1月 03

日本語の基本構造と助詞ハ  その5

三 日本語の基本構造と助詞ハ            中井浩一

 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
  2.1 現実世界で対象が意識される場合
(1)対象として意識する
(2)名付け
(3)文(判断)が生まれる 
(4)「判断のある」と「存在のある」
(5)「存在のある」と他の性質  
(6)「存在のある」と他の動詞
(7) 肯定と否定 
(8)全体から部分へ、部分から全体へ 
  2.2.言語世界で対象が意識される場合
(1)文全体が意識された場合
(2)文から述語部に

                                     

 1.松永さんの論文について

 松永さんは東大の大学院で野村剛史氏のもとで日本語学を研究してきた。20代の後半に始め、
すでに10年以上の期間になる。松永さんの評価できる点は、日本語の助詞、特に助詞ハの研究に
専念してきたことだ。助詞は日本語の根底をなしており、その中でもハは核心だ。こうした大きな
研究対象に取り組むことは普通は避けられる。大きすぎ、根本すぎて、すぐに成果は出ない。
評価されにくい対象なのだ。

 そのハの研究にあっても、デハナイに着目したことも、すぐれた直感だったと思う。ここにはハの
根源的な機能が隠されていると思う。

 問題に気づけた人は、その答えを出す能力を持っている人だ。マルクスがそう述べているが、
松永さんにもそれが言えるはずだ。ただ、助詞は、そしてハは、ムズカシイのだ。日本語の基本構造が
そこにあり、それをつかまない限り、真相は見えてこない。

 この4年間、私は松永さんと一緒に野村氏の助詞ハ、ガ、ノに関する論考や関口存男の『冠詞論』を
読みながら、言語一般の発生(名詞の生成)からの展開、文(判断)の成立の意味、名詞の変質・消滅
までを考え続けてきた。

 同時に、ヘーゲルの判断論、アリストテレスの形而上学を読みながら、人間の認識そのものの成立過程、
展開過程を考えてきた。その両者は基本的には同じことなので響き合い、相互に深まりあうことになった。

 松永さんはこの2年ほど、繰り返し、デハナイの意味について論考を書いてきた。しかし、それはまだ
まだバラバラで混乱していた。1つの原理原則から、すべてを押さえようという覚悟が感じられないのが、
一番不満だった。それを繰り返し指摘してきた。名詞の生成と分裂(判断)から、すべてを捉えつくせ!

 今回掲載した論文(今年の3月に書き上げられた)で、松永さんは初めて、それをなんとかやりとげたと思う。
全体を1つの原理で貫徹しようとしたことが、何よりも優れている。全体も、細部も、一応は論理的に展開され
ているし、「3.デハナイ」と「6.否定と対比」がよく考えられていると思う。その志の高さから、すでに可
能性としては、日本語学の研究者の中ではトップだろう。

 それだけに、これからどう生きるかが重要だ。それは学会との関係や距離を定め、在野の存在で終わることも
覚悟し、ひたすらに真理に向かって突き進めるかどうかだ。

 その点で、一番気になったのが、今回の論文を野村氏の理論を踏まえて展開したことだ。踏まえるのは良いが、
対立点が明示されず、野村氏の理論に対する自分自身の立場を表明していないことだ。これは「ひよっている」の
ではないか。このことは、もっと根本的には学会との関係、そこで前提とされている専門用語の使用法としてあら
われている。

 今回の論文は、多くの前提を持っている。主語と述語、肯定と否定、文と単語、名詞、判断、個別と普遍、
助詞、助詞ハの基本用法、確定と仮定、用法などなど。しかし、本来は一切の前提なしに、それらすべての生成の
根源から説明しなければならない。そうでなければ、助詞ハには迫れない。それに迫るには、そもそも言語とは何
かを、一切の前提なしに解き明かさなければならない。その覚悟があるのだろうか。

 そのことと重なるが、今回の論文の内容で言えば、デハナイを「述語部」内の分裂と理解した点が致命的な誤り
だと思う。私は、デハナイは、文が文のままに対象化されたものととらえる。

 今、松永さんに問われているのは、どこまで根底的に、根源にさかのぼって言語、日本語を捉える覚悟があるのか、
という点だ。

 2. 代案

テーマは、助詞ハとは何かだ。今回の松永さんの論文に即して批判をすることは不可能なので、端的に、
私の代案を示しておく。

 2.1 現実世界で対象が意識される場合

(1)対象として意識する
 言葉の始まりが問われる。それは人間に、外界の現実世界の何かが対象として意識されることだ。
「ムッ!」「ウン!」。ここにすでに対象と自己との分裂が起こっており、その対象は何かという疑問、
問い(つまり自己内二分)が潜在的に存在している。人間の個人的レベルでは、赤ん坊の空腹や排泄物での
不快感などを想像してほしい。それが人間集団のレベルでは狩猟・採取段階の労働や家族関係の中でも生まれてくる。

この対象を対象としたという意識には助詞ハも潜在的には生まれている。それは「その対象ハ何か」という形で意識
される(これが主題のハの潜在的状態)。また、「存在のある」も潜在的には生まれている(後述)。

(2)名付け
 次の段階では、とりあえず、その対象をAと名付ける。これが名詞の始まりであり、ドイツ語では無冠詞。このAが、
その対象は何かという問いへの一応の答えであり、一応の解決になっていることに注目したい。(この点は関口存男
の『無冠詞』)から学んだ)。

