4月 09

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 須田国太郎と小林和作 ◆◇

(1)須田国太郎と彼の親友小林和作の深い交流が確認されました。

須田は尾道によく来ていたようです。2人で共作して楽しんだ作品もありました。
福山市の神辺町には大林、村上という須田作品の大蒐集家がいて、それも須田が福山や尾道によく来ていた理由のようです。
大林、村上氏のもとにあった須田作品が、寄贈、寄託などで、ふくやま美術館に収蔵されていて、今回の企画展も可能だったのです。

(2)2人が親友になったこと。

須田と小林が知り合ったのは、独立美術協会に誘われて入会したのが同時期だったことのようです。そこで意気投合したらしい。

須田は京大で西欧の絵画理論を学んだ研究者。それがその理論を実践で確証しようとしているうちに画家になってしまった変わり種。
西欧留学でも、パリではなくスペインのプラド美術館に通い模写に没頭したらしい。帰国後個展を開くがすでに40歳をこえていました。

小林は京都で日本画を学ぶが、その後洋画に移り、風景画家として世に出たのが40歳をこえていました。
ともに特異な経歴であり、世に出た時に2人がすでにおっさんであったことも、2人を結びつけたのでしょうか。

時代は、西洋絵画と日本画の総合、日本人が油絵を書くことの意味が問われていました。
須田の絵には、根底に日本的な精神性、水墨画の精神があると思います。彼は能の謡や舞にも入れ込んでいて、舞台のスケッチも多数あります。
今回の「須田国太郎と独立美術協会」に、長谷川等伯の冬の松図のように墨で書かれた屏風絵がありました。小林などのアドバイスも加わっているようです。

小林には南画風の精神が横溢しているように感じます。ユーモラスでありながら、核心をつかむ能力と、強靭なふてぶてしさがあります。
それは今回購入して読んだ彼の文集『和作 花咲く 花咲爺』からもわかります。

日本の精神性の上に、油絵を描くというようなあり方が2人を結びつけたのでしょうか。
しかし、2人は同じ日本と言っても、水墨画と南画というある意味では対極的なありかたでした。
だからこそ、惹かれあったのでしょうか。

(3)須田の絵画の秘密
 須田の絵画は、精神としては水墨画なのだと思います。
 彼の画面は、クリーム色の肌合い(マチエール)がたまらなく心地よいのですが、その意味がよくわかりませんでした。

 一方で、彼の画面は黒が支配していて、全体が黒々としていることが多いのです。
その黒の意味を考えました。それは水墨画と同じで、黒の中にすべての色があるのではないか。
黒はすべての色を吸収した結果ですから、すべての色を内に含んでおり、それが外化します。
そのように、彼は黒の画面を作っていると思いました。

他方で、白(クリーム色)もすべての色を内在させており、そこからすべての色が現れてくる。
色が生まれ、色が消える、その全過程をとらえようとしているのが須田の絵画ではないか。
彼のクリーム色主体の明るい側面にも、黒主体の側面にも、その後ろに同じ運動がある。

今回、以上の3点を考えてみました。

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