5月 07

半年ほど読書会とヘーゲルゼミをお休みとさせていただいていました。
 牧野紀之の『ヘーゲル研究入門』の3つのテキストについて、牧野の設問の解答、それぞれのテキストの解説と、ヘーゲル哲学全体の解説を書いていたのですが、それがなかなか終わらなかったからです。一区切りがついたので、読書会とヘーゲルゼミを再開します。

ゼミ日程
5月
 19日
6月
 2日
 16日
 30日
7月
 14日

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1 読書会 いずれも午後2時からオンラインで行います。

5月19日 『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社
6月16日 田中由美子さんの『思春期の子どもと親、それぞれの自立』社会評論社
7月14日 牧野敬之『哲学の授業』未知谷

2 月曜日のヘーゲルゼミ再開 『ヘーゲル研究入門』の中井の原稿の確認をする予定です
5月27日からの再開予定

3 6月2日のゼミは、久しぶりに鶏鳴学園で行います

4月 01

鶏鳴学園の中学生クラスを担当している田中由美子が本を刊行しました。彼女の人生で初めてのことです。
それは同時に、中井ゼミの仲間から、中井と師弟契約をしている弟子の中から、自分の本を刊行する初めてのことになります。
とても嬉しく思います。

彼女が中井ゼミで学び始めたのは50歳です。それから10数年、彼女はまっすぐに自分の道を歩んできました。この本はその成果であり、これからの彼女の未来を照らし出すものです。

彼女の人生の門出です。私たちにできる精一杯の祝砲を打ち上げなければならないと思います。

お祝いは、新しいステージの始まりの確認であるとともに、また、最も厳しい批判をすることで、次のステージへの送り出しの場にもならなければなりません。

5月(19日)か、6月(16日)にこの本の読書会を開催する予定です。
決まり次第、報告します。
みなさん、積極的にこの祝宴に参加してください。

そして今はまず、本を購入し、お手に取ってお読みください。

■ 目次 ■
1 『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』について 田中 由美子
2 本書の目次
3 本書冒頭の「この本の読者へ」

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◇◆ 1 『思春期の子どもと親、それぞれの自立 ―50歳からの学び直し―』について  田中 由美子  ◆◇

この十数年中井ゼミで学び、また鶏鳴学園の中学生クラスを担当してきました。
これまでの鶏鳴学園での授業や、私自身の親としての経験を通して考えてきたことをまとめたのが、先月社会評論社から刊行した表題の本です。
https://www.amazon.co.jp/s?k=9784784517633&tag=books029-22

これまでの人生や子育ての中で、いったい何をどう考え、どう解決すればよいのか、たびたび戸惑い、悩んできましたが、授業で出会う中学生たちも様々な葛藤を抱えていました。
そして、彼らの本音や現実に向き合う中で、彼らが抱える問題は、大人たちやこの社会の問題をそのまま映したものではないかと考えるようになりました。
それは私自身がつまずいた問題や、家庭や学校の問題です。
そういった問題の本質とその対策について、かつて中学生だった子どもの親の立場から、現時点での考えを綴りました。

思春期の子どもの最大のテーマは「自立」です。  
それが、「いじめ」や不登校、勉強や進路進学の悩み、親子関係など、彼らが学校や家庭で直面しているあらゆる問題と関わる、彼らの課題ではないでしょうか。
しかし、「自立」とは、いったいどうなることが「自立」なのか、また、思春期の子どもを前に、周りの私たち大人は何ができるのでしょうか。 
子どもたちが行き詰まるとき、それは子どもだけではなく、私たち大人の「自立」が問われているのではないでしょうか。

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◇◆ 2 本書の目次 ◆◇

第一章 転機
1. 子どもたちの思春期
2. 50歳での転機
3. 「社会人・大学生クラス」(中井ゼミ)での自立のやり直し
4. 「中学生クラス」と「家庭・子育て・自立」 学習会
5. 問題に向き合う生き方

