3月 11

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

5.「自己完結型」の支援

 もう1つの例をあげよう。今回の被災地域には、多数のボランティアがかけつけた。「他者を救う」ため、「他者を支援する」ためである。その動機は美しいし、その行動力も尊い。しかしそれを全面的に肯定するわけにはいかない。ボランティア活動のためにかけつけた人々の中には、被災者たちに迷惑をかけた人もいたからだ。「来ないでくれた方が良かった」と言われている人たちがいるのも事実だ。
だからこそ、今回は「自己完結型」の支援ということがよく言われた。ボランティア自身の食料、住む場所、安全性などを周囲に依存せず、すべて自己管理で行うものだ。そうでない限り、被災者側に負担をかけることになる。緊急事態で「他人を救う」には厳しい条件があるということだ。
特に、精神的に自立していることが求められる。それは自分の精神状態を厳しくコントロールできなければ、他人を救えないどころか、自分が救ってもらう側になって、迷惑をかけるからだ。
例えば、石巻赤十字病院では、救援物資の受け入れで事務方の職員は仮眠すらできなくなってしまった。そこで夜の11時から朝の6時までは受け付けないことにした(74ページ)。また、被災したスタッフを休ませるべきか、それとも仕事を続けさせる方がいいのかという葛藤があった。結論は、休むかどうかは自分で、自己管理をして決めていいとした。(201,202ページ)。この自己管理という課題はとても難しいだろう。周りがハードに働いている時に、それに流されず自分の状態を見つめ、休むことを決めなければならない。しかし、まず何よりも真っ先に最優先で救わなければならないのは、自分自身なのだ。自分を救えなかったら他人も救えないからだ。
他人を救うには、自己管理ができるかどうかが問われる。それは普段から自己の弱さを熟知しており、それをコントロールできること。つまり自分の内部のリスクの直視と、リスク管理ができていること、つまり「自立」ができていることが必要なのだ。そうした人は、普段から、自分のリスクや弱さを直視し、自分の限界を知りつつ、周囲に流されないだけの生き方をしていたのだろう。つまり能力と生き方は1つだ。

6.「準備」

また、今回の人命救助、復旧・復興支援の成否の最大のポイントは、「準備」ができていたかどうかだった。国や県、基礎自治体などの行政側、警察、消防、自衛隊、医療関係者たちに、どれだけの事前の「準備」ができていたのか。危機的状況への具体的対策として、制度、規則、組織をどう整えていたか、どれだけの実地訓練ができていたか。各組織を横につなぐ連携はどこまで実現できていたか。それは地域によって大きな差があった。
宮城県では宮城県沖地震を想定して「救急医療協議会」での協議が行われていた。2006年には仙台で「日本集団災害医学会」の集会が行われ、そこで「宮城県沖地震に対する医療の備えを強化するための7つの提案」が採択。その中の「災害医療コーディネーター」制度の設置が2010年に決定。2010年から「石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会」が立ちあげられ、県や市役所、警察、自衛隊、海上保安庁、近隣の病院などが互いに顔を知っている関係にあった。石巻赤十字病院の石井正医師はそのメンバーの1人だが。彼が石巻地域の「災害医療コーディネーター」に任命されたのが3・11の1か月前。彼は震災後の3月20日に「東日本大震災に対する石巻圏合同救護チーム」を立ち上げた。石巻赤十字病院が災害拠点病院として、医師会や東北大学の医療チーム、日赤救護班、精神科医師団、歯科医師団、薬剤師会を一元的に統括することになった。「災害医療コーディネーター」制度がかろうじて、間に合った形だ。
岩手県では、2008年に「岩手・宮城内陸地震」「岩手県沿岸北部地震」があり、岩手県の防災システムに大きな問題があることが明らかになっていた。そこから真剣な準備が始まった。県庁の総合防災室に災害防災のプロたちが結集し、2年をかけて対応システムの見直しをした。大災害時には全救助組織の代表が県庁の災害対策本部に集結することが決まった。全情報を皆で共有し、活動を一体的に指揮する。こうして消防、警察、海上保安庁、自衛隊、医療関係者と行政が一体で動く機能的な体制が作られた。その中心にいた小山雄士が室長に就任したのが2010年。こうして生まれたすばらしいシステムも、絵に描いた餅では実際の場面で機能しない。小山たちは2010年の9月には大掛かりな実地訓練を実施。消防、警察、海上保安庁、自衛隊、医療関係者と行政が一体になった、本番さながらの大訓練だった。それから半年、3・11が来た。
こうした準備がなんとか間に合ったのは、そのために奔走した方々がいたからこそだ。その一部は本書でも取り上げさせていただいた。

