4月 30

3月の読書会の記録を掲載します。

中井のこの2年間は、『現代に生きるマルクス』の原稿執筆でいそがしく、余裕がなかったので、読書会はおろそかになっていました。

この間に、どうしても読まなければならない本がたまっていました。
1つはプラトンの『国家』であり、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』などです。
『現代に生きるマルクス』を刊行し、ここで本格的に読書会を再開し、たまっていた本に取り組むことにしました。

3月はエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読みました。
これは「家庭論学習会」(田中ゼミ)を主宰する田中さんにとっての必須の書のひとつだと考えるので、一緒に読んでおきたいと思いました。また、ゼミのメンバーに親から子への遺産相続の是非を考えている人がいるので、家族と私有財産について、考えてもらえるテキストを用意したかったこともありました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のようにまとめています。「単婚制は財産所有権を掌握した男性による支配の原則で、女性に対して不平等な支配のシステムと考え、この不平等な婚姻は姦通と 娼婦 制度によって補完されるとした。 古代文明の発展の過程と共に、女性は支配の対象となって家財として扱われるようになり、公的社会への参加権をはく奪されていった」。

この本には思い出があります。
20代の私は、男女の性愛のありかたに悩んでいました。相手を自分の所有物扱いするような考え方に強く反発していましたが、代案をきちんと示すことができなかった。
互いの自由と平等が保証されるような関係はどうしたら得られるのか。
当時、私はまだエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読んではいなかったのですが、その影響下にあった本は読んでいました。
実際のエンゲルスを読んだのは30代の前半ですが、その時に、20代に読んでいた本の基になる本だと気づきました。それを今回久しぶりに読み直し、以前とは違う読み方ができるようになったと思います。エンゲルスの限界や不十分さについて考えられるようになったことです。

■ 目次 ■

3月の読書会(『家族・私有財産・国家の起源』フリードリヒ・エンゲルス著)の記録
記録者 田中 由美子

一 はじめに
二 参加者の読後感想
三 中井さんの問題提起
(1)文明以前の社会や、近親相姦の禁止をどう理解すべきか
(2)「単婚」に、個人の芽
(3)奴隷の必然と、家父長制  
(4)男女の関係、ほんとうの愛
(5)氏族制度から国家へ
(6)モルガンやエンゲルスの、その他の問題
四 参加者の感想(読書会を終えて)
五 記録者の感想
六 読書会を終えて(中井)
 
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3月の読書会(『家族・私有財産・国家の起源』フリードリヒ・エンゲルス著)の記録
記録者 田中 由美子

※ 〇=ゼミ生の発言  ●=中井さんの発言

一 はじめに

○日時  2022年3月20日 午後2時から6時
○参加者 中井さん、社会人ゼミ生9名、鶏鳴学園生徒の保護者1名
○テキスト 『家族・私有財産・国家の起源』(国民文庫1954/3/15)
○著者 フリードリヒ・エンゲルス

今回のテキストは、マルクス亡き後、その原始共産制社会や家族の研究を、エンゲルスが引き継いで著したものである。

特に古代からの氏族制度や婚姻を研究したモルガンを引いて、その家族史と、マルクス、エンゲルスの階級史観、国家観を結び付けようとした。

つまり、人類が氏族間の「群婚」から、一対の男女の「単婚」に移行したのは、人間がまず牧畜を始め、その分業と交換により牧畜民に富が蓄積されたことによると。

それ以前の血縁のたしかな女、母権の強い氏族共同体から、牧畜に直接たずさわる男個人が、私有財産と、相続を含めた決定権を持つ、個別家族への移行である。

そうして格差や対立が増大し、さらに商工業へと分業が進む中で、氏族制度は解体し、諸階級に分裂した社会をコントロールするための国家が生まれてくる。       

しかし、そうして始まった資本主義的経済と、支配階級のための国家により、被支配階級と女性は抑圧され、それは社会主義革命によって必然的に滅ぶべきものであるという彼らの革命論が示される。

