10月 06

2016年の夏合宿の報告です。
今年は、私の他に、社会人が3人、学生が1人参加しました。

今年はいつものヘーゲルやマルクスを読む合宿とは違い、
これまで積み上げてきた私自身の思想の総括の一部と中井ゼミの10年間の振り返りの一部を行いました。
今後、それを本に刊行していくための準備作業でした。

いつも合宿では、合宿でしか起こらないこと、できないことが起こります。
合宿でもいつものように「現実と闘う時間」があり、各自の課題を考えていきます。
毎晩あるのですが、休み時間や食事の時間、すべての学習の時間で、その課題が話されます。4日間、3日間を一緒に過ごすことで、互いの理解が深まっていくのが感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

3人の参加者の感想を掲載します。
具体的な叙述が少なく、わかりにくい文章ですが、それぞれが一生懸命自分の課題と向き合おうとしています。

■ 目次 ■

1.一本道の全体性    塚田 毬子
2.自分を開く           金沢 誠
3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子

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◇◆ 1.一本道の全体性   塚田 毬子 ◆◇

 中井ゼミの夏の合宿に初めて参加した。
集団生活が嫌いな人間が「合宿」という言葉から連想するのは「出来れば行きたくない苦行」、「避けて通りたい行事」なのだが、
中井ゼミの合宿は迷いなく行くことを決めていた。
自分にとって必要なことだと思っていたから、行かないという選択肢は無かった。
しかし直前になって、それまでの1?2週間の自分の体たらくと、清里までの距離の遠さ、宿泊の荷物の重さに辟易して体調を崩し、
途中下車したら次の電車が一時間来ないなど鉄道事情の洗礼を受け、なんとか到着するも予定より大幅に遅れ、というひどい始まり方をした。
でも、結果的には行ってよかったと思う。行かないで家にいたら、ぐらついた陰鬱な気持ちで夏が終わっていただろうからだ。

 今回の合宿の収穫は、何より「指針があるべきところに戻った」ということが大きい。

 私は、今年の下半期は卒論に真剣に取り組み、学生生活の区切りとして、今の自分の限界まで振り絞って書く、
ということを中井さんに提案され、それが真っ当だ、と感じた。
それから卒論のために動き始めていたが、よそ見をして、それも、楽しく問題だらけのよそ見をしたために、
どちらも中途半端になり、やるべきと分かっていることが進まず、ストレスが溜まり、心身ともにぐらぐらになるような有り様だった。
それが、指針が、またあるべきところに戻った。
すっきりして、もう一本道をひたすらまっすぐ進めば宜しく、そのエネルギーも補給されて準備万端で帰って来た。
あとはよそ見せず、日々集中して卒論に取り組むだけだ。
今年いっぱいは大変な作業をしていくことになると思うが、
私は今までの人生で頑張った試しがないが、「やった」と自分で思えるものが書きたい、さっぱりそう思う。

 それと同じことで、お勉強では「全体性」という言葉にハッとさせられた。
中井ゼミのアーカイブの「『1人』を選ぶことの意味は何か」という文章に目が留まった。
一つの全体性を無視して、好きに多数から取捨選択し、断片的に部分だけを取り出す学び方は、客観性がなく独り善がりだという意見に納得した。
「一つの立場をとる以外に方法はない」という学び方を何回も聞いて、そのたびに真っ当だと思うのだが、
本当に理解できておらず、自分のものになっていないので、中井ゼミの外部の人間に批判を受けるとすぐにぐらついてしまう。
だが、「全体性」というのは先生からの学び方だけではなく、ほとんどすべてに応用される考え方なのだと思った。
卒論も、自分自身も、他者も、組織も、真剣に向き合うためには、部分で判断しているようでは表面的、一面的にしか捉えられない。
全体を押さえたうえで部分に突っ込んでいかなくては、客観的な深い理解はありえない。

