2月 12

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

9月、10月は「創世記」
11月は「出エジプト記」
12月は「伝道の書」と「イザヤ書」を読みました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 1.矛盾を書き切る旧約の迫力 掛 泰輔(大学生) ◆◇

(1) 創世記

 人間はもともとアダムとイブしかおらず、神がつくったエデンの園に住んでいた。
その人間が善悪を知るきっかけとなったのは、善悪の木の実を食べたからであった。
そしてそれは「蛇」にそそのかされたからだった。善悪を知り目覚めた人間がはじめてしたことは、
自分たちが裸であることに気づき、服を着ることであった。これを中井さんは人間の社会性だと言った。
僕も幼稚園のころに舞台の上で踊りましょうなんて言われ、
まったく拒絶し一人だけ真ん中の一番前で突っ立っていたことがある。その方がよっぽど目立つけれど、
踊るよりはマシだと思っていた。こんな舞台の上で親を前に踊るなんて強烈に恥ずかしい、
と思った記憶がある。
 この「蛇」にそそのかされたというのも面白い。蛇をつくったのも神だろう、
いやそもそも中井さんのいうように、蛇が神ではないかとさえ思う。神は人間に善悪を教えたかったではないか。
しかし自分で教えてしまっては、神は自分で矛盾することになる。矛盾すれば神は完全ではなくなる。
神が神であるためには神自らを分裂させた結果である「蛇」をつくる必要があったのかもしれない。
だから蛇を遣わしたのではないか。
 読み進めて驚いたのは、アブラム(アブラハム)、イサク、ヤコブ、ヨセフ、と続く一族の物語に
これほど惹きつけられるとは思わなかった。ところどころに出てくる人間のどうしようもない欲望が
リアルに描かれる。建前抜きの生存をかけた葛藤の描写の迫力。アブラハムの話から神と人間が契約
という媒介によって関係していく。そしてこの契約という考え方が、神を神たらしめている。
つまり、契約を守れないようであれば、神は神ではなくなる。なので神もまた必死である。
神と契約したアブラハムはあるとき息子のイサクを生贄に捧げよ、と神ヤハウェに言われる。
アブラハムは淡々と従う。このときアブラハムは何を考えていたか、ということは書かれていないことが
想像をかきたてる。アブラハムの子孫を繁栄させるといって契約しておきながら、その息子を殺すことになれば、
それは契約の破棄であり、神自身の存在が否定されることになる。アブラハムはそれを知っていたから、
淡々と幼いイサクを祭壇に縛り、今に斧を振り下ろそうとしたのではないか。そこで神からストップがかかる。
「今こそ神を畏れるおまえの心がわかった」と言っている。矛盾した神。
ここのタイトルは「アブラハムの試練」である。
 しかし実際は神の方こそ試されていたのではないか。アブラハムはここでストップをかけない
ような神であれば、自らの存在を示せない神、そんな神と契約することはできないというふうにも
考えていたのではないかとも読める。
 人間も神に交渉を持ちかける場面が何度も出てくる。ヤコブは「もしヤハウェがわたしとともにいて、
わたしのいくこの旅路を守り、食べるパンと着る衣服を備えて下さるならば、ヤハウェを我が神としよう」と言う。
 こうしたことからも神と人間が契約で結ばれた途端に、関係は対等であり、対等であるからこそ、
互いが互いの存在価値を証明しようとしてぶつかり、対話が起こり、運動が起こる。
契約世界である資本主義がここまで発展してきたのも、それが世界の真理だからであり、
死の強い危機感に直面し続けてきた民族だからこそ、その芽をつかむことができたのではないだろうか。