また、エンゲルスは男女の関係のあり方に強い関心があり、「単婚」という「一夫一婦制」は、「個人的性愛」によるものではなく、私的所有を起源として、奴隷制にも関わり、売淫制を伴う産物であると問題提起し、それも革命により解決されると説く。

二 参加者の読後感想

〇他民族と交易や戦争を行うことで、貨幣も生まれ、民族は発展する。「ゲルマン人という名を、ケルト人からあたえられたp118」にも、他者と出会うことで、初めて自らが意識されることがよく現れている。(Aさん)
→●(中井さんのコメント)交易と戦争の二つが、社会発展を考えるときに重要。

〇古代人の踊りに二種あり、一つは日常の中の節目としての祭礼、もう一つは戦争において(p119の五と六)。その二つがあるということが重要であり、また、どちらが根源的なのか考えたい。
 ギリシャでの軍隊指揮者が司祭と裁判者も兼ねていることや、交易があって民族が入り交じり、またそうするために軍隊から貨幣が生まれるのが、おもしろい。(Bさん)
→●氏族から国家が出てくるときに、戦争のリーダーが国家の王になる。共同体が発展していく際に、戦争は必然のものだった。

〇家庭内の無償労働をどうするべきかという問いが既にある。今も未解決。
 また、子の教育を、公的社会はどう担うのか、なぜ家庭で育てなければならないのか。(Cさん)
→●家事労働は社会の公的労働なのか、私的労働なのか、これは今も重要な論点。
子の教育は、ロシア革命の後、社会が担うべきという考えで多くの実践が行われた。現在、大きく言えば、保育園、幼稚園、学校などの公的機関と、家庭の両者でそれを担うということになっている。

〇プラトンの『国家』に書かれている、子の共有と、モルガンの「群婚」が類似している。(Dさん)
→●プラトンの、私有財産を持たないことや、子の共有という主張は、当時すでにスパルタが行っていたことであり、それは「群婚」ではない。「群婚」から出てきたのは氏族制度であり、それが根底にはあるのだが、問題は、むしろ我々近代のもの。「私有財産」の中に、親が子を支配できる、男が女を支配できることが入ってしまっている。

〇私有財産や国家を論じるために、「単婚」の前段階を詳しく論じる必要はあるのか。エンゲルスに以前の大らかな婚姻への思いがあるのか、男女のあり方を語りたかったのか。「群婚」の方が女性の権利、母権が強かったのに対して、今の「単婚」は女性差別的だと批判している。
牧野紀之「労働と社会」p101「家族から集合社会への唯一の通り路は雄と雌との関係及び両親と子供との関係のなかにではなく、子供同士の関係のなかにある」が印象的(Eさん)
→●マルクス以上に、エンゲルスには、当時のブルジョアの婚姻に対する強い批判がある。彼には連れ合いはいたが、婚姻制度に収まることを拒否した。
 近代において家庭と社会はどう関係するのかを、ヘーゲルの『法の哲学』が解き明かしている。子どもは家庭で育つが、労働力として社会に出ていく。その際、彼は社会の中に個人として現れていく。これが「個人」が生まれる大きな要因。その観点がエンゲルスにはない。個人というものが、この本の中で明らかになっていない。国家のことは書かれているが、個人はどこから生まれるのか。これはエンゲルスの性愛の考えの核心に当たるところである。それがないのは、驚くべき欠落。

