11月 03

鈴木蕗子さんの「赤ちゃんが泣く前」を掲載します。

蕗子さんは中井ゼミで学び合っている仲間の一人です。学び始めて2年がすぎました。
今年の4月から、鶏鳴学園の中学生クラスで講師をしています。

10年以上の看護師として、助産師としての経験を持ち、出産介助の部署にいた3年半ほどで100人以上の出産に立ち会ってきました。
そこで赤ちゃんについて何を見て、何を感じてきたのか。
それを書いてもらいました。

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赤ちゃんが泣く前                
           鈴木蕗子

 助産師として10年以上働いてきた。私が一番好きな赤ちゃんの顔は、生まれる時の顔である。お産介助の部署にいたのは3年半ほどで、そこで100人以上の産婦のお産を介助した。お産の姿勢は、仰向けの他にも横向き、四つん這いもあった。分娩台の上が多かったが、畳みでのお産もあった。

 赤ちゃんを生みだす力は陣痛と呼ばれるが、そのはじまりは、産婦が何かをやり遂げた時や気を緩めた時であることが多い。陣痛には波のリズムがある。赤ちゃんが過ごしている子宮は縮み始め、産婦は痛みを感じる。20秒から30秒ほど、その山を越えると子宮は緩み、次の山まで10分ほど静かな時間ができる。これが繰り返し続く時、お産が始まったと考える。波の山は徐々に大きくなり、赤ちゃんが生まれる時には60秒ほど痛みを感じる。そして、波と波の間は1分、2分までに狭まる。
お産が始まると赤ちゃんはからだの向きを変えていく。産婦が仰向けの時に、私は産婦の左か右の腹辺りで赤ちゃんの背中に触れることができる。だいたいの赤ちゃんは頭から出てくる。頭を下にし、横向きになっている。ところがお産が進むと、産婦の臍辺りで赤ちゃんの背中が触れるようになる。赤ちゃんは小さな手足を産婦の背中側に向け、うつ伏せになったのだ。十月十日近く、呑気にからだを動かしていた時の赤ちゃんはもうそこにいない。赤ちゃんの手足を触って、赤ちゃんとの掛け合いをすることも、もうできない。赤ちゃんは、陣痛の波に合わせて自分のからだ全体をぐーと押し出し、生まれてこようとしているのだ。

 それからしばらくして、産婦の股から赤紫色の頭にぺったりと張り付いた髪の毛をのぞかせる。のぞかせるというのは、陣痛の波の頂点に達している時だけで、波がおさまれば、赤ちゃんはそれまでいたところに戻るということだ。そうして陣痛の波に乗って、髪の毛が見えたり、見えなくなったりが繰り返される。初めてのお産の場合はこの時まで、陣痛が始まってから半日以上、場合によっては何日もかかっていることがある。産婦は汗びっしょり。あともう少しと、私の気持ちは高まっていく。

 破水がまだの時は、髪の毛の上に羊水が入った薄い膜が張ってある。指でこすったくらいでは簡単に破けない頑丈な膜だ。陣痛の力で、赤ちゃんを包んでいた袋が水風船のように膨らむ。それが破けると、羊水の匂いがする。そういえば、学生の時に羊水を顔に浴びたことがある。乳白色のやさしい匂いだった。これが母の匂いであろうか。浴びた時に、この世界の不純物が一切ない澄んだ水だと聞いた。ここで赤ちゃんの湿った髪の毛を触ってみる産婦もいる。そして、陣痛の波がおさまっても、陣痛の波の頂点にいる時と同じところまで赤ちゃんが押し出され、戻らなくなった状態が来たら、もう生まれるのは近い。私は自分の手を赤ちゃんの頭へと、そっと寄せる。手のひらでは納まりきらないほどの大きさの赤ちゃんの頭が、丸いお月様のように見えている。

 いよいよ顔が出てくるという時には、おでこが見え、水面から顔を出すようにして、私の顔と赤ちゃんの顔が向い合わせになる。むぎゅっとつぶった目と口に、赤紫色の浮腫んだ顔が出てくる。頬っぺたに、ぼてっとしたおまんじゅうを二つ入れているかのようである。一生懸命に頑張っている時の顔は、ぶさいくなのかもしれない。全力の顔だ。これから力強く最高の泣きを披露する直前の顔だ。その顔が一番、たまらなく好きだ。

 時折、赤ちゃんの顔が出た後に、陣痛の波が山を越えておさまり、60秒ほどの静寂な時間を過ごすことがある。次で最後の陣痛になるだろうと予想する。その陣痛が来るまでの間、産婦の呼吸の音がゆっくりと静まり、からだの力が抜け、眠っているような時が訪れる。それでも赤ちゃんは、同じ顔のまま、まだ目をつぶっているのだ。なんという時間だろう。初めてこの世界で会う赤ちゃんの顔をしっかりとこの目に焼き付けたいから、私は、産婦の身体に力が入る時期を感じようとしながら、できるだけ赤ちゃんの顔を見ている。というか楽しんで見つめている。はじめて、やっとやっと出てきたのだから。

 陣痛の力でゆっくりと90度回転し、肩が片方ずつ出た後は、産婦が赤ちゃんと向い合せになって抱きかかえられるようにするために、産婦の胸に向って弧を描くように送り届ける。その時、産婦の股を傷つけないよう、赤ちゃんのおしりにもう片方の手を添え、足先までそっと出てくるのを見守っている。

 胸辺りが外に出た時に泣く子もいれば、からだが全て出てから泣く子もいる。大きな泣き声が響き渡る。両足を思い切り振って、全身の力を振り絞って泣くのだ。

 赤ちゃんを見ていると、そうだ、こんな力が私にもあるということを思い出す。赤ちゃんってパワフル。

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