3月 10

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

3.リスク管理

数々の問題が明らかになった中で、最も深刻なのは、リスク管理の問題であろう。「想定外」という言葉で、本来考えるべきリスクが無視、軽視されていた。その結果、当然ながらリスク管理はできず、津波対策はなされていなかった。
リスクを見ることができない。それを直視できない。それは「安全神話」が形成され、それに抵触する言動が封じられるような状況があったからだ。しかし、今回の事故で安全が完全に壊れた今、これまでの「リスクか安全か」という2項対立は成立しない。「すべてはリスクでしかない」という考え方が、大前提になるべきだ。そして、その上で初めてリスクの管理を考えられる。リスク管理の問題がすべての国民に明確に提起された。これは大きなことだと思う。なぜなら「安全神話」を作り上げたのは、東電や政府、「原子力ムラ」などの原発推進側だけではないからだ。反対側も、「リスクか安全か」という2項対立を迫ることで、結果的には「安全神話」形成に加担していたのだ。その点をはっきりと認識することが必要だと思う。
反対派は冷静で客観的なリスク管理を求めたのではない。リスクゼロという「不可能」な基準を推進側に求めた。それを受けて、推進側も嘘を承知で、リスクゼロと説得するしかなかった。そのリスクゼロとの主張が自縛となり、本来は「想定」すべきリスクを認められなくなり、リスク管理を不可能にした。しかし、両者ともに、それがウソであることを感じていたのではないか。しかしリスクを見たくはなかった。現実を直視し、現実的な対応をする力はなかった。
このリスクを見ない、見ようとしないという精神的傾向は、決して原発反対派だけでも、推進派だけにあるのでもなく、そうした精神的傾向は、もっと広く一般に私たち皆が持つ傾向性ではないか。
つまり、「キレイごと」でごまかし、現実を直視しない。「建前」を言うだけで「本音」レベルの対決を避ける。周囲の暗黙の了解には逆らえず、「空気を読み」ながら生きている。
本来は、リスクは可能性としてはいつでもどこでも存在する。リスクをなくすことはそもそもありえない。私たちにできるのは、より小さなリスクをめざし、そのリスクの可能性が実際に実現しないように努力することだけなのだ。そうした厳しい認識が、原発事故のような大きな危険性においてはどうしても必要だったろう。
しかし、私たちの普段の生活においても同じことがおきているのではないか。見たくないリスクは見ない。「幸い」にも、高度経済成長下では厳しい認識の上に立たなくてもやってこられたのだ。そのために、そうした考え方、そうした能力は育たなかった。それは「生き方」の問題であり、「死に方」の問題である。

4.トリアージ

この問題をより具体的に実際に考えるには、震災後の災害医療や対策本部のあり方から考えるのがわかりやすい。災害医療については、テレビや新聞などのマスコミ、多数の著書で紹介されている。ここでは主として石巻赤十字病院が経験したことを例としたい。震災後、宮城県の石巻地区は孤立し陸の孤島となった。そこで地域の医療活動の中心となったのは石巻赤十字病院だった。その活動は、由井りょう子と石巻赤十字病院著『石巻赤十字病院の100日間』(小学館)や、石井正著『石巻災害医療の全記録』(講談社ブルーバックス)などで詳しく報告されている。私自身も石井正医師ら関係者に取材した。以下、『石巻赤十字病院の100日間』からの引用には括弧内にページ数を記載した。 
まず、「トリアージ」を取り上げよう。
「トリアージ」とは、災害や事故で多数の負傷者が出た際に、負傷者を緊急性や重症度によって分別し、治療の優先度を決定することである。救命需要が同時多発し、搬送や治療に制限がある状況下で可能な限り多くの人命を救うには、医師を含めた医療資源を効率的に配分する必要があるからだ。
分別の方法は負傷者を「緊急治療群」「非緊急治療群」「治療不要もしくは軽処置群」「死亡もしくは救命困難群」に振り分け、それぞれの患者の手首や足首にそれぞれ「赤」「黄」「緑」「黒」のトリアージタッグをつけていく。「赤」は出血多量や気道閉塞など生命の危険が迫っており、緊急治療が施されれば助かる見込みがある患者で、最優先で処置がなされる。「黄」は自力歩行が不能だが、治療の遅延が生命の危機に直接は繋がらない患者、「緑」は歩行可能で、必ずしも膚門医の治療を必要としない患者である。災害時にはこの「緑」が最大数になるケースが多い。そして「黒」は死亡しているか、心肺蘇生を施しても蘇生の可能性の低い患者で、処置は後回しとなる(以上『石巻災害医療の全記録』より)。
この「トリアージ」は、極めて特殊な状況下で行われる特殊な事態であるように見える。それは患者の選別であり、一部患者への医療放棄である。それはヒューマニズムに反することであり、普段なら許されない。それは危機的な緊急事態でだけ、限定的なこととして許されている。しかしそれは「ひどい」「むごたらしい」ことだから、テレビ番組では、そうしたトリアージの場面は取り上げない。やはり「タブー」なのだと思う。
しかし、トリアージは特殊な状況下に起こる、特別なことなのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、普段から行われていることが、緊急時だからこそ、むき出しの形で現れただけなのではないか。
最初から、私たちの社会が医療にさける資源・コストは限られている。そこに投入できる人、物、金、技術は限られている。その限られた資源を有効活用するしかできないし、実際にそうしている。しかし、その真実は、むき出しにさらされているのではない。見えにくい形で行われているので気付きにくいのだ。ところが、実際には社会が医療に投入できるコストは限られ、それをどう配分するかが、今問題になっている。そこでは当然ながら、有限な資源の「最適」な配分が問われる。
すべての人に、等しく最高の医療を提供することはできない。国によっても格差があり、日本国内でも首都圏と地方でははっきりと格差があり、個人としても貧富による格差がある。しかし、それは普段はごまかされ、身もふたもないことは言われないでいるだけなのだ。
ここでも、本当のこと、リアルな現実を直視できないという事実がある。キレイごとに慣れ親しみ、事実を直視できなくなった人だけが、今回のトリアージを異常事態での特殊なこととして見るのだ。私は、普段の状況が濃縮した形でむき出しで表に出ただけだと思った。

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