3月 18
10のテキストへの批評 4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
養老孟司は東大の解剖学者だったが、大ベストセラー『バカの壁』などの著者として有名になった。『唯脳論』も話題になった。本テキストでも、脳の問題を前半で述べている。
しかし、『バカの壁』の魅力は解剖学や脳科学からの分析にあるのではなく、養老の自然や社会の見方にもともとあった斬新さから生まれているのではないか。それは科学者としての知見というよりも、昆虫採集大好き少年の経験と世界観であるように思う。
正直なところ、私には養老がなぜ「脳」という言葉を多用するのかがわからない。なぜ「人間」「主体」「思考」といった伝統的な概念を使わないのだろうか。「脳」という言葉は、その物質を問題にしているのか、その機能の「思考」を問題にしているのかが、わかりにくい。「人間」という「主体」の他に、「脳」という独立主体が存在するのだろうか。
本テキストでも、前半の脳の議論は、テキストの結論と結びついてはいない。このテキストがすばらしいのは、「自然はすでに解を与えている」との養老の主張が、木の葉の配列の例示によって実に鮮明な印象を与えてくれるからである。それは真実であるが、なによりも「美しい」から、読者をはっとさせる力がある。しかしそれは脳科学から生まれた発見や知見などではなく、昆虫少年の感性から生まれたものではないか。それに後付けで「脳」の話を加えただけのように思われる。
3月 17
10のテキストへの批評 3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
鷲田は、読者の琴線に触れる書き方ができる数少ない学者の1人である。だからフアンが多いのだろう。
このテキストでもラストの情景は、多くの読者に思い当たる場面だし、心動かされる。それが琴線に触れるのは、それが多くの人々が悩んでいる問題であり、同時にその問題への具体的で直接的な解決を示しているからだ。「こころは、みなさん自身で作ることができるのですよ!」「みなさんは、無自覚にですが、すでに正しい答えを実践しています」。それは人々を勇気づけるメッセージだ。
一方で鷲田は、そうした実際の問題解決につながらないような見方、考え方、固定観念や思考の枠組みを厳しく批判し、その虚構性を暴露する。このテキストでも、4段落がそれで、6段落でその代案を提示する。
また、鷲田の文章は、出だしのつかみもうまい。さりげない問いによって、読者は自然に問題の核心部分につれられていく。
以上、そのすぐれた特質について述べたが、私には不満もある。鷲田の処方箋は、無意味な固定観念を壊し、誰もがやっていることに対して「それでいいのだ」と励ますところに力点がある。しかし、問題のより深い意味を明らかにし、より上のレベルの解決策を示すことにはなっていない。それは「臨床哲学」と「哲学」を標榜しながら、問題の論理的なおさえ方が弱いせいだと思う。
本テキストでも論理的にはあいまいな点があり、構成らしき構成はない。そのために、やさしく書かれてはいるが、実はとても分かりにくい。たとえば「こころがあると思うか」「こころを見たことがあるか」「こころはどこにあるか」と3つの問いが提示されるが、この3つをどう関係させているのかがわからない。
本当は、「こころがあると思うか」と「こころはどこにあるか」はこころの存在論の問いであり、「こころを見たことがあるか」はこころの認識論の問いであり、両者は対立しながら結びついている。こころが持つその2つの側面はどう区別され、どう関係しているのか。それがわかりやすく示されなければ、本当の理解には到達できないと思う。
3月 16
10のテキストへの批評 2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
昔読んだことがある懐かしいテキストだ。改めて読んでみて、すぐれた洞察が込められていると感じた。前半の議論も面白い。失われたゆえに想像のうちで暗示が膨らみ、それが美という全体性への飛翔を生む。「なるほど!」と感心する。しかし今回読み直してみて、前半よりも後半にこそ詩人の凄みを感じた。ここで示される「手」の象徴的な意味には、心を動かされる。それは人間が手足を使って労働し、人間同士で社会をつくって生きてきたことの証なのだろう。
このテキストの内容には深い洞察を感じるが、テキストの前半と後半が内的につながっていないように思った。ミロのヴィーナスの美しさの理由として、2つをならべただけで、前半から必然的な形で後半を導出できていないように思う。
私も「ミロのヴィーナス」に感動する。しかしその理由は清岡とは少し違うようだ。もちろん清岡が言う「均整の美」は前提である。私は「ミロのヴィーナス」に、たまらない心地よさを感ずる。それは、その全身に運動の予感が感じられるからだと思う。その身体はゆるやかな運動の中に、とらえられている。そして、人間の運動は、その先端の手の動きで完成するだろう。腕(手)が消えていることは、その運動の頂点を消したことを意味し、それゆえに、私たちの空想は一層膨らんでいくではないか。