〇人が土地を私有できるということは、それを他人に譲渡できるということでもあるという、私的所有の二重性の捉え方p217がリアル。たんに抑圧する者が悪いという捉え方ではなく、私有の本質の話。その二重性により、実際に多くの農民の土地が借金の抵当に入り、彼らは結局土地を失った。氏族という共同体が土地を所有していたときには起こり得なかったこと。
 読書会前の中井さんの指示、「家族の眼目は個人をつくることだ、ということからエンゲルスを読むべき」については、この本に個人としての生き方や労働、能力の話は無いと思った。
氏族制度の中で、成員としての人間がどう育つのかという話はあるがp125、氏族制度の評議会決議は「満場一致」p117でなければならない。「原生的」とは言え「民主主義」と呼んでいいのか。
他方、四?八章で描かれる、各地で文明段階に向けて階級や経済格差が生まれてくる実例からは、どれもそこに何らかの能力格差があったのだろうと思われるのに、その能力格差の解決が論じられない。家族の目的が富の獲得になってしまっているという批判しかなく、たんに私的所有や階級、国家をなくすという解決策になってしまっている。(田中)
→●私的所有の二面性のとらえ方は、ヘーゲルの捉え方。私有できると同時に、自分のものだから他人に手放せる、自分のものでなくすこともできる。こうして交換、売買契約が成立する。
 「個人」が一番大事。氏族制度の中には個人は存在せず、存在するのは文明以降。インディアンの酋長がどれだけ立派な人格を持っているのかという話は、アイヌ民族の長が立派であるのに対して、我々現代日本人がカスであるという話と同じで、無意味。こうした話のインディアンやアイヌ民族の段階ではそこには個人が無く、今の我々の個人の人格とは別の話。
この本では、個人を規定して全体の中に位置づけないので、大混乱が起こっている。自由や平等という言葉は未開や野蛮の段階には使えない。個人が無い社会に、自由も平等も無い。そういう時代の男女の関係のあり方を出すこと自体が無意味。エンゲルスは科学的ではなく、感情的。

三 中井さんの問題提起(主に二章、九章に関して)

(1)文明以前の社会や、近親相姦の禁止をどう理解すべきか

●近代の資本主義では、生産力を高めることがすべてであり、ブルジョアとプロレタリアの階級闘争もそのためだが、その唯物史観を、それ以前の世界にそのまま当てはめることはできない。それ以前の野蛮や未開での人類の発展とは何か。
 文化人類学者が論じている、共同体間での女性の交換の意味は何か。女性が「商品」や「貨幣」の役割を果たしたとして、それが悪いことであるかのような捉え方は的外れ。女性が共同体にとって最高のものであり、だから、交換されるものになっていたのではないか。

●親子間の性交、次に兄弟姉妹間の性交が禁じられていく。そのルールが決まっていくのは、何が目的で、何がどうなるための禁止なのか。モルガンもエンゲルスも、強い子が育たないからと「自然淘汰」p49・68で説明するが、薄っぺら。道徳も科学も存在しない段階で、初めは種族内部に何のルールも無いところから、近親相姦が禁じられていく意味をどう理解すべきか。
 人間が個人として現れていくとは、意識の内的二分が明確にあること。それは端的には自分とは何か、自分はどう生きるのかという問いが、生きる中心になること。その問いが無いところには自己内二分もなく、個人は存在しない。個人の生成がどういうプロセスの中で行われていくのか。エンゲルスの中にはそれについての問題意識が弱く、お粗末。
 近親相姦のタブーは、人肉食がタブーになったことともつながっているだろう。何かをしないという自己規制をする、それが人間。人間とは何かということが、すでにここにある。意識の内的二分はここに始まる。氏族制度の中では近親相姦はしない、何でもありだがそれだけはダメだというルールがあることが、私たちを人間にしている。動物にはそれが無い。

(2)「単婚」に、個人の芽

●文明段階に入り、男女が婚姻相手を互いに一人選ぶようになる。たんに近親相姦をしないというところから、その「単婚」まで来た。一人を選ぶとは、他をすべて捨てること。人間は、これはしないということを増やしていく。最初は否定が無いが、否定に次ぐ否定へ。否定が一つ入って分裂し、もう一つ禁止が入るとまた分裂。こうして意識の内的二分が進み、深まっていったときに、一夫一婦の「単婚」になり、そこに個人が現れている。一人を選ぶ中に、個人の内的二分がはっきり現れる。選択の基準を考える時、それは自分とは何かを考えることになっていく。そこにエンゲルスの言う「打算婚」などどれほどの問題があろうとも、一人を選ぶところに個人の芽がある。これが無ければ個人ということは出てこなかったのではないか。ここで初めて自由や平等を考えられる。
 