3月 10

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

3.リスク管理

数々の問題が明らかになった中で、最も深刻なのは、リスク管理の問題であろう。「想定外」という言葉で、本来考えるべきリスクが無視、軽視されていた。その結果、当然ながらリスク管理はできず、津波対策はなされていなかった。
リスクを見ることができない。それを直視できない。それは「安全神話」が形成され、それに抵触する言動が封じられるような状況があったからだ。しかし、今回の事故で安全が完全に壊れた今、これまでの「リスクか安全か」という2項対立は成立しない。「すべてはリスクでしかない」という考え方が、大前提になるべきだ。そして、その上で初めてリスクの管理を考えられる。リスク管理の問題がすべての国民に明確に提起された。これは大きなことだと思う。なぜなら「安全神話」を作り上げたのは、東電や政府、「原子力ムラ」などの原発推進側だけではないからだ。反対側も、「リスクか安全か」という2項対立を迫ることで、結果的には「安全神話」形成に加担していたのだ。その点をはっきりと認識することが必要だと思う。
反対派は冷静で客観的なリスク管理を求めたのではない。リスクゼロという「不可能」な基準を推進側に求めた。それを受けて、推進側も嘘を承知で、リスクゼロと説得するしかなかった。そのリスクゼロとの主張が自縛となり、本来は「想定」すべきリスクを認められなくなり、リスク管理を不可能にした。しかし、両者ともに、それがウソであることを感じていたのではないか。しかしリスクを見たくはなかった。現実を直視し、現実的な対応をする力はなかった。
このリスクを見ない、見ようとしないという精神的傾向は、決して原発反対派だけでも、推進派だけにあるのでもなく、そうした精神的傾向は、もっと広く一般に私たち皆が持つ傾向性ではないか。
つまり、「キレイごと」でごまかし、現実を直視しない。「建前」を言うだけで「本音」レベルの対決を避ける。周囲の暗黙の了解には逆らえず、「空気を読み」ながら生きている。
本来は、リスクは可能性としてはいつでもどこでも存在する。リスクをなくすことはそもそもありえない。私たちにできるのは、より小さなリスクをめざし、そのリスクの可能性が実際に実現しないように努力することだけなのだ。そうした厳しい認識が、原発事故のような大きな危険性においてはどうしても必要だったろう。
しかし、私たちの普段の生活においても同じことがおきているのではないか。見たくないリスクは見ない。「幸い」にも、高度経済成長下では厳しい認識の上に立たなくてもやってこられたのだ。そのために、そうした考え方、そうした能力は育たなかった。それは「生き方」の問題であり、「死に方」の問題である。