第二章 作文を読み合って話し合う授業
1. 率直に突っ込み合う
2. 問題を抱える中学生たち
3. 精一杯の作文にどう応えるか

第三章 小冊子「君たちが抱える問題の本質と、その対策」
〇 小冊子 「君たちが抱える問題の本質と、その対策」
〇 教材 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」

第四章 中学生たちが抱える問題 学校編
1. 「いじめ」たことを書いた作文
2. 他人を傷つけるからよくないこと?
3. 「自分が傷つくのも嫌」
4. 思春期に対立は必然
5. 「傷つけてはいけない」という行き止まり
6. 相手への疑問や批判は直接本人に言う
7. 最終目標は自立
8. 問題の本質を考える練習、言いたいことを言う練習
9. 不登校は「ズルい」?
10. 不登校はタブー?
11. 秘密主義
12. 部活やクラスにルールがない
13. 裏ではなく表で対立できる仕組みを
14. 自立に向かうためのルール

第五章 中学生たちが抱える問題 家庭編
1. 教育虐待
2. 中学受験って何だったのか
3. 「空白」を埋めるスマホ
4. 学びたいテーマを持つという自立
5. 「母が絶対権力」
6. 兄弟や親の問題
7. 子どもの権利の代行という親の役割
8. 親子それぞれの自立
9. 子育て後の第二の人生

第六章 経済成長と「家父長制」の次へ
 ― 親の、その親からの自立 ―
1. 父との関係の節目
2. 親子関係の意味

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◇◆ 3 この本の読者へ ◆◇

本書は、国語の塾の一講師として、この十余年中学生たちが抱える悩みや葛藤に向き合ってきた結果、いったい何が彼らの問題の本質なのか、また、どう解決すべきなのか、その考えをまとめたものです。学校でも家庭でもない場だから、彼らは本音を語り、作文に表現したのではないかと思います。そして、作文をもとに話し合う中で、さらに生の声が飛び出しました。

また、子どもたちの問題を論じると同時に、そうした子どもたちの問題の解決に向けて努力しておられる保護者や学校関係者、つまり、私たち大人自身がどうあるべきかについても論じました。中学生たちの本音や現実に向き合っていると、その後ろに、私自身がつまずいた家庭の問題や、学校、社会の問題が浮かび上がってきたからです。

それを、かつて中学生の子どもの親であった私の経験や思いからまとめています。タイトル、『思春期の子どもと親、それぞれの自立』は、その意味です。

私は、長年ほぼ専業主婦でしたが、50歳からがらりと毎日の生活を変えました。
家事以外の仕事や勉強に多くの時間を割くようになったのですが、何よりも大きく変わったことは、誰か他の人のことではなく、私自身のことを考え続けて生きるようになったことです。

当時子どもたちはもう高校生と大学生でしたから、とっくにそうしていてもよかったはずですが、むしろ私は、彼らの中学生の頃からの思春期に「心配」をふくらませていました。
ほんとうは、子どもがどうだからとか、主婦だったからではなく、私は、私自身を生きるということを、ついぞ知らなかったのだと思います。家族を含めた他人(ひと)の顔色をうかがったり、他人の「心配」をしたりということが、私が生きているということでした。しかし、その実私は、子どもたちのことも含めて、身近な誰の気持ちに寄り添うすべもなく、ひとりぼっちで生きていたように思います。40代でいろいろなことがうまくいかなくなり、苦しくなりました。自分の人生の先を見失っていました。

50歳で転機を迎えた私は、それからの14年間、私が抱えていたいくつかの問題の本質が何だったのか、少しずつ目を開いてきました。その後始めた学習を共にする仲間や、塾に通ってくる中学生たちを通してです。遅いスタートですが、しなければならないこと、そしてまだまだやれることはいくらでもありました。自分をよりよく知ることだけが私自身を支え、ようやく自分の全責任で、自分で納得できるような生き方へと踏み出せました。

