5月 14

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その4

 ■ 本日掲載分の目次 ■

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

 本稿の(1)では、アリストテレスの核心を次のように述べた

 「【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
  【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
  この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていること
  もすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。

  この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
  並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
  【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
  その結果、【3】を説明することができたのだ」。

 本稿の(2)では、アリストテレスの課題はプラトンから
イデア論を学んだ一方で、プラトンのイデア論では
運動の説明ができない点を克服することだったと述べた。
言い換えれば、イデア論の限界を、イデア論を発展させることで、
乗り越えること。

 それはどのように行われたのか。
それこそが、『形而上学』の核心部分であり、
【1】?【3】の3つの問題を統一的に解く回答がそこに示される。

 アリストテレスの回答は、端的に言うと次のようになる。

 プラトンは、現実の個物にそのイデアを対置し、イデア研究を目的とした。
アリストテレスは現実の個物にこだわり、その運動を説明したかったので、
個物には、形相と質料のセットを対置した。プラトンのイデアの代わりに、
この形相と質料のセットを置き、この両者が現実性と可能性として
運動すると説明した。その運動の結果が個物である。
形相とはイデアと言い換えても良いので、質料こそがアリストテレスの
創案と言えると思うが、質料の設定は、イデア論への反駁のためであり、
運動を説明するためなのだ。そして、質量から形相への運動によって、
全世界は初めて構造的に体系化された。

 以上は、『形而上学』においてどのように展開されるか。

 まずアリストテレスは、第1巻の3章で、『形而上学』の目的は
始源的な原因の認識だとする。そしてその原因として4つを提示する。

 a)実体であり、「なにであるか」、
 b)質量であり、基体(主語)である、
 c)「物事の運動がそれから始まるその始まり」(始動因)、
 d)「物事の生成や運動のすべてが目指すところの終わり」(目的因)。

 このa)とb)を、7巻の3章でまず取り上げ、それ以降の章でそれに答える。
これが、【1】の個別と普遍、現象と本質の関係の問題である。
その上で、8巻でそれを捉え直して、個別の運動についての
c)始動因と、e)目的因の説明をする。
それを展開するのが8巻と9巻であり、以上が【2】の変化・発展の問題である。

 この個別の運動の説明を踏まえて、アリストテレスは進化の全体像、
生物などの分類の全体像を示すのだが、7巻の12章で分類の原理が示され、
実際の展開、特に神や天体の運動までの広がりは、9巻の8章で描かれる。
以上が【3】の全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題である。

 以上がアリストテレスの回答であるから、『形而上学』の核心部分とは、
7,8,9巻であることがわかる。
これを実際のアリストテレスの叙述に即して、見ていく。

 まず、始元的な原因を考える上で、判断の形式、「定義」「説明方式」が
前提であり、判断論(定義)の主語・述語関係からすべてを考えていく。

 アリストテレスは、事物を実体と属性にわけた時に、
判断の主語に来るのが実体で、述語にはその属性が来ると考える。
主語の位置に来る言葉、つまり基体=主語で、決して述語にならないもの、
つまり「実体」としては、結局は、以下の3つが導出される(7巻3章から6章)。

  【1】 質料
  【2】 形相
  【3】 個別(質料と形相の2つから成る)

 もちろん3つは、それぞれで、その「述語にならない」と言う意味は違う。

 「個別」はすべての個別が相互に異なっているのだから、
ある個別が主語の文の述語に他の個別はおけない。
「質料」は、それ自らは不可認識的で、規定することができないと、
アリストテレスは言う。
「形相」は、規定そのものだが、それはすべての述語を含んだものなので、
述語にはならない(とアリストテレスは考えているようだ)。

 この3つの関係を、判断の形式における部分と全体の関係で分析しながら、
アリストテレスは結局、形相を質料に内在化するものとしてとらえ、
質料と形相の結合体が個別であり、この個別においてしか
生成・消滅の運動はないとした。(7巻10章から12章)

 そして、個別におけるこの3者の関係が、運動の観点から捉え直されるのが8巻である。

 8巻の第2章で、個別を形成する質料と形相の内の質料を「可能的存在」とし、
形相を「現実的存在」と捉える。ここで運動とは、可能性から現実化への
転化としてとらえられ、その質料と形相の結合によって、個別の運動が説明される。

 ここで、質料=可能的存在、形相=現実的存在とする理解には、
驚くのではないか。世間の常識とは一見反対に見えるからだ。
質料は物質のような材料として、直接に存在するもので、
形相は最初は目に見えない。だから、質料が現実的で、
形相は可能性でしかないというのが普通の理解だ。
それが逆転しているところに、アリストテレスの独創がある。

 質量は確かに存在しているが、実現するものの材料でしかないから、
その面からは可能性でしかないのだ。
一方、形相とは、その材料によって実現されるもので、
可能性(材料)を現実化するものこそを現実的なものだと、
アリストテレスはとらえる。

