8月 29

言語をその起源から考える  中井浩一 その1

松永奏吾さんは長く、デハナイ、デハアルについて研究してきた。2014年の春には「デハナイ」をまとめた。
その論文とこのテーマへの私の考え「日本語の基本構造と助詞ハ」は、このブログで公開している。
松永さんはそれを踏まえて、2015年の夏に、全面的な書き直しをした「デハナイ、デハアル」を提出した。
それについての私との意見交換があり、それを踏まえて9月に一応完成させたのが、今回掲載した
「デハナイ、デハアル」である。
今回も、この問題への私見をまとめた。「言語をその起源から考える」がそれだ。前回の私のコメントの大枠は、
今も変わらないが、名詞の導出や、文の意識の導出やそれ以降の扱いがまだまだ不十分だったと考えている。

「言語をその起源から考える」(中井浩一)を、本日(8月29日)と明日30日に分けて掲載する。

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが本日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは明日30日に掲載。

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一 言語を考える際の観点、立場

一番肝心なことは、言語を考える際の根本的な立場を確立することだと思う。この点で、
私は明確に以下のような立場と観点にいたっている。松永さんには、それらについて明確な言及や説明がない。
これらについて、自分はどのような観点、立場に立つのかを明確にし、これから20年で、
私が出した論点のすべてに自分の答えを出してもらいたいと思う。

(1)認識は生物の生命行為の延長。 (これは唯物論の立場になる)
動物が飢えて、外界のものを食べて、消化して自分の体の一部とする。これが発展したのが思考、
認識であるにすぎない。

対象の意識とは、生物と外界との分裂、矛盾(飢えや痛み、性欲など)が感覚された(意識された)
ものであり、生物にあっては、ただちにこの分裂の止揚の運動が起こり、分裂はただちに解決される。
それが生きることだからだ。それができないときは生物は死ぬ。
その生命活動の延長上に人間の認識や言語活動がある。

ここからわかることは、人間の認識も生命活動と同じく、常に生死に関わる全体的、根源的なもの
(変革意志による)である。部分的、断片的ではない。なぜなら生命活動がそもそもそうだから。
部分や断片の認識も、常に全体的、根源的なものに支配されている。

(2)対象の運動と人間の認識の運動
生物の生命活動の延長が思考や言語行為であり、生命活動一般の活動はそれは人間と外界との対立・矛盾から
生まれ、その解決に終わる。言語活動も同じであり、人間と外界との対立・矛盾から生まれ、その解決に終わる。
ここに、外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題がある。

対象が意識される時は、対象の運動を静止して捉えられる。運動しているものを制止させることに伴う矛盾が、
認識の運動を生む(関口存男の名詞論から)。

(3)言語活動とは人間の意識の活動である。
人間と外界との対立・矛盾は、人間の意識に反映される。そして意識の内的二分を引き起こす。
それはまずは対象意識と自己意識の分裂となる。
人間と外界との対立・矛盾の解決は、人間の意識内では対象意識と自己意識の統合の活動となる。
外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題と、意識の内的二分、対象意識と自己意識の
分裂と統合の活動とをどう関係させて理解するか。それと、言語の運動や発展をどう結び付けるか

(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
感覚レベルの認識(感知)からはじまりそれが思考による認識になり、その思考内部でも、現象レベルから
本質レベルへ、個別から普遍(類や種)へと深まっていく。それが説明されねばならない。
それと名刺の分裂と統合、助詞ハはどう関係するか。

(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
対象がまずは「存在」として、次に「定存在」としてとらえられ、次いで「独立存在」
(属性とその属性の基底とからなる全体。ここで名詞が成立する)としてとらえられる。
この3つの段階が区別されねばならない。
そして、存在から定存在へ、定存在から独立存在へと、対象がどう運動・発展し、認識がどう運動・
発展するのかが問われる。

(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階。
松永さんは、今回の論文で、文を意識する段階を始原の段階のものと、無媒介につなげている。
人間の原初の対象意識と、無媒介につなげている。
その媒介過程こそを丁寧に考えるべき。

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
対象の意識とは、人間の意識の内的二分であり、対象意識と自己意識への分裂である。
それは分裂の統合のための運動を生み出す。それはただちに統合のための実践・行為を引き起こすが、
その実践・行為の中に認識が発生し、「その対象は何か?」との意識の運動が始まる。

