6月 15

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の2回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の2回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」
一 父の死
 二 父の病気
 三 父の心配
 四 兄弟たちと家
 五 私の考え

=====================================

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」

第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」

 第1章では、川合末男の書いた「父は何を心配して死んで行ったか」を扱う。川合末男は農家の生まれで、九人兄弟の末っ子(五男)だ。この文章は1950年の10月に書かれた文章で、川合が中学3年の時期にあたる。また、川合の父親が亡くなったのが同年の9月であり、その死から1ヶ月後に書かれた文章でもある。
 ここから実際の文章を引用する。省略部分には「(中略)」と筆者が記しておいた。ただし省略は少なくし、引用を長めにとっている。自分の意見に都合のいい表現だけを切り取ることを防ぎ、できるだけ実際の文章に即して考えるのが目的だ。この論文を読まれる方にとっても、生徒作文の全体を読まれた方が分かりやすいだろう。ちなみに、筆者が注目した部分には下線と括弧付きの数字を書き加えている(注:メルマガでは下線を【 】で代用)。後でその数字に対応させて、文章を解説することとする。また、ルビに関しては岩波文庫版の『山びこ学校』をそのまま書き写している。

【父は何を心配して死んで行ったか(1)】
川合(かわい)末男(すえお)
一 父の死
 一九五〇年九月十四日、私の父は死んだ。
 一六日は、西部班子供協議会の運動会であった。私はそのときの応援団の副団長に選ばれていたので、毎日放課後は練習でおそくなった。
 父が死んだ日も「今日と明日きりだなあ。」などと考えて家を出たのだった。まさか、今日父が死ぬなどということは夢にも考えられなかったのである。
(中略)
 私はありったけの声をはりあげて歌って行った。そして、そのまま家の中に一歩はいったら、親類の人がみんな集まっているのだ。私はどきっとして歌をやめた。
 いろりを囲み、和雄君のお父さんが主になって、「電報を誰が打ちに行く。」とか、「ござは。」とか云って何かきめていた。私は、かばんをおろして、お父さんの方へ行ったら、白いてぬぐいをかぶり北枕で寝ていた。そのときはじめて「ああ、死んだんだなはあ。」と思ったのだった。

二 父の病気
 しかし、手ぬぐいを取ってみると、寝ていたときと同じなので、どうしても、これが死んだ人の顔だなどと思われなかった。
 お父さんは、昭和二十二年の一〇月から中風でずうっとねていたのだ。【自分の用も足すことが出来なくて、お父さんの用を足してくれるのは私の仕事だった(2)】。
 ある時、顔をあつい手ぬぐいでふいてやったとき、「おお」と云ってただ笑ったことがある。それが、いちばんよろこんだお父さんの表情だった。【まるっきり口がきけなくて、なにをいうにも、長い細い手を出して、もぐもぐ云いながら動かすだけだった(3)】。
 【遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった(4)】。
 そういう父を見るたびに、私は、【中風という病気はいやな病気だなあと思う(5)】のだった。そして、【私だけは、こんな病気になりたくない(6)】と思うのだった。しかし、【私の家は中風まきという血統で、必ずなるんだそうだ(7)】。そういうことをお母さんが云っていたことがある。だが、今では、【はたして、まきというものがほんとうなものかどうか(8)】。また、【兄さんや姉さんが来たとき泣くのは、中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか(9)】などとも思っている。

三 父の心配
 【何故、そう思うようになったかと云えば、先生が、「文男君のおかちゃんから聞いたんだが。」と云って、「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」と話してくれたからだ(10)】。ここからが、学級のみんなから考えてもらい討論してもらわなければならない問題が出てくるのだが、はっきり云えば、【私の父は、私の将来のことを心配して死んで行ったということなのだ(11)】。
 子供のことを心配しない親などないと云えばそれまでだが、口もきけない、手足の自由さえもきかない私の父の場合は特別であろう。たとえば、先生から「お前のお父さんは……。」と云われたとき、はっと気がついたのであったが、父をあつかっているとき((看病しているとき))(看病している時)、【急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった(12)】。
 そのことを、【今考えて見ると、色々な心配ごとがたまってきたときそういうことがおこったのではなかったかと考えられるのだ(13)】。そして、その心配のうち、私のことに関係した心配、つまり、【私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ(14)】。