(3)文(判断)が生まれる
 しかし、それはただ名をつけただけで、その対象が明らかになっているわけではない。さらにその問いに答える
ためには、対象世界自らが分裂し、自らの本性を示すことが必要だ。それがその対象から1つの性質(B)が現れること
である。

A=B、A ist ein B、

AはBであると表現される。この時、その対象は何かという問いへの答えは、より深く、対象の
内実に迫っている。これを判断と言う。ここで対象は対象としてはっきりと意識され(それが主語になる)、それに
ハがつく(主題のハの顕在化)。

 主語(主題)とは対象として意識された対象のこと。対象から分裂して現れた部分を述語部という。
AからBが現れたのだが、これをヘーゲルはAがAとBに分裂したと言う。判断は外的世界の二分と統一だが、同時に
それを認識する意識の内的二分とその統一でもある。そして判断においてA(主語)はナカミの空虚な入れ物でしかなく、
そのナカミはB(述語)で示されるとヘーゲルは言う。ここで意識はA(主語)からB(述語)へと重心を移動している。

(4)「判断のある」と「存在のある」

A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花は美しい

 こうした判断の中に現れてくる「ist」や「である」は「判断のある」と言われる。

 これに対して、A ist.  Aはある
これを「存在のある」と呼ぶ。

 ここで、「判断のある」と「存在のある」の関係が問題になる。しかし、本当は、この「ある」がそもそもどこから
生まれてくるのかが問われるべきだ。

 それは対象を対象として意識した時、そこに対象の存在が潜在的に含まれているのだ。それが顕在化し、外化した
ものが「存在のある」なのである。つまり、対象Aを対象(A)として意識する時、それは(存在したA)であり、
それを意識した時にAは(が)ある。A ist. と表現される
 
 そして判断とは、その意識された対象Aが分裂し、そこから性質(B)が現れることなのだから、そこに「存在の
ある」が存在しており、それが転じて「判断のある」が現れていくるのだ。つまり、「判断のある」は、対象Aに
潜在化していた「存在のある」から生まれたものと言える。ただし、以上は、論理的な説明で、時間的な順番ではない。

(5)「存在のある」と他の性質 
 A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花はきれいだ

 これは判断である。
 ではA ist.  Aはある  Die Blume ist. この花は(が)ある
は何か、これも判断なのか。

 私は、これも先の判断文と同じ判断であり、Die Blume「この花」の分裂の1つだと考える。ist(sein)「ある」も
「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、
「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。

 しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも
根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。

 なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、
「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」
とは「この花はある」ということなのだ。

(6)「存在のある」と他の動詞
(1) Die Blume ist. この花は存在する
(2) Die Blume riecht.  この花はにおう
(3) Diese Blume zieht Leute an.  この花は人を引き付ける

 私は先に、(1)「この花は存在する」は判断だと述べた。では(2)や(3)はどうなるのか。
(2)や(3)も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断
とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、
述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質が外化したものでしかないということだ。
その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

(7) 肯定と否定
 判断で肯定と否定の形があるが、それはどこから生まれるか。それは「存在のある」(sein)とその否定、つまり
「存在しない」=「無」(nicht)から生まれる。
この「無」は対象(A)として意識された対象(A)が実際に存在しなくなる、消滅したり変化したりすることで意識される。
この「存在」と「無」が、判断の形式のレベルで捉え直されたときに、「肯定」と「否定」が意識されるようになる。
ここに「否定」が生まれ、「反対」「対極」という考えが生まれる。肯定の否定は否定だが、その否定の否定は肯定である。
この花は赤い、この花は美しい、この花はバラだ、この花は香る といった肯定表現に対して
この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない、この花は香らない が否定表現だ。

(8)全体から部分へ、部分から全体へ
 認識が進むと、最初に意識した対象全体から、その部分へと意識が移ったり、その逆に部分から全体へと意識が移っ
たりする。その意識の中には全体を否定し、その反対の部分へという意識があり、それは「否定」「反対」という考えが
前提となっている。これが全体と部分の「対比」の意識にもなる。

 以上は、そもそも現実世界からある対象が意識される段階から始めて、名前が生まれ、さらには判断が生まれてくる
段階を見てきたのだが、そうした判断の形式が、普通の日常で、ごく普通に使用されるようになると、現実世界とは
別の言語世界(観念の世界)で、同じことが繰り返されるようになる。

 2.2.言語世界で対象が意識される場合

 ここからは、対象は現実世界のものではなく、言語世界での文や語句になる。ある判断(文)や、文の中のある語句
や単語が、対象として意識されるのだ。

 そこで、ここでは、わかりやすいように、意識された対象を(  )でくくって示すことにする。

(1)文全体が意識された場合

 ある文、判断が対象として意識される場合を考える。
(A ist ein B)、(AはBである)が対象として意識される。
「ムッ!」「ウン!」。ここにはすでに対象と自己との分裂が起こっており、対象化された判断への問い(つまり自己
内二分)が内在化して存在している。

 その問い、疑問には、対象化された判断への「否定」(疑い)が内在化されている。逆に言えば、まったくの「肯定」
の場合には、対象と自己との分裂が起らず、その判断が意識の対象とはならない。

 その否定を外化させれば、次のようになる。
(AはBである)はない。
(AはBで)はない。

 「ムッ!」「ウン!」とある判断が対象として意識され、その判断への疑問、問い(つまり自己内二分)が自覚され
るが、検討の結果、最終的には「否定」でなく「肯定」になった場合は次のようになる。

