4月 10

私の初めての哲学本が4月25日刊行です。

タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』

サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」

出版は社会評論社

270ページほど
定価は2300円(+消費税)です。

参考にしていただくために
目次と前書きにあたる文章(「読者に」)を以下に掲載します。

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目次

第1部 発展の立場
第一章 ヘーゲルの時代とその課題
第二章 発展とは何か

第2部 ヘーゲル論理学の本質論と存在論
第一章 ヘーゲルの論理学における本質論
第二章 存在論における「変化」 存在とは何か 変化とは何か 
第三章 本質論の現実性論 
第四章 ヘーゲルの三つの真理観 本質と概念の違い 

第3部 物質から生物、生物から人間が生まれるまで 
第一章 物質から生物への進化
第二章 生物から人間が生まれるまで

第4部 ヘーゲル論理学と概念論
第一章 ヘーゲルの論理学と労働論(目的論)
第二章 普遍性・特殊性・個別性と、概念・判断・推理

第5部 人間とは何か  
第一章 人間と労働
第二章 自然の変革 ?自然への働きかけから自己意識が生まれ、「自己との無限の闘争」が始まる
第三章 社会の変革
第四章 個人としてどう生きるか 私たちの人生の作り方 
第五章 人間の概念、人間の使命

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読者に

 本書の読者として想定しているのは、哲学の専門家ではありません。
 日々の生活の中で直面した問題を本気で考え、困難な現実と真剣に戦っている方々こそ、私の読者だと思っています。
その人たちに届く言葉で、届くように語ろうとしました。

 それでもヘーゲル哲学は難しく、私の理解がまだまだ及ばないところがあり、それゆえに難しい用語が並び、
読むのが困難だとしか感じられないところがたくさんあると思います。
 そこで、全体の構成と私の意図を最初に説明します。これを念頭において読んでいただければ、
闘うための武器としてのヘーゲルゼミ哲学の項目リストができるはずです。
 まず、第1部を読んでください。これが本書を読んでいただくための前提となります。
 第2部はヘーゲルの論理学の内の本質論と存在論の説明です。ここはヘーゲル哲学を読む上で、
どうしてもクリアーしておかなければならない部分なのですが、前提となる哲学用語の知識がないと、最も難しいところです。
 全体を飛ばすか、流し読みをするとして、第4章だけはしっかり読んでください。
これがヘーゲル哲学が現代を生きる人にとっての最大の武器になるところだからです。
本質と概念の違いは大切です。
さらに可能なら、第1章の(9)の根拠の限界と、その克服の方法(7)、
第3章の(4)の偶然性と必然性の区別には目を通してほしいです。
読者のみなさん自身で、日々の経験を例にして考えていただけば、
諸問題の本質や解決策を考える上でヒントになることがたくさんあると思います。
 第3部では具体的に、物質から生物、生物から人間が生まれるまでの過程を追いました。
生物に関心がない人は飛ばしても大丈夫です。
 第4部は第2部を受けて、ヘーゲル論理学の全体とその概念論の説明です。難しければ飛ばしてください。
 第5部が本書の本丸です。人間とは何か、私たちはどう生きるべきかを考えています。
 その際、自然と人間、その両者をつなぐ労働という3者の関係で考えています。
 人間が自然に働きかける際には、人間社会自体を変革することを媒介としています。ですから、
第2章に自然の変革が、第3章に社会の変革が置かれています。最後に、個人の人生と、人間の使命を示して終わっています。
 難しいところは飛ばしながら、骨子を考えてみてください。

 ヘーゲル哲学の概説書、解説書は、多数あります。本書もそうした形式をとっていますが、
概説書や解説書を書いたつもりはありません。私がヘーゲル哲学を紹介したいのは、
それが現代社会の中で生きて戦っていくうえで、それを根底から支える武器として、最大、最高のものだと思うからです。

 ヘーゲル哲学とは、一言でいえば、発展の立場であると思います。
自然も人間も、私たちの社会も、すべてが発展によって生まれ、運動し、
対立と矛盾による消滅を繰り返してきたものなのであり、
それを理解するためには発展として理解しなければならない。
そうでないと、諸問題の理解ができず、問題と本当に闘っていくことができなくなる。
 だから、ヘーゲルは発展とはどのような事態であり、発展として物事を理解するとはどういうことなのか、
それを明らかにしようとしました。
 また闘う際には、できる限り、本質に即して、有効に闘い抜きたい。
そのためには、自分自身と、他者や社会とどう関わっていくかが大きな問題です。
ヘーゲルは人間の本質を「自己との無限の闘争」をする存在としてとらえました。
 本書ではそれをできるだけ簡潔にわかりやすく描こうとしました。
 