また、私がかつて一人でもやもやと悩んでいたことは、実は、思春期の子を持つ多くの親が抱えている不安でもあったことを、仕事を通して知りました。子どもが大人になろうという思春期に、親自身がどう大人になり、どう生きてきたのかが問われるからです。夫婦関係も問われます。私は親兄弟との関係にも課題を抱えていましたが、それも少なからぬ人が抱える問題でした。

子どもの思春期は、子も親も嵐のときです。その嵐の中の中学生たちが作文に書いてくる問題や、彼らが授業の中で語ることに突き動かされて、彼らと私自身の問題のありかを探ってきました。私も40代に、思春期の子どもたちの、一人の親だったからです。

そして、子どもたちの行き詰まりは、実は私たち大人の行き詰まりをそのまま映し出したものではないかと考えるようになりました。私たちがまず自分自身を生きて、本気で自分を変えることだけが、私たち自身を救い、そして、そのことによって子どもたちも前へ進むことができるのではないでしょうか。

では、かんたんに本書の構成を説明させていただきます。
まず、第一章で、私が50歳でどのように転機を迎えたのか、自己紹介をします。
第二章は、その後始めた、塾での仕事、中学生どうしで互いに作文を読み合って話し合う授業の大枠を説明します。この後の第三?五章に書くことの背景です。
第三章には、その教育活動を通して見えてきた、今、中学生たちが抱える問題と、それをどう考え、どう解決を図るべきなのか、現時点での私の答えの一覧を掲載します。授業で使う教材の一つ、小冊子「君たちが抱える問題の本質と、その対策」です。
第四・五章は、第三章の考えに至るまでの具体的なプロセスです。中学生たちがどんな作文を書いてきて、どんな思いを語るのか、そして、そこにどんな問題の本質が見えてきたのかを記します。第四章は、学校での問題、第五章は、生徒たちにとってさらに切実な、家庭での問題です。

そして、第六章に、再び私自身のことを書きます。ただし、今度は親としての私のことではなく、子としての私の、私の親からの自立の問題です。
中学生の成長や自立を後押しする仕事をする中で、近年、実はその後ろに、彼らの親が、その親(生徒たちの祖父母)からどれだけ自立できているのかという重い課題があると考えるようになりました。また、それは、生徒たちの祖父母の時代から今現在まで、社会状況は大きく変化してきたにもかかわらず、学校や社会のあり方が根本的にはなかなか変われないことと深くつながっていることではないでしょうか。
私の両親との親子関係、さらに、両親とその親との親子関係までをふり返って考えたことを、最後の章に記します。

12月 26

今年もあとわずかになりました。
来年もよろしくお願いいたします。

今年の夏以降は
牧野紀之さん編集の『ヘーゲル研究入門』の3つのテキストの読解と、その訳注、解説、牧野さんの設問の解答を
用意することに取り組みました。
牧野さんの設問に、私の原稿を合わせて本にして刊行するつもりでいます。

まだ、全部の原稿を書き上げられていないのですが、来年1月には終わると思います。
来春に刊行を目指しています。

ヘーゲル哲学を相手にして、今私に可能なすべてをぶつけて、精一杯、格闘してきたつもりです。
この仕事に専念するために、ヘーゲルゼミと読書会の中止が続き、ご迷惑をおかけしました。もう少しで完成です。

来年1月から7月までのゼミ日程を決めました。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

中井の原稿が完成するのは、1月になりそうです。
それが終わるまでは
読書会を開催できるかどうかは未定です。
読書会の開催が可能になり、
テキストなどが決まり次第連絡します。

