1月 13

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)

  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

=====================================
ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その2

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか

 自己意識は類の自覚から生まれた。
 それをヘーゲルは自己意識論の冒頭で説明している。

 この冒頭は、欲望、食欲から始まり、その対象として生命を出している。
ここは、わかりにくい個所なので、議論があるところである。
ヘーゲルはここで何をしようとしているのか。

 これは、人間(自己意識)の成立を、発生史的にたどったのではないか。
意識一般から自己意識が生まれる過程とは、動物から人間が進化してきた
過程に他ならない。しかし、それがなぜこのような欲望、
食欲から生命という展開になるのだろうか。

 ヘーゲルは2つのことをここで明らかにしようとしている。
一つは、類の自覚と自己意識とは一体のものであり、類の自覚から
自己意識が生まれたということ。しかし、ヘーゲルはその類を
対象意識の対象として、導出しようとする。つまり、その類の導出を欲望、
食欲から始めようとしているのだ。ヘーゲルはここで自己意識の持つ
欲望の根源性を示したかったのだ。それを後に展開するための伏線として、
また後に思考を出すための伏線としてである。
これがヘーゲルが示そうとした2つ目である。

 欲望、食欲とは、自己意識と対象意識の分裂以前の意識の
一番原始的な形態であり、すべての動物にある。食欲を満たすとは、
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)とすることだ。
そこにはすでに、他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、
自己形成の論理がある。他者は否定されるべきなのだ。

 この動物一般から人間を導出する方法が、ヘーゲルの独自のものだ。
意識の話が、急に意識の対象の話に転換する。食欲という対象意識から、
対象の側に話を転じ、動物と生物一般の客観世界における食物連鎖の世界を
ヘーゲルは、たどろうとする。そして食物連鎖の世界でのトップとして
人間が位置づけられる事を示す。対象としての生物発展の運動から
人間の発生を説明するのだ。そこから類の自覚を出すためだ。

 ヘーゲルは人間の雑食性、他の生物を食べる事実を
示すことによって、食物連鎖のトップに人間が立つことを
示しているのではないか。地球から生物発展の全過程が、
この食物連鎖の背景にあり、食物連鎖の中に類の発展がある。
そのトップとして人類がある。

 こうして食物連鎖の中に類が現れ、その頂点に存在する人類において、
その類の自覚が可能になる。ここで、類も対象として、対象意識から
現れてくるのだ。これが対象意識から自己意識が生まれることを意味する。

 しかし、どうして類の自覚が自己意識とつながるのか。類の自覚とは、
その類の一人として自分を意識することだから、類の一人として
自分を意識することは、他の人をも自分と同じ人類の一人として
見ることであり、自分と同じ人類の一員が無数に存在することになる。
自己意識には自己意識が、同じ権利で向かい合っているのだ。

 逆に言えば、自分と並ぶ無数の他者を意識するのが、自己意識でもある。
これが「対象意識→無限の止揚→自己意識」という論理の意味なのではないか。
対象意識から類の自覚=自己意識が生まれたが、自己意識論ではここから、
類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開されることになる。
しかし、それは直接的には、欲望・食欲の延長であり、自己への
「承認」欲求として現れてくる。
これが人間としての根源的な要求であることになる。

 他方で、対象意識の方は次の理性で、ふたたび新たな対象を
ともなって現れてくるが、それは「思考」としてである。
この思考も、自己意識ですでに生まれていたのだ。自己意識が生まれるとき、
意識内では個別と普遍の分裂が起こっている。それが「思考」の発生である。
思考は他のすべてを止揚して、観念的な契機として、自己内に
取り込むことができるのだが、それは食欲で、食べることが
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)としたことに対応する。
つまり、自己意識=思考は、欲望、食欲の発展した形態であり、
欲望の論理を持っている。
この思考そのものの働きは、理性の段階で対象とされる。