3月 15
今年の4月から全国の高校で使用される、
大修館書店の国語科教科書「現代文」「新編 現代文」「精選 現代文」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、3種の「現代文」に収録された評論から10のテキストを取り上げ、
そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、
その考え方を私が批評するコラムをつけている。
指導者が指導する上でのヒントになるように、
テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。
昨年も大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
同様のことを行った。
高校の先生方の中には、私のコメントを楽しみに読んで切るという方々の声を聴いた。
講演に呼ばれたこともある。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このメルマガの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、
このブログにも転載します。
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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1.ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
ペット論のようだが、実は家族論である。「失われた家族のきずな、その回復を!」といった論調だ。「3丁目の夕日」よ、今一度! それは甘い郷愁へといざない、世間に受け入れられやすいものだろう。しかし、私には大いに疑問がある。
著者は家族こそ守るべきだと主張する。しかし、そもそもの前提は正しいだろうか。近代と前近代の比較から、近代で初めて家族が重要になったと主張しているが、本当だろうか。逆ではないか。近代ではそれまでの大家族が崩壊し、家族は近代産業(資本主義)を支えるための労働力を提供する場へとなりさがったのではないか。高度経済成長期には、「豊かさ」という目標が家族をまとめていたように言うが、「親子の断絶」が激しく起こってもいた。そして、親から独立して若者たちが作った核家族には、芯になる目標がなくなっていた。
資本主義の進展で市場原理主義が席巻しているのは事実だし、そこでは個人が個人としての競争にさらされるのだが、そこから生まれる孤独感は家族の回復で解決されることなのだろうか。そもそも従来の意味での「家族の回復」は可能だろうか。
旧来の血縁による家族や、家族主義的な会社にかわって、新しい原理に基づく共同体が生まれる必要があるのではないか。そしてそれは今、生まれつつあるのではないか。現代はその過渡期であり、その1つの形態として「ペットの家族化」も考えるべきだろう。
たとえば、犬を飼っている人は、毎日の犬の散歩によって地域の人々と「犬仲間」としてつながることができる。ペットは人の孤独をなぐさめるだけではなく、もっと積極的に、人を社会に開く役割をも担うのである。
また「動物介在療法」は未来を切り開くモデルではないか。老人施設などでは、施設内で飼われるペットが福祉の中心的役割を果たし始めている。そこではペットがいることで、周辺の子どもたちが施設に入ってくるようになり、老人たちとの交流が生まれる。ペットは家族の補完ではなく、人と人を結ぶための媒介になっているのだ。
3月 12
■ 目次 ■
1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」
7.「普段から」
人は「準備」していないことには対応できない。しかしそれは、緊急時に対する特別な準備に限定されないはずだ。むしろ、その人が「普段」から何を考え、どう仕事をしていたかがすべてを決めたと言える。なぜなら、普段やっていることの延長上のことしか、人はできないからだ。緊急時に発揮できるのは、普段から日常の中で行っていたことからおのずと出てくる能力、行為の範囲に限られる。
石巻赤十字病院の地域救急救命センターの石橋悟センター長は「日々の医療をきちんとやること、想定外への備えもその延長線上にしかないと思う」(186)と語っている。
私は2011年の12月に石井正医師にインタビューをした。彼の専門は外科なのだが、外科手術は予期しないことも起こるから、迅速な判断の連続だ。それゆえに最大限の準備(予習)が必要なのだ。「そういう意味で普段やっていることと、今回の震災後の活動は変わらない」と石井は語った。彼らの世界に「想定外」はない。
