5月 13

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その3

 ■ 今回掲載分の目次 ■

 (6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
 (7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」

 今回、『形而上学』がある程度理解できたように思えるのは、
観点が明確だったからだけではない。
私の側に、その前提となる学習がある程度できていたからだろう。

『形而上学』を理解するには、その前提として『論理学』を
読まなければならないと言われる。事実、アリストテレス自身が、
自らの体系上で『形而上学』の前に『論理学』をおいた。
その意味は、『論理学』はあらゆる学問研究に先だつ予備科目で、
一般に正しく思考し考えるための「道具」「方法」であるとされている。

 その論理学の中心に判断論と推理論があるが、
特に判断の捉え方が重要だと思う。アリストテレスは『形而上学』において、
判断の形式からすべてを考えようとしているからだ。

 昨年はヘーゲルの論理学から「判断論」「推理論」を読んだ。
さらにカントの関連箇所、カントが参考にしたアリストテレスの論理学から
『カテゴリー論』と『命題論』を読み、言語学の学習会で、
関口ドイツ語学から『冠詞論』を読み、判断を中心に置いた
文構造の読みを展開していることを知ったこと。
同じような理解で日本語を考察している、日本語学者の論考も読んだ。
これらが私の側の準備になっていた。

 ヘーゲルと関口や一部のすぐれた日本語学者にとって、
その源泉はアリストテレスにあることが確認できた。
アリストテレスの考えを継承して、自分の哲学を作ったのが
カントであり、ヘーゲルである。

 アリストテレスの判断を説明する前に、そもそもなぜ判断の形式が
問題になるのかを考えよう。

 それは人類の認識や知恵は、この形の中に蓄積されているからだ。
それは人々の長い営みの中で生活の知恵として結晶している。
従って、個人が改めて真理を探す必要はない。
この蓄積の中にその認識と知恵を学べば良いことになる。
それがアリストテレスの基本的な立場なのだ。
これはソクラテス、プラトンからアリストテレスへと継承された、
基本中の基本だろう。アリストテレスにとっては、判断の形式、
「定義」「説明方式」がすべての前提で、すべての対象を
それに関する判断(定義)の主語・述語関係から考えていく。

 さて、この判断論と、判断の根拠に遡る推理論においては、
アリストテレスの2面性がはっきりと現れている。
ナカミのない形式主義者である面と、他方で
圧倒的にすぐれた思索を展開した面とである。

 その形式主義の側面とは何か。

 アリストテレスは、判断(命題)を一般の文と区別して、
真偽が決まるものに限定して判断(命題)と考える。
ここがすでに悟性的なとらえ方だ。1つの判断を他から切り離し、
それだけで固定させて、その真偽を捉えられると考えるからだ。

 こうした前提のもとに、アリストテレスは判断全体を分類し、
その相互関係を明らかにしようとする。ここまでは良いのだが、
その捉え方が、機械的で、実に悟性的なのだ。分類や相互関係といっても、
結局は、その命題の真偽だけを問題にすることに終始するからだ。

 アリストテレスの分類とは、判断の文が肯定か否定かと、
主語が全称か特称かで大きくわける。その組み合わせは4種類できるが、
それらの関係を「矛盾」「反対」「小反対」「大小」の4種に整理し、
一方の判断の真偽から、他方の真偽が自動的に演繹される体系を作った。
ここでは真偽が対象世界から切り離され、機械的で形式的な作業で決められる。

 さらに、この判断の真偽の根拠を遡ると推理(3段論法)が
導出されるのだが、ここでも、アリストテレスは推理全体の分類と
相互関係を考える。まずは、推理を定言3段論法、仮言3段論法、
選言3段論法に分類し、それぞれの推理を大前提と小前提と結論の関係から、
1格から3格までの種類に分類し、それぞれの格における真偽の基準を示すのだ。

 そして、ここでもアリストテレスは1つの推理を他から切り離して、
その真偽だけを問題にするので、極めて形式的な演繹のルールだけが示される。

 こうした判断と推理のルールは、対象と無関係なものだから、それは
「存在論」と対立する意味での「認識論」としての論理学と言えよう。

 こうした側面が、後に形式論理学として完成され、今日も記号論理学として、
大学などで勢力を誇っている。現代の普通の考えでも、判断は対象(主語)に、
ある内容(述語)を人間が「結びつける」「つなぐ」と考えられている。
そして、その判断が正しいかどうか(真偽)だけが問われるとされる。
ここには、主語と述語の言葉は、そもそもバラバラなもので、
それらを「結ぶ」のも「切り離す」のも人間だ、という考え方がある。

