5月 21

『「聞き書き」の力』(大修館書店)の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」 その3

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」? 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

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序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第5節 「国語科」とは何か 

私自身は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。そして世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた。そうした私には、今回の学習指導要領は深く頷けるものがある。

私の国語科への疑問とは、それが事実上心情重視の「文学」教育や、「結論」を注入するような「道徳」的な教育に堕していて、本来の使命を果たしていないのではないかということだ。
本来は、1人1人の高校生が自分のテーマや問題意識をつくり、そのテーマの答えを追求していく生き方を支援するのが国語科だと思う。1人、1人が自分の思想を持って生きることを準備するのだ。つまり「自立」した人間になるための手立てと能力。そのためには自発的に「問い」を出し、その「答え」を出すための過程と「答え」の出し方を指導するべきだ。
ところが、現在の国語教育では、それができていないどころか、その反対のことが行われているのではないか。「答え」が教師から押し付けられ、生徒自らが「問い」を立てることが軽視されていないか(「道徳主義」)。感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)を学習させられ、論理=思考(集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深める)が指導されていないのではないか(心情主義)。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係づけられていないのではないか。内容を教えこもうとして、形式(「型」の重視)の指導が弱すぎるのではないか。

以上国語科の問題として述べたが、実はこうした問題は他教科でも同じであり、そうした矛盾が国語科の特殊性故に、国語科に集約して現れるのだと思う。もちろん、国語科と他教科との違いも大きいのだが、実はほとんど同じ欠陥がそこにある。

それにしても、どうしてこうなってしまっているのか。そもそも国語科とは何を教育する教科なのか。
国語科の目標とは「ことばの学習」だとされる。「ことば」や「文章」を学習し、言語活動の能力を身につける教科だとされる。したがって文法や語彙や漢字、文章の構文、構成や文体を学習し、あらゆるジャンルの文章や韻文の読解や、表現を学習する。
ここまではほとんどの人が一致できる点だろう。しかしこうした理解では不十分だったから、変なことが起きているのだ。それは、国語科と他教科との関係の曖昧さである。

表    対象        認識・表現の方法
国語科 人間の内面や心情   感性的に主観的にとらえ、感性に訴える表現をする
他教科 現実や事実      客観的に合理的、論理的に考え、論理的に書く

多くの人は、国語科と他教科との関係を表のように考えているのではないか。他教科は現実を事実に即して合理的、論理的に考えるもので、国語科は人間の内面や心情を、感性的にとらえるものである。だから国語科は現実や事実の表現でも、読者の心に訴えるような文学的な表現をめざす。ここにあるのは、事実と心情との分裂、論理と感性との分裂である。本当にそうした理解でよいのだろうか。

「国語科はすべての教科の基礎である」。これもまた多くの人が一致できる命題だろう。すべては「ことば」や「文章」からなっているのだから、その学習がすべての基礎になってくる。しかし、この理解で終わりなのだ。本来は、それは始まりでしかない。国語科はそこから始まるが、さらに各教科での成果を踏まえて、全教科の総合をすることをゴールとするべきではないか。
各教科では、それぞれの分野における基本的知識や考え方を学ぶ。しかしそれだけではバラバラの知識に終わりかねない。それらを総合するのが国語科ではないか。各教科で学んだことを材料として、高校生1人1人の問題意識やテーマを作る、そのための方法と能力を学ぶのが国語科だろう。

私のようにとらえないと、国語科を他教科と横並びで考えることになり、他教科と張り合うことになる。そして、国語科は「ことば」や「文章」という、すべての教科の基本ではあるが「形式」的な学習である。それに対して、他教科はすべて立派な内容を持っている。「内容」上のすべての分野が他教科に占められているから、国語科に内容上で残されるものは何かが問題になる。その結果、他教科の内容を事実や客観性ととらえ、それに対して主観的な「心情」と「文学教育」を国語科の特殊領域としたのではないか。それが現在の哀れな国語科の姿なのではないか。

本来の国語科は、これまで分裂して考えられてきた事実と心情、論理と感性、主観と客観、自己と他者とを総合してまとめ上げることを役割とすべきである。国語科が読解や表現を担当するということは、すべての教科の前提となる能力を担うという意味であると同時に、それらを総合して、一人の自立した人間を作るところまでが使命である。それは最初から最後まで総合的なものであるべきなのだ(第3章で高校3年間のカリキュラムを提案する際に、この問題を具体的に詳述する)。
先に問題提起したレポートの書き方でも、これまでの理科や社会科と国語科の分裂といった状況を超えて、レポートのあり方の全体像を示すのが、本来の国語科の使命である(これは第5章で取り上げる)。

最後に一言。国語科の教師の中には「では感性や心情、文学の教育はどこにいくのか」と心配する方々がいるだろう。それに答えておく。そうした「せまい意味」での文学や心情的な教育は、「芸術」という選択科目として位置付けるのが妥当ではないか。音楽や美術と同じである。誤解のないように断わっておくが、私は文学教育を軽視しているのではない。それが重要であることは論をまたない。ただし、それは「必修科目」ではないといっているだけだ。「文学教育」が「道徳」教育になり下がっているのは大問題だが、その解決は「正しい文学教育」を担当する方々に任せたい。

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