10月 05

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その2)  中井 浩一

■ 目次 ■

第2節 『生物の世界』から学ぶ
1.一元的世界と生物の主体性
2.無生物から生物の生成
3.環境の主体化はつねに主体の環境化である

なお本稿での『生物の世界』からの引用は「 」で示し、
講談社文庫判のページ数を付した。
引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、
中井が補った箇所は〔 〕で示した。

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第2節 『生物の世界』から学ぶ

1.一元的世界と生物の主体性

 今西の学問の本質を『生物の世界』で考えてみたい。
まずその凄みだが、それは物事をその根源から考えようとする姿勢から
生まれていると思う。その根源的思考は、地球上のすべてが、もとは
1つのものから分化した。この原理からすべてを導出していることから生まれる。

「この地球の変化を、〈単なる変化〉と見ないで、やはり一種の
〈生長とか、発展〉とかいうように見たいのである」。
「この世界を構成しているいろいろなものが(中略)
〈もとは一つのものから分化し、生成したものである〉。
その意味で無生物といい生物というも、あるいは動物といい植物というも、
その〈もとをただせばみな同じ1つのものに由来する〉というところに、
それらのものの間の根本関係を認めようというのである」。(13,14ページ)

これは壮大な一元論である。それは内在的であり、中心を持った発展を考えている。
そこには主体性が働き、個別性がある。ヘーゲルと非常に近い立場であることに驚く。
(しかし、今西は「単なる変化」と「発展」の違いと同一について突き詰めていない
と思う。この点は後述。また今西はヘーゲルは読んでいないようで、
西田幾多郎からこうした考え方を学んだようである。)

その徹底した一元論にも驚くが、私が感嘆するのは、その原理を
生物の世界の発展に応用してみせる手さばきの見事さである。
今西が借り物の思想を使っているのではなく、彼の血肉化した思想を
自由に駆使していることがわかる。だから文章はエッセイの様であり、
彼の肉声が響いている(他者からの引用が一切ないことには驚く)。

今西は生物の進化に生物の主体性を認める。それは生物の外界の認識、
同時にそれへの反応(行動)を認めることだ。今西はそれを生物の同化と
異化作用というもっとも根源的レベルで考える。

「〈認識する〉ということは単に認めるという以上に、すでにそのものを
なんらかの意味において自己のものとし、または自己の延長として感ずる
ことである」
「〔生物にとって〕食物とは体内にとり入れられなくとも、生物がそれを
食物として環境の中に発見したときにすでに食物なのであるからして、
生物が食物を食物として〈認めた〉ということはすでにそのものの生物化の
第一歩であり、同化の端緒であるともいえよう。こうして生物が生物化した
環境というものは、生物がみずからに同化した環境であり、したがって
それは生物の延長であるといい得るのである」。(62,63ページ)

これが今西の「認識」という理解であり、「汗が出ること」(74ページ)、
「痛いところをなめること」(68ページ)も生物の外界の認識であり、
同時にそれへの反応(行動)である。こうした根源的なとらえ方は、
ヘーゲルが目的論という人間だけの活動領域を、すべての生物に共通の
「衝動・欲求」というレベルから説き起こすことを想起させる。

今西は、こうした理解から、次のように言う。
「生物にとって生活に必要な範囲の外界はつねに認識され同化されており、
それ以外の外界は存在しないのにも等しいということは、その
〈認識され同化された範囲内がすなわちその生物の世界〉
〔いわゆる環境であり、生態系のこと〕であり、
〈その世界の中ではその生物がその世界の支配者〉であるということ
でなかろうか」(62ページ)。

今西は、ここから生物の生活(生態)と生物の肉体(その形)が
一体であることを示す。つまり分類学(死物の学)は生態学(生物の学)
に止揚される。これが分類学(死物の学)と生態学(生物の学)の関係という、
当時の生態学の課題の1つへの回答だったろう。

