6月 17

個人と組織の関係は大きな問題です。
それは結局は、組織のルールの内容と運用にかかっていると考えるようになりました。

中学生や高校生を指導していて、学校という生徒たちの生活の場にはルールがない、
またはルールが明文化されていないことに驚きました。
これは深刻な問題だと思います。
なぜそうなってしまうのでしょうか。

改めて、この大きな問題をヘーゲルにまでさかのぼって考えてみたのが本稿です。

 学校現場の関係者には、ぜひお読みいただき、感想やご意見をいただきたく思います。
また、この問題は、単に学校だけではなく、私たちの社会全体の問題だと私は考えています。
その意味で、読者のみなさまにはぜひ一緒にこの問題に取り組んでいただきたいと願っています。

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一

1.鶏鳴学園の中高生の作文
2.組織運営上のルールの問題
3.個人の問題はどのように取り扱うべきか
4.私たち大人の低さ
※以上が本日、以下は明日掲載します

5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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1.鶏鳴学園の中高生の作文

 鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。
部長や顧問や、先輩、後輩、同学年のメンバー、その個々の言動の問題点がぎっしりと書かれてくる。
 また、文化祭や体育祭などの行事へのクラス参加の際の問題もよく書かれる。
クラスや行事担当の教員、クラスのリーダーや責任者とその他のクラスメンバーの葛藤。そこでも個々人の言動が問題にされる。
 これらは、彼らにとっての身近で切実な問題なのであろう。

 しかし読んでいるとおかしいと感ずることが多い。
 組織の運営上の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織の問題がほとんど意識されていないことだ。
これはどうしたことだろう。
 一般に組織にはその運営上のルールがあり、そのルールに基づいて運営される限り、
個人の問題だけがこれほど大きな比重を占めることにはならないはずだ。

 調べていくと、現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
そもそもルールがない。または暗黙のルールがあるだけで、明文化されていない。
役職や責任者の権限と責任があいまいだ。そのために、その時々の力関係でいろいろなことが決まっていく。
 そこでその不満は個々人へと向かうことになる。その人間の善し悪しが断罪され、その言動が細部に至るまで吟味される。

2.組織運営上のルールの問題

 以上のように考えるにいたったので、鶏鳴学園では、中高生たちには、組織運営上の問題にあっては
個々人の問題の前に、組織の問題があることを説明し、自分たちの組織のルールがどうなっているのかを
意識させることにした。実際に高校生に配布しているプリント「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
は付録して収録する。
 そこでは以下のように説明している。

 組織には目的があり、その目的達成のために作られたのが組織なのである。
したがって組織にはその目的達成のために適切な組織の構成とルールが必要である。
 そしてこれらのルールがあり、そのルールに基づいて運営されている場合、個人に求められることは
そのルールを守って、組織の中での自分の役割を果たすことだけである。
 したがって、個々人の問題の前に、組織のルールの問題があるのだ。
 個人を批判したり断罪できる観点とは、本来はそのルールを守っているかどうかだけなはずである。
それ以外に、それ以上に、その良しあしは、問われてはならないのではないか。
 要するに、組織の運営上のことで個人の言動を問題にできるのは、組織のルールが明示されており、
それがみなで確認できるようになった後でのことだ。

 ところが、実際は、その肝心なルールが明示されておらず、あいまいなことが多い。
その場合は推測や忖度がはびこり、疑心暗鬼になり、運営する個々人の言動が問題にされるようになる。
しかもそうした疑問や不満がオープンになることはなく、陰でこそこそと愚痴りあうのが関の山だろう。
 だから、何よりもまず、自分たちの組織のルールを明らかにしなければならない。
そもそもルールがあるのかどうか。どのようなルールが明示されているのか。
場合によっては、「暗黙のルール」がたくさんあり、それらが明文化されていない場合も多いだろう。
それらを含めて、すべてをオープンにし、みなで確認し合うことだ。
そのためには、そもそも組織のルールとは何かを知らねばならない。