 本書が解説書ではないというもう1つの理由は、ヘーゲル哲学をありのままに説明するのではなく、
そこに潜在的(an sich)にあるにとどまっているものをも、
現代の中に発展させた形で示すことをめざしたからです(これが本当の批判です)。
 それができなければ、ヘーゲル哲学の概説や解説をしたことにはならないでしょう。
発展について語りながら、発展させる能力を持たない人間を、読者は信用できないでしょうから。
 本書で示したことは、ヘーゲルの中にそのままあるか否かに関わりなく、
本来の発展という考え方から当然出てくるものを、私に可能な限り明確に、簡潔に表そうとしたものです。
 当然その中には、ヘーゲルへの批判も含まれています。
それは、私には、本来の発展の本来の考え方からの逸脱に思える部分であり、
ヘーゲルの世間への妥協、彼の弱さの現われに見える箇所です。
そうした個人の事情はあったにしても、大きくは時代の限界としてとらえるべきでしょう。
 私たちは、現代の立場から、ヘーゲルの先に進まなければならないはずです。
他に、マルクス、エンゲルスについても言及しましたが、ヘーゲル哲学に対しての態度と同じスタンスで臨んだつもりです。
 読者もまた、本書に対して、同じスタンスで読んでいただけるようにお願いします。

3月 20

私の初めての哲学本が4月10日刊行予定です。

タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』

サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」

出版は社会評論社

250ページほど
定価は2200円(+消費税)の予定です。

1月 24

大学入試センター試験が2020年から大きく変わります。
この点について、取材を受け、意見を求められることが増えてきました。
この1ブログでもはっきりと見解を出しておきます。

以下は『こら、慶応』(2018年12月29日刊行 宝島社)というタイトルの慶応大学の「裏ガイド」の取材を受けた内容のラスト部分です。
以下は、私が書き足したものです。

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大学入試センター試験の改悪

2020年から現行の大学入試センター試験に代わって大学入学共通テストが始まる。
記述式問題が一部で導入され、英語の4技能のための民間試験が使用されることなどが話題になっている。
しかし、私はこの改革には賛成できない。現実の深刻な問題を無視した、きれいごとでしかないからだ。

現下の日本の教育の最大の問題とは、経済格差の拡大、それによる学力格差の拡大である。
特に低学力層の学力低下が止まらないでいる。それへの対策こそが急務なのである。
したがって、入試改革の議論も、当初は高校生の学力を基礎レベルと発展レベルに分けて、それぞれの「達成度テスト」の導入が検討された。
従来のセンター試験は発展レベルであり、基礎レベルのテストの導入こそが真剣に検討されていたのである。

ところがいつのまにか、基礎レベルの方は消えていまい、「発展レベル」だけが、記述式問題や英語の4技能などできらびやかな装いをもたせられ脚光を浴びることになった。
これは本末転倒である。「発展レベル」は従来のままで問題はなかった。
本当は、大学全体が入試における3段階に区分され、ほとんどの大学から入試がなくなる方向に進むべきだったのだ。

それが、今回の改革(改悪)のように、現実の問題解決に役立たない、摩訶不思議なことが起こっている。

「学力低下」が問題になっているが、激しく低下しているのは、こうした改革を行おうとしている中央教育審議会の委員たちと霞が関の役人たち、政治家たちである。

今の日本の大人たちは、自らが問題を直視できず、問題解決の能力がないことを示している。
彼らは、戦後の入試改革の失敗の歴史、SFCの失敗から何も学ぼうとしていないのである。

11月 18

大修館書店のPR誌『国語教室 104号』(2016年秋号)が刊行されました。

その「えつらんしつ」(大修館書店の新刊紹介)で
『「聞き書き」の力』が紹介されました。

広島大学教育学研究科
国語文化教育学講座の
田中宏幸さんが書いてくれました。

5月 22

『「聞き書き」の力』(大修館書店)の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」 その4

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

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第6節 PISA型学力

PISA型の学力が問題になっている。また「問題解決型の教育」が言われるようになってからかなりの年数が経過した。これらに簡単に触れておく。

PISA型学力は、従来の詰め込み式への対論としては意味がある。「答え」を暗記させるのに対して、「答え」を考えさせ文章としてまとめることは、はるかに高い能力である。しかし、それはまだまだ低いものであることもわきまえておかなければならない。その低さとは、「問い」を出すのは依然として教師や大人であるということだ。