●氏族制度が現れても、その段階には個人は存在しない。しかし、そこから「単婚」家族が生まれ、個人が始まっていく可能性がここにあった。「単婚」から生まれた子が社会に出ていくことで、個人の社会との関わり方の中に、自由と平等が始まる可能性が出てきた。

●夫婦の子が社会に出ていくことで個人ということがはっきりしていく。エンゲルスはエスピナスからの引用文を、「高等動物では移動群と家族はたがいにおぎないあうものではなく相対立するものである」p42と説明するが、これが何を意味して、その後とどう結びつくのか不明。個人がどこからどう生まれてくるのかが、ここで問われており、牧野紀之がそれを「労働と社会」で論じた。ただし、子どもから社会が始まるとは、どういうことか。子は家族の一部でしかないが、一つは、「単婚」の中に個人があり、もう一つ、その中に現れる子が、社会の中で、その成員としての自由平等を実現していく。

●ただし、家庭の中に個人が無い状態で、子が社会の中に自由・平等を実現することは可能なのか。そういう家庭から子が社会に出て、個人が成立するだろうか。

●一人を選ぶということの究極のところに、「先生を選ぶ」がある。

〇質問:文明以前には「個人が存在しない」とは、個人の気持ちや精神も存在しないということなのか。(Eさん)
→●集団としての意志決定は行われており、そこに「個人」があれば、その社会の決定に断固反対と言う個人が出てくる。そうでなければ、そこに個人が存在するとは言わない。
「一人一人がたがいにまったく無差別」p127とあるが、みんなが同じ意見なら、そこに個人はいない。そうすると、今のぼくたちの社会には個人はいないのではないか。そこが恐ろしい。

(3)奴隷の必然と、家父長制

●経済発展すると、またさらに経済発展していくには、労働力が必要。それを得るために奴隷が必要だった。ギリシャの社会を支える奴隷の数がすごい。都市国家アテネでは、自由市民約9万人に対して、男女奴隷は36万5千人との数値をエンゲルスは挙げている(p154)。これがギリシャの民主主義の実態である。
奴隷=労働力は商品として売買された。今の時代も、サラリーマンの賃金労働は労働力をお金で買うもの。その起源は奴隷。
奴隷制度は何か特別なことではなく、一般に広くどこでもやっていた。戦争の目的は略奪であるが、金銀財宝だけではなく、奴隷の労働力の獲得も目的だった。

●その奴隷と家父長制がセットになっている。緩い「対偶婚」から、固定的な「単婚」に進んでいくときに、家父長制がくっついてくる。家父長制は家族からは出てこない。後ろにある社会の経済発展のあり方から生まれた。なぜ男が威張っているのか、家長である男が決定権を持っているのか。今と重なる問題。

(4)男女の関係、ほんとうの愛

●女は子を産むという意味で、自然的(生理学的)にはここに「男女の分業」が始まるとしているp84。しかし、自然的な分業(役割の違い)と社会的な分業とは違う。出産後の子育てや家事労働で問題になるのは社会的な分業であり、自然的なものではない。
エンゲルスは「男女の分業」から階級対立、社会主義革命の話に持っていこうとしている。

●エンゲルスは「近代的な個人的性愛」p88を本気で考えていた。当時意識のあるインテリの多くは、ブルジョアの婚姻制度に反対だった。男女のほんとうの愛とは何か。古代に親が婚姻を決めていたときには、個人的性愛は婚姻外にしかなく、中世の騎士の恋愛も同じ。婚姻は、私有財産も相続も含まれる社会制度であり、結婚と恋愛は違うという話になる。近代では、婚姻も、資本主義と、フランス革命などによる人権や自由、平等が前提の「自由意志の契約」p102のはずだが、そうなっていない。

●「性愛はその本性上排他的」であり、「一夫一婦である」p104に皆さんは賛成するか。また、エンゲルスは所有欲を諸悪の根源のように言うがp230、「オレの彼女」「私の彼」「泥棒ネコ」などは、恋人の所有を意味するのか。たんに表現の問題なのか、あるいは男女関係の実質的な問題がそこにあるのか。男女の平等は、相互に所有し、所有されることなのか。その枠組みを超えていくことなのか。超えるならどう超えるべきか。