 また、人間関係について、客観視できていないという批判を受けた。
「人の言葉をそのまま使うことは、その人が設定した枠組みの中で生きることになる」という中井さんの批判に胸を突かれる思いがした。
自分で考えて、自分で定義づけした言葉を使う。自分で問いを立て、その答えを自分なりに出し、それを生きる。
そうでないと自立から遠ざかっていく、と反省した。
 
 それと、食事の席で、中井さんや松永さんに「塚田さんは文章で最初から言語化ができている」と言われたことがあった。
それに対して「でもしゃべれない」と言ったら、「しゃべれなくていい」と返答があった。

 私は、「しゃべれない」ということが底のほうに平べったくコンプレックスのようにあり、
意見をどんどん言語化できる人、ペラペラしゃべっている人を見ると羨ましく恨めしくなる。
私が「しゃべれない」原因は、論理的思考力の欠如、瞬発力の弱さ、対話能力の低さ、総じて能力の低さだと思う。
少し時間を置いて、自分の中で整理し、文字に起こしながら考えて、初めて自分の考えをまとまった形にすることができる。
その場では自分の思っていることをしゃべれないどころか、自分が何を思っているのかもはっきりしない。遅い。それがダメだと思っていた。
だから、「しゃべれなくていい」と言われたことは安心だった。今はここでつまずかなくてもよいのだと思えた。
ただ、人が話したことに疑問を感じたら、その場で問題提起をしなければならない。
すぐに意見が言えなくても、流さずによく聞くこと、敏感に受け取ることには意識的になりたい。

 今の私にとって、中井ゼミは安心の場だ。安心というと安住のように聞こえるかもしれないが、そういうつもりではない。
中井ゼミを真っ当だと確認し、真っ当さがわかる自分を確認できる。
不真面目なのかもしれないし、大きな壁にぶち当たっていないからかもしれない。
まだ自分の人生はリハーサルだと思っている先延ばしの甘えからかもしれない。
だが、とにかく「大丈夫」と思える。問題が見えて、自分が今何をするべきかわかる。
何にも見えず、わからず、どうも動かないまま腐っている苦しさからは脱することができている。ゼミがあるたびに確認ができる。
さあこのまま頑張ろうと思う。しかしまだ自分の中に根拠がないので、すぐにぐらぐらと揺れる。
またゼミに出て確認をする。今はそれの繰り返しだ。自分の中に根を作るというのが、今後の課題になっていくと思う。
ぶれない、揺れない、しっかりとした根。

 道は一つになったが、今度は道をまっすぐ進むのが難しい。いい加減な人間はまっすぐ進む進み方から鍛えなおさなければならない。
前途多難だが、卒論を通して今の自分の問題に気づき、それを真剣に反省し、本気で変えようとしていくのが下半期の目標だ。
2016/8/30

◇◆ 2.自分を開く 金沢 誠 ◆◇

2日目の晩の現実と闘う時間から参加した。そこで、自分の報告をした。
しかし、内容ゼロの報告しかできず、中井さんからの質問にも答えられず、ただ黙っていることしかできなかった。

自分がそうなってしまうのは、自分が今の職場で闘わないで、逃げていることがある。だから、何も言えない。

4月に中井ゼミに復帰して、1,2か月くらいは、職場の問題に向かって少し動いていたが、
その後、動きが止まってしまった。それから報告ができなくなった。

現実と闘う時間で中井さんから指摘された、
「職場の問題の解決に取り組みながら、自分の問題の解決に取り組むこと」を実行するしか、
自分のこの先はないと思っている。
2016/09/03

◇◆ 3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子 ◆◇ 
  
 合宿初日に、中井さんから、私が何かと「忖度する」するのはよくないのではないかという問題提起を受けた。
ああだろうか、こうだろうかと、相手の状況や気持ちを推測することが多いのは、
単に表面的な問題ではなく、本質的な問題なのではないかという問題提起だった。