(AはBで)はある。
これは(AはBである)はない。と思ったが、結局は(AはBである)であった。ということだ。

 なお、松永さんが仮定条件にはデハナイが現れない理由を考えているので、それへの私見を出す。人に文が意識され
れば、その文を意識してハが現れるのが普通だ。仮定条件とは、その(意識された文)が仮定条件として意識されるこ
とだ。それが「?デナイならば」と表現され、「?デハナイならば」とならないのはなぜか。「ならば」の機能の中に、
文を意識するというハと同じ機能が含まれているからだ。

 これは、人は1回に、1つのことしか意識できないことをも意味する。ある文(肯定文)を意識した時に、
デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件
「ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、1つの対象(焦点)
が意識されては消えていく。関口なら「達意眼目は常に1つだ」と言うだろう。

(2)文から述語部に

 ここで意識の対象が文(判断)全体から、その述語部Bに集約される場合を考える。

それはBが意識される場合であり、Bへの疑問が潜在的にある場合だ。それが自覚された表現は次のようになる。
Aは(Bである)はない。
Aは(Bで)はない。

 次に、このBの否定が意識されると、そこに内在化された問いは「それに対する肯定は何か」になる。
Aは(Bではない)。 (Cで ある)。
(Dで ある)。
(Eで ある)。
(Fで ある)。

否定と肯定でBとCDEFなどの他の性質が比較され、性質同士の関係が差異から区別、対立、矛盾へと進展していく。
これが「ハ」の「対比」の機能とされるものの内実である。

なお、
Aは(Bで はない。(Cで ある)。

ここから、
Aは(Bで はなく)、(Cで ある)。
また、Aは(Cで あって)、(Bで はない)。
が出てくる。

もう1点補足する。今検討したAは(Bで)はない、と「1.」で取り上げた AはBでない、とはどう違うのか。

この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない と
この花は赤くハない、この花は美しくハない、この花はバラでハない。 

この「は」が入るか否かの違いは何か。これは現実世界の否定がただ反映された表現と、言語世界で述語部が意識され、
そのが否定が意識された表現との違いである。

以上で松永さんが問題にした諸点についての私見の概要の説明を終える。なお、以上の説明ではこれを主に認識の運動
として表現したが、もちろん、対象世界がそのように運動するから、人間がそれを認識できるのである。

また、「1.」では現実世界と意識との関わり、「2.」では言語世界内での意識の動きを説明したが、「2.」の
言語世界は「1.」の現実世界の反映として、現実世界とつながっているから、文や語句の意識といっても、現実世界
の対象意識とも重なることは当然である。しかし言語化された上での意識とそれ以前の意識を区別することは重要だと思う。

                     2014年10月31日

1月 02

日本語の基本構造と助詞ハ  その4

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

6. 否定と対比

「大学生ではない」と述べても、「大学生」の特定の対立者は存在しないため、「大学生でない何かである」
ことまでは特定されない。しかし、「大学生ではない」と述べるためには、少なくとも、「大学生」との差
異は意識されていなければならない。

(33) がらんとした控室に、ひとりでぼんやり佇んでいると、不意に、これではない、と
いう思いがこみあげてきた。(中略)試合は終った。だが、何ひとつ見えてくるもの
はなかった。これではないのだ、とまた思った。これではない。しかし、これではないとしたら、いったいどんな
試合なのだろう。いったいどんな試合を作ればいいのだろう。(一瞬の夏)

上例は、「これではない」と述べることで、「これ」との差異は認識されているものの、それが「どんな試合」
であるかということまでは認識されていない。「Aではない」によって表されたAとの差異が、はっきりAとB
との対立として認識されると、たとえば次のような文となる。

 (34) 山田は、大学生ではなく、社会人である。

この「大学生」と「社会人」とがいかなる意味で対立関係にあるかは文脈次第であるが、たとえば(34)を
「山田は大学生ですか?」という質問に対する答えとして見れば、この「大学生」と「社会人」とは、
偽と真という意味で対立している。

6.1 AではなくB

あらためて表(2)を見ると、(34)と同じ「?ではなく(て)」という単純接続の例が20例ある。この20例は
「AではなくB」とパターン化できるもので、そのすべての例がデハナイの直後にその対立規定の現れる例、
つまり、AとBの対比的用例である。

(35) 最初の日にあたしを担当してくれたのはパパではなくて若い頼りないデンティス
トで、あたしを神経過敏にしておびただしい唾液を分泌させてばかりいました。
(聖少女)

(36) たとえば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー・テーブルであると考えたとこ
ろで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう? 
(世界の終わりと…)

これらの例に付した波線部の二項がいかなる意味で対立関係にあるかといえば、(35)は、「パパ=望ましい」
と「若い頼りないデンティスト=望ましくない」という意味で、肯定的評価と否定的評価の対立であり、(36)は、
「球状の物体=常識」と「巨大なコーヒーテーブル=反常識」という意味で、普通の認識と異常な認識という対立
である。名詞述語の場合、その名詞が何と対立関係をもつか、「AではなくB」のAとBがいかなる意味で対立関
係にあるかは、文脈上の解釈によるしかないことが多い。それはともかく、この「AではなくB」というパターン
をもつ用例が、疑問用法を除いた計87例中、20例である。

 6.2 BであってAではない

加えて、表(2)の終止法57例にも対比的用例がある。まず、「AではなくB」を逆さまにしたような、「Bであって
Aではない」というパターンをもった例が、計6例ある。