 これは「始まり」「終わり」の理解に関わる。
「終わり」は、もし「始まり」に内在化していなければ、出てこないはずだ。
逆に言えば、「始まり」に何が内在化されていたかは、
「終わり」で明らかになる。つまり「始まり」は「終わり」であり、
「終わり」は「始まり」である。
ここに、ヘーゲルの発展観の芽がすでにあることがわかるだろう。

 以上は、個別の運動の説明方式だが、それを全体として展開すれば
この世界の構造が示されるはずだ。

 生物や、物質などの自然界は、アリストテレスによって、
徹底的に分類され、秩序化された。それは類と種の関係性による。

 類は種差によって種に分化されていく。その種も次のレベルにおける類として、
次のレベルの種差によってまた種に分化されていく。

 ここで、類が質量であり、種差が形相であり、それによって分類される種が
個別なのである、この種は新たな類であり、新たな質料としてとらえられる。
その類(質料)は、次のレベルの形相による種差によって、
次の個別=さらに新たな質料=新たな類へと展開する。

 こうして質量から形相への運動が、ここでは類とその種別化になり、
この自然界と全世界の構造をあらわすことになる。

 ある類の後には同じ原理で分化が繰り返され、
種別化が展開し、それが無限に続く。
その類の前にも同じ原理で、前のレベルの類へと無限にさかのぼれる。
そうしたときに、類を遡れば、一番最初の類が想定され、
それは質量だけの存在になるはずだ。

 他方、最後まで展開し終わった時に、形相のすべてが現れるはずだが、
その形相は実は、真の始まりであるから、この世界の始まりには
形相だけの存在が想定され、それが「神」「不動の動者」になる。
これがアリストテレスの世界観である。

 以上で、当初の問題のアリストテレスの回答が示された。
ここに初めて、【1】個別と普遍(本質)の問題、【2】変化・発展の問題、
【3】全世界の構造の問題、この3つのレベルを統一して、
1つの原理で貫く思想が生まれた。これがヘーゲルに決定的な影響を与えている。
ヘーゲルの「概念」は、アリストテレスの純粋形相(神)を捉え直したものだろう。

 しかし、アリストテレスとヘーゲルの決定的な違いがある。
それは人間の捉え方だ。
アリストテレスは、人間をどこにどう位置づけられたか。
『形而上学』の9巻の最初に、人間の特殊性が述べられている。

 9巻の第2章では、無生物と生物と人間の3者が比較され、
人間の本質は「思考」だとされる。つまり、人間の認識の運動だけは、
他の運動と全く違うとされる。人間だけが、1つの条件から、
2つの相対立する結果を導くことが可能で、それが選択(31ページ)になる。
そこに人間の、必然性からの自由の可能性を見ている。

 しかし、アリストテレスが到達できたのは、ここまでだった。
全世界の発展の中で人間が果たす役割の意味を明らかにできなかった。

 この人間の本質を、全発展の中に、全自然史の中に位置づけ、
その核心部分として捉え直したのが、ヘーゲルなのだ。
ヘーゲルは概念(神であり純粋形相)から始まった全自然の外化の運動が、
その外化の中に人間が生まれることで、その運動自らが、
外化の一方で内化の運動を始め、外化と内化との統一の運動が始まるとした。
そこが大きな転換点であり、それが人間の意味なのだが、
こうした往還運動が可能になったことで、概念の運動が
真に外化と内化の統一になる。

 アリストテレスにはこうした理解がなかったために、
外化の運動と内化の運動が統一できず、神を不動の動者として
設定するしかなかった。世界全体が運動する中に、運動しない固定点を
設けるという決定的な矛盾が起こるのは、人間という転換点を
理解できなかったからだと思う。

 ヘーゲルはその矛盾を解決することで、アリストテレスの世界観を
完成させたと言えるのだろう。それは近代社会を切り開くことにもなった。

 ちなみに、ヘーゲルの論理学全体では、アリストテレスの
自然研究の実証的側面は存在論の中で取り上げ、
アリストテレスが批判した「1」や数学は、存在の中の
量の箇所で取り上げている。それらは本質論以降に止揚されていく。

 アリストテレスが問題にした【1】【2】【3】の観点については、
【1】は本質論の前半、【2】は本質論の現実性で展開され、
その終わりに【3】が出ている。それらが概念論の主観的概念で、
再度判断論の中で展開される。ヘーゲルの判断論では、
質の判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断と
4つの段階に発展するが、これが【1】【2】【3】の展開
そのものになっている。さらにそれが推理論で、展開されている。
もちろん、こうした主観的概念から客観性が生まれ、理念が生まれて終わるのだが、
それによって、アリストテレスの全世界を完成させたつもりだったろう。

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