5月 08

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 名詞論(定冠詞論)それ自体のまとめ(「名詞がすべてである」)と、「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」は、合わせて読んでいただきたいと思う。
 今回は、私が理解したことのアウトラインだけをまとめた。詳しい検討や考察は、後日に期したい。

1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う →本日5月8日
2.定冠詞論のむずかしさ →本日5月8日
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                     
1.関口存男の冠詞論と闘う

2010年6月から関口の『不定冠詞』を読み始め10月に読み終えた。『定冠詞』から始めなかったのは、『定冠詞』の方が難しそうだったのと、判断の形式を直接に問題にしているのは『不定冠詞』であり、それを早く読みたかったこと、さらに関口自身が「空想」「仮構性」に強くのめり込んでいて、それこそが不定冠詞の役割なので、おもしろく読めそうだったからだ。実際に、楽しく、おもしろく読めた。
2011年1月から『定冠詞』を読み始めたが、これにはてこずった。関口のアプローチが、まったく独自のもので、彼のやっていることの意味が分からなかったからだ。特に「第1篇」は数回読み直した。何とか関口がやっていることの意味が見えてきたが、「第2篇」でも、「第3篇」でも、また関口のやっていることがわからなくなり、その意味を考えながら進めた。そしてやっと今年(2013年)4月1日に読み終えた。
途中でギブアップすることなく、一応、関口の定冠詞論の山頂まで自分なりに登りきれたと思っている。
定冠詞論で理解したことをもとに、この4月8日から再度『不定冠詞』を読み直し始めている。そして最後に『無冠詞』を読むつもりだ。
『不定冠詞』を久しぶりに読み直すと、関口が余裕をもって、読者サービスに務めていることがわかる。面白く、わかりやすいのは、豊富で深い日本語の理解と、関口自身の家庭の内輪ネタなどの例示が滅茶苦茶リアルで面白いからだ。それは関口が不定冠詞を、深く的確につかみきっているから可能なのだと思う。
それに比べて、『定冠詞』には関口の遊びや余裕は、あまり感じられなかったことを思い出す。関口自身が必死で取り組んでいて、私たちも息苦しくなってくるほどだった。
今回は、定冠詞論を読んで考えたことをまとめておく。すでに不定冠詞論と定冠詞論を読み、定冠詞論の中に凍結的意局として無冠詞論の説明があったので、関口の冠詞論の全体像はある程度つかめたと思っている。
(本稿では説明の簡潔さのために、関口の『冠詞』の第1巻定冠詞篇と第2巻不定冠詞篇をそれぞれ『定冠詞』、『不定冠詞』と呼ぶ。また、その内容はそれぞれ、定冠詞論、不定冠詞論と呼ぶ)

                                           
2.定冠詞論のむずかしさ

定冠詞論にはてこずった。その理由は2つある。
第1に、関口の世界の巨大さ、深遠さだ。彼はどえらいことを考えている。
私は世界の言語学者の中で関口が断然トップ、他から超絶した巨人だと思うようになっている。
第2に、関口が、自分の考えを、的確には表現できていないこと
 関口は全く他から孤立し、ただ一人で、エベレストに挑んだ。
彼が武器にしたのは、ハイデガー哲学だった。これが不幸だったと思う。関口を読めば読むほど、彼の仕事とヘーゲルの論理学が重なってくる。しかし関口はヘーゲル哲学、そこに集約されているアリストテレス以来の哲学史の総体から、自覚的に徹底的に学ぶことをしなかった。
 そのために、その言語のとらえ方には大きな欠陥があり、用語や表現にも混乱や未整理な部分がある。個々には圧倒的に鋭い洞察があるものの、全体の中での個々の位置づけを見失いがちだ。

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