(37)  読唇術というものは非常にデリケートな作業であって、二カ月ばかりの市民講座
で完全にマスターできるというような代物ではないのだ。(世界の終わりと…)

この例は、A「二カ月ばかりの市民講座で完全にマスターできるというような代物」を、「簡単に習得可能な業」
とでも言い換えれば、B「非常にデリケートな作業」との対立関係が分かりやすくなる。この「Bであって、Aでは
ない」というパターンは、「AではなくB」と同様、「Aではない」の対立規定が同一文中に現れるというものである。
同一文中の対比、である。

 6.3 Aではない。B

さらに、「Aではない」の対立規定が、「Bである」などの形で、直前ないし直後の別の文で現れる例が、
計37例を数えた。

(38) 「タバコ?……タバコだって?」男は思わず吹き出してしまう。「問題はそんなこ
とじゃないんだ……毛屑ですよ、毛屑……分らないかな?……毛屑のために、賽の
河原の石積みたいなまねをしたって、仕方がないだろうってことですよ。」(砂の女)

 (39) もちろん私は機械の故障や係員の不注意が現実に起り得ないと言っているわけで
はない。逆に現実の世界ではその種のアクシデントが頻繁に起っていることを私は
承知している。(世界の終わりと…)

(38)で、A「そんなこと=タバコ」と、直後のB「毛屑」との関係は、相手の主張するもの(問題)と自らの主張
するもの(問題)との対立、言い換えると、ある主張とそれに対する反論、という意味での対立である。また、(39)
に付した長い波線部のうち、Aの中の「起り得ない」と、Bの中の「頻繁に起っている」だけを見れば対立が分かり
やすい。

ここまで見た(35)-(39)の例は、「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」といったパタ
ーンをもち、「Aではない」の対立規定が文脈上に現れていた。つまり、表(2)の疑問用法を除いた87例中63例までが、
対比のある例であった。

6.4 対比なし

そして、終止用法の残る14例は、対比のない例、と見られた。
(40) それはなんだかトルコ語のように響いたが、問題は私がトルコ語を一度も耳にした
ことがないという点にあった。だからたぶんそれはトルコ語ではないのだろう。
(世界の終わりと…)

 (41) もちろん砂は、液体ではない。(砂の女)
 (42) おれの思いつきも、まんざらじゃない。(砂の女)
 (43) あたしの腕のなかで煙突になってるパパは好きじゃないな。(聖少女)

まず、(40)は、主語「それ」が「トルコ語ではない何かである」とまでは認識されているものの、具体的に何である
かまでは認識されていないため、対立規定が現れない。一方、(41)は、「もちろん」という語の示す通り、砂が「個体
である」ことを常識として略している。(40)は、差異(違和感)だけが認識され、それが対立の形で捉えられていない
デハナイ、(41)は、対立が認識されているがそれが表現されていないデハナイの例である。

特に、(41)のような例の存在が示唆することは重要で、それはすなわち、名詞にも形容詞や動詞同様、それ自体が特定
の対立を意味するものはいくらでもある、ということである。「男ではない」とか、「素人ではない」とか、「子供で
はない」とか、こうした「名詞+ではない」の場合、対立規定を必ずしも必要としない論理であり、すなわち、対比の
ない例も十分にあり得るわけである 。

次に、(42)「まんざらじゃない」は、対応する肯定表現が普通でないことから、デナイ終止法にもあった「尋常でない」
などと同様、熟語的、一語的で、否認という意識が薄い。類例として、「冗談じゃない」、「たいしたことじゃない」、
「それどころではない」があって、(42)を含め、計4例である。
さらに、(43)「好きじゃない」に類する例は、「簡単なことじゃない」(2例)、「あまり気分のよいものではない」、
「とくに驚くべきことではない」、「とても追いつくもんじゃありません」、「あたし、みてるんじゃありません」、
「並大抵の歳月ではない」があり、(43)と合わせると計8例である。これらの例に共通することは、デハナイの否定の
対象自体が、元々対立関係にある、というところにある。あえて語彙的に言い表せば、「好き/嫌い」、「簡単な/難し
い」、「よい/わるい」、「驚くべきこと/普通のこと」、「追いつく/逃げられる」、「みてる/他所を向いている」、
「並大抵の歳月/非常に長い歳月」、などとなる。すなわち、前節でデナイ終止法に見られた例と同類である。

最後に、疑問用法のデハナイを除いた、表(2)の「単純接続2」の2例、「順接確定」の5例、「逆接確定」の3例につい
ても、対比のない例であったことだけを報告しておく。以上、疑問用法を除いたデハナイ87例中、対比のある例が計63例、
対比のない例が計24例という結果であった。

6.5 否定と対比

一般に、助詞ハについて論じられる時、「対比」ということが言われるが、それは助詞ハの本質的機能であるのか、
あるいは他の何かから出て来る派生的機能であるのか、とすればそれはどういう理屈で派生するのか、という問題がある 。

助詞ハは、主語名詞の内的二分を反映して主語と述語の間に位置する。また、述語の内的二分を反映してデハナイを
成立させた。デハナイは、否定の対象を明瞭にする。そしてデハナイに限らず、否定文一般において、助詞ハは否定の
対象を明瞭にする。ここから、助詞ハの第二の機能とも言うべき、いわゆる「対比」の機能が出て来る論理が考えられる。
すなわち、否定の対象を明瞭にすることによって、同時に、捨象されたものの存在が暗示されるという論理である。
輪郭を定めると、輪の内と外が生じるようなものである。場合によっては、対象外とされた存在者が、対立的に暗示される。

