9月 27

大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
 
 4日間の参加者は延べ6人。
 他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。

 参加者の中から2人の振り返りと、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。

 本日は、2人目の振り返りの文章を掲載します。

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◇◆ 絶対に嫌だ!  B ◆◇

 今回の合宿は論理学漬けであった。原書では本質論の現実性(の一部分)を
丁寧に読み、日本語では本質論全体を一気に読んだ。そして、「現実と闘う時間」
(以下、報告会)との相乗効果もあって、改めて、ヘーゲルを読む目的が分かってきた。

 それは、本質論のレベルを超えることであり、悟性的思考のレベルを超えることであり、
永久に抜け出すことのできない悪無限の領域を突破することである。因果関係や相互関係は、
本質論の最高段階ではあるが、このループする世界で藻掻いていても、仕方がない
(現に、論理学と報告会の「相乗効果」などという表現しか今の自分には出来ない)。

自分にとってこの目的は決定的な動機であることが、具体的に、身につまされるようにして、
改めて分かった。

 具体的にとは、第一に、仕事上、ずっと目標にしてきた先輩の限界の克服である。
これは今までも、節目節目でその時点なりには、はっきりとしていた。だが、一層、
はっきりとした。

論理学に即して書いてきたので、思考・認識・論理といった能力での限界を超えることが
主に思えるが、それ以上に超えたいと思っているものが「生き方」である。

自分は、決定も責任も伴わない実感の無い生き方だけはしたくない、
曖昧で楽な誤魔化した生き方だけはしたくない、そう思っているということを再確認した。

我が人生を歩むに際して、食えれば良いという人生ではなく、すべてを引き受けて、
猪突していきたいという強い意志がある。

 第二に、では、どうやってその通り生きていくかということであるが、抽象的に言えば、
国家とは何か(=個人の自立とは何か)といった問いに対して、一面的なものではない、
だが、明確な答えを出すことによってである。そのためには、やはり、本質論のレベルを
突き抜けるしかない。

 このように自覚が深まった理由は、第一に、数ヶ月間に及んだとある大きな事件への対処であり、
さらにその事件後の数ヶ月間を、一定の方針に基づいて実際にその通りに生きたこと。
第二に、ヘーゲル漬けになったこと。第三に、報告会で自分の考えを書き、意見を聞き、
他者の報告を聞き、意見を言ったことだと思う。そして、第二・第三の点は、合宿という
濃密な空間が後押しをしてくれた。

 第一の点について言えば、大袈裟でなく世界の見え方が根本から変わった。そういう状況で
日々を過ごし、自分を見て、他者を見てきたことが、自覚が深まる上での大前提になった。

 第二の原書講読では、ヘーゲルの論理展開のあまりのしつこさに、ドイツ語も相俟って
辟易としていた。だが、集中して長時間に渡りあのしつこさと格闘したことで、何かが起きた。
ヘーゲル同様の粘着質を誇るベートーベンが無性に聴きたくなって、休み時間に聴いていたが、
そのしつこさに励まされた。

そして、原書で読んでいると、自分がどこに居るのか分からなくなり、すぐに行方不明に
なってしまうが、この状態にまで至った段階で、日本語で一挙に読んだことで、全体感を掴めた。
一人で小論理学を読んだことはあるが、ゼミという場で一気に読むことの効果の絶大さを思う。

 また、第三の点も大きい。自分自身の報告・確認は当然だが、他者の報告も同様に重要である。
特に、ある参加者の経営者としての適当さ、自分の収入を自分で稼ぎ出すという自主独立に対する
気迫の弱さ、企業経営以外の趣味的活動にうつつを抜かす軽薄な姿が、どうしようもなく目につき、
それを本人に対して直接言葉に出したことで、自覚が深まった。他者理解の場の有無は決定的だ。

 今後も、深まった自覚に基づいて、日々、淡々と努力を重ね、自分を作り上げていく。
そして、定期的にそれを確認し、さらに自覚を深める。これを繰り返すだけである。

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