(2) 出エジプト記

 モーセの使命
 出エジプト記は迫害され続けた一族、及びそのリーダーとして生きたモーセの物語だ。
モーセと聞いて思い浮かぶのは、よく絵画のモチーフになるように、モーセが海を割って道が開くという
あれだった。これも何が面白いのか全く分からず読み始めた。しかし予想に反してまたしても惹きつけられ、
心動かされた。
 出エジプト記には彼の青年時代からやがて壮年期をへて一族の指導者になるまでが書かれている。
モーセはレビ族の生まれだが、生まれて間もなく、かくまいきれなくなった(エジプト王によって
ヘブル人の男の子は殺されることになっていた)母親はナイル川沿いにモーセを捨てた。そこを
エジプトの王女に拾われ養子になった。しかしなぜだか自分の出自が、エジプトで苦役を強いられている
ヘブル人であることを知っていた。ある時同胞の仲間のヘブル人がエジプト人に殴られているところを見た。
そしてモーセは仇討ちにそのエジプト人を殺す。国にいられなくなったモーセはシナイ山の奥、
ミデアンの地に逃げ込み、そこで妻を娶り過ごすことになる。しばらくしてエジプトの王が死んだ。
 モーセはある時、舅の羊を荒野の奥まで追っていき、神の山ホレブまで来た。すると突然、
神がめらめらと燃える柴の中からモーセに告げた。「彼らをエジプト人の手から救い出し、
あの広々とした沃地、乳と蜜が流れる地に導き上らせよう。」
モーセは繰り返し「私にはとてもできない」と尻込みする。
神はそれで怒って、介助役の兄アロンの助けを借りさせ、モーセはやっとエジプトに向かう決心をする。
モーセは故郷のエジプトに帰った。   
 デミアンの地に寄寓し、彼はきっと「自分とは何者か」ということを考え続けたに違いない。
自分はなぜエジプト人を殺したのか。エジプト人を殺し、今ここに逃げ隠れている自分とは何者か。
彼のアイデンティティーはイスラエル民族、というものに行き着いた。
ではイスラエル民族として生きる自分、その中の自分とは、一体何者か。何を為すべきなのか。
 そこで彼は自分で答えを出した。神に答えを与えられたというが、神はどこかから彼の元に飛んで
きたのではなく、彼の中にあったのだろう。だから彼は神と契約を結び、自らの運命を自ら決めたのだろう。
もちろん何度も何度も葛藤はあった。が、それは決意の固さの裏返しのようにも見える。
行動が大胆であるほど、それに対する懐疑は深まる。しかし答えはすでに出てしまっている。
前に進むという道しか残されていなかったのだろう。

僕の経験
 この僕自身も訳あって16歳の頃、高校を辞めて上京し、一度故郷を捨てた。
家にも故郷にも二度と帰らない、帰りたくないと思い離れた。一度全てをご破算にしたいと思い、逃げたかった。
一方で、新しい自分になるために必要な師を探し求めての旅だと明確に自覚し行動もした。それで鶏鳴に出会った。
中井さんに言われたのは一度家族と話し合えということだった。僕は一度故郷を捨てたと言いながら、
家族の経済的援助を受けていた。そしてそれでありながら、家族となんら話もせずに独断で高校を辞め、
上京してきた過去をはじめて意識した。意識したものの、それが僕のどういう本質を表し、
何が問題なのかということは、その時は何もわからなかった。一度帰省し、家族と話し合った。
何度も何度も話し合って、中井さんの言っていたこと、自分のやってきたことの意味がはじめて、少しだけわかった。
 2週間存分に家族と話し合い、闘ってみて少しわかった。家族であれ他人であるということ。
そして他人に対しては、言葉にして問いをぶつけなければならない。「僕が高校を辞めると言った時、
辞めた時、辞めて引きこもっていた時、何を考え何を感じ、何をしていたのか?」
 そして相手に問いをぶつけるということは自分に対して問いをぶつけるということに他ならなかった。
「逆に自分は、その問いにどう答えるだろうか」。その問いは自分とは何者か、という問いだった。
 人と人が対等に向き合うということは、これほど苦しく、分かり合えず、対立を深めるということだと知った。
しかしおもしろいのは、それだけのバトルを行って家族の間ではじめて僕は家族の目を見て話しがきけるようになった。
今までは極端に反抗し、無視し、あしらい、馬鹿にしていた。そういう自分がいつのまにか消えていた。
今振り返れば、残ったのは新しい関係、相互理解の深まりだった。
 モーセもきっと無視できない自分の過去の意味に気づいていたのではないだろうか。自分の生きて来た中に、
自分とは何か、の答えがあった。そしてその答えを見つけたからには、そう生きるしか本当に生きるという
ことにはならないことも気づいていたのではないか。ここで安穏とした生活を送ることが、自分のやるべき
ことなのか。一見真っ当な生活を送っているようで、実は自分自信の使命を押し殺して生きていることに、
うすうす気がついていたのではないだろうか。