(44) 山田は、朝食を全部は食べない。

たとえば(44)は、助詞ハによって「全部」を明瞭に否定することで、それと対立する「部分」が否定の対象外として暗示
される。だから、(44)の言外に、「少し食べる」とか「ほとんど食べる」といった内容が解釈される。同様に、「朝食は
食べない」とすれば、「朝食」と対立する「昼食」ないし「夕食」などが否定の対象外として暗示され、「昼食や夕食は
食べる」といった内容が言外に解釈される。さらに、(44)で、「山田」にも助詞ハが付いている以上、それも否定の対象
となり得るから、否定の対象外として「山田以外」の存在が暗示されて、「他の人は全部朝食を食べる」といった内容が
言外に解釈されることもある。このような言外の解釈が実際に表現されると、次例のような一般的な対比の用例になる。

(45) 山田は、朝食は食べないが、昼食と夕食は食べる。
(46) 山田は朝食を食べないが、竹田は朝食を食べる。

無論、「対比」一般の問題がこれで片付くわけではないが、以上、「対比」の否定起源説を述べた。

7. おわりに

デハナイは、述語の内的二分を反映し、対象化された認識を否定する。「XはYである」という認識がまずあって、
その認識を対象化して否定するのがデハナイである。認識の対象化は認識の認識であり、デハナイは観念的な否定の表現
である。しかしながら、「XはYである」が基本文である以上、その否定文が「XはYではない」となるのは実は自然なこ
とでもある。助詞ハの本質は二分することにあり、否定がその対象を明瞭にしようとすればそこにハを介在させることで、
否定の対象と否定とが明瞭に二分されるからである。かくしてデハナイはデアル述語の一般否定形となる。

デハナイの一般性は、「名詞+ではない」に限らず、「?のではない」、「?わけではない」などの形で形容詞や動詞を
も名詞化する形、さらには次例のように、連用成分、各成分を直接否定する形にまで及ぶ。

(47) 槍に向ってではなく青い空に向って歩き出して間もなく、加藤は、槍ヶ岳の肩のあ
たりで、小屋が作られつつあるのを見て取った。(孤高の人)

(48) 当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。
  (風に吹かれて)

また、表(2)の調査には現れなかったが、次例のような「禁止」の用法もある。

(49) 「そんなシーンがありましたか? おかしいな、ぼく、そんなシーンを入れたおぼ
えはありませんがね」
「ごまかすんじゃない。あのシーンは無意味だ。カットしたまえ」(ブンとフン)

 さらに、今回対象外とした、「?ではないか」などの疑問用法に至ると、すでに「否定」が止揚され、さらに、
確認用法とでも言うべき「いいじゃない」のような用例では、助詞ハ自体が埋没し、「じゃない」というこの形で
一語的になる。また、形容詞にも「美しくはない」、動詞にも「食べはしない」という形があり、またもう一方には
肯定の「美しくはある」、「食べはする」、デハアルという述語形もある。以上のようなデハナイの更なる進化の方向を
たどる道が今後の課題である。

2014/03/08 

1月 01

日本語の基本構造と助詞ハ  その3

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

4. 形容詞や動詞の否定

(15) 山田は、美しくない。
(16) 山田は、朝食を食べない。
(17) 山田は、大学生ではない。

デハナイと、形容詞や動詞の一般的否定形とでは何が違うか。何をどう否定するのか。形容詞述語の否定文
(15)、動詞述語の否定文(16)はこれらの一文自体で一定の規定を為した文であると感じられるのに対して、
名詞述語の否定文(17)は、この一文だけでは規定不十分であり、大学生ではないとしたら何なのか、という
問いを喚起する文である。ここが本節の肝である。

形容詞の否定は「よくない」のように「連用形+ない」という形が一般的であり、動詞の否定は「動かない
(ず)」のように「未然形+ない(ず)」という形が一般的である。以下、形容詞の一般否定形のことをクナイ、
動詞の一般否定形のことをシナイと称する 。

4.1 クナイ

(18) 「きみ、そんな考えはよくない。危険だ。きわめて危険だよ」(砂の上の植物群)

(19) 「窓開けてもいいわよ。わたし寒くないわ。その方が気持いいでしょう、富士山が
見えて」(あすなろ物語)

(20) 「でも顔は赤くないわよ。まだ、大丈夫よ」
    智美の方は水割りでぐいぐいやって平然としている。(女社長)

一般に、形容詞は、質や量などの属性を表し、クナイはその属性を否定すると同時にその対立属性を意味する。
たとえば、(18)の「良くない」は、「良い」を否定すると同時に「良い」の対立属性を意味する。それは対義語
「悪い」で表される属性とほぼ同義と言える。厳密に言って、「良くない」は属性の否定であって、別段「悪い」
という対立属性を「言い表している」わけではない。しかし、「良い」という属性は、「悪い」との普遍的、
一般的対立関係の中にあるから、「良くない」は論理的に「良い」の対立「悪い」を意味する。つまり、「対立を
意味する」というのは、現実に対立関係にある、ということである。

なお、クナイが対立属性を意味するということと、クナイがその対義語と同義であるということは別の話である。
たとえば、(19)の「寒くない」は「暑い」と同義ではなく、むしろ「気温が適度である」ことと同義である。それは、
「寒い」の表す属性が、「常態」と対立するということである。すなわち、「良い/悪い」という対義語関係は、
自らが相手の否定であるという矛盾関係であるのに対して、「寒い/暑い」という対義語関係は、否定を媒介しない
単純な反対関係である。さらに、形容詞「赤い」の一般的な対義語はないと思われるが、(20)のように、「赤い」が
マイナスの価値を帯びて使われている場合、この「赤くない」は、(19)の「寒くない」同様、マイナスの価値との対
立属性、すなわち常態を意味する。