4.トリアージ

この問題をより具体的に実際に考えるには、震災後の災害医療や対策本部のあり方から考えるのがわかりやすい。災害医療については、テレビや新聞などのマスコミ、多数の著書で紹介されている。ここでは主として石巻赤十字病院が経験したことを例としたい。震災後、宮城県の石巻地区は孤立し陸の孤島となった。そこで地域の医療活動の中心となったのは石巻赤十字病院だった。その活動は、由井りょう子と石巻赤十字病院著『石巻赤十字病院の100日間』(小学館)や、石井正著『石巻災害医療の全記録』(講談社ブルーバックス)などで詳しく報告されている。私自身も石井正医師ら関係者に取材した。以下、『石巻赤十字病院の100日間』からの引用には括弧内にページ数を記載した。 
まず、「トリアージ」を取り上げよう。
「トリアージ」とは、災害や事故で多数の負傷者が出た際に、負傷者を緊急性や重症度によって分別し、治療の優先度を決定することである。救命需要が同時多発し、搬送や治療に制限がある状況下で可能な限り多くの人命を救うには、医師を含めた医療資源を効率的に配分する必要があるからだ。
分別の方法は負傷者を「緊急治療群」「非緊急治療群」「治療不要もしくは軽処置群」「死亡もしくは救命困難群」に振り分け、それぞれの患者の手首や足首にそれぞれ「赤」「黄」「緑」「黒」のトリアージタッグをつけていく。「赤」は出血多量や気道閉塞など生命の危険が迫っており、緊急治療が施されれば助かる見込みがある患者で、最優先で処置がなされる。「黄」は自力歩行が不能だが、治療の遅延が生命の危機に直接は繋がらない患者、「緑」は歩行可能で、必ずしも膚門医の治療を必要としない患者である。災害時にはこの「緑」が最大数になるケースが多い。そして「黒」は死亡しているか、心肺蘇生を施しても蘇生の可能性の低い患者で、処置は後回しとなる(以上『石巻災害医療の全記録』より)。
この「トリアージ」は、極めて特殊な状況下で行われる特殊な事態であるように見える。それは患者の選別であり、一部患者への医療放棄である。それはヒューマニズムに反することであり、普段なら許されない。それは危機的な緊急事態でだけ、限定的なこととして許されている。しかしそれは「ひどい」「むごたらしい」ことだから、テレビ番組では、そうしたトリアージの場面は取り上げない。やはり「タブー」なのだと思う。
しかし、トリアージは特殊な状況下に起こる、特別なことなのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、普段から行われていることが、緊急時だからこそ、むき出しの形で現れただけなのではないか。
最初から、私たちの社会が医療にさける資源・コストは限られている。そこに投入できる人、物、金、技術は限られている。その限られた資源を有効活用するしかできないし、実際にそうしている。しかし、その真実は、むき出しにさらされているのではない。見えにくい形で行われているので気付きにくいのだ。ところが、実際には社会が医療に投入できるコストは限られ、それをどう配分するかが、今問題になっている。そこでは当然ながら、有限な資源の「最適」な配分が問われる。
すべての人に、等しく最高の医療を提供することはできない。国によっても格差があり、日本国内でも首都圏と地方でははっきりと格差があり、個人としても貧富による格差がある。しかし、それは普段はごまかされ、身もふたもないことは言われないでいるだけなのだ。
ここでも、本当のこと、リアルな現実を直視できないという事実がある。キレイごとに慣れ親しみ、事実を直視できなくなった人だけが、今回のトリアージを異常事態での特殊なこととして見るのだ。私は、普段の状況が濃縮した形でむき出しで表に出ただけだと思った。

3月 09

私の新著『被災大学は何をしてきたか – 福島大、岩手大、東北大の光と影』 (中公新書ラクレ) が刊行されます。
3月10日発売。540ページ、1300円です。

取材開始が2011年7月。それから2年半が過ぎました。

3・11以降の福島大、岩手大、東北大の復興支援活動を報告しています。

国立大学は2004年に法人化しました。1990年代から大綱化、教養部解体、大学院重点化と矢継ぎ早の改革の嵐でした。

その改革の成否が、今回の支援活動の中で、問われたと思います。

編集部の用意した案内文は以下です。
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「地方国立大学不要論」を払拭すべく、法人化後の大学はここぞの危機で社会貢献ができるよう地域の中核的存在をめざしてきた。
震災前からの中長期の改革の流れを視野に入れながら、個々の取り組みを大学ウオッチャーが徹底取材。
活躍した人・組織の成功の理由は?
巨額の復興予算に潜む問題とは?
地方国立大学はいま何をすべ きか?
———————————————————–