 こうした主語・述語関係は、人間、認識主体が、対象と無関係に、
対象の外部から、恣意的に、あれこれと「貼りつける」もので、人間の恣意的なものだ。
それが対象世界に関わるのは、判断の真偽決定の検討においてのみだとされる。

 以上の形式論理学ならびに、現代の普通の理解は、アリストテレスに始まるとされる。
しかし、アリストテレスにはもう1つの側面がある。
「存在論」として、対象世界そのものを判断の形式からとらえていく側面である。
そこでは判断は静止せず、運動した形で捉えられる。
そして存在の運動は、そのままで判断の運動、認識の運動となる。

 存在の運動とは、対象がその実体と属性とにわかれることであり、
判断の運動とは、実体が主語におかれ、その属性が述語におかれることである。

 そして、言葉を分析し、主語にしかおけないもの、主語にも述語にもなるもの、
述語にしかおけないものに分類する。それらの言葉の関係でも、
主述関係をさらに考えていく。

 この作業を積み重ねていくと、主語にしかならないものと、
述語におかれても、他の述語の頂点にくる言葉が把握できる。
その主語=基体で、決して述語にならないものを「実体」として、
またそれ以外の主要なカテゴリーを導出した。

 このように、主語(基体)と述語の関係から、対象世界の実体と属性との関係を
運動の中で捉えようとしているのが、アリストテレスの『形而上学』である。

 判断は認識の運動であると同時に、存在の運動の反映でもある。
アリストテレスは、いつもこの両面を見ながら論じている。
例えば、7巻の4章で、まずは「言語形式の問題」(234ページ)を考察し、
その後ただちに、「事実上の問題」(238ページ)を考察する。
その後も、アリストテレスは常に、両者を結びつけながら、対象に迫ろうとする。

 推理論でも、対象世界の運動を捉えようとするのが、
『形而上学』における推理の用語法である。そこでの推理とは、
現実の中にある運動を「始め」「中」「終わり」ととらえた3者の媒介関係、
媒介の運動として捉えていると思う。7巻の7章(249ページの「推理」)や
9章(258ページの「推理」)に当たられたし。

 こうしたアリストテレスにある2面性を指摘し、前者を批判し、
後者を高く評価したのがカントであり、ヘーゲルだった。

 ヘーゲルは、アリストテレスの後者の側面を、さらに大きく発展させている。
人間が対象を判断できるのは、対象世界が自ら判断し、
自らが何物であるかを示すからだ、ヘーゲルはそう考える。
その対象が自らに内在化していた本質を外に現すことが、
判断における主語と述語の分裂であり、それが1つの対象でもあることが
コプラによる主語と述語との一致である。判断も低い段階では、
主語は空虚で、判断の内容とはその述語にある。この主語と述語の
コプラ(一致)は、実際は完全には一致せず、その矛盾が判断という形式を
発展させ、次第に主語と述語の関係がより深いレベルで統一されていく。
それがヘーゲルの「判断論」の4段階の発展なのだが、これは、
アリストテレスが示そうとした判断の分類と相互関係に、
ヘーゲルが代案を示したものと言える。同じく、ヘーゲルの推理論は、
アリストテレスの推理論への代案である。

 今日では、アリストテレスが創始したと言われる「形式論理学」、
演繹推理を、ナカミのない形式主義であるとして否定する人も多い。
例えば、野矢茂樹は『論理トレーニング』(産業図書)の
3(注:アラビア数字)で「演繹」を取り上げ、演繹推理や
記号論理学のくだらなさを指摘する。
しかし、結局はそこから一部を取り上げ、練習問題を用意する。

 「形式論理学」を批判するならば、その低さの理由を示し、
それを克服する方法を明示するべきだろう。野矢はそれができないために、
結局はそれに追随しているのではないか。
では演繹推理におけるアリストテレスの低さとは何か。
それは普遍と特殊(個別)、肯定と否定を悟性的に対立させるだけで、
それらの相互転化を言えなかったことだ。それでは運動が起こらない。
ヘーゲルはそれらの相互転化を示すことで、発展として判断を展開して見せている。

 しかし、アリストテレスの形式的な演繹推理を、アリストテレス自身が
思考全体のどこに位置づけていたのかは、それとは別に考えるべきだ。
アリストテレスはただのバカではない。「運動」の説明を求め、
それができないでいるプラトン主義をもっとも激しく批判したのが、
アリストテレスその人だったことを忘れることはできない。