形容詞の表す属性は、対立関係の中に存在する。クナイはこの現実上の対立を直接的に反映した否定表現であり、
対立の片方の排除であるから、(15)はこの一文だけで一定の規定を果たす文である。それに対して、(17)の名詞述語
「大学生」の表す属性は、特殊な社会関係を意味し、他との一般的な対立関係を持たない。したがって、「大学生で
はない」とは、それ自体、論理上無限の差異を意味することになってしまい、この一文だけで規定不十分な文と感じ
られるのである。

 4.2 シナイ

 (21) 今にも降り出しそうな空を気にしいしい、信夫は吉川の家にむかって歩いていた。
風がにわかにぴたりとやんで、家々の庭の草木も動かない。(塩狩峠)

(22) じゃあ、僕、決めたいんだ。僕、明倫は行かない。北川へ行かしてよ(太郎物語)

(23) 女三の宮の方へは、もう、全く行かない。紫の上のそばにつききりであった。
(新源氏物語)

動詞は一般に運動を表す語であり、シナイは運動の否定を表すが、同時にその運動の未実現状態を意味する。
運動とは可能性の現実化するプロセスのことであり、可能性が可能性のままにあるのが未実現状態である。運動と
その未実現状態とは、現実性と可能性という意味で対立関係にあるため、シナイはそれ自体で一定の規定を果たす
述語となる。たとえば、(21)の「動かない」は静止状態を意味し、それは「動く」と反対の意味を表す「じっとして
いる」などと同義である。特に、「開く/閉じる」のような対義語をもつ動詞の場合、「閉じない」は「開いている」、
「開かない」は「閉じている」のように、一般的、普遍的対立を意味するが、言うまでもなく、シナイのすべてが
このような一般的で特定の対立を意味するわけではない 。たとえば、(22)の「(明倫へ)行かない」は「北川へ行く」
との対立を、(23)の「(女三の宮の方へ)行かない」は「紫の上のそばにつききりである」との対立を意味している。
この対立は個別具体的なものである。おそらくは、自動詞(一項動詞)は一般特定の対立を意味し、他動詞(多項動詞)
はそうとは限らないというおよその差があるように思われる。

また、(22)のシナイが「明倫へ行く」の否定であり、(23)のシナイが「女三の宮の方へ行く」の否定であるという
ように、動詞の否定は、動詞を超えてその補語にまで及ぶことがある。ここにもう一点、デハナイとの違いがある。
それは否定のしかたの違いである。

(24) 全部食べない 
この(24)の「ない」が動詞だけを否定しているとすれば、「全部」は「全く」と同意の「ない」に係る呼応副詞で
あるが、かたや、「ない」が「全部」までをも否定しているとすれば、この(24)は部分否定になる。すなわち、
次のような二通りの解釈が可能である。

 (24)´ 全く食べない
 (24)´´全部は食べない

シナイは、動詞と「ない」とが一体融合的であるが、副詞「全部」もまた動詞を直接規定する語であるため、
動詞と一体的である。故に、(24)の「ない」は動詞を透過して「全部」とまで一体になり、(24)´´の解釈も可能になる。
これは、シナイの「ない」のもつ否定範囲の曖昧さを示す事実である。

デハナイの場合、助詞ハによって、否定の対象が明瞭に捉えられている。ハが前後二項を明瞭に分離し、前項
「?で」を後項「ない」の対象とするからである。このデハナイの性質を生かした発展形として、「?のではない」、
「?わけではない」などがある。

(25) マホメッド二世は、若さにまかせてただやみくもに、父親さえ成しとげられなかっ
たという理由だけで、コンスタンティノープルを欲しがったのではない。
 (26)  僕は戦争を懼れていた。僕は理論としてこの戦争を絶対の悪だと言い切るだけの
内容を持っていたわけではない。それは寧ろ多分に個人的な感情だった。

この「?のではない」「?わけではない」という形のデハナイは数が多い。表(2)のデハナイ134例中の××例である。

「活用語+の/わけ+で+は+ない」という形式から分かるように、動詞や形容詞などに形式名詞「の」、「わけ」
を接続させることによって、事柄相当の認識を否定の対象(波線部)とすることが可能になっている。言わば、射程
の広い否定である。ただしよく見れば、 (25)(26)は名詞述語文「XはYではない」と同じ構造であり、Yにあたるもの
が「の/わけ」によって名詞化された句であることも分かる。この種のデハナイは、動詞や形容詞などで作られる句
を名詞化して否定する。それがシナイやクナイと異なるのは、対象化された認識の否定であるというところにあり、
否定の範囲が明瞭に対象化されることによって、(24)のような曖昧さをもつ文でなくなる。実際、(24)も、「全部食
べるわけではない」とすれば明瞭な否定文になる 。

5.デナイ

クナイ、シナイと同様、助詞ハを介在しないデナイという否定形もある。表(2)(3)の調査結果をふまえると、
論点は二つに絞られる。第一に、仮定条件節においては、デハナイが現れず、専らデナイが現れるという事実は何を
意味するか、第二に、非常に稀ながらもわずかに存在するデナイの終止法は、いかなる特殊な性質をもつのか、の二
点である。