本書は国立大学の現状と課題の報告でもありますが、
私が一番したかったことは、
3・11が明らかにした日本社会の問題が何なのかを明らかにすることです。

それを提示した最終章「リスク管理と自立 ―東日本大震災で明らかになったこと」を掲載します。

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

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リスク管理と自立 ―東日本大震災で明らかになったこと

1.危機にこそ本質が見える

東日本大震災は、甚大な被害をもたらしたが、同時に、現代日本社会の問題やその本質をむき出しの形で見せてくれた。そこで、何が明らかになったのかを、最後に述べてみたい。これは日本の大学問題を考える上でも重要だが、それ以上に、私たちの社会の根源的な問題、課題を突き付けているからだ。
危機にこそ本質が見える。そして本質は、きわめてシンプルで論理的なものだ。そこから、もう一度原社会の原則、生きる上での原則を見直してみたい。
今回の大震災以降の混乱の中で露呈した諸問題は、自然災害、原発事故という、特別な危機的状況によって、明らかになった。しかし明らかになったことは、特殊な状況ゆえの特別な問題ではないと思う。こういう危機にこそ普段見えなかったものがハッキリと姿を現わす。それは以前から眼前にあったのだが、見えにくく、隠されていた。それがはっきりと露呈し、むき出しの形で見えただけのことだと思う。
それを一言でいえば、リスク管理と自立の問題だろう。それはさらに「能力」と「生き方」の問題にまで深められるし、究極的には人間観の転換、つまり「性悪説」にまで遡及しなければならないと思う。
このことをより具体的に実際に考えるには、震災後の、福島原発事故と災害医療のあり方において露わになった問題を見ていくとわかりやすい。

2.「国家」が現れた

東京電力(東電)の福島第1原発の爆発とメルトダウン、大量の放射能汚染。この事故によって明らかになったことは、私たちの社会の核心的問題である。
まず、事故後の対応の過程で「国家」が現れてきた。その象徴的な場面は、民主党政権の菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込んで東電幹部らを恫喝したとされるシーンだろう。その後、菅政権はただちに東電本店に対策統合本部を設け、政府と東電の一体的な危機管理を図った。この過程で東電と官邸の闘争が話題になって、菅首相のリーダーシップが、政敵やマスコミによってずいぶん叩かれた。しかしそれは問題の矮小化だと私は思っていた。核心的なことは、こうした危機的状況下では「国家」しか最終責任を持つことはできないと言うことだ。そして改めて、原発推進こそが、石油危機以降の日本の国策としてのエネルギー政策だったことが浮かび上がった。
原発は日本の国策だった。しかし、それを推し進めたのは国営企業ではなく、東電などの民間の電力会社だった。この国策民営の矛盾が、事故後の危機管理を巡る混乱の中ではっきりと現れた。国(経済産業省)と東京電力の間には長く、闘争や葛藤があった。それはエリート同士の対立、反発、憎悪の「共依存関係」だったようだ。それが最後に爆発したのが、菅直人の東電本店への殴り込みの場面だったのではないか。そして、それは「国家」がなんであるかが見えた時だった。
今回のような事故ではその現場での事故対応では「死」を覚悟する必要があった。その時、「死を覚悟」せざるえない作業を人に命ずることができるのは何者なのか。民間企業なのか、国家なのか。また、そうした命令を受けるべきなのは誰なのか。それが明確に問われた。そしてそこでは、また1人、1人の「死生観」が問われたのではないか。「死」をかけても守るべきことは何か。生命よりも大切なものがあるのか。そうした問いの答えを出していない人は、「いざ」と言う時に動けなかったのではないか。
ところが、こうした視点からの報道がほとんどない。日本では長く「国家」を扱うことがタブーだった状況がある。左翼系の「進歩的文化人」は「国家主義」の右翼勢力への対抗上、また「国家の死滅」を目標にするマルクス主義の影響で、国家を問題にすること自体を封印するような面があったのではないか。また、死を直視すること自体もタブーとされてきたのではないか。
原発が国策だったということは、そこには政治家や官僚の全面的な関わりがあり、財界も関わっている。当事者である東電は、財界を代表する存在でもある。そして国民はずっと自民党政権を支持することで、、間接的に原発を支持してきた。全員がグルのような関係がそこにあった。
また、東京(中央)と福島(地方)の経済的関係も、改めて東京の人間に対してはっきりと示された。東京の人間の使用している電気は、福島県の原発から送られてきていた。今回の事故で家も故郷も仕事も失った原発の地元の人たちは、その原発の電気を使用していなかった。もちろん、中央や国、東電から「見返り」として、福島へは多額の補助金や寄付金が送られている。みながグルなのだ。「原子力ムラ」内部だけがグルなのではない。

