3月 20

10のテキストへの批評  6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)

私が高校生、大学生だった1960年代後半から70年代の前半にかけて、「文明批判」「近代合理主義批判」が流行した。それは単純だが、それゆえに元気なものだった。機械文明や科学技術、その根底にある合理主義、理性や理性を全否定して平然としていた。アメリカ発のベトナム反戦運動の背後には「カウンター・カルチャー」「ヒッピー・ムーブメント」「ウーマン・リブ」「フリーセックス」などの思想があり、そこにも同じような思考傾向が潜んでいた。
多くの若者たちはそれにいかれたものだ。かく言う私もその1人で、「若気の至り」だった。私が関わった運動はあえなく破たんした。私だけではなく、各地の共同体運動やエコロジー運動などは自滅していった。その後80年代になり「オタク」文化とバブルの時代がやって来た。それが破たんして今に至り、「閉塞」した状況が続いている。
さて、このテキストである。70年代をなつかしく思いだしたが、いまどき、単純な科学技術否定論者がいるようにも思えない。坂村は今でもそうした人がいると思っているのだろうか。「人間の生きる力が弱くなる」とか「退化する」とかいう人は、科学技術を否定できないことを知りながら、弱弱しく「愚痴」り「揶揄」しているだけなのだ。彼らは否定論者などではない。彼らのような「敗北主義者」を叩くには坂村の批判で十分だろうから、特に何も言うべきことはない。
しかし、現代の若者へのメッセージとしては、このテキストでは不十分だと思う。抽象的な議論で具体的なことがわからないからだ。坂村の言う「教養」とはどのような内容のもので、どういった教育で獲得できるのだろうか。それが示されていない。
私には、11段落で示される「大きな原理での理解」や「物事の段取りを考える力」などはどうでもよいと思う。それよりも真の「教養」とは、何かの発明や制度が「退化」か「発展」かを見分ける基準、その能力ではないからだ。
著者はその点ではあいまいであり、「自動で水が流れるトイレ」が「発展」なのか「退化」なのか、にきちんと答えていない。「人工の自然」と「自然な自然」との関係を暗示するだけだ。それでは、新しい「自然」の中で生き抜くことはできないのではないか。

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