 ヘーゲルは、自らの「判断論」でも「推理論」でも、「形式論理学」は
ナカミのない形式主義であるとして徹底的に罵倒し、否定している。
そして、その責任の一端を創始者としてのアリストテレスに帰すとともに、
アリストテレスを擁護し、アリストテレスの偉大さは、実際のアリストテレスの
思考(例えば『形而上学』)では、彼の形式論理を使用していないところに
あるとまで言っている(『小論理学』187節注釈)。

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(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

 現在の形式論理学は、アリストテレスの『論理学』に基づくとされている。
そうした論理学の教科書の構成は、概念、判断、推理の順に展開され、
その根本原理として「三大法則」(「同一律」「矛盾律」「排中律」)が
おかれている。これは現代の記号論理学でも、基本的な部分は同じである。

 この「三大法則」は、『形而上学』では4巻で取り上げられる。
それを読んで驚いた。世間の説明と正反対だったからだ。

 かの有名な「矛盾律」は、次のように述べられる。
「同じもの(同じ属性・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、
同じもの(同じ基体・主語)に属しかつ属さないということは不可能である」
(上巻122ページ)。つまり「Aは非Aではない」。

 しかし、いわゆる3大法則は出てこない。そのことに新鮮な驚きがあった。
直接に、アリストテレスが原則として出しているのは、矛盾律だけなのだ。

 同一律(「AはAである」)は出てこない。もちろん矛盾律の中に
含意されているわけだろう。排中律は出てくる(「二つの矛盾したものの
あいだにはいかなる中間のものもありえず、必ず我々はある一つについては
何かある一つのことを肯定するか否定するかの、いずれかである」上巻148ページ。
つまり「AはBか、または非Bである」)が、これは矛盾律に内在化しているものを、
わざわざ引き出して見せただけだ。
 

 つまり、「3大法則」とは余計なもので、いかにも、バカのやるやり方だ。
アリストテレスはそうしたバカではない。

 さらに実際に読んでみて、「矛盾律」「排中律」についての
アリストテレスの叙述は、教科書の説明とは逆であることを知って、愕然とした。

 普通に考えると、「矛盾律」は、悟性的で、固定した世界と結びつき、
結果的に現状肯定の保守的な立場になると思う。

 確かに、規定、対をしっかりと確立させ、固定させるのが矛盾律なのだが、
アリストテレスがそうするのは、それによって、その先(反対の規定の相互転化)に
突き進みたいからだと思った。規定を、対立を明確にすることで、矛盾を屹立させ、
そこから運動を導出することをしようとしているのだ。
これは弁証法であり、絶えざる変革の立場であり、ヘーゲルそのものではないか。

 一方、普通の形式論理学者は、その先に進まないために、
現状を肯定するために、矛盾律を使う。
これがバカたちの理解するアリストテレスなのだろう。

 他方、矛盾律に反対する人たちは、生成、消滅や運動を説明できないとして、
規定や対そのものを否定する。その結果、対立があいまいになり、
矛盾が突き詰められず、結果的に運動を説明できなくなる。
(上巻137ページ以下に詳しい)

 排中律(つまり矛盾律)に反対するのは、相対主義者たちである。
アリストテレスは、そうした相対主義者の立場や心情を理解した上で、
その批判を展開する。

  「すべての現れがことごとく真実であると説く者は、
   すべての存在を相対的であるとする者である。
   それゆえに、理論上の強制力を要求すると同時に、
   自らの説の正当性を主張する彼らも、現れがただ端的に
   存在するというのではなくて、現れはそれが現れる人に対してそうあり、
   それが現れる時にそうあり、またそれも現れる感覚やその時の事情の
   いかんに応じてそうあるのである、と言って自ら警戒せねばならない。
   もし彼らがこのように自ら警戒することなしに、自説の正当性を
   要求するならば、彼らは直ちに自ら矛盾したことをいうことになるであろう」
    (4巻6章。上巻145ページ)。

 アリストテレスは相対主義を否定するのではない。むしろその徹底を求めている。
それが徹底できないで、あいまいなところで停止し、思考停止していることを
批判しているのだ。つまりアリストテレスの立場は相対主義の否定ではなく、
それを止揚した上での絶対主義なのだ。

 排中律を人々が嫌う理由は、選択、決断を迫られたくないという心情にあると思う。
それが相対主義者たちの本音ではないか。(4巻7章。上巻148,149ページ参照)

 以上を確認して、私は驚いた。私はすっかり騙されていたのだ。
 いわゆる形式論理学とは対極の所に、アリストテレスは立っていた。

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