まず、第一点について表(3)で再確認すると、デナイ全12例中、その順接仮定条件の用例は計7例もあって、
「?でなければ」(6例)、「?でなくては」(1例)である 。対して、デハナイ135例中に、「?ではなければ」
とか「?ではなくては」といった用例は1例もなかった。また、逆接仮定条件についても、デナイの「?でなくとも」
1例あるのみで、デハナイのそれは1例もなかった。付言すると、『新潮文庫の100冊』全体 で、「?ではなければ」
「?ではなくては」、また「?ではなくても(とも)」という形に限って調べた結果、1例も見出せなかった。
これはデハナイの一般汎用性に反する事実であるから、ここには何か特殊な事情があるはずである。

仮定条件とは、非現実を条件提示するものであり、一方、デハナイは、対象化された認識の否定である。
3.1、3.2節で、この「対象化された認識」の具体例をいくつか見たが、たとえば(13)では、下人が老婆の心中を推し
量り、それを対象化、すなわち表現して提示していた。この例のように、デハナイには、相手の心中など、仮想的に
しか捉えられないものを提示して否定する例がある。デハナイの本質は、対象化された認識の否定であるが、「対象
化された認識」には、仮想的な認識も含まれ、「?では」という形態が仮想提示の用をも果たすということである。
実際、「明日が雨では困る」のような「?では」という仮定条件形も存在する。つまり、「学生ではなければ」とい
う形は、デハナイの仮想提示と、バ節の仮定条件が重複することになって、避けられる、と考えられる。
ただし、「?ではない」には「?じゃない」という変種があり、この「?じゃない」は仮定条件節に入ることができる。

 (27) 「アリは、この間、ああいう負け方をしたけど、今度はまったく違う闘い方をする
と思うんだ。そうじゃなければ、アリはグレイテストでも何でもない、ただのボク
サーということになる。(一瞬の夏)

次に第二点について。まず表(3)のデナイ終止法3例は、表(2)のデハナイ終止法57例に対して極めて数の少ない存在
(デハナイ:95.1%、デナイ:4.9%)であった。この3例のみでデナイ終止法の特徴を明らかにすることはできないから、
デナイ終止法の実例をもっと広く見ることにする。『新潮文庫の100冊』全体に調査対象を広げた結果、デナイの主文
末終止用法計69例を集めた 。なお、同じ調査対象、方法による、デハナイの主文末終止用法の数は、計1883例であった。
すなわち、出現率を比較すれば、デナイ3.7%に対してデハナイ96.3%であるから、デナイ終止法が極めて稀な存在であ
ること、銘記されたい。この極めて稀なデナイ終止法の69例について分類したのが、下表である。

表(5) デナイ終止法69例の分類
ア形容動詞の否定形(「容易でない」など) 27
イ熟語的なもの(「尋常でない」など) 10
ウ名詞(句)+でない(「からすでない」など) 9
エ助詞+でない(「?だけでない」3例、「?のみでない」1例、「?ばかりでない」1例、「?からでない」1例) 6
オ助動詞の否定形(「?べきでない」2例、「?ようでない」1例) 3
カその他(「同じでない」2例、「おありでない」4例、「?ものでない」5例、「?話でない」1例、「そうでない」2例) 14
計 69

まず、最も用例数の多いアについてだが、ここでは、連体形で「?な」という形態をとることを「形容動詞」の基
準とした。「確かでない」のように「?かでない」という形をとったものが計12例、「効果的でない」のように
「?的でない」が計3例、その他は、「容易でない」、「充分でない」、「明瞭でない」など計12例、以上の27例である。

(28)  それにしても、いかに健全な経営だったとはいえ、銀行と無関係に今後の営業を
つづけてゆくのは容易でない。(人民は弱し官吏は強し)

(29)  方法はやはり万国共通で、一番多いのが隣の答案をこっそり盗み見るという手で
あるが、数学の試験では、ちょっと覗いたくらいでは前後の脈絡が掴めないから、
この方法は効果的でない。(若き数学者のアメリカ)

上例は、それぞれ「難しい」とか「ダメ」とでも言うべき対立属性を意味している。対立属性を意味するという点で、
これらのデナイは、形容詞の一般否定形クナイと本質的に同じ否定である。
ついで、イ「熟語的なもの」とは、「尋常でない」(3例)、「ただごとでない」(2例)、「一通りでない」(2例、
「お上手者でない」(2例)、「気が気でない」(1例)、以上の計10例である。

 (30) 急に、走りづらくなった。やたらに、足が重い。この足の重さは、尋常でない。
   (砂の女)

 あえて分析すれば、この(30)は程度の否定である。「尋常」は「普通程度」を意味し、「尋常でない」はその対立、
極度を意味する。ただ、「尋常である」という肯定形の用法が普通でない点が熟語的であり、肯定形がないとすれば
それは否認という意識が薄いとも言えて、この「尋常でない」という否定形で一語の形容動詞相当と見ることが可能、
むしろ、一語化することで独特のニュアンスを帯びているようにすら見える 。他の諸例も同様で、対立属性を意味
する点、クナイと同じ否定である。

 問題は、ウ「名詞句+でない」である。まず、全9例のうち、「閑人でない」、「大きなことでない」、「小さなこと
でない」の計3例は、特定の対立を意味するものであり、クナイと同類の否定であると見ることができる。さらに、
「アント でない」、「主人もちでない」、「一人でない」の3例も、それぞれ「シノニムである」、「浪人である」、
「複数いる」などといった特定の対立を意味する。そして残る3例とは、「からすでない」、「お金でない」、「笑顔
でない」、であり、特定の対立を意味しないものであるが、これらデナイの用例は、むしろデハナイの使われるべき
典型的文脈の中にある 。

