7月 08

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その3)
                                中井 浩一
   【9】【10】【11】【19】【21】段落

   ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

   ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
   ・(1)(2)などは私の注釈の番号

   ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
    私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程
     
 【9】 ある労働過程から〔新しい〕使用価値〔生産物〕が現れてくるとき、
    それ以前の労働過程から生まれた別の使用価値〔生産物〕は〔次の
    生産物のための〕生産手段として〔新たな〕労働過程にはいって行く。
    以前の労働の生産物が持っていた使用価値が、今度は新たな労働の
    生産手段〔という使用価値〕になる。それだから、生産物は、
    労働過程の結果(39)であるだけではなく、同時にその条件(39)
    でもあるのである。

 ◇注釈
 (39)「労働条件」という用語はヘーゲルの『小論理学』の現実性の箇所を
     思わせる。「労働条件」というくくりには、労働対象も労働手段も、
     人間もすべてが入るはず。

 【10】 鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを
     開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている
     採取産業もある。しかしそれは例外であって、他のすべての産業部門が
     取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された
     労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。たとえば
     農業における種子がそれである。自然の産物とみなされがちな動植物も
     〔本当はそうではなく、人間労働の産物なのだ。しかも〕、おそらくは
     前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態になるまでには、
     いく世代にもわたって、人間の制御のもとに人間労働に媒介され続けてきた
     変化の産物である(40)。しかし、特に労働手段について言えば、
     その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示している
     のである。

 ◇注釈
 (40)人類史の中での労働と人間と自然の関係がまとめられている。無いのは、
     人間自身もその過程で作り上げられてきたことだ。

 【11】 原料は、ある生産物の主要実体(41)をなすことも、または
     ただ補助原料(41)としてその生産物の形成に加わることもありうる。
     補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草が
     ひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、
     または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、
     染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を
     起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や
     採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。
     主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。
     なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として
     現われるものはなにもないからである。

 ◇注釈
 (41)この「主要実体」は単に、「補助原料」の対でしかないが、本当は
    「実体への反省」が書かれなければならなかった。人間の使命、自然が
     人類を生んだ意味を導出するべきだった。つまりNachdenkenになって
     いない。
     マルクスがそれをできなかったので、許萬元が代わりにそれを行い、
    『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を刊行する必要が出たのだ。
     許はそれを行ったが、それをしなかったマルクスの批判は行わない。

 
 【19】 労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを
     食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この
     生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている
     個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の
     働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。
     それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は
     消費者とは別な生産物である(42)。

 ◇注釈
 (42)消費との関係で書かれているが、生産物は普通の意味の生産物だけではなく、
     人間自身もそうだと言うことが、ここに示される。これをもっと展開する
     べきだった。

 【21】 これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきた
     ような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、
     人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然との
     あいだの物質代謝の一般的な(43)条件であり、人間生活の永久的な
     自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく(43)、
     むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なもの(43)である。
     それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要が
     なかった(44)のである。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある
     自然とその素材、それだけで十分だったのである(44)。小麦を味わって
     みても、だれがそれをつくったのかはわからないが、同様に、この過程を見ても、
     どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわからない。たとえば、
     奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、
     あるいはまたキンキンナトゥス〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した。
     国民文庫の説明〕がわずかばかりの大地の耕作でそれを行なうのか、
     それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか※、というようなことは
     なにもわからないのである(45)。

 ◇注釈
 (43)「一般的な条件」「かかわりなく」「等しく共通なもの」という言葉が、
     マルクスが普通のレベルに落ち込んでいることを示している。冒頭の段落と
     同じだ。このために次の注(44)のようなことになる。
 (44)本当は、「労働者を他の労働者との関係のなかで」一般的に「示す必要」が
     まずあり、次にそれを具体的に示す必要があったのだ。だから以下のような
     叙述が出てきてしまう。
 (45)この段落で、注(44)の直後からラストまでの叙述が必要になるのは、
     もともと、個々の特定の社会状態を無視して、労働過程を書くことはできない
     のに、そうしたからだ。本来は、一般論の後に、唯物史観の立場から
     人類社会の発展を簡潔に示すべきだったのだ。

 ※への原注
      たぶんこの最高に論理的な理由からトレンズ大佐は未開人の石のうちに
     発見するのである?資本の起源を。「未開人が野獣を追いかけながら
     投げつける最初の石に、手のとどかない果実を落とすために彼がつかむ
     最初の棒に、われわれは、他の財貨の獲得を目的とするある財貨の取得を
     見るのであり、こうして発見するのである?資本の起源を。」
     (R・トレンズ『富の生産に関する一論』、七〇、七一ページ。)
     なぜ英語ではstock〔木の幹〕が資本と同義なのか、これも、たぶん、
     この最初の棒〔stock〕から説明できるのであろう(46)。

 ◇注釈
 (46)資本の起源を最初の道具に見ている。

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