●革命成立後には、女性が公的産業に復帰するというエンゲルスの答えがあるがp95、家事労働を誰がどう行うことが、男女の、そして社会の正しい在り方なのか。男の優越や、女が離婚ができないといった不平等を単婚から取り除くために、女が稼げないという問題を解決すべきというがp105、それが本当の解決なのか。

(5)氏族制度から、国家へ

●第九章で、マルクス、エンゲルスの思想を、氏族制度につなげた。

●分業と交換で考えていく。まず牧畜の登場が最初の社会的分業p208。圧倒的な生産力。(農耕はその付属というとらえ方。スミスと同じ。)奴隷を労働力とすることによって、階級が生まれるp210。そうして、氏族制度が内部から切り崩されていく。ただし、搾取と被搾取というとらえ方だけで、能力差を問題にしなくてよいのか。

●この時男の支配がはじまる。これ以前は男女の財産の差は小さかったが、牧畜に直接携わる男の地位が上がり、家事労働する女の地位が下がる。いちおう男女全員参加で決議していた氏族制度が、この面でも壊れていく。

●氏族制度は基本的に内部対立が無いものだから、対立や格差が出てきたときに解決できず、国家に取って代わられたp219。国家は氏族制度の中から生まれたが、氏族制度の外に、氏族制度と対立して生まれたというとらえ方p220は正しい。国家は、氏族制度の概念からは生まれてこない。氏族制度の概念は滅びること。氏族制度を結果的につぶすために、国家はその外に現れたp221。

(6)モルガンやエンゲルスの、その他の問題

●モルガンが、親族メンバーの呼び名と親族制度をつなげて考えているのはおもしろいが(二章)、呼び名を今の言葉の意味合いで捉えてよいのか。今の意識を昔の世界に持ち込むのではなく、多くの媒介を考えるべき。そうした意識の弱い二章は、文化人類学や精神分析の立場から相当の批判があるだろう。人間は、動物とは異なり、まだ個人は存在しない段階でも、意識の内的二分はあり、それを社会として担っている。

●「一人一人がたがいにまったく無差別」p127の、個人の無い氏族制度が解体し、文明段階に入っていく過程の、エンゲルスの説明がひどい。人間は元には戻れない。ここでは、断然大きく進んだものがある。人間が、ここで自分というもの、つまり「個人」というあり方を持つに至った。その裏面として、どこまでも堕落できるということがあるが、逆に、どこまでも前に進める。二章、九章とも大方間違ったことは言っていないが、思想運動をする者が「いやしい所有欲、獣的な享楽欲、汚らわしい…」とうような言葉でアジってはいけない。自分が堕落し、仲間をも堕落させる。実際にそうなった。

●牧畜・農耕、工業に次ぐ第三の分業、商人の登場p215は、明確に社会の発展。社会が分業と交換で発展していくなら、交換をスムーズに進める商人が必要。交換の専門家が出てくることは発展に決まっている。共同体と共同体をつないでいたのは、女性と貨幣と芸能など。ところが、エンゲルスの、商人=「寄生動物」という捉え方は、間違い。貨幣や商品を貶めるのはおかしい。高利貸しなどいろんな人はいるが、そんなのは当然。こうした考えが、資本家の役割を役割として捉えられなかったことと通底している。

●本書最後のモルガンの引用「つぎの、より高い社会段階…は、古代氏族の自由、平等、友愛の復活、ただし、より高い形態における復活であろう」p232は、最初のものが分裂し、より高いレベルで統合するというレベルの「発展」の理解でしかなく、世間一般の「進歩」「発展」の理解のレベルであり、ヘーゲルの「発展」ではない。古代氏族には自由も平等も無い。個人が生まれるときに激しい対立が生まれる。個人の対立は、階級対立の中、家族の中に生まれ、個人はそのあらゆる対立の中からだけ現れる。対立が嫌なら、個人は無理。氏族の中で生きるしかない。しかし、ぼくたちはもうそこへは戻れない。

