。職業の重要な意味と、予備隊への批判がそれぞれしっかりと対応していることに注目したい。それだけ思考が明確だということだ。また、「職業を選ぶ権利」について「実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ」と川合は言う。そういった建前は、厳しく吟味されるのだ。
それにしても、川合が立派なのは、自身は貧しさの中で生きているのにもかかわらず、職業を金銭面(35)でのみ考えていないことだ。特に金銭的な面だけにとらわれず、世の中のためになるかどうかということ(40)まで考えられるのはなぜだろうか。
そこにはやはり無着成恭の指導が大きかっただろう。この作文のタイトルは「父は何を心配して死んで行ったか」ということだが、作文の最後には「職業科の勉強として」とある。無着によって計画された職業について考えさせる学習の一環だったことが分かる。山元中学校の生徒はすでに労働をしていたし、卒業すればそのほとんどは純粋に労働者となる。また、川合のような農村の次男以下にとっては何を職業に選ぶかということが問題だった。山元中学校の生徒としては労働は大きなテーマの1つであり、それを無着は深めさせたと言えるだろう。
警察予備隊については、無着の意見に強く影響されているだろうし、ただの無着の口真似である面が強いかもしれない。しかし、職業について、金銭面、世の中への貢献、自分の才能と欲求という面に分けて考えられていることは川合にとって重要なことではないだろうか。
また、川合の職業についての学習が深まったのは、指導している無着の働き方の中に川合に響くものがあったからでもないだろうか。そこで無着自身が学校教員として労働していたことに注目したいが、果たして金銭のためだけに無着は働いていただろうか。そんなことはないだろう。確かに学校教員はもちろん安定した収入源ではあったと思うが、無着はそれにとどまっていない。教師として生徒の成長を促す役割を果たしている。それはこの作文からでも分かることだ。川合の問いを言葉にできるまでに明確にさせ、作文も書かせ、職業についての学習も組織しているではないか。少なくとも中学生の成長という点で世の中への貢献はしっかり果たしているだろう。
ただし、金銭面ももちろん重要だと思う。無着は教師として立派に世の中への貢献を果たしていたと思うが、それにはやはり安定した収入があったからこそできたのではないだろうか。安定した収入が約束されていない川合が、警察予備隊という仕事を金銭以外の観点から批判するに至っているのは、そういう無着の影響がやはり大きいのではないだろうか。

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