────────────────────────────────────────

 4)人間の羞恥心と狼少年

 さて今は、類と自己意識の問題であり、その考察がこの「自己意識」論である。

 サルトルは『存在と無』で、この自己意識の例として、
人間の羞恥心を出している。ここに注目しているのはさすがだと思う。
私も高校生や大学生相手に「自己相対化」を説明する際に、
いつも羞恥心を例にしてきた。

 羞恥心には、確かに自分と他者の一体の構造がある。例えば、
駅で電車に間に合うように走り寄って、目の前でドアが閉まったとき、
目の前で私を見ている車内の人々に、笑われているように感じて恥ずかしい。
しかし、実際に笑われているというよりも、そう感じて恥ずかしく
思っているのではないか。こっけいな自分をこっけいと感じる自分が自己内にいる。
それゆえに、強い羞恥を感じる。

 ここには見られる自分と見る自分の分裂があり、その分裂によって
「自己相対化」が起こっている。これが、意識の内的二分であり、
自己意識の特色だ。他者に見られて恥ずかしいのは、自己内の
内的二分によって、自己が自己に見られているからだ。
自己内の「見ている」自己が「他者」の代表なのだ。この内的二分がないと、
他者は原理的には自己内に存在しない。このように自己と他者は結びついている。
そして、こうした他者と自己との一体化の関係から、人間だけに、
羞恥心といった感情が生まれてくる。

 つまり、自己意識、意識の内的二分、人間の感情。
これらは人間が人間社会の中で育てられないと、
獲得できない能力である。それを考えるには、
狼少年の例がわかりやすい。

 動物は、ほっといても大人に育つ。イヌはイヌになり、
猫は猫になる。しかし人間はそうではない。

 人間には人間になる可能性はあるが、人間になれない場合もある。
オオカミに育てられるとオオカミになってしまうことがその証拠だ。
人間でないというのは、言葉が話せないといった高級なレベルだけではない。
もっと根源的な喜怒哀楽などの感情が育たないことであり、
羞恥心が無いということだ。

 人間の自己意識、意識の内的二分、そこから発生した羞恥心や感情。
これは人間社会の中で育てられないと、獲得できない能力なのである。

 では、こうした意識や、羞恥心などの人間特有の感情は、
どのようにして育まれるのだろうか。実際に、その育つ過程の中で、
自己と他者が結びついた関係から生まれるのだ。だから、人間は
他の人間(母親や父親など)との緊密な関わりの中で、学習していく
過程が必要なのだ。それがないと、内的二分は起こらず、人間になれない。
これが「承認」の欲求とつながる。

 この自己意識論では、こうした根源的な人間の本質を
明らかにしているのではないか。

 以上で、形式的な(1)から(3)の3つの課題の私の回答を終える。
残りの(4)と内容上の課題については、以下に、
テキストの展開にしたがって、レジュメの形で示す。

────────────────────────────────────────

1月 12

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

=====================================
ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その1

 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 まず、「自己意識」論を読む上での大きな問題を確認しておくと、
形式面では次の4点(特に最初の3点)があげられる。

(1)対象意識から自己意識が生まれるとはどういうことか
(2)対象意識と自己意識の統一から理性が生まれるとはどういうことか
(3)自己意識をなぜ、欲求や生命から始めたのか
(4)第3節の第1段落の主人と召使のレベル、第2段落と第3段落、
   さらに第4段落の展開の意味。それが実際に意味するものは何か

 内容面では以下のような論点があると思う。

(1)類の意識とはどのように生まれるか  
(2)労働、仕事は、どういう意味があるのか。
(3)他人に承認してほしいという欲望をどう考えるか
(4)第3節の第1段落「生命をかけた闘争」をどう理解するか?その経験は?
(5)第3節の第1段落、第2段落と第3段落、第4段落に対応する経験を出してみよう
(6)神とか絶対者をどう考えるか、どう考えてきたか 
(7)キリスト教から教団の話が出てくる
(8)「先生を選べ」と、教団の話はどう関係するか