四 参加者の感想(読書会を終えて)

〇個人的性愛は排他的、だけではストーカー、相手を殺したいだけになる。(Bさん)
→●一人を選ぶとはそれ以外をすべて捨てることであり、そうでなければ一人を選んだとは言えない。それを排他的とも言える。つまり、二人は世界に対して自分たちを閉じる。「性愛はその本性上排他的」は正しい。
しかし、閉じていちゃいちゃしてりゃいいのかという問題があり、それはどう解決できるのか。
二人の関係を閉じたものとして固定的で安定したものにする。それはそのことによって二人がそれぞれに社会的な場で全力で闘っていくことを支えるためである。
2人がその性的関係を社会から閉じることは、2人をそれぞれに社会に大きく開くためなのである。ここが重要なところではないか。

〇相続がなぜ子にだけなされるのかが、問題になっていない。土地の私的所有は、逆に手放せるということでもあると論じているのに。(Bさん)
→●財産は、まず共同体が受け継いでいたが、個人の所有が出てきたときに、氏族がその権利を奪うことはもうできない。個人の所有権は、手放すこともできる権利である。所有物のすべてを自由にできるという権利である。
遺産を残す人は、遺言ができる。財産を自分の家族に残さず、全くの他者に残すという遺言も可能。これが法律で定まっている。個人の考えでやれるのが近代の制度。

〇家族内の近親相姦の禁止は、家族や社会の崩壊を防ぐためではないか。(Dさん)
→●今の家庭内の問題は、閉じているという問題が大きい。家庭内部には問題解決する力が無く、みんなが崩れていくだけ。そのことと近親相姦禁止は深くつながっている。

〇「今も個人が無い」という中井さんの話から、自分に抗いがあるときに個人性を発揮できたことがあるとすれば、それは親の経済力が前提になっていたのではないかと考えた。それは個人性の発揮と言えないのではないか。(Gさん)
→●経済問題はきちんと考えないと真っ当に生きられない。だからこそ、困ったときに自分で抱え込まず、相談ができなければならない。
 選ぶということで大事なことは、その基準。何を基準にしているのかが問題になるのが個人。その際の基準が、自分とは何かの答え。だから厳しい。それをいい加減にやっていると、ずっと個人になれない。

〇唯物史観の定式が曖昧でおかしいせいで、家族の発展と経済の発展が結びついていない。家族は上部構造なのか、経済と密接した下部構造なのかも曖昧で、この本は何かを言えているようでいて、言えていない。(Hさん)
→●家族が下部、上部のどこにどう位置づけられるのかは大事な論点。エンゲルスがこの本を書いていながらそれをやれていないのは大きな問題。
また、経済を背景に、家族はどう発展するのか、そこが十分に結び付いていない。牧畜が起こったときに、家族はどうなるのか、そうした説明があいまい。

〇個人的性愛にエンゲルスの執着があり、それを位置付けるのはよいが、家族の変遷を議論する中でこの書き方でよいのか。この人は六十歳を過ぎても成熟していない。(Hさん)
→●社会運動をやっていながら成熟しないのは大きな問題。プラトンが『国家』に書いた、哲学やってカスになり、ルールを無視するようになったり、ニヒリズムに陥ったりという避けられない問題をどう超えるか。
マルクス、エンゲルスがこの問題を解決できなかったのなら、それはなぜか。いつまでも若作りで成熟しないのはカス。悟りきって老成するのではなく、本当の成熟は、どう可能か。エンゲルスはついに真っ当にその答えを出せなかった。二章はモルガンに従っている。本来はすべてを再構成すべき。マルクスのメモが、それを一層難しくしている。