1月
 14日
 28日

2月
 11日
 25日

3月
 10日
 24日

4月
 7日
 21日

5月
 5日
 19日

6月
 2日
 16日
 30日

7月
 14日

9月 17

中井ゼミについて2点の連絡

(1)9月24日の予定の読書会は中止にします。
  中井は8月の集中ゼミの原稿をまとめており、それに集中させてもらいます。

(2)12月は3日と17日にゼミを予定していましたが
  17日を24日に変更させてもらいます。

結果、10月以降のゼミ日程は以下の通りです。

10月
 8日
 22日

11月
 5日
 19日

12月
 3日
 24日

9月 13

この夏は、中井ゼミ、ヘーゲルゼミのメンバーとともに、牧野紀之編『ヘーゲル研究入門』のテキスト3つを読みました。

それに参加したゼミの仲間たちの感想を掲載しました。

集中ゼミの感想 

1 誰かの考えで弱さを隠す   鈴木 蕗子
2 自由への衝動        鈴木 明規
3 「自己肯定感」のまやかし  田中 由美子
4 哲学が哲学になっているか  塚田 毬子
5 悪だけが正解を立てられる  高松 慶

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◇◆ 1 誰かの考えで弱さを隠す   鈴木 蕗子 ◆◇

「精神の自由とは、静止した姿にあるのではなく、自由を否定しようと脅かすものを、たえず否定し続けようとする活動にあるのだ。自己を生み出すこと、自己を自己の対象とすること、自己を知ることが、精神の仕事である。」

 自由を否定しようと脅かすものに、私はこれまで自分の居場所を奪われるのが怖く従っていた。中井ゼミに入り、組織の長と対立し続け、親に初めて意見を伝えた。私は、私を否定するものから解放されたと思っていた。
 しかし、自分の中に私を支配している考えがあった。知らないうちに、これまでの生き方を繰り返していたことにしばらく経ってから気がついた。一つ、二つ闘っても得られるものでない。これはやって、あれはやらないと中途半端な生き方をしても得られない。たえず否定し続ける、そんな覚悟がないやつは、満たされることのない人生を送ればいいとヘーゲルに言われていると思った。
 自立を阻むすべてのものと闘う覚悟を持つのか、持たないのか。一方は、たえず否定に立ち向かい、問いを立て、自分の答えを出していく、他方は、否定から逃げ、反抗し、否定しないものと関係する。私は、覚悟を持たないで、否定から逃げて、自分の弱さを隠してきた。しかし、いつもそこには、自分の意志で生きられない虚しさがあった。私は、これまでの生き方をやめ、自立を阻むすべてのものと闘う人生を生きたい。

 そして、「自己を生み出すことが、精神の仕事だ」と誰が今までこんなことを言ってくれたか。ある思想を信じなさいと教える宗教は、いくらでもある。問いを出しても、言いくるめられ、縛られていく。自分の思想を作ること、そんなことがあっていいのか。他者の考えを借りるのではなく、意識的に自分の考えを作っていく、それをやらないとこれまでと同じく、風に揺られ漂ういのちで終わる。

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◇◆ 2 自由への衝動  鈴木 明規 ◆◇

 私はよく、なぜ中井ゼミに入ったのかということを考える。私は過去に3回、中井ゼミに入ろうとしたことがあった。1度目は、20歳で大学の看護学科を辞めたとき、2度目は、看護専門学校を卒業後に救命医療を目指して大学病院に就職したとき、3度目は、大学院を修了し総合病院の麻酔科医局で麻酔看護師として働いていたとき。なお、このうち前者2回は、中井ゼミの参加に必要な自己紹介文を書けずに参加を諦めた。

 3回のうち、いずれのときも私の意識の中にあったのは、鶏鳴学園で論理的思考を身に着ければいつかは医学部に入れるのではないか、たとえ入れなくてもどこかにたどり着けるのではないかという浅はかなもの。ヘーゲルは名前こそ知っていたが、その実態については何も知らなかった。しかし、3度目に中井ゼミに入ろうとしたとき、前の2回とは違うことがあった。つまり、私には、看護師として救命医療を目指す中で見えてきた問題意識があった。それは、救命医療の対象となる病気の背景に、そもそもその人の生活や社会の問題があり、その問題自体に対処するべきではないかということ。また、法律上、診療の補助行為にとどまる自身の現状、つまり、麻酔科診療の中では、自分で判断をし、自分で責任を取るということができないという私の現状に対する問題意識だった。今思えば、このとき既に私の中には自由の感覚、自分で押しつぶして潜在的になっていた自由への衝動があったように思う。