────────────────────────────────────────

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている

 形式上の(1)(2)が大きな問題だろうが、今回読んでみて、
ヘーゲルは「逆算」して書いているし、そう読むべきではないのか、
と強く思った。

 第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、第3部の5章「理性」と
6章「精神」を前提として、その伏線、準備として考える必要があるのではないか。

 ヘーゲルの精神現象学では、人間の社会を展開したのが第3部の6章「精神」であり、
その前提である、個人としての人間を扱っているのが第3部の5章「理性」である。
この「個人」の理性の実体から、分析的に抽象化された2側面が
第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論なのではないか。

 第3部の5章「理性」から、主体的人間と客観的世界の対立が現れてくる
(第1節が「認識」、第2節が「実践」)。その第3部の前の第1部
「対象意識」と第2部「自己意識」論は、その「理性」の前提として、
「対象意識」と「自己意識」が必要だから、前に置かれているのではないか。

 逆に言えば、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、5章「理性」の中で
より具体的に再度取り上げられていて、それらを止揚した6章「精神」で
さらに上の具体的なレベルで現れてくるのではないか。
つまり、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論だけで考えても、
抽象的でよくわからないのではないか。

 例えば、第2部「自己意識」論では「類」や「自己意識」が
でてくるのだが、自己意識論では、それが事実として存在することの
中にある論理を示している。つまり実体の段階であり、「理性」段階からが、
それを自覚する主体性の段階なのではないか。

 ヘーゲルの主体性は、自己意識では潜在的で、顕在化するのは理性、
精神の段階なのであろう。

 参加者から「自己意識論」は受動的で面白くないとの意見があった。
特に「不幸な意識」が抽象的だと思う。主体性は「理性」以降の
段階だからしかたがない面があるのではないか。

 こうしたことは金子も言っている(岩波版全集第4巻。662、663ページ)が、
本当にわかっているかどうかは別だ。2009年の夏に読んだ「対象意識」では、
感性的確信や知覚の章が、私にはよくわからなかった。
それも当然だったのではないかと思う。牧野紀之はそれをどこまで意識していたのか。
マルクスやサルトル、ハイデガーはどうだったのかが気になった。

 そこでマルクスの『経済学・哲学草稿』とサルトルの『存在と無』の
関連箇所を読んでみた。マルクスはさすがに読めていると思った。
サルトルは立体的な読み方はできていないと思った。

 2)対象意識と自己意識の順番と関係

 では、対象意識と自己意識の順番と関係はどうなのか。

 動物一般には意識があるだけで、対象意識と自己意識の分裂はない。
人間も最初は同じである。人間が他の動物からわかれたのは、自己意識が生まれ、
それによって、意識内部に対象意識と自己意識の分裂が生まれたことだ。

 人間の発生過程でも、人間個人のそれでも、最初は分裂以前の意識から始まり、
それが自己意識発生後、つまり自我のめざめ以降の意識の分裂とその止揚が
繰り返されている状態がおこっている。これが大人の人間の常態である。

 ヘーゲルは「対象意識」として、分裂以前の意識の状態(感性)と、
分裂後の自己意識と区別された意識(知覚と悟性)を扱っている。
一方「自己意識」は、もちろん自我のめざめ以降の自己意識を扱っている。

 それが、どうして精神現象学の「対象意識→無限の止揚→自己意識」といった
展開になるのか。自己意識とは、それ自体で存在できず、対象意識に媒介され、
それを止揚して自己内に含みもつ過程で生まれてくる。それは対象の
「無限の止揚」に他ならない。自己意識とは対象や他者を止揚した意識であり、
自己内に他者を含むのだ。しかし、この論理は正しいが、それは
歴史的な順番として悟性から自己意識が生まれたことを意味しない。