そこには壮大な一元論が展開することになる。
「生活するものにとって、主観と客観とか、あるいは自己と外界とかいった
二元的な区別はもともとわれわれの考えるほどに重要性をもたない
のではなかろうか」。(62,63ページ)

2.無生物から生物の生成

 こうした一元的な発展論のためには、地球の発展から生物が生まれたこと、
無生物から生物が生まれたことを説明する必要がある。今西は生物の成長の
現象にも、死んだ後の解体の現象にも同じ構造を示すことで、その説明をしている。

「それ〔死〕は確かに生物としての構造の破壊であり、その機能の消滅を
意味する。しかしそれによって生物が生物でなくなるということがただちに
構造そのものの消失、機能そのものの消失ではない。解体が行なわれると
いうのはすなわち〈生物的構造が無生物的構造に変る〉ことであり、
〈生物的機能が無生物的機能に変る〉ことである。生物として存在するときには
それでよかったが、無生物ということになってしまうと
〈無生物的存在として安定であるような構造なり機能なりが得られるところまで、
解体が進み変化が生ずる〉ものと考えられる」。

つまり「生物の生長という現象も、この構造自身が絶えず変化し更新して
行くゆえに構造的即機能的であるといい得るものならば、
解体の場合だってやはりその構造自身が絶えず変化して行くゆえに、
それは構造的即機能的現象なのではなかろうか」。(45,46ページ)

生物は死後には無生物的存在に戻っていくことが示されるが、
それが逆に、無生物から生物が生成した証明でもあるのだ。
ここにはヘーゲルの「止揚」と同じ考え方が展開されている。

ヘーゲルならこう言うだろう。
「無機物の真理が有機物であり、生命(細胞)である。
その生命の真理は植物であり、また動物であり、さらには人間である。
したがって人間の中には、動物が、植物が、物が止揚されている。
それは人間が壊れていく過程で明らかになる。
人間は、自意識を失えば動物に戻り、次には植物人間となり、
最後は物に戻る」と。

生物の進化の過程はその肉体によく現れている。今西はこう言う。
「生物というものは、その〈身体を唯一の道具とし、また手段として
生きて行かねばならない〉ということである。しかもその身体と
いうものは親譲りの身体であり、その〈身体のうちに、彼の祖先たちが
経験してきた歴史のすべてが象徴されている〉ともいえよう」
(143ページ)。

「個体発生は系統発生を繰り返す」とは有名なテーゼだが、
生物の個々の肉体にも系統発生の過程が刻印されているのだ。

3.環境の主体化はつねに主体の環境化である

 こうしてすべてが物=無生物から生まれたとなれば、これは唯物論であり、
唯物史観になっていくだろう。だから今西を読んでいると、
ヘーゲルと同時に、マルクスが想起されることが多い。

「環境の主体化はつねに主体の環境化であった。身体の環境化であった」
(143ページ)。
これはマルクスの労働過程論を彷彿とさせる。
そしてこの「環境の主体化=主体の環境化」という原理を具体的に展開した
のが、今西の生物社会論なのだ。

今西は、進化を「世界の不平等」から説き起こす。「不平等」とは、
地球上の状態がどこも違うことだ。
「われわれの世界というものは根本的に不平等な世界であり、
不平等はわれわれの世界が担っている一つの宿命的性格であるともいえる」
(100ページ)。
「しかし私はこの不平等さのゆえに、かくも多種類の生物がこの地球上に
繁栄し得ているのだといいたいのである。すると問題は生物がこの不平等さを
どのようにして彼らの生活内容にまで取り込んでいったかということになるで
あろう」(101ページ)

今西はこの問いへの回答を出すために、次の3つのレベルを想定する。
個体と種、同位社会、同位複合社会である。そしてそれぞれのレベルと
その関係性を解明する。

個体と種の関係は
「〔個々の〕生物が〈いたずらな摩擦〉をさけ、〈衝突〉を嫌って、
〈摩擦や衝突の起らぬ平衡状態〉を求める結果が、必然的に
同種の個体の集まりをつくらせた」(88ページ)。これが「種」だと言う。