四 兄弟たちと家
 【そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない(15)】。
 まず【私の家が生活を立てていくための財産としては、水田はもち米を作る位と、畑は五段歩だけなのだ(16)】。【それにへばりついて生活してきたのは、父と母と、多慶夫兄さんに秋子ねえさんに鶴代ねえさんに私とで六人であった。こんどお父さんが死んでしまったから五人になってしまったけれども。それで、そのうち家に残ることが出来るのは多慶夫兄さんと、お母さんの二人だけになるわけである(17)】。【そうなれば、お父さんは、何を一番心配であったかと云えば、私の就職のことであったにちがいない(18)】と、はっきり思いあたるのである。【二人の、まだかたづかない姉のことをどう思っていたかと云えば、「女は嫁に行くのだから心配はない。女はお嫁にさえ行けばよいのだ。」と考えていたにちがいない(19)】。どうしてかと云えば、今でも、お母さんや親類の人たちがみんなそう考えているからである。
 もちろん、こういう考え方が正しいかどうかということは、私たちの組で問題になり、農村の二男三男が職業に就けなくて困ってくると、嫁ももらうことが出来なくなって、それだけ「嫁に行きさえすればよい。」と考えていた女の中に嫁に行けない人が出て来るから、ほんとうは、女の問題であるんだ。だからこういう考え方は間違いだ、というふうになったのであるが、お父さんやお母さんたち、大人の人たちは、どうもこういう考えにならないらしい。
 それで、私のお父さんもそういう考えにちがいなかったと思うのだ。そうだとすれば、【やっぱりお父さんとしては、九人兄弟のうち末子の私のことがいちばん心配であったにちがいない(20)】。どういう風に心配し、どんなことを考えていたのかは、誰も知らないけれども、【中学三年で、学校も卒業しなくて、もちろんどんな職業に就くかということもわからなくて死んで行かなければならないのだったから、心配なことであったにちがいない(21)】。とくに今は、【職業に就くのが、なかなかなんぎだということを知っていたお父さんの心配(22)】は、つまりは、【私のことだけが心配だったと思われてくるのだ(23)】。
 【何故兄さんや姉さんのことをそんなに心配しなくともよかったと云えば、みんな一丁前になって働いていたからだ(24)】。
 【一番大きい兄さんは、もう四十才にもなり宮内(みやうち)に家を持って暮らしているし、二番目の兄さんは、上の山にむこに行ったし、三番目の兄さんは川崎で家を持っている。また姉たちは姉たちで、一番大きい姉さんは、一度お嫁に行ったんだがなんのわけかもどってきて、今は、仙台にお嫁に行ってしあわせに暮している。二番目の姉も、一度須刈田におよめに行ったのだが、これももどってきて今仙台の駅前で働いている(25)】。ここでまた考えるんだが、私の家の女衆は二人とも一度お嫁に行ってもどってきたのだ。何故だろうと不思議に思っている。
 だが、【とにかく、男三人に女二人はこのようにしてかたづいていることだけはほんとうだ。
では、家に残った兄弟はどうかというと、男二人に女二人のうち、二人の女は、お嫁に行くか心配ないとして、多慶夫兄さんと私が問題だ。
ところが、多慶夫兄さんは、どうしても、家のあととりにならなければいけないのだ(26)】。どうしてかと云えば、小学校一年生のとき、蝉とりをして高い木に登ったとき、高いところからほろきおちて、頭が二十七糎(センチ)(センチ)ぐらい割れたんだそうだ。そのため、すこしぼうっとしているところがあるから、職業に就かせるなどということは無理なのである。その上、百姓仕事が大好きで、黙々としてうんと働くので、親類の人がみんな集ったときも多慶夫兄さんに家のあとをつがせることにきまったのである。
 これは、あとで先生から聞いた話だけれど、多慶夫兄さんにあととりさせるという問題も、そう簡単にきまったのでなかったんだそうだ。つまり、大きい兄さんたちが家の財産をいくらかずつでも分けるように話を出したため、問題がこんがらかってきて困ったのだったそうだ。そのとき、和男君のお父さんや、庄兵衛さんが、「こんなちっぽけな百姓の財産を兄弟九人がわけて、どうしろというのだ。まだ一丁前にもならない末男や、またさきのみじかい、おっかあたちのことを考えてみろ。」と云って頑張ったので、財産をこまかにわけないで、多慶夫兄さんがあととりになることにきまったんだそうだ。
 そういうことがあったということは私も知らなかったのであるが、若しも、そういうことが私の家に出てくるということがわかっておれば、お父さんの心配は、私のことよりもその方が心配だったにちがいない。
 しかし、やっぱり、【まだ一丁前にならない私のことは、心配して死んで行ったと思うのだ(27)】。どうしてかと云えば、【みんな一丁前になっているので、財産を分けてもらっても生活出来るのだ。私だけが出来ないのだ(28)】。そう考えて来ると、【お父さんは、最後のところ、やっぱり私の将来のことを心配して死んで行ったのだ(29)】。
 
