1月 13

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)

  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その2

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか

 自己意識は類の自覚から生まれた。
 それをヘーゲルは自己意識論の冒頭で説明している。

 この冒頭は、欲望、食欲から始まり、その対象として生命を出している。
ここは、わかりにくい個所なので、議論があるところである。
ヘーゲルはここで何をしようとしているのか。

 これは、人間(自己意識)の成立を、発生史的にたどったのではないか。
意識一般から自己意識が生まれる過程とは、動物から人間が進化してきた
過程に他ならない。しかし、それがなぜこのような欲望、
食欲から生命という展開になるのだろうか。

 ヘーゲルは2つのことをここで明らかにしようとしている。
一つは、類の自覚と自己意識とは一体のものであり、類の自覚から
自己意識が生まれたということ。しかし、ヘーゲルはその類を
対象意識の対象として、導出しようとする。つまり、その類の導出を欲望、
食欲から始めようとしているのだ。ヘーゲルはここで自己意識の持つ
欲望の根源性を示したかったのだ。それを後に展開するための伏線として、
また後に思考を出すための伏線としてである。
これがヘーゲルが示そうとした2つ目である。

 欲望、食欲とは、自己意識と対象意識の分裂以前の意識の
一番原始的な形態であり、すべての動物にある。食欲を満たすとは、
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)とすることだ。
そこにはすでに、他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、
自己形成の論理がある。他者は否定されるべきなのだ。

 この動物一般から人間を導出する方法が、ヘーゲルの独自のものだ。
意識の話が、急に意識の対象の話に転換する。食欲という対象意識から、
対象の側に話を転じ、動物と生物一般の客観世界における食物連鎖の世界を
ヘーゲルは、たどろうとする。そして食物連鎖の世界でのトップとして
人間が位置づけられる事を示す。対象としての生物発展の運動から
人間の発生を説明するのだ。そこから類の自覚を出すためだ。

 ヘーゲルは人間の雑食性、他の生物を食べる事実を
示すことによって、食物連鎖のトップに人間が立つことを
示しているのではないか。地球から生物発展の全過程が、
この食物連鎖の背景にあり、食物連鎖の中に類の発展がある。
そのトップとして人類がある。

 こうして食物連鎖の中に類が現れ、その頂点に存在する人類において、
その類の自覚が可能になる。ここで、類も対象として、対象意識から
現れてくるのだ。これが対象意識から自己意識が生まれることを意味する。

 しかし、どうして類の自覚が自己意識とつながるのか。類の自覚とは、
その類の一人として自分を意識することだから、類の一人として
自分を意識することは、他の人をも自分と同じ人類の一人として
見ることであり、自分と同じ人類の一員が無数に存在することになる。
自己意識には自己意識が、同じ権利で向かい合っているのだ。

 逆に言えば、自分と並ぶ無数の他者を意識するのが、自己意識でもある。
これが「対象意識→無限の止揚→自己意識」という論理の意味なのではないか。
対象意識から類の自覚=自己意識が生まれたが、自己意識論ではここから、
類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開されることになる。
しかし、それは直接的には、欲望・食欲の延長であり、自己への
「承認」欲求として現れてくる。
これが人間としての根源的な要求であることになる。

 他方で、対象意識の方は次の理性で、ふたたび新たな対象を
ともなって現れてくるが、それは「思考」としてである。
この思考も、自己意識ですでに生まれていたのだ。自己意識が生まれるとき、
意識内では個別と普遍の分裂が起こっている。それが「思考」の発生である。
思考は他のすべてを止揚して、観念的な契機として、自己内に
取り込むことができるのだが、それは食欲で、食べることが
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)としたことに対応する。
つまり、自己意識=思考は、欲望、食欲の発展した形態であり、
欲望の論理を持っている。
この思考そのものの働きは、理性の段階で対象とされる。

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 4)人間の羞恥心と狼少年

 さて今は、類と自己意識の問題であり、その考察がこの「自己意識」論である。

 サルトルは『存在と無』で、この自己意識の例として、
人間の羞恥心を出している。ここに注目しているのはさすがだと思う。
私も高校生や大学生相手に「自己相対化」を説明する際に、
いつも羞恥心を例にしてきた。

 羞恥心には、確かに自分と他者の一体の構造がある。例えば、
駅で電車に間に合うように走り寄って、目の前でドアが閉まったとき、
目の前で私を見ている車内の人々に、笑われているように感じて恥ずかしい。
しかし、実際に笑われているというよりも、そう感じて恥ずかしく
思っているのではないか。こっけいな自分をこっけいと感じる自分が自己内にいる。
それゆえに、強い羞恥を感じる。

 ここには見られる自分と見る自分の分裂があり、その分裂によって
「自己相対化」が起こっている。これが、意識の内的二分であり、
自己意識の特色だ。他者に見られて恥ずかしいのは、自己内の
内的二分によって、自己が自己に見られているからだ。
自己内の「見ている」自己が「他者」の代表なのだ。この内的二分がないと、
他者は原理的には自己内に存在しない。このように自己と他者は結びついている。
そして、こうした他者と自己との一体化の関係から、人間だけに、
羞恥心といった感情が生まれてくる。

 つまり、自己意識、意識の内的二分、人間の感情。
これらは人間が人間社会の中で育てられないと、
獲得できない能力である。それを考えるには、
狼少年の例がわかりやすい。

 動物は、ほっといても大人に育つ。イヌはイヌになり、
猫は猫になる。しかし人間はそうではない。

 人間には人間になる可能性はあるが、人間になれない場合もある。
オオカミに育てられるとオオカミになってしまうことがその証拠だ。
人間でないというのは、言葉が話せないといった高級なレベルだけではない。
もっと根源的な喜怒哀楽などの感情が育たないことであり、
羞恥心が無いということだ。

 人間の自己意識、意識の内的二分、そこから発生した羞恥心や感情。
これは人間社会の中で育てられないと、獲得できない能力なのである。

 では、こうした意識や、羞恥心などの人間特有の感情は、
どのようにして育まれるのだろうか。実際に、その育つ過程の中で、
自己と他者が結びついた関係から生まれるのだ。だから、人間は
他の人間(母親や父親など)との緊密な関わりの中で、学習していく
過程が必要なのだ。それがないと、内的二分は起こらず、人間になれない。
これが「承認」の欲求とつながる。

 この自己意識論では、こうした根源的な人間の本質を
明らかにしているのではないか。

 以上で、形式的な(1)から(3)の3つの課題の私の回答を終える。
残りの(4)と内容上の課題については、以下に、
テキストの展開にしたがって、レジュメの形で示す。

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