6月 14

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の1回目 

吉木政人君は、この春に立教大学(教育学専攻)を卒業した。8年かかっている。彼は、5年前に私のゼミに通い、卒論で『山びこ学校』に取り組んでいた。その時は挫折し、ゼミからも消えた。

それが昨年の春に復帰した。こうした「復活」劇は、ゼミの歴史上初めてのケースとなった。彼にはこの4年間に、それなりの事があり、それなりの覚悟ができていたように思う。そして卒論にまた取り組むことになった。しかし、順調には進まなかった。

結局、12月の締め切りに何とか間に合ったものの、本人も納得できない内容だった。
今年2月3月の就職活動がきっかけとなって、書き直しをすることになった。その書き直したものと、それを振り返った文(「ありのままを認めるということ」)と、全体への私のコメントを掲載する。

吉木君のように、ゼミを1回やめてから「復活」したような人の経験こそ、読者にとって参考になるのではないだろうか。

なお、今回、卒論の一部ではなくすべてを掲載した。この長大な分量の3分の1ほどは、『山びこ学校』の3つの生徒作品からの引用である。それを省略することはできたのだが、このメルマガで『山びこ学校』を初めて読む方もいることを考えて、あえて全文を掲載した。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。戦後教育を語るなら、まずは『山びこ学校』を読まなければならない。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない、このメルマガの若い読者たちには、一度でもそれを体感してほしいと思う。『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。

■ 全体の目次 ■

・卒業論文「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
 →1回?11回
・ありのままを認めるということ 吉木政人
 →12回
・父親と向き合う 中井浩一
 →13回

■ 卒業論文の目次 ■

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
序章 →1回
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
 第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」 →2回
 第2節 問いについて →3回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 答えを出した結果どうだったのか →4回
第2章 江口江一「母の死とその後」
 第1節 「母の死とその後」 →5回、6回
第2節 2つの問い →7回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 次の課題へ →8回
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
 第1節 「ぼくはこう考える」 →9回
 第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
 第3節 佐藤の素晴らしさ →10回
終章  →11回

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◇◆ 「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 ◆◇

序章

『山びこ学校』は戦後間もなくの山形県山元中学校で行われた文章表現指導から生まれた詩・作文集だ。『山びこ学校』は1951年3月に出版されている。
私は『山びこ学校』の作文に力強さ、迫力のようなものを感じる。なぜ彼らはそのような文章を書けたのだろうか。『山びこ学校』の実際の生徒作品を詳しく分析することで少しでもその答えに近付ければよいと思う。
以下、『山びこ学校』に関する簡単な背景説明をしておく。
山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、無着成恭という新任教員である。無着は1927年生まれで、同じ山形県南村山郡内の出身だ。ちなみに当時、山形県の南村山郡にあった山元村は、1957年には上山市に編入されている。また、山元中学校は生徒減少のため2009年春から廃校となっている。
無着は戦前からの生活綴方に学び、自身がその実践を戦後の中学校で行った。山形新聞の論説委員で、戦前には教員として旧制小学校で生活綴方による教育を行っていた須藤克三からは特に多くを学んだようだ。
『山びこ学校』に収められている文章を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は変わらない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。その学年の全ての生徒の文章が『山びこ学校』には収められている。新任である無着にとって、彼らは教員として初めて受け持つ生徒だった。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。新任として赴任した当時、山元中学校には1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員が校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという(佐野眞一『遠い「山びこ」』新潮文庫、2005年、19頁を参考)。
ちなみに、『山びこ学校』は1951年3月に初め青銅社から、後に百合出版、角川文庫から出版されている。しかし、いずれも絶版となっていて、1995年から現在にあっては岩波文庫で発行されている。この論文では岩波文庫版を参照した。それから、『山びこ学校』という本は実は、「きかんしゃ」という学級文集をもとに作られていることを述べておく。『山びこ学校』に収められている生徒の文章は、そのほとんどが無着学級で作られていた「きかんしゃ」という文集(全16号)の中から選ばれた一部に過ぎないのだ。「きかんしゃ」は、あくまでも学級文集であって公に出版されたものではないのだが、山形県立図書館に複写版が保存されているので、現在でも読むことが出来る。この論文の中で「きかんしゃ」を参考にした箇所があるので先に述べておいた。
この論文では生徒作品を全部で3つ扱う。
第1章では、川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」。川合末男は病気だった父が亡くなり、その父のことを考えている文章だ。
第2章では、江口江一の「母の死とその後」。江口江一の家は山元村でも最も貧しい。こちらも母が亡くなって、貧しさと母の死という2つの問題をしっかりと見つめようとしている文章だ。
第3章では、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」。佐藤藤三郎は学級の代表的な人物で級長も務めていた。農村の問題についての意見文を書いている。
彼らは同じ中学校の生徒だが、それぞれ置かれている状況は異なる。まず、川合と江口は親が亡くなり、その直後に作文を書いている。
また、川合は農村の次男以下の問題、つまり家の財産を継ぐことができずに別の仕事を選ばなくてはいけないという状況にいる。
江口は親の死によって、中学2年生にして家の責任者となるのだった。江口の家は山元村でも最も貧しい家の1つで、自分でどうやって生計を立てていくかが彼のテーマだった。
 佐藤は、農家の跡取りとして育てられた。しかし、一方では級長を努めるほど優秀で、勉強をしたいという意思を持っている。
 彼ら3人の作文を分析するにあたって、注目したのは問いとその答えを求める運動にある。彼らの問いは何だったのか、何のために作文を書いたのか。どのような答えを、どうやって得て、その結果どうだったのか、作文を書いたことにどういう意味があったのか。そういったことを注意して分析した。

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