 中井ゼミに入った翌年、中井さんに指導を受ける中で、私の潜在的な衝動が息を吹き返した。父に手紙を書いたことで、私が医療の道に進むきっかけになった母の死が、父の言う交通事故死ではなく、産後うつの末の自殺であることが分かった。私は、それまで目指していた身体的な意味での救命を反省し、患者の病気や死の背景や、それらが周囲の人間に与える影響をも含めた全体を対象とした医療をやりたいと思うようになった。そう思い、松永さんに指導を受けながら受験勉強をしたことで、医学部にも受かった。中井ゼミでヘーゲルを読む中で、コロナ感染患者の看取りの問題に向き合う中で、自由を感覚や衝動で感じるのではなく、意識的に考えるようになった。

 今思えば、私は無意識に、親の価値観から自立し、自分で自分のやりたい医療を作りたくて中井ゼミに入ったのだと思う。ヘーゲルの言う本当の自由、民族精神、世界精神を認識するにはまだほど遠いが、自分の中にある不足、限界と意識的に向き合いながら、自分のやりたい医療を1歩1歩作っていきたいと思っている。

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◇◆ 3 「自己肯定感」のまやかし  田中 由美子 ◆◇

 私はText3、『精神哲学』序論の第5節のゼミを中心に取り組み、また、Text2、『小論理学』24節のゼミにも参加した。

 今回私にとって最も切実だったことは、私たちはヘーゲルの示す成長、発展の三段階の、さいごの三段階目まで進めるのかどうかという観点だった。それは何より直接私自身の成長の問題であり、また、私はエンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』を起点に、家族が社会との関係の中でどこから来てどこへ向かうのかというテーマに取り組み始めようというところだが、中井さんは、マルクス、エンゲルスはその三段階目に結局は届かなかったと見ているからだ。現実をリアルに科学的に暴いた彼らにして。
 ヘーゲルの成長の三段階とは、まず、親や世間と一体の、無垢で無自覚な第一段階から始まり、次に、区別、分裂が生まれ、個人が芽生え、自分の中での葛藤や他人との対立、闘争に至る第二段階、そして、その激しい闘争の最中で自らを真に自立した個人へとつくりあげるのが第三段階である。それは、個人が個人として生きられる社会をつくるための仕事ができるような段階ということでもあるだろう。
 中井さんは、人間の成長をこの三段階で示したこと、その三段階目を示したことがヘーゲルの最大の功績だと話した。ヘーゲルのように二段階目の次をとらえて示せなければ、結局は第一段階に戻るしかなくなるのだと。私たちは人間だから、もうその元の無垢へは決して戻ることはないのに。

 ヘーゲルは『小論理学』24節で、その三段階の必然性を旧約聖書の創世記から説く。人間は誰もが第二段階の分裂、自己内二分には至るのであり、それがキリスト教の「原罪」だという。中井さんの解釈も加えると、人間は神なる蛇にそそのかされて知恵の木の実を食べ、めでたく分裂して恥を知り、つまり人間になる。そして、一体性に閉じ込められた「楽園」からめでたく送り出され、労働して自立していく可能性を授けられ、つまり、神に大いに祝福されたのだと。人は内的二分により苦しみ、悪を為し、しかしまた、その内的二分、精神の労働によってのみ救われるのだという。
 また、性善説と性悪説の違いについての中井さんの話にも興味をひかれた。それは人間が生まれながらに善なのか悪なのかという違いではなく、性善説は、人間の成長を二段階で考える立場であり、性悪説は、それを三段階で考える立場なのだという。牧野さんやヘーゲルの文章の中にも時折のぞく、善悪を並列するとらえ方ではない。また、人がどの立場に立つのかは、その人の能力にかかっており、能力不足なら第二段階を超えられず、人間の概念とは無関係の、よりマシに、という小手先の話になってしまうのだと。耳が痛い。