「種の分化が進まないで、どこまでも相似た生活形をもち、どこまでも
相似た要求を満たそうとするもの同士(類縁の近しい間柄)が同一地域に
共存し、しかもその共存によってお互い同士の間の平衡を保ち得る途
というのはただ一つよりない。それはお互い同士が同じ生活形をとり、
その生活に対して同じ要求をもつようになることである、すなわちそれは
〈同種の個体となってそこに種の社会を形成する〉ことにほかならない」。
(102ページ)

こうした種の内部の個々の生物の間では分業はないと今西はいう。
したがって、これは「未発展」「未完結」のものと今西は言う。

 これに対して、種の分化、分裂が起こり、その両者が
「お互いに相容れぬものであったならば(中略)同じ傾向をもったもの同士が
相集まるようになる」。「そうすることによって〈無益な摩擦をさけ、
よりよき平衡状態を求めよう〉というのが、生物のもった基本的性格の
一つの現われでなければならない」(102,103ページ)

「この二つの社会はその〈地域内を棲み分ける〉ことによって、
〈相対立しながらしかも両立する〉ことを許されるにいたるであろう」
(103ページ)。
これが今西の「棲み分け理論」であり、その結果生まれるのが
「同位社会」である。

同位社会は種社会が分裂して複雑化したものだが、平面的な棲み分けに
とどまり、分化や分業の観点では未発達で未完結だと今西は言う。

 ある地域内の複数の同位社会の間にさまざまな分業が行われ、
その結果「共存」「平衡」が実現した状態を、今西は「同位複合社会」
と呼ぶ。その分業の中で大きなものが「食うもの食われる物の関係」だ。
それは「支配階級と被支配階級」の関係でもある。「食い方の違い」に
よる分業もある。

同位複合社会はさらに大きな地域を全体とする同位複合社会を形成して、
発展していく。それは地球規模に至って完結する。

これが今西の考えだ。これは結局は、進化とは棲み分けの密度化であり、
「多種類の生物がこの地球上に繁栄する」ことだと言っているのだろうか。
どうもそうらしい。

 進化をめぐる、ヘーゲルやマルクスと今西との違いは、生物内部の
対立や矛盾の位置づけにある。

ヘーゲルやマルクスは、対立・矛盾から生まれる運動にこそ、
発展の核心を見ようとする。対立・矛盾から生まれる運動が発展を
引き起こす。この立場なら、研究・調査の中心は対立・矛盾の運動に
焦点化されるだろう。

今西も対立・矛盾を認めるのだが、そうした断絶よりも、その結果
生まれる平衡を重視しているように見える。その時、研究・調査の中心は
対立・矛盾が止揚された後の状態に焦点化されるだろう。
ここが大きな違いだ。

今西は対立や矛盾を見ないのではない。しかし、「いたずらな摩擦をさけ」
とか「無益な摩擦をさけ」とか言う時の、「いたずら」か否か、
「無益」か否かの客観的な基準は示されない。

ただし、今西は「甘ったれた」エコロジストではない。たとえば、
今西は「食うもの食われる物の関係」を同じ類縁内に見る。
ある生物の種が繁栄し、高い繁殖率を維持して飽和状態になろうとするとき、
どうするか。

今西は言う。「もとのままの繁殖率をつづける場合には、この世が
いわゆる生存競争の修羅場と化するだけであって、それも
〈無益な抗争を好まぬ〉生物にとってはふさわしからぬことであろう。
だからこの矛盾の、生物らしい円満な解決というのは、その生物社会が
食うものと食われるものとの分業に発展することによって、
繁殖率を減退させずともその飽和状態を持続すむことにあるだろう」
(118ページ)

今西の言うところの「無益な抗争」を避けるためには、
共食いも辞さないのだ。そうした厳しい社会の中での「平衡」を
今西は考えている。
 

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