1月 09

ゼミ生3人の、2010年のヘーゲルゼミの振り返りです
 
(1)苦しいけど幸せ A
(2)生活の中の哲学 B
(3)自分の中にあるものを言葉にすること C

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(1)苦しいけど幸せ  A

 今年の六月から、ヘーゲルの読書会に参加し始めた。ほぼ毎週一回月曜日に、『小論理学』の判断論と推理論を十一月末までかけて読み、途中八月には山梨での合宿にも参加して、そこで四日間、『大論理学』の判断論と、『精神現象学』の自己意識論を読んだ。
 参加するにあたっての自分の「目的」は、一言でいえば、今の自分の思考法(=生き方)の限界を超えること、であった。その背景には、大学院での博士論文が書けずにいること、があった。今の自分のやり方では前に進めない、否、進んでも意味がない、という意識が強くあった。四十歳を目前にして、このままでは次の段階に進めない、という意識である。
参加して何よりも感じたことは、中井さんの能力の高さだった。特に、判断論の中の、仮言判断の不確かな位置付けに対する中井さんの自説には、情熱というか執念というか、これを分かるまでは自分を許さない、という徹底的な考察の姿勢が現れていた。実際、その週の範囲であったところに、何度も何度も後から戻って来ては、中井さんは前回よりも上のレベルからの考察を展開しようとしていた。また、ドイツ語のたった一つの冠詞から考察すると同時に、ヘーゲル論理学全体の中での位置付けを理解するべく、何度も目次を参照したりもした。さらに、驚くべきことは、それを、我々参加者にも分かる言葉で説明するのである。
正直なところ、私はヘーゲル自体には未だ圧倒されてはいないが、中井さんには本当に圧倒される。当初の参加目的である、自分のダメなやり方を超える、ためには、第一に、「圧倒」されるしかない。苦しいが幸せである。無論、圧倒されているだけではダメなので、現在、『小論理学』下巻を、今年三度目の通読をしているところである。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(2)生活の中の哲学  B

 ヘーゲルを読み始めたのは2008年第一回目の夏合宿の時からだ。最初は訳がわからなかった。今年から毎週月曜日にヘーゲルを原書でも読むようになってから、以前と比較すると少しずつ理解できるようになってきた。理解できるようになったというより、自分の日々の行動を無意識にヘーゲルの言葉で整理するようになった。一番衝撃を受けた点はヘーゲルの判断論だ。よく中井さんはホワイトボードに、最初は一つの円だがそれが発展し、矛盾が生じ二つの円に分かれ、しかしその後また一つの円に戻る図を書く。
 私は今まで自分の育ってきた環境や親の価値観を否定してきた。ヘーゲルの図での二つに分裂し矛盾が生じている状況が続いていた。しかしちょうどこの図の説明がなされる2,3日前に自分の育ってきた環境を受け入れることからしか、厳密に言うと肯定的理解からしか物事は始まらないのではないかと思える経験をしていた。そのような見解を述べた文章も書き終えていた。まさしく分裂していた状況が、再び元の一つの円に戻る作業を身をもって体験していたからこそ、ヘーゲルおよび中井さんの説明に衝撃を受けた。自分の経験したことを文章で述べ、自分なりの分析をした内容がヘーゲルはさらに数段上のレベルで整理していたことに衝撃を受けた。なぜ数段上だとわかるかというと、無駄なく単純な用語で普遍的に述べているからだ。ヘーゲルは具体例を一切出さずに、普遍的にあてはまることだと分かりそれのみを述べている凄さである。日常生活に落とし込めている凄さである。日常生活を送っていれば気が付く格段特別ではないことを改めて自覚化、可視化させ、言葉として記していることの凄さをここ最近実感できるようになった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(3)自分の中にあるものを言葉にすること  C