 そして、『精神哲学』序論の第5節に、ヘーゲルがその第三段階の自立を説明する箇所がある。精神、つまり人間は、自らが媒介されているように見える他者、つまり自然や親、師などの恩を堂々と忘れてすべてを止揚、併合し、それがたんに自らによって存在しているに過ぎないものへ引き下ろし、完全に自立するのだと。自立のなんと厳しいことか。
 また、同じ第5節の別の箇所では、成長、発展の三段階が、「肯定」、その「否定」、そしてその「否定の否定」として表現され、その第三段階の絶対的否定性こそが自己自身の無限の肯定だとする。
 この自らの無限の肯定、「die unendliche Affirmation seiner selbst」の箇所を読んだときに、世間で長らく流行っている「自己肯定感」への違和感の意味がはっきりした。「自己肯定感」が大切だと言ってみたところで、また、それが幸運にも幼少期にどれほど大切に育まれることがあったにしても、人間は思春期にいずれ分裂するのであり、他人とも対立する。その中で自分で自分自身を否定し、その否定の否定として代案を出すことをやり遂げ続けるのでなければ、自分を本当に肯定することなどできないのだ。自分が苦しんだ、家庭や社会の問題と闘うこともできない。

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◇◆ 4 哲学が哲学になっているか 塚田 毬子 ◆◇

 今年8月に行われた集中ゼミで、牧野紀之の『ヘーゲル哲学入門』テキスト2を読んだ。ヘーゲルの『小論理学』24節が引用されたテキストだ。悪について書かれ、面白く読んだ箇所だと記憶していた。今回の集中ゼミでは、中井さんからヘーゲルに対する批判が今までになく目立った。
 ここではヘーゲルが自分以外の考えを否定するところから始まる。しかし、その限界を内在的に示すのではなく、それに自分の考えを対置していくやり方に留まっている。これはヘーゲルが否定する悟性的なやり方そのものであり、相手と同じ土俵で戦っているに過ぎない。これへの中井さんの批判を聞くと、ここでのヘーゲルのやり方は間違いだとわかる。それは、ヘーゲルが自身の哲学の立場に反することを行っているからだ。
 ヘーゲルがやっていることが何かおかしいとしても、当のヘーゲルがこう展開することを選択した、それには必ず理由があるのだからその理由を考えろと思うことがあるかもしれない。他人の仕事を評価するとき、他人がした選択に疑問を持つとき、しかし他人はこの選択をしたのだ、それには意味があるはずだと考えることも必要ではある。これを全くやらなくて良いというわけではない。しかし、これを単に尊重すると多様性の立場に陥る。この考えは、哲学として行われているものはすべて哲学だという前提に立っていて、つまるところこれは哲学だから正しいのだという結論しか出せない。「哲学とは何か」が問題になれば、それに合わないものは間違っている。なぜなら、哲学という名目で哲学ではないことをやっているからだ。ヘーゲルはまさにこの点を問題にしたはずであるにもかかわらず、その問いに自身が答えていないのだから、間違いだと言うべきであり、哲学になっていない哲学を批判しなければならない。
 このレベルの批判は、ヘーゲルと同じ以上の問題意識を持つ人間にしか出来ないことであり、中井さんという先生の補助線をもってヘーゲルを読んでいることでとんでもない楽をしているような感覚を覚え、しかし中井さんが問題とすることを理解できるようにはなってきた自分に成長を感じた。
 「哲学とは何か」という問いは、主語を変えてすべてのことに当てはまる。自分のやる仕事が、その本来の姿に食らいつくようなものでありたい。

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◇◆ 5 悪だけが正解を立てられる  高松 慶 ◆◇

 私はこの夏に4年勤務してきた葬儀社を終えて、「研究者」になるための学習・活動に集中している。私が根本とする考えは、ヘーゲル哲学であり、発展である。その学習の始まりとして、今回の集中ゼミでは『研究入門』3つのテキストすべての学習会に参加した。
 