また、今回も被災地の県庁や市町村の「行政批判」がずいぶん多く行われた。被災した住民や医療関係者、ボランティアからの行政批判。マスコミもそれに加担した。もちろん行政には問題があった。その硬直した対応、時間がかかる対応には問題がある。しかし、行政もまた被災していた。問題があるのならば、それを解決できるのは被災した住民たち自身だけだ。そうした「自立的な」活動をしないでいて、行政批判をしていたならば、それは甘えであろう。普段から行政に依存していた「お上意識」の裏返しの役人批判ではないか。普段から「自立していた」人たちは、危機的状況下では行政を無視し、さっさと自分たちで動いたはずだ。そうした視点を出せないマスコミも同じ穴のむじなである。
県のコーディネーターとして任命されていた石井は、その肩書きを最大限利用し、「東日本大震災に対する石巻圏合同救護チーム」を立ち上げた。「行政も頑張っていましたよ。でも、避難所が300か所、推定死亡者数1万人。行政の力だけでは無理だし『私たちは医療者ですから医療以外のことはできません』とはいえないでしょう」(石井)。
今回の震災で問われたのは、私たちの現実への向き合い方なのではないか。現実を直視し、ごまかさない。そこにあるリスクを認め、それを管理するための日常的な努力をする。そして「自立する」。それは生き方そのものの問題だろう。
しかし、支援のしかたでも、報道でも、依然として、同じ間違いを犯し続けているのではないか。つまり現実を直視せず、キレイごとを垂れ流す。
例えば、被災地や避難所で、本当のリスクはきちんと報道されただろうか。そこで起こる犯罪、性犯罪、弱者への犯罪。ボランティアがどれほど迷惑をかけているか。それらは報道されただろうか。「美しい話」「感動的な話」を情緒的に垂れ流すだけで、本当の問題をきちんと提起できなかったのではないか。
被災地を忘れないということは、被災地のリスクをしっかり受け止め、自分自身の生活や周囲の状況の中で、リスクを直視しリスク管理を始めることだろう。キレイごとは、それを忘れさせるのではないか。
8.「性悪説」
しかし現実を直視せず、リスク管理ができず、自立できないでいるのが、私たちの社会の現状なのである。この問題を本気で考えるためには、そうした生き方とセットになっている人間観とは何だったのかを見なければならない。それは「性善説」だったのではないか。「性善説」という暗黙の了解のもとに、互いにもたれ合い、自立しようとしてこなかったのではないか。だから私は、基本的な人間観の一大転換が必要になると思う。従来の「性善説」から「性悪説」へ。
私はここで、「性善説」と「性悪説」という概念を、ただ人間の本性が善か悪かという違いで提示しているのではない。今まで述べてきた、現実を直視しリスクを見ることができるかどうかで、「性悪説」と「性善説」との分けて考えようと提案したいのだ。
「性悪説」の立場とは、次のように考えて生きることだ。
人間は誰もが悪の側面、弱さを持ち、悪は常に内側に可能性としてあり、それが実際に外に現れているか、否かだけが違う。どんな人も、権力を持ち、金と人事権を持てば必ず堕落する。だからたえざる相互チェックが欠かせない。自分の内の悪、他者の中の悪を直視し、それを指摘しあい、批判しあうだけの勇気と覚悟が必要なのだ。
名誉欲、出世欲、権力欲、支配欲は誰もがもつ。それが本人の成長や、周囲の発展につながる場合もあるが、他を抑圧する方向に向かう場合もある。また、支配者に支配されたいという依存の傾向もまた私たちの中にある。それら全体をどうコントロールしていくか。
ではなぜ今までは、こうした「性悪説」の立場に立たなくでもやってこられたのだろうか。
以前は、「悪」がなかったのではなく、ほどほどの貧しさの中で、しかも閉じたムラ社会の中では、みながそこそこで満足して共生するしかなかった。そこではそれなりの相互チェックが機能していた。「世間体が悪い」「恥」などの道徳で、あまりにも大きな悪が生まれないように規制できた。
また高度成長期には「少しでも豊かになりたい」という欲望で人々がつながることができた。「会社人間」として個人と組織が一体で機能できた時には、ムラ社会の規律が機能した。しかしその時代は終わった。一応の豊かさは獲得され、その先の目標を全員が共有するのは難しくなった。時代にあった変化に対応することが組織にも個人にも求められる。そして個々人がそれぞれの欲望と価値観のもとに生きていく時代になった。これは以前よりもはるかに高い発展段階であり、そこでの原則は以前より人間とその社会の本質と現実を厳しくとらえたものでなければならない。それが「性悪説」の立場である。
「悪」は可能性としては常に存在する。私たちにできることは「悪の管理」だけなのだ。「悪」「弱さ」「甘ったれ」は、私たちの内なるリスクである。それは本当は、いつでもどこにでもある。それをなくすことはできない。できるのはリスク管理をすることだけだ。リスクをできるだけ自覚し、その計量と予測と、最悪をも覚悟して生きることだ。そして、こうした人間観を前提に、制度や倫理を再構築していくべきなのだ。
「リスク管理」ということばが震災後さかんに言われるようになったが、悪の管理こそが究極のリスク管理ではないか。ここまで突き詰めないでいるリスク管理は必ず破綻する。それは能力の問題であり、「生き方」と「死に方」の問題なのである。