パロとの闘い
 エジプトに帰ったモーセは王様パロと闘う。エジプトの魔術師と戦ってナイル川を真っ赤にしてみたり、
蛙を大量発生させて王を困らせる。そして魔術師も負けじと蛙を大量発生させるので、もはや何をやっているのか
わからない。虱やイナゴで襲撃してみたり、アブを大量発生させる。雷と雹を降らし、稲妻を空に響き渡らせた。
このやりとりはさながら漫画のようなおもしろさがある。
 そしておもしろいのが、これだけのことをやられてパロの家臣は王に叫ぶ。
「いつまでやつらにかき回されるのですか!早くやつらを解放しましょう!
エジプトが滅びかかっているのがまだお分かりになりませんか!」
 いかにも凡人が言いそうなことである。組織の中で問題がおこらないことを良しとする人間の根性は
2000年以上前から変わらない。
 パロは屈しなかった。一ミリもモーセに対して妥協しなかった。
 しかしモーセはとうとう最後の手段に出た。空前絶後のイナゴを放ってエジプトから緑という緑を消し去った。
そしてエジプト全土を3日間真暗闇にし、エジプト中の初子をすべて抹殺した。パロはヘブル人を抹殺したが、
モーセはエジプト人の初子を抹殺したのである。そこで、やっと、パロは折れた。
 そこでやっとエジプト脱出になるが、そこでもパロはまだ追いかけてきた。
結果的にモーセが葦の海を切り開いてパロ軍を殲滅した。が、神をも恐れないパロの執念は、
学習能力がないとも思えるし、闘う姿勢を崩さない素晴らしさとも思う。

エジプト脱出と大衆の本音
 おもしろいのはモーセに従ったイスラエル人である。ひたすらモーセに愚痴を吐き、悪態をつく。
 イスラエル人の奴隷たちは、エジプトでは奴隷であれど食べるものには困らなかった。
のちにモーセに率いられて砂漠を何十年も彷徨うよりもはるかに物質的に豊かで楽に生きられた。
 そんなイスラエルの同胞にモーセは「このままではダメだ。一族でカナンの地を目指そう」といった。
どんな気持ちで、どれほどそれを信じていただろう。何度も弱音を吐いてはヤハウェに叱咤され、
自らの使命に引き戻される。きっと、辞めたかったに違いない。なんで自分が、とも思っただろう。
 そして旧約の中では異色な、モーセの墓は未だ見つかっていない、という事実は胸に迫るような事実だった。
彼は同胞に殺されたのかもしれない。すさまじい恨みを買っていなければ、せめて誰かが墓くらい
建ててやっていただろう。そうまでして実現せねばならなかった使命、そういうふうにしか生きられなかったのだろう。

(3) イザヤ書
 イザヤ書は文体も内容も異様だった。第一イザヤは神にこのような召命を受ける。
「イスラエルの人間を、頑なにせよ。神を信じないような人間にしろ。現実にひたすらすりより、
神を忘れてしまうような、そういう人間にするのが、お前の使命だ」
 だがイザヤがとった行動は、「悔い改めよ」と説いて回ること。この矛盾の塊である召命、
そしてその矛盾を生きることを選んだ第一イザヤ。これが神がイザヤに命じた使命だと知った時、
胸に迫るようでありなぜか涙が出てくる。この涙や感情の意味を考えてみたものの、今はよくわからない。
最後にイザヤは民の手によりノコギリで轢かれ殺された。もしも民衆が真っ当な生き方に立ち返ってくれれば、
頑迷預言は間違いだったことがわかった。だが頑迷預言の撤回はなされず、絶望の中で死んだという。
だがその意志を継ぎ発展させたのがイエスだと中井さんがいうことの意味。ここにある巨大な何かは、
今のままの自分では到底理解できない。

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