ゼミに参加することが恥ずかしい気持ちが私にはある。参加者の多くが20代でこれから自分を作って行こうと格闘している人たちだが、私は今年39歳になった。けれど仕事の立場はアルバイトで中途半端であり、自分の家族を持たないことも恥ずかしいと思う。重ねてきたものがないからだ。けれど何もないまま生き続けることが怖くてゼミに参加しようと思った。ぽつぽつ参加する状態を経て昨年末から定期的にゼミに参加するようになったものの、最初はどうしたらよいか途方にくれていた。
文章ゼミで、思いつくことを言葉にすることから始めた。自分の思うことを言葉にして批評してもらう中で、こんなことを言ってはいけない、という気持ちがほぐれるという経験を重ねた。例えば「話したあとの気持ち」という文章を出したときのこと。それは知人と食事をした時に自分が感じたものを言葉にした文章だった。私はゼミに出すにはふさわしくない下らない内容だと思っていたので、ゼミでその心配な気持ちを話した。それに対して参加者のひとりが「下らなくない」と言ってくれた。安心した。安心すると、次の言葉が自分の中から出てきた。
自分の書くものは何を伝えたいのかがはっきりしない文章だと思う。年齢が40近いのに簡単な文章しか書けないことに落ち込むことも多い。けれど今の自分にはそのような文章しか書けないのだから、書けるものを出していこうという気持ちになった。ゼミではどんなに短い文章でも取り上げてくれて意見を聞けるのが有り難い。自分がつまらないことだと思いながら、けれどその存在を無視しきれない気持ちを形にした言葉に居場所を与えてもらえる。その作業をくり返す中で、自分が落ち着いてきたように思う。この1年書いてきたものを振り返ると、最初は何を書いたらよいのかわからなかったのが、いつのまにか両親のことを書くようになっていた。書くことを続ける中で、亡くなった両親が今も自分の中に大きな位置を占めていることに気づかされた。
夏の合宿は関心があったが、集団生活はしばらくぶりで参加をためらった。ためらっている気持ちを先生に伝えると、参加してみて調子が悪くなったら帰るなど自由にしていいと返事をもらった。それで気持ちが楽になり、途中から参加した。
他人と生活した2泊3日では、緊張したり、話が上手にできなかったりした。誰も自分を責めていない状況にも関わらず、責められる気持ちから逃れられなかった。合宿を終えてから、どうしてなのかという思いを言葉にすると、「自分で自分を責めている」と言われた。その時に、身体で感じる苦しさが自分で作り出しているものだと知った。
読書会はたいがい課題の本を読み終えられないまま参加していた。他の人の報告や文章も読み切れないことが多い。ヘーゲルも他の読書会も内容はほぼわからず、できない自分を感じ続けている。けれど自分が少しでも前に進めていたらと思う。

1月 08

◇◆ 2010年のゼミの飛躍を振り返る 中井浩一 ◆◇  

2010年は「飛躍の年」だった。そういうとやや大げさだ。より正確に言えば、飛躍のための小さな「芽」が出た1年だったと思う。それでも、そうした「芽」が見えたのは大きい。この5年ほどで初めてのことだった。私自身にとっても、大学生・社会人のゼミにとっても。

 ゼミのメンバーが充実し、一人一人の成長が顕著にあらわれた。私との師弟契約者は4人から8人に増えた。それだけではない。その内2人はこれまでの大学生や20代の社会人ではなく、「アラフォー」の年代だ。このことは決定的に重要だった。
 師弟契約者以外にも、自分の「生き方」までを視野に入れて学ぼうとするゼミ生が加わり、定期メンバーが全体で12人ほどになった。年齢の幅も20代から一気に50代までに広がった。みな真剣に自分の課題と向き合おうとしており、それは他のメンバーにも大きな刺激となり、相乗効果を生んでいる。夏の合宿はこれまでになく盛り上がった。特に「報告の時間」の話し合いが深まり、集団的な思考が始まった。9月からはそれが一段と深まり、仲間同士での批判や意見交換が行われるようになった。そこからルール作りも始まった。