〇子どもは何のために家庭で育てるのか。(Cさん)
→●子どもとは何かが、まず根本。家庭から社会に子が送り出される。Cさんも、大学卒業後社会に出て働いてきた。他の人たちと全く対等の関係を持てる。そこを君がどう生きてきて、これからどう生きていくのか、それが一人一人に問われている。個人というものをやってきたのか。それが先。
 次に、社会がどのように個人をつくっていけるのか。今はそれぞれの家庭に任されているが、それでいいのか。社会が子の養育を引き受けるのか、それは誰がどうすることなのか。子が生まれた段階で親から切り離し、社会が育てるのか。そうしたことはロシア革命後、全世界で実験されてきて、今もやっている人がおり、結果が出ている。家族でやって問題も起こってきて、家族は要らない、社会で、という立場もある。何をどうすると社会できちんと生きていける人間をつくっていけるのか。難しい。

〇親という言葉もなく、人間という言葉もないときに、近親相姦も人肉食もただ自然のことだったのだろう。(Aさん)
→●人間とは何か、につながる根本的なところ。今の個人が現れてくるいちばん根っこのところにそれらの禁止があるのではないか。

〇親から子への相続した財産をどう使うかを決めるためにはもっと勉強しなければならない。(Hさん)
→●そうした相続の宛先が自分だった人は、それを拒否できる。遺言を残す人と受け取る人は、全く対等。Hさんは、最初から相続を拒否することも、君の選択次第でできた。
その時には、何もわからず、ただ受け入れるしかなかったとしても、今は自分の責任として受け止めるべき。今は拒否という選択肢をも含めて、自分の本当の選択をすることができる。

〇p229などで都市と農村の対立の問題が何度か出てくるが、その意味を勉強したい。私の親は戦中戦後に農村で多大な生活苦があったが、中井さんから、戦争中に農村がひどい目にあい、政治の失敗があったと聞いたことがある。(田中)
→●牧畜、農耕が始まり、それが第一の分業。
第二に手工業。そして第三に商人。こうして工業と商業が社会を引っ張っていき、都市を形成し、農村が取り残され、都市と農村の格差が拡大される一方だった。マルクスの時代に、農村では食べられない多くの人が都市に移住して、工業に従事した。一次産業がひたすら衰退した。しかしそれでいいのか。今、食糧が自給できていない問題もある。

〇文明の特徴として、もう一つ遺言制度を挙げている意味は何か。エンゲルスは私有財産を否定するのだから、反対しているのだろうが。(田中)
→●エンゲルスの私有財産の否定は、全てではなく生産手段の所有の否定。
 個人の所有を認めたときに、遺言制度が重要になるに決まっている。そうでなかったらおかしい。遺言が無い場合は、民法で、半分が配偶者、残りが子としている。遺言を書けば、その家族の枠組みではなく、個人の意志が最優先される。これが今のぼくたちの社会。

〇近親相姦禁止は本能によるのではないか。人文のアプローチの方がよいというのは、脳による説明はだめだということか。(Eさん)
→●脳という生理的な説明や本能という説明は、限りない可能性を持った人間にふさわしくない。人間の中核にある近親相姦禁止をどう理解するのかが、それぞれの人の思想の大きさを示す。
 近親相姦を考えるときに、まず旧約聖書を思う。そこでは近親相姦も親殺し、兄弟殺しなどがたくさん出て来る。きれいごとが無く、おもしろい。人間の欲望のむき出しの姿。近親相姦で何もおかしくなく、ごく普通。人間はそこから始まった。本能が禁止せよとは言わない。ただ、人間という存在は、その後近親相姦を許さなかった。その意味を理解したい。

五 記録者の感想
 
「家族の眼目は個人をつくることだ、ということからエンゲルスを読むべき」ということを、中井さんが読書会でやって見せてくれたと思う。
エンゲルスは、人間が「単婚」という一夫一婦制に至ったことを「偉大な歴史的進歩」p84だと述べるが、その肯定面の意味を論じない。「打算婚」p83や「姦通や売淫とによって補足される」p95というリアルな否定面を論じるのが彼の真骨頂であっても、それだけでは家族史と社会史を本質的につなげることはできない。
中井さんは、まず、エンゲルスが「自然淘汰」だと片づけた、「群婚」における親子間や兄弟姉妹間の近親相姦の禁止に、人間が人間であるゆえの意識の内的二分を見る。
そして、「単婚」でたった一人の相手を、互いに何らかの基準で選ぶというところに、より深まった意識の内的二分、つまり、個人の芽を見る。「単婚」にどれほどの問題があろうとも、選ぶことが無ければ個人は生まれなかった。それほどの画期的なことだった。
さらに、その男女の子が社会に出ていくとき、その社会との関わり方の中に、彼が個人になり、社会に平等を実現していく可能性があり、そこに家族と社会の関係の本質がある。

