11月 24

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、本日から4回に分けて、掲載します。

■ 全体の目次 ■

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討
→ ここまで本日(11月24日)掲載

(3)第2章の検討
(4)第4章の検討
→ ここまで11月25日掲載

(5)第3章の検討
(6)第5章の検討
→ ここまで11月26日掲載

5.読書会に参加しての感想
6.記録者の感想
→ ここまで11月27日掲載

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■ 本日の目次 ■

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討

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1.はじめに

・日時 2012年7月14日
・参加者 中井、社会人2名、大学生1名、浪人生1名、内部生1名、
     内部生の保護者1名の計7名   
・テキスト 小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』岩波新書
・備考 今回の読書会は、鶏鳴学園に通う高校生の保護者にも参加を
    呼び掛けた
・記録者 金沢 誠

2.参加者の全体的な感想

・この本を読む前に自分が持っていた介護の仕事のイメージは、低賃金、
 汚い、暗いという印象だったが、本を読んでみて、介護の仕事は、
 人間の本質が表れる仕事だと思った。自分の母親との対立の問題など
 を考えながら読むことができた。

・自分の身近な高齢者を見ていて、この本に書いてある「身体のささいな
 変化が、老人にとっては精神的なショックと結びつく」ということを
 考えさせられた。
 原発事故で家を追われた高齢者の方たちの環境の変化は、大変なものが
 あったのだろうと思った。

・精神医学に興味を持っていて、一番近い人で、もっとも依存すべき相手
 だからこそ、その人に攻撃してしまうという部分に思う所があった。

・特養ホームに入院している親戚がいるが、そのことに関わることが
 ほとんどなく、避けて来ていた。
 これまでは痴呆の人に会っても意味がないだろうと思っていたが、
 この本で「ボケてもこころは生きている」という所を読んで、驚いた。
 痴呆の問題だけでなく、日常の自分の人との関わりのことで、
 考えることが多かった。

・以前、職場で痴呆や介護のことを勉強したことがあったが、その時に
 習ったことと、今回のテキストの著者の言っていることとは違うと
 感じた。
 痴呆の初期の親戚がいて、その時にどう接したらいいのかなどを
 考えたい。

・特に3章ではっきり表れていると思うが、たくさん問いが立っている
 と思った。
 それから、この著者は、明確な否定のある人で、そこからこの人の仕事が
 始まっていると思った。

3.中井の全体的な感想

(1)全体について

 この本を読んで感動した。認知症を外から理解しようとする本は
 たくさんあるが、この本は、認知症を生きている人の側に立って、
 その人の世界を理解しようとする立場から書かれている。

 人間そのものの本質に迫っている。この本に取り上げられている問題は、
 すべて自分の問題として考えることができる。逆に言えば、この本が
 他人事にしか読めない人はおかしいということ。

 この人の文章は、圧倒的に問いが立っていく。問いが立つということは、
 現在、世間で行われていることがおかしいのではないかという、
 強い疑いがあるということ。

(2)構成と言葉の定義

 本の構成に問題がある。
 1章と2章は序論。本論は3章、4章、5章だが、本論を3章(周辺症状)
 から始めるのは間違い。4章(中核症状)から始めなければいけない。
 その次に、妄想などの周辺症状を取り上げた3章が続き、最後に、
 全体を踏まえたうえで、ではどうしたらいいのかということを問題にした
 5章が続かなければいけない。この読書会では、この順番で取り上げる。

 この著者は、このようなことができていない。こういうトレーニングを
 していない。精神科の医者で、特に無意識ということを扱う人たちは、
 意識的にトレーニングをするということをなおざりにしがちなのではないか
 と思う。

 この著者は、ケアと治療を概念として区別している。しかし、その定義が
 曖昧。著者の代わりに整理すると、治療とは直接の医療行為のことで、
 これは医者や看護師の仕事。ケアとは、直接の医療行為以外のすべてのこと。
 生活、生き方を含めたもの。

(3)親子関係について

 今回のテキストで考えたいことは親子関係のこと。
 鶏鳴学園では親からの自立ということを強調しているが、自立ができた
 後のことは、これまで問題にしてきていない。

 親から自立できた後には、自分の親が生活する能力を失う時が来て、
 介護の問題が出てくる。親子関係の最後には、親の死を看取るという段階が
 ある。そこで、親の最後に対して、どういう関わり方をするかという問いの
 答えを出さなければいけない。死までを踏まえて、親子関係の問題を
 考えておかなければならない。

 それと同時に、もう一つの大きなテーマである、死ぬということを
 どのように受け止めるかという問題がある。親が死ぬこと、
 自分も死ぬということ。

4.各章の検討
(「→」で示した部分は、すべて中井の発言をまとめたもの)

(1)「はじめに」の検討

・iiページ「悲惨を見極めた者だけが到達できる清明な達観が
     ここにはある。」
 → 絶望したことのない人間は、ろくなものではない。私は絶望の先に
   何かを手に入れた人間以外は、相手にしたくない。

(2)第1章の検討

・P14「私は、これまでケアに行き詰ったときには、いつもこの言葉に
    立ち戻って考えてきた。たとえば、『一生懸命に生きている』
    という言葉。長年、痴呆を病む人たちとおつきあいしていると、
    本当にそう思う。私よりよほど彼らの生き方は懸命だなあ、
    と感じるのである。」
 → どんなに優れている人でも、懸命に生きていない人がいる。
   私はそういう人を軽蔑している。

・P14「これまで痴呆を病む人たちが、処遇や研究の対象ではあっても、
    主語として自らを表現し、自らの人生を選択する主体として
    立ち現れることはあまりに少なかった」
 → 相手の主体性を、徹底的に尊重していくということが、この著者の立場。

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