 この理由、原因を考えると、やはり私自身の成長が根底にある。会のレベルは、そのトップの力量が決める。その意味で、これまでは私の力量不足が明らかだった。
 実は2009年の暮れに、「マルクスを超えた」と自覚した。「ヘーゲルは観念論だ」というマルクスのヘーゲル批判の間違いがくっきりと見えたからだ。「偉そうなことを言う」と驚き呆れられるかも知れないが、まあ聞いてください。この問題は実は20年以上に渡って考え続けてきた問題だった。「ヘーゲルは観念論だ」という批判には、最初からおかしいと感じた。「みな」がそう言い、だれもそれに疑問を出さない。しかし、「おかしい」「わからない」。
 「おかしい」とは思うものの、どこがどうおかしいのかが言葉にできない。いろいろ考え、言ってはみるのだが、どうもストンと胸に落ちていかない。それが、わかった。どこが、どう間違っているのか。なぜそうした間違いが起きたのか。正しくは、どう考えたらよいのか。それがくっきりと見えたのだ。その時、「マルクスを超えた」と思った。これについては、「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」に書いた。

 そして、それと関係するのだろうが、昨年は他の人がどこで止まっているのかが、よく見えるようになった。「発展の論理」の前で止まっている。ほとんどの人がそうだ。したがって、発展の立場か否かが、決定的に重要なのだと、改めてわかった。
 このことは大きかった。自分に自信が持てるようになった。そして、自分の責任を強く感じた。私がやらなければ、この立場からの発言は存在しなくなる。そのために、昨年は「立場」という言葉と、私が「発展の立場」だということを強調した。
 そして、それとともに、自分が何者かがはっきりとした。私とは何か。「哲学者」だと思う。この世界の理念を代表する人という意味だ。

 偉そうなことを言ってきたが、以上のことはすべて、可能性としての話だ。それはまだ「芽」が出ただけだ。これを全面的に展開し、できるだけ多くの分野でその具体化をしなければならない。それができなければ、それはただの芽で終わってしまう。
 そこで、昨年は、政治、言語学の分野から手を出すことにした。具体的には、山梨県在住の笹本貴之さんが、いよいよ選挙に出馬することを決めたので、彼と師弟契約を結び、彼を支援しながら政治の本質論を展開しようと決めた。また、鶏鳴学園の同僚である松永奏吾さんが言語学の博士論文で行き詰まっていたので、これを指導することを申し出た。2人はいずれも38歳、39歳で、学生の頃に指導したことがある方々だ。当時はそれなりに一生懸命だったが、今思えば、それは「おままごと」にすぎなかったと思う。「今度こそできる」という自信と覚悟を持って、私は2人の指導を始め、政治と言語学に取りかかった。その途中経過については、このブログでも発表してきた。

 会の盛り上がりのもう一つの理由は、この笹本さんと松永さんと間で師弟契約を結んだことにあると思う。
 師弟契約についてはこれまでも何度か述べてきたが、次の3つの内容を含む。?自分の問題意識により、?その問題解決のための「先生」を選び、?その「先生」の指導の元に、問題を解決する。
 私は、この「先生を選ぶ」レベルに、今では2段階あると考えるようになっている。20代では「自分探し、自分作り」「テーマ探し、テーマ作り」の段階であり、本当の意味で「先生を選べ」は求められない。選択のために必要なテーマ自体がまだない段階なのだから。この段階の「先生」とは、人生で偶然に出会う数いる「先輩」の一人でしかないだろう。
 一方、すでにしっかりしたテーマが自覚されている人だけが、そのテーマに基づいて、他と比較して最高の「先生」を選ぶことができる。この段階では「先生」とは本来ただ一人しかいないし、その「立場」(生き方)がはっきりと問題になってくる。この段階は、いまでは、多くの人にとって20代では無理で、30代でようやく可能になるのではないか。
 この2段階に分けた内の、本来の「立場」が問われる人との師弟契約が、昨年に初めて成立した。この影響は、非常に大きかったと思う。それは具体的なモデルを提示することになったからだ。