私は予習の段階で、人類の最初から、特に生殖の中には、自分の身体の所有という意味で「私有」は潜在的にあったと考えたが、個人が存在しない段階に「私有」という言葉は使えない。個人の存在しない氏族制度の段階に「自由」や「平等」という言葉は使えないという中井さんの指摘から、その段階と、次に氏族制度が崩壊して国家が取って代わり、個人が生まれていく段階とは、明確に区別しなければならないことを学んだ。
そして、その個人がより強く現れるところまで来た私たちが、個人になれないまま生きようとすれば、それは必然的に苦しいのだと思った。個人の存在しない氏族制度的要素は、今も家庭に、社会にあふれている。男女平等がいくらか進み、多くの女性が社会で仕事をするようになっても、親の子離れも、子の親離れも一向に進んでいない。

六 読書会を終えて(中井)

エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(国民文庫版)の読書会で、
近親相姦の禁止のルールについて言及しました。

モルガンとエンゲルスの原始の親族関係論は、群婚(乱婚)の存在を示しているということで、物議をかもしました。大昔は「乱婚」だったのだと。私もずっとそういう主張だと思ってきました。
しかし、今回読むと、この事実が意味するものは、人間社会の内部で近親相姦の禁止が実現したことだと、気づきました。
群婚(乱婚)が存在したということではなく、「対偶婚」(「単婚」が時間的に短いもの)が一般的に広がっていて(これは当たり前の事態だろう)、その中で近親相姦の禁止が実現されていき、それが意識化されたことだと思います。
ただし、モルガンやエンゲルスはそう理解してはいないようです。

近親相姦の禁止は大きなことです。これは人肉食の禁止ともつなげて考えるべきでしょう。これは人間と動物とを分けるものであり、人間の概念をそこに考えなければならない。
そして、近親相姦の禁止に関しては、旧約聖書を思い出すとも言いました。旧約には近親相姦、子殺し、兄弟殺しなどが満載です。

読書会後に、近親相姦に、さらに息子の父親殺し、息子による母との相姦などがギリシャ悲劇の定番だったことも思い出されました。

親殺しは、かなり普遍的なテーマですね。ドストエフスキーの『カラマーゾフ』もその1つです。

これらは大きな問題であり、すでに文化人類学や精神分析学(フロイト)が扱っている題材であることはわかっています。
なお、近親相姦の禁止を文化人類学では「インセストタブー」と呼ぶことを知りました。

私はその後、世界の名著シリーズで、文化人類学(マリノフスキーとレヴィ・ストロース)と精神分析学(フロイト)の近親相姦の禁止についての解説を読み、さらに今西錦司にもその考察があることを知りました。
フロイトには、モーゼが殺されたことを意味づける論考もありましたね。

ここで、旧約がユダヤ教の経典であり、レヴィ・ストロースとフロイトがユダヤ人であることにも気づきます。

これらは、とても面白いと思います。
しかし、彼らの理論には、そこにどんなにすぐれた考察が含まれていようとも、「人間の概念」という観点がないと思います。そのレベルまで深めた考察が必要であり、私はそれに挑戦しようと思います。

なお、私はモルガンが民間(素人)の研究者であり、正規の学者たちから「無視」されていたことと、それを大きく取り上げたのがマルクス・エンゲルスであったことに注目します。
マルクス・エンゲルスもまた、民間(素人)の研究者でした。マルクスは大学の研究者になりたかったようですが、その政治的立場から実現しなかった。こうしたことをどう考えるか、自分はどう生きるか。と問いは立てられます。

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