 今回テキスト2で「善悪とは何か」がゼミで取り上げられた。ヘーゲルは善と悪を全く区別された形で最初から存在するものであるかのような書き方をする。つまり、人間が葛藤するときは、目の前に分岐点があり、一方に光り輝く善があり、他方に悪が手ぐすねを引いて待ち構えている。その分岐点が自分自身の中にもあり、自分の自然な欲求は悪に向いているのを、なんとか善に社会性などの理由で引っ張っていく。こうヘーゲルはイメージしている。
こうした善と悪とを相互外在的にとらえるやり方を、中井さんは批判している。最初に善悪があるのではない。人間が葛藤する過程は、悪そのものであり、圧倒的であると。

 まず、自分の生き方について、二者択一の選択をしなければならない時、その選択をする過程において、葛藤がある。この選択段階でどちらが善か悪かは、その人にとって本当の意味で明らかになっていない。わかっているとしても一般論レベルであり、個々人の人生でどちらを選ぶのかという点では、2者は全くの等価であり、ゆえに揺れる。これが悪である。
 そして選択をしたら、その選択をもって社会を生き、社会に対立を起こす。この対立、矛盾が、悪である。他者との対立が引き起こされ、自分自身の選択が検証される。その対立の末に結果として社会が前に進んだというとき、ようやく1つの善が実現しているといえる。
 
 中井さんは以上のように代案をまとめていた。善悪は本来最初に目に見える形で存在しないのに、するかのように考える人はおかしい。たとえば、「正解」を予め設定し、そこに自分の身の振り方をあてはめる、更には他人にその正解を押し付けるのはおかしい。
 本当は、善と悪とは最初から区別されているものではない。私たちは悪から始めるしかないのだ。それが大変だと思った。

 私が葬儀屋に入ったときの問題意識は、端的に書けば「人が節目を節目として生きるとはどういうことか」だった。その問題意識から問題提起、提案を行った。たとえばコロナによる死亡者でも葬儀を行っていいと厚労省ガイドラインで示されていたのに、都内の葬儀社や火葬場が自分たちの責任ではなくガイドラインのせいにして葬儀や火葬の立会いを認めていない、であれば認めているところを参考にした学習会をせめて開くべきではないかということ。学習会組織の提案はいずれも却下されたがやり切った。
 だが、それらの提案を一応、何回かやりきったいま、この提案した思いを活かし、更に自分で学習会を組織していけるような能力を作っていこう、そのために会社を辞めて勉強に専念しようという局面になったとき、当の私は揺れた。本当に自分はやりたいのか、やれるのか、わからなかった。分からない中で、中井さんからの批判もあって、会社を辞めた。
 こうした葛藤はもちろん学習会を提案した際にも都度自覚し、また中井さんから批判を受けてきた。だがこの葛藤が、自分の生きる場所を自分で作るか、他人が用意した場所に乗っかったままで生きるかという選択のレベルで、現れた。結果として、自分で生きる場を作る道を選んだ。だが本当に選んだだけで、実際どこまでやれるかは、今わからない。
 ここまで踏まえると、問題提起をしていた際も、葛藤の乗り越えはまだまだ小さいまま、私の中で「正解だ」と思うものに私が身の振り方を当てはめていき、他人にも私の考える「正解」に従うことを求めてきたことが分かる。覚悟も小さく、能力も低かった。大きく見れば、今もその葛藤を胸の内に抱えている。
 だが、ではほかに自分を作っていくやり方があるのか。ない。いまの自分では「正解」なるものがそうでないものと等価でしかないことを自覚し、そのうえで、なぜ自分は正解なるものを選ぶのか、その答えを出していくこと。これしかない。
 葛藤を一応持てる人が、とりあえずでも正解を出そうという運動を起こすことができる。そこからしか始まらない。「正解」を自分に当てはめていくことの何が問題かと言えば、自分がどう転ぶかわからないにもかかわらず、自分が正解そのものを生きているかのような顔をすること、葛藤の自覚がないこと。