五 私の考え
口もきけない、手足の自由もろくにきかない父が、私のことを心配して死んで行ったと考えるのは実際いやだ。その上、どういうことを、どういうふうに心配して死んで行ったのかということが、はっきりわからないからなおさら苦しくなってくる。
 男は、独立して家をおこさなければならないということは、よくいわれているから私はそのつもりでいるけれども、ほんとうは、私が実際兄さんたちのようになって、家をおこしてからお父さんを死なせたかったと考えられてきてならない。私が家から出て、働きだしたのを見せれば、お父さんは今よりももっと安心して死んで行けただろうと思う。
 しかし、もう死んでしまったのだからしかたがない。【今生きているお母さんだけでも、安心させなければならないのだ(30)】。お母さんを安心させることは、死んだお父さんを安心させることと同じだと考える。
 ところで、安心させるためにはどうするかということだ。【それはよい職業に就くことだと思う(31)】。【お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う(32)】。
 そう考えてくると私は心配になってくるのだ。私としては、自動車の運転手になりたいと思うのだが、今なかなかなれないそうだ。戦争で、自動車の運転を覚えてきた人でさえ、なかなか運転手になることが出来ないという話など学級であるくらいだから。戦争から帰ってきた太郎さんの善助さんなのも、二十三才にもなるのに、なにになったらよいかわからなくて、この間予備隊に受けたというくらいだ。しかし、【予備隊というのはよい職業だろうか(33)】。私は社会科でならったことが不思議になってくるのだ。たとえば、【社会科の2の「家庭と社会生活」で習ったことは今でも覚えている。教科書の二十五頁(34)】に、
 「あなたがたも、学校を卒業すれば職業に就くにちがいない。」と書いてある。それはきまっている。どうしてかというと、「あなたがたはじめ、家庭の人々は今はお父さんやにいさんの職業の収入によって生活している。そこで、職業は人の生活を支えるもとであるということができる。」というように、【自分の生活をして行くため(35)】である。その次は、「どの職業も、その仕事が社会生活に必要なものだからこの世の中で営まれている。」というように、世の中の一人として生きて行く限り【「個人や家族の生活を支えるだけのために職業に就くことが必要なのではない。それは世の中の要求するものを作るために必要なのである(36)」。」からである。
 そしてまた、【三年生でならった文化遺産という本の四十八頁(37)】には、
 「あなたがたは今は職業を選ぶ自由を持っている。そして【自分の才能と欲求にしたがって(38)】、【いちばん世の中と自分のためになる職業につくことがよいとされている(39)】。」と書かれている。
 それなのに、どうだろうか。【予備隊というのは、私たちがほんとうに必要とする仕事をする職業なのだろうか(40)】。また、【行く人も、ほんとうに好きで行くのであろうか。うそである。みんな職業がないからしかたなしに行くのである(41)】。
 私はそう考えてくると、なにがなんだかわからなくなってくるのだ。
 社会科では、私たちは職業を選ぶ権利を持っていると教えられた。ところが実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ。若しも社会科の本が正しくて、私たちは実際に、安心して職業を選び、職業に就くことができる世の中であれば文句はないのだ。そうすれば、何も今々死にそうな親父にまでも心配かける必要はなかったのではないか。
 私は、今まで考えてきて、ひとりでにそうなってしまった。つまり、私たちは、世の中のお父さんやお母さんから安心してもらうためには、どうしても、社会科の本にあるように職業を自由にえらべるような世の中、職業に就くことが出来ない人が一人もないような世の中、そんな世の中にすることだというふうに考えてきた。日本国中の学校を今々卒業して職業に就かなければならない人はみんな立ち上って、団結して、一人も職業に就くことが出来ない人がいないような世の中に、一日でも早くすることが一番正しいのではないだろうか。
 そして、そのような世の中にするためにはどうしたらよいかということを、学級のみんなで、いや日本国中の子供たちがみんな手をとり合って考えなければならないときなのでないだろうか。
 私の父のように、子供のことで心配しているお父さんがあったら、お母さんがあったら、一人一人で考えないで、みんな一緒に考えるようになればよいのでないか。
 私は、そういう世の中が来るように頑張って、そうして一日も早くそういう世の中にすることが、死んだ父をいちばん安心させることではないか。また、生きている日本国中のお父さん、お母さんを安心させることではないか、というふうに考えてきている。
(一九五〇・一〇・二三、職業科の勉強として)
            (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、256-267頁)

 以上で引用を終わる。繰り返しになるが、下線(注:メルマガでは【 】)と括弧付きの数字は私が書き加えたものである。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

Leave a Reply