自立していく上で重要なのは、自分の問題意識、自分のテーマを作ることだ。その際の「問い」は自分が出すもので、他人から与えられるようなものではない。自分自身の「問い」だからこそ、本気でその「答え」を出す気になれるのだ。大切なことは「答え」を出すことではなく、自ら「問い」を出すことなのである。
「答え」を求めると、教師の用意した「答え」があることを暗示することになり、それを見つけさせるだけの指導になりやすい。むしろ、容易には「答え」がないような「問い」を投げかけるべきなのだ。それがディベートなどで優れた教師がやっていることだ。
そもそも現実の社会問題は、どれをとっても複雑に入り組んでおり、簡単に解答が見つけられるようなものではない。その複雑な込み入った状況の中で、答えが容易には出せないことに耐えて、ねばりづよく考え続けること。そのタフさこそ、教育すべきなのだ。

「問題解決型の教育」でも同じである。大人の場合とは違い、高校生にとって重要なことは「解決」ではない。解決すべき「問題」に気付き、その問題を定式化する(疑問文の形にして問題を明確にする)ところに核心がある。

そして、問題意識を作る上で、ねばりづよく現実に立ち向かっていくタフさを養成する上で、聞き書きがいかに有効かを本書は述べたいのだ。多くの高校生の問題は「答え」を出せないことではない。その答えが通り一遍のキレイごとであり、安易な決意表明になりやすいことだ。それを突き崩すことからすべては始まる。

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第7節 「温故知新」  教育改革と「聞き書き」

2014年12月に文部科学省の中央教育審議会が新たな答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」を発表した。これをめぐって高校現場が大騒ぎになっている。2020年度から大学入試ががらっと変わる。それと一体の形で高校現場の教育にも大きな変革が求められている。

答申は目標として次のような能力の獲得を掲げる。「十分な知識と技能を身に付け、十分な思考力・判断力・表現力を磨き、主体性を持って多様な人々と協働する」。これが「学力の三要素」と称されるナカミだ。
より具体的には、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法である「アクティブ・ラーニング」の充実を図ることとしている。

これだけなら、従来の繰り返しでしかないと思うが、今回の違いは、その達成のために大学入試改革を断行することが明記されたことだ。これが現場に大きなインパクトを与えている。
これまでも高校段階の教育改革はさんざん提言されてきた。しかし大学入試がネックとなって改革が進まない。今回はその大学入試改革と一体の形で進んでいる。「本気だ!」と現場に伝わっているのだ。
2020年度から現在の大学入試センター試験が廃止され、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」と「高等学校基礎学力テスト(仮称)」が導入される。
 また、各大学が個別に行う入学者選抜(個別選抜)でも、各大学がそれぞれの入学者受け入れ方針=アドミッション・ポリシーを策定することを義務づけ、それにしたがった選抜を求めた。

これら全体の改革を通して、答申が目標として掲げる「学力の三要素」の獲得が求められた。

しかし、これによって現場の先生方がまたまた混乱している。「学力の三要素」とは何か。「アクティブ・ラーニング」とは何か。これまでの教育、現行の学習指導要領が求める学力や指導法と何が違うのか。

「温故知新」。大切なことは表面的な言葉の違いにごまかされることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることだ。

今回の答申で、従来の方向と大きな変化は何もない。求められていることはこれまでの延長上のことでしかない。本来の教育の目標を、さまざまに流行の言葉で言い換えているだけだ。
私はこの序章の四節以下で現行の学習指導要領の掲げる目標の意義とその目標達成のための課題を説明した。そのまさに延長上に、この答申がある。今回の答申の内容は、実は二〇年前の学力低下論争の際に議論されていたことであり、その際に議論されていた回答の遅すぎる実現なのである。そしてそれはさらには、「ゆとり教育」が課題にしていたことの、一周遅れの繰り返しでしかない。

だから、いつものように、私たちは教育の本質、教育の根本に、いま一度立ち返って考える必要がある。眼前の生徒や学生の課題こそ、私たちが解決しなければならない課題なのだ。彼らの抱える課題をどう解決できるか。それにどういう考えと方法で立ち向かえば良いのか。
本書全体がその回答になっていると思う。「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されるぐらいバカげたことはない。いつも変わらない本当の教育があり、その実行が求められているだけだ。
そして、本書の立場からは、今回の答申も、現行の学習指導要領がそうであるように、大いに追い風である。これを生かして、本来の教育活動に邁進していただきたいと思う。