 すぐに思いつくのは、うまくいかないことがあって、何が起こっているのかよくわからないとき、私はまず、ああかこうかと推測を巡らせる。
相手に、何をどう思っているのかと聞いたり、おかしいと思うと言うよりも、自分に閉じこもる。
 ただし、すぐに行動せずに相手について推測したり、状況の予測を立てたりする必要がある場面も多々ある。
そのことと忖度することの問題とは、どう関係するのか。
つまり、推測や予測は必要なことであり、忖度がよくないことだとしたら、その違いは何であって、忖度の何が問題なのだろうか。

 合宿二日目に、中井さんから、さらに次の話があった。
可能性の中で必然的なことはすべて外化し、現実化する。だからその前に忖度する必要はない。
外化されたものをもとに、そもそも可能性として何があったのか、物事の本質や必然性は何なのかを考えるしかない。それが、認識であり、思考、Nachdenkenである。
しかし、それだけなら傍観者の立場でしかない。
可能性や本質を大いに引き出し、外化させるように働きかけるのが、実践的認識、主体的唯物論の立場である。そういう話だった。

忖度も、まったくの空想ではなく、多少は何か外に現れたものをもとに考えるという意味では、認識や思考である。
しかし、可能性が十分外化する前にあれこれ考えたり、また十分に外化するように働きかけようとせずに推測ばかり巡らせるのは、真っ当な認識や思考ではない。
外化されているものが少なければ、根拠の乏しい推測の入り込む余地が大きくなる。本来は、働きかけてこその認識、思考であり、認識、思考は、働きかけるためのものである。
そういう認識、思考は、必要な推測、予測だろう。

また、働きかける前の忖度の問題だけではなく、働きかけた後の忖度の問題もあると思った。
働きかけたのだから、必ず何かが外化する。何も外化しないということが外化するだけのこともあるが、それも外化である。
考える材料はいずれ現れてくるはずだ。
ただし、外化するまでしばらく待たなければならない。すぐに何かが外化するようなこともあるが、それはあまり考える材料にならないように思う。
腰を落ち着けて外化を待たなければならない。
外化してはじめて、一体自分の中に何があって働きかけたのか、どうしてそういう働きかけ方になったのか、また相手の本質も考えることができる。
ところが、働きかければ、働きかけたことの責任が自分に生じるから、その結果がどうなるだろうかと気になる。そこで忖度する。
関係が壊れてしまうかもしれない。相手が追い込まれることもある。
そうして、働きかけたときの方針が揺らいでしまったら、自分の働きかけ、自分の問題を、ありのままの外化の中に経験し、認識することができなくなりさえする。
働きかけた後の忖度には、自分の問題を目の前から消してしまいたいという欲求が根っこにあるのだろう。

相手について忖度することの問題は、自分自身の問題が見えにくくなることではないか。
相手への推測が、実は自分自身の不安の投影であったり、自分がやるべきことからの逃げやその言い訳であったりもする。
そういう自分の問題が見えないように、自分を誤魔化し、自分の責任を曖昧にする。
そうした無自覚な忖度は、他者をも損なう。相手を思いやっているようなつもりで、
相手の人格や責任の領域に踏み込む。子育ての中でも、そうして子どもの自立を阻んでしまうという問題が起こる。
根本的には、思考や推測の目的の問題なのではないか。
問題を解決しよう、前へ進もうとする中での推測には、他者に働きかけることが伴わなければならない。
そして、忖度せずに外化を待ち、結果を引き受ける覚悟が必要だ。
それに対して、自己理解や発展とは無関係な推測や予測は、自分に何も課さない、無責任な遊びである。

忖度する私の本質的な問題とは、まず、相手に真正面からオープンにぶつかることができないことと、ぶつかった後の覚悟がないこと。
働きかける生き方を選ぶのだから、自分と他者の可能性が大いに現実化するように働きかけることを意識的に練習し、さらに、その結果外化してくるものを、覚悟して待つ練習をしていく。
16/09/03 

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