 では組織のルールとはどのようなものなのか。
 組織には目的があり、その目的達成のために組織とルールがある。
 したがって、何よりも、その目的をメンバー全員でつねに確認し合う機会が必要だ。
 そしてそれが確認されたならば、その目的達成のために組織内の分業、分担、それぞれの役割・役職などが設定され、
その権限と責任が決まる。
 その上で、組織の意志決定と問題解決のルールが必要になる。
 組織を運営する場合、常に何らかの意思決定をしなければならないが、その意思決定をめぐって
対立が起こるのは当然で必然的である。したがって、その意思決定のルールや手続きを決めなければならない。
その意思決定のプロセスと、最終決定に誰がどのように関わるのか。その権限と責任が明示されるべきだ。
そしてその意志決定後には、その決定がどこまで適切だったかを振り返り、その責任を含めて話し合うことが必要だ。
 また、組織には常に問題が発生し続けるから、それを解決していくプロセスも決めておかなければならない。
ルール違反への対応や罰則もその中に入れておかなければならない。

 さて、ではルールを作ろうとなった段階で、さらに指針を与えている。
彼らはそうした経験がほとんどなく、それゆえに、しばしば善か悪か、正しいか否かの二元論に落ち込むからだ。
 そこで、以下を注意している。
  ・100点満点や「正義」を求めない。
  ・現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、具体的なものになっており、
   それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
  ・ルールの改正のためのルールを決めておく

 説明しよう。
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 しかし、ルールがあること、それを意識して問題やメンバーと向き合うことは、自他が利害対立する問題を自覚し、
その解決のための話し合いを促し、その理解を深めるだろう。こうしてルールはメンバーを成長させる。
そして、メンバーが成長していく過程では、ルールも成長していく。
 つまり、ルールは、その組織の発展段階を反映するものなのであり、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、
たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。そうでなければ、すぐに形がい化し、神棚に飾られる置物になり下がる。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

3.個人の問題はどのように取り扱われるべきか

 さて、ではこうして組織運営上のルールが策定され、メンバー間で確認されたとする。
そこで初めて個人の問題を正面から問うことができるのだ。
 すでに述べたように、個人の言動の善し悪し、正邪を、それだけで論じることはできない。
それではただの抽象論に止まり、十分な根拠が出せないであろう。
個人の善し悪しは、当人が所属する組織の具体的なルールとの関係において初めて、
具体的かつ客観的に問うことができるのである。
 では個人の問題はこの段階でどのように問うことができるのだろうか。
 まず組織の側から見れば、それは簡単である。ルール違反があれば、その違反への対応もすでにルールの中に
書かれているから、それに従えばよい。ルール違反が確認されれば、ルールを守ってもらうための処置がなされる。
責任の大きさに応じた処分がなされ、罰則が適応されるだろう。役職の降格から除名までがありうる。
 しかし、普通はそれだけでは済まないであろう。違反が繰り返される場合は、
そうした違反が起こった過程や原因が問題になり、その個人の生き方や姿勢、考え方などが問われるだろう。
しかし、それはルールの範囲からは逸脱している。
そもそも組織は、どこまで個人の内面に踏み込むことができるのか。
他者や組織が、ある個人の生き方や考え方を批判することは、どのように許され、可能なのか。

 本人がそれをどう考えるかは、当人の責任で自由に行えばよい。
 問題は他者や組織による批判や弾劾である。とりあえず、この原則だけは示しておきたい。

 まずは、組織による批判には限界があり、その自覚が必要である。
この限界への自覚の有無は大きい。それがないと、組織による個人のつるしあげが起こる。
そこでは道徳的な批判もエスカレートする。そこでは、個人の人格の全否定にまで進む可能性がある。
(旧社会主義国、共産党による個人の「査問」、「自己批判」の強要、「粛清」などを想起されたし)

 次に、個人の問題と組織の問題とは相互関係であるという点だ。
個人を問うことは、その組織を問うことであり、その逆も同じである。
 一般には、組織のルールで個人が裁かれるのだが、実際には個人の生き方の方が、
組織のルールよりもはるかに高いレベルであることはまれではない。
その場合は、その個人を裁こうとすることは、逆に、その組織の内実が問われる。
組織の質やルールが厳しく問われることになるはずだ。(例としては企業や役所への内部告発など)
 組織の側に目を向ければ、家庭、学校、会社、地域や国家にいたるまで、組織には実に様々な
レベルと種類があり、その組織の目的や、その組織への入会と退会が自由であるかなどの条件がことなる。
その目的や条件によって、そのルールの是非や個人に対する権限が改めて問われねばならない。
また、個人は複数の組織に属し、その組織間は横並びの場合(各クラブのルールや各クラスのルールなど)も
上下関係(学校のルールとクラスのルール、憲法と諸制度など)の場合もある、
ルールとルールの間の対立、矛盾もある。それも問題になる。
 個人を問うことは組織を問うことであり、組織を問うとは、個人を取り巻く種々の組織の全体の関係を見ていくことである。
個人と組織との相互関係における対立や矛盾や葛藤によって、この社会は発展し、個人も発展していくのである。
 なぜなら、個人の生き方(思想)も組織のルールも、その根拠を深めれば最後は「人間とは何か」という
問いに行きつくからであり、その答えとして様々なレベルが対立し、それによって深められていくのだからだ。