 「テーマ探し、テーマ作り」の段階では、すでに守谷航君をその成功事例としてあげることができる。また、すでにゼミの20代のメンバーは、守谷くんを一つの目標として努力している。

 しかし、その先の真の意味での「先生を選べ」の具体例がこれまでは存在しなかった。それが昨年は、笹本さんと松永さんによって、実現した。「反面教師」の面も含めて、「10年後の私」の姿を見ることは、メンバーにとって重要だ。

 夏の合宿の盛り上がりには、松永さんの参加の影響が大きかったと思う。また9月に行った笹本さんの『サンドタウン』の読書会も大きな刺激になった。『サンドタウン』は笹本さんの20代前半のアメリカ留学の記録で、彼の原点だった。その時と、今の笹本さんを比較検討することができた。守谷くんからの批判と問題提起があり、それは私たちの「報告の時間」の意味をも掘り下げるものになった。
 それ以降、メンバー間での批判や意見交換が積極的に行われるようになった。

 以上が、昨年の「飛躍のための小さな『芽』」の説明だ。

 今年はこの芽をさらに大きく育てなければならない。昨年に引き続き、政治と言語学の分野での学習を続けるが、それだけではまだまだ不十分だ。このゼミに参会していただく方々には、私の指導によって、それぞれの分野でその未来を切り開く人間になってもらわなければならない。それによって、私の哲学を具体化し、小さな芽を大きな樹に育てるためだ。

1月 05

迎春

民主党政権発足から1年がすぎ、国民は「政権交代」という自らの選択の結末を、しっかりと目に焼き付けることになりました。
「ひどい」1年だった、とも言えますが、私は「必要な1年」だったと思います。他人に自分の身を託しておきながら、あれこれ批判する。それがこれまででした。「権力のチェック」などと、自らが権力ではないかのような傍観者ぶりのマスコミだけではありません。国民の多くもまた、そうしてきたのです。
他人に期待しては裏切られる。それでもこりずに、また、別の他人に期待しては裏切られる。しかし、そうした流儀は、「甘ったれ坊や」のものであり、それでは何も先には進みません。
そうした自覚が生まれて来るならば、これは必要なステップだったと思います。もはや、幻想はなくなりました。しかし、自民党時代に戻ることはできません。結局、自分の足で立つしかありません。そのためには自学自習しかないでしょうが、適切な指導者と研鑽の場が必要です。
 今年こそ、私たちのゼミで、自分や周囲を見つめ直してみませんか。

 1月から3月までの学習会の案内を掲載しました。

ゼミへの参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
 読書会の参加費は1回3000円です。
 なお、初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 

 などを書いて、以下にお送り下さい。
 E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇◆ 2011年の1月から3月の、文章ゼミと読書会の日程 ◆◇

 いずれも土曜日で、原則は午後5時開始です

 1月15日 文ゼミ
   22日 読書会

 2月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 3月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレスを読もうと思っていますが、「形而上学」にするか「分析論」(推理論)にするか迷っています。それらを読んでいるところなので、読み終えてから、決めます。
 正式に決まり次第、また連絡します

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◇◆ 毎週月曜日のヘーゲル原書講読と関口存男著『定冠詞論』の読書会 ◆◇

 1月17日から開始します

(1)ヘーゲル原書講読

 毎週月曜日午後5時から行います。
 『小論理学』の概念論の「概念そのもの」を読みます。160?165節
 その後は『大論理学』「主観性」の「概念」を読むことを考えています。

(2)日本語文献を読む時間

 毎週月曜日午後7時から行います。
 昨年の『不定冠詞論』に続いて、関口存男氏の『定冠詞論』を読みます。今年中に『無冠詞論』まで読み終えたいと思います。テキストはコピーしてお渡しします。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――