意識の運動の最初は「何か」がただ意識されるだけ、
それがとりあえず、「何か」〔A〕として意識される。
この「何か」〔A〕が「存在」である。

(2)「定存在」
その「何か」〔A〕は最初は人間の感覚に現れてくる(外化する)ので、その感覚レベルに現象する性質と
一体のものとして現れ、意識される。

たとえば、Aが赤色(まだ「赤」という意識はない)として現象する場合、
〔A〕と「赤い」は一体である。 これが「定存在」である。

(3)「独立存在」
しかし、この一体性は、性質にも多くの違いがあること、その性質も変化することを意識することで壊れる。

五感でAの多様な性質がとらえられていく。
色以外にも、においや形や堅さなどが五感でとらえられる。

たとえば
〔A〕と「赤い」が一体
〔A〕と「丸い」が一体
〔A〕と「香る」が一体
〔A〕と「柔らかい」が一体
〔A〕と「甘い」が一体

その時に、1つの対象〔A〕と、その対象の持つ多様な性質(「赤い」「丸い」「香る」「柔らかい」「甘い」など)
の両方が意識される。

それが反省されるようになると、対象が〔A〕とその性質とに区別されて意識され、それは、「性質群」と
「A」として意識される。
これは最初の〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂したことを意味するが、その分裂は再度、止揚される。
それが「諸性質を持ったA」である。

ここで、「A」は「諸性質の基底」として反省され、名前が「A」としてつけられると、それが名詞の始まりである。 
そして「諸性質を持ったA」が意識される。これが「独立存在」である。

(4)判断の始まり 
この〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂し、その分裂は再度「諸性質を持ったA」として統合される運動が、
「判断」の始まりである。

その判断は以下のように並ぶ。

Aは赤い(赤である)
Aは丸い(丸である)
Aは堅い
Aはくさい
 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が、潜在的にだが成立している。

(5)「外化」から「変化」へ
対象は、ある性質として感覚に現れてくる。それが「外化」だが、その性質は変化する。
五感でAの変化がとらえられていく。

たとえば
緑だった葉が、赤や黄色になっていく。
小さかったものが大きくなる。
動いていたものが動かなくなる。
あったものが消える。
存在していたものが無になる。

緑だった葉が、赤や黄色になっていく。

最初は〔A〕と「緑(である)」は一体であるが、こうした変化を意識することで、この一体性は壊れる。

ここに、変化、つまり存在と無、否定と肯定が、潜在的には生まれている。

この変化が、後に時間の経過による運動としてとらえられると、原因・結果という捉え方が生まれてくる。

(6)存在のアルと判断のアル
Aがなくなってしまったり、変わってしまうことを、人は繰り返し経験し、観察する。
そうした認識の結果、Aとアル(存在)が区別して意識されるようになる。
Aの性質の1つとして、アル(存在)が意識される。

Aとして意識されたAは、存在していない限り意識されないのだから、Aとアルは初めは一体である。
しかし、Aの消滅や変化の現象をとらえられるように認識が発展するようになると分裂し、
Aはアルとして意識される。
同時に、Aはナイ、も意識される。
ここに存在と無、肯定と否定の関係の意識が潜在的に現れる。

このアルもAの性質の1つではあるが、他のすべての性質がこのアルの上に成立すると言う意味で、
すべての性質の基底にあるものである。

これが「存在のアル」だが、これが転じて「判断のアル」になる。

(7)判断の確立 主語と述語
アルとナイによって、肯定の判断と否定の判断が生まれてくる。

Aは赤い(赤である)  Aは赤くない
Aは丸い(丸である)  Aは丸くない
Aは堅い        Aは堅くない 
Aはくさい       Aはくさくない

 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が明確に成立する。
 
(8)判断の発展

Aは赤でアル
Aは白でアル
Aは黄色でアル
Aは青でアル

こうした認識の全体的な反省から、「色」という抽象化された名詞がとらえられ、
性質の中での本質的な序列が問われるようになり
また主語の方では、「類」や「種」がとらえられるようになっていく。

こうして、判断、述語部、主語であるAの認識が深まっていく。
主語と述語の分裂、名詞の種類、述語部の多様な品詞が生まれて行く。
感覚から思考へ、思考内でも現象から本質、個別から普遍へと。
主語も述語部も感覚でとらえるレベルから始まるが、思考でとらえる一般化によって「類」や「種」がとらえられる、
述語部も主語も本質的な序列が問われるようになっていく。
また、運動が運動としてとらえられ、原因・結果で変化が捉えられるようになる。

この項については、概要しか今は書けない。

明日につづく。

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