2月 18

アダム・スミス『国富論』の読書会の案内

2月と3月の読書会テキストは、アダム・スミスの『国富論』です。

経済学の創始者スミスは、近代という時代の大きな転換点で、
人間について、人間の社会の公平・公正について、国家について、
徹底的に考え抜いた人です。

大きな人間で、
普通はタブーになっているようなことでも、
あけすけにズバリと言ってのけます。
唸ることがしばしばです。

経済に関心のある人、
現代社会をその基礎の基礎から考えてみたい人にとって、
必須の本だと思います。

参加してみませんか。

テキストの全部が読めなくても、参加して聞いているだけでもいいと思います。

希望者は連絡ください。

日時は
2月22日午後5時から7時まで 読書会
3月22日午後5時から7時まで 読書会

テキストは岩波文庫版ではなく、中公文庫版(?、?、?の3冊)で読みます。訳文の点と共同研究が背景にある点で、そうします。

2月は
『国富論』の第2編(文庫?)、第4編(文庫?)を通読します。

3月は
『国富論』の第3編(文庫?)、第5編(文庫?)を通読します。

昨年12月は
『国富論』の第1編を通読しました。
スミスが、予想外に、または予想通りに
大きな存在であることが確認できたので
2回ではなく、3回に分けて
少し丁寧に読みたいと考えました。

2月の
『国富論』の第2編、第4編について

第2編は経済の本質論です。
ここはじっくり読む必要があります。

第4編は経済学史であり、
スミスの時代の世界経済の現代史であり、
スミスの経済学上の立場がはっきり示されるはずです。

小見出しだけは通読し、
面白いと思ったところを読んでみてください。

3月の
『国富論』の第3編、第5編について

第3編は都市と農村の関係論、また歴史的な都市論です。

第5編が、スミスの近代国家論(経済学から見た)です。

これらの読み方はまた説明しますが
小見出しだけを通読しておくことです。

なお、小見出しだけを通読するのには
文庫?の「小見出し一覧」を読むのが便利です。

12月 24

来年のゼミの日程で、1月の読書会の1月25日を1週間後の2月1日に変更しました。

また、1月と2月の読書会のテキスト『国富論』と範囲が決まりました。

再度、スケジュールを以下に提示しておきます。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)連絡ください。参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。ただし文章ゼミは1回2000円。

◎来年2014年の1月以降の予定

1.日程

1月11日 文章ゼミ
2月1日 読書会
2月8日 文章ゼミ
2月22日 読書会
3月8日 文章ゼミ
3月22日 読書会

2.読書会テキストについて
(1)1月
『国富論』?の第2編と
『国富論』?の第4編

(2)2月
『国富論』?の第3編と
『国富論』?の第5編2014年1月の読書会

 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と
 雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

 岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
 「要約的小見出し」だけを読んでも一応読めること、その注釈が「使える」点がすぐれているからです。共同研究が背景にあるのでしょう。

今月12月の読書会で『国富論』の第1篇を通読しましたが、その大きさと面白さに驚きました。

 第2編は重要です。
スミスの「資本論」です。

第3編は、都市と農村の関係がテーマです。
都市がどのように領主や王権から自立し、農村を簒奪したか。

第4編は、経済学の主要な主張の歴史です。重商主義と重農主義が比較検討され、スミス自身の考えが示されます。

第5編は、国家の役割、国家と国民との関係がテーマです。
スミスの国家観が明らかになります。

第3編から第5編は、まず「要約的小見出し」だけを読み、
その中で重要と思う個所、面白いと思う個所だけを
読めばよいと思います。

◎毎週月曜日のゼミ
1月13日から開始します。

(1)日本語文献の読書会 午後5時より
  関口存男の冠詞論を読んできましたが、
いよいよ3巻目『無冠詞論』も終わりに近づきました。ラスト2章を読みます。
  その後、関口『ドイツ語講話』を読みます。

(2)ドイツ語原書講読 午後7時より
  昨年後半はマルクスの「労働過程論」から
ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』204節から212節)を読みました。
それらを受けて、ヘーゲルの「目的論」(『大論理学』)を読みます。
ヘーゲル論理学の山場の一つです。
ズールカンプ社版全集第6巻を使用します。