 だから最後は発展観が問われる。
 個人の成長過程、組織の成長過程の発展的理解、人間の本質、組織の本質、個々の組織の相互関係の理解、
それらを全体的に理解していくことが必要である。
 組織にあっては、その実質的トップの、この観点における理解力にすべてがかかっている。

4.私たち大人の低さ
 
 さて、では、これほどに重要なルールが確立されていない学校が多いのはなぜか。
 なぜ、ルールの根本的な意味が、きちんと指導されていないのだろうか。
 学校で問題が起こると、先生たちは「話し合え」などと簡単にいうが、話し合って何をすれば良いのか。
何がどうなると解決なのか。それが示されていないのではないか。
 反省文を書いたり、加害者が皆の前で謝ったり、加害者と被害者を握手させることが解決ではない。
本来は、話し合って、解決に向けたルールを作ることが解決への一歩なのではないか。
 学校で生徒たちにルールが意識されるのは、多くの場合校則によってだろう。
しかしそれは、制服、制帽、服装のこまごまとした規定、携帯やスマホの所持使用の禁止などの
日々の生活への規制としてのものであり、その校則改正への動きが一部にあっても、
それは規制から自由になりたいというものに留まる。
自分たちの日々の問題を自分たちで解決していく手がかりになるルールは考えられていないのではないか。
 もちろん、問題は学校にだけあるのではないだろう。
日本社会のどの組織でも、同じ問題を抱えていて、それが教育の場故に学校において集約的に現れるだけだろう。

 さて、このようにこの問題は、一般的に放置されているのだが、その理由は、私たち大人たちが、
教師たちが、両親たちが、こうしたルールの意味や役割をほとんど理解していないからではないか。
 校則や法律などのルールのナカミを議論することはあっても、そもそものルールのあることの意味は、
ほとんど考えられたことがないのではないか。
 こうしたことが理解されないのは、ルールというものを、国家、地方自治などの大きな政治上の法律や
条例など(せいぜいが学校の校則まで)しか、意識されておらず、
それが日常的な生活の場から切り離されているからではないか。
 そして、日々起こっている個人間の問題は解決できないままに、その力関係で決まったり、
その場その場の状況に流されて決まるだけ。そして、それが国会の場で、狭義の政治の場でも行われているだけ、
つまり、それが大きく言えば、今の私たちの社会の能力の現状だとも言える。
 ではどうするか。
 狭義の政治のことは別にして、今すぐにできることから始めたい。夫婦関係、親子関係、
小グループの問題への対応である。
 人間が2人いたら、そこには必ず意志決定の問題が起こる。その際、ほとんどは力関係で決まったり、
その場その場の状況で決まったりしているだけ。本来は、とりあえず、ルールを設定し、
それを守りあうことで解決していくしかなのではないか。
 夫婦関係も、親子関係も、そこに現状をよく反映した具体的なルールを設定しない限り、
問題は抽象的な一般論に留まり、「世間では?」「普通は?」「本来正しいのは?」といった
水かけ論や罵りあいになるだろう。
 ルールを作り、その内容を確認し合いながら、そのルールはそれに関わる人間たちの現時点のレベルの
反映であることを自覚する。個人と組織のルールとは相互関係であり、
その対立・葛藤に、私たちのどのような本質や問題が現れているかを考え続け、それを深めていく。
そこから次のルールが生まれるだろう。こうした過程を歩んでいく以外に解決に向けた方法はない。

 こうした小さな組織でのルール設定は、最小単位ではあるが、まさに政治なのである。
政治の学校とは、そこにある。
そうした小さなところから、ルールの意味を学習していき、学校やクラブなどでもそれを学んでいくことが、
民主主義や政治を学ぶことになる。それが狭義の政治をも根本的に変えていく力になるだろう。

明日掲載分につづく

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