(31) 「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」(銀河鉄道の夜)

(32)  「だって、学校へはいるといったって、……」
「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」
(人間失格)

 上例いずれも直前の文脈に表された認識の否定であり、デハナイの使われるべき否定構造がそこにある。
そして、両例ともに、「Aでない」の後にその対立規定「Bである」が述べられている点に注目されたい。
この点が次節の論点となる。

 なお、表(5)のエ?カについて簡単に述べておく。エの5例中4例は「限定の副助詞+でない」であるが、
限定は排除と対立関係にあるため、「Aだけでない」と言えば、排除されたA以外の肯定になる。オの「(?スル)
べきでない」2例と、カの「おありでない」4例は、シナイと同類で、特定の対立を意味する例である。また、カの
「?ものでない」5例中3例についても、「あるものでない」のように、「動詞+ものでない」であるからシナイと同類、
カの「地理も歴史も要った話でない」1例もシナイと同類である。最後に、カの「同じでない」2例は、品詞認定は
ともかく、同一性の否定であるから差異性を意味しており、つまり、特定の対立を意味している。

 以上、デナイ終止法69例中、アの27例、イの10例、ウの6例、エの4例、オの2例、カの10例、少なくとも
計59例には、クナイやシナイとの共通点があると言い得る。すなわち、これらのデナイは対立関係を意味した否定である。

12月 31

日本語の基本構造と助詞ハ  その2

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

2. XはYである

表(1)から明らかなように、デハナイはデアルと対立する存在である。故に、「XはYである」という
基本文からデハナイの成立する論理を考えなければならない。かつ、「XはYである」を考えることは、
助詞ハの基本を考えることと本質的に同じである。助詞ハは名詞のもつ論理から生成すると考えるのが
本稿の立場である。まずはここから始める。

野村(2010)によれば、名詞は「?であるx」と分析される。一語の名詞の中には「述語+主語」という
判断の構造が内在化されている。野村氏によれば、文とは判断の表現であるが、そもそも、一語の名詞の
中に判断の構造が潜在的にある。この考えは、既に野村(1993)において、「一つの名詞『犬』は、ある実体
(個体であっても個体の集合であっても)を表そうという側面と、『犬性』という属性を表そうという側面
を持っている」と述べられており、この名詞の分析から助詞ノとガの意味を明らかにされている。名詞のも
つ論理から助詞の意味を考えられた点に革新的なものがあると思う。氏の名詞論に習い、以下で私は助詞ハ
について考える。

(6) 山田は大学生である。

ここにある二つの名詞について、「山田」はある存在者xを表すように感じられ、「大学生」はそのxの属性
を表すように感じられる。ところが、位置を逆にして「名前は山田である」という文にすると、この「山田」
は属性を表すものと感じられ、「大学生は欠席した」となれば、この「大学生」はある存在者を表すように感
じられる。これは、元々一つの名詞の中に、ある存在者xを表そうとする側面と、xの属性を表そうとする側面
とがあるという野村氏の名詞分析を裏付けると同時に、(6)の助詞ハの前後で名詞がその表す側面を変えるとい
うことも意味している。

名詞の中に二つの側面があるということは、名詞が一語の中に分裂と統合を孕んでいるということである。
名詞「山田」は、「山田であるx」と分析することができ、ある存在者xとその属性とが一語の中に統合された
ものである。実際、名詞「山田」は、(6)のような文中では、ある現実の存在者を指示して使われているが、
一方、名札に「山田」とあれば、それは「(この名札の持ち主は)山田」という意味で属性記述的に使われている。
では、以上のことは一体何を意味するのだろうか。名詞とは何であるか。名詞は、この現実世界が絶えず生成流転
しており、不変不動の何者とてなく、あらゆる事物が必ず他者との関係の中に存在している、その現実世界に対して、
その中に止まって動かぬ物を、それ自体で存在する個物をつかみたい、という我々の欲求と対応してある。
ところが、手で物をつかむことはできたとしても、物自体は決して認識できず、その属性を媒介にして間接的に
認識することができるだけである。なぜ、属性は捉え得るか。属性は一般者、普遍だからである。ただし、その
属性とて現実には揺れ動く諸属性、「属性の束」であるから、つかみどころがない。つかめない物をつかむため、
つかみどころのない束(諸属性)に、とりあえず付けられた名前が名詞である。だから、「犬」が何であるかを
明瞭に理解している必要もなく、我々は名詞「犬」を使う。我々は名詞「犬」から、「犬である何か」を表象する
ことができる。しかし、それはあくまで漠然とした表象として捉えられた存在者に過ぎない。だから、名詞「犬」
は無限に再分裂して、「この犬は白い」とか、「犬は哺乳類である」とかいった文を生成する。つまり、これらの文
は、名詞に内在する分裂が外に現れたものである。名詞に内在する二側面、「何か」の存在を表そうとする側面と、
その属性を表そうとする側面とが、二項として外化(表現)する。この分裂運動が判断であり、分裂した二項が主語
と述語である。(6)について言えば、この主語と述語の関係は、存在者とその属性という関係、もっと抽象化すれば、
個別と普遍である。

助詞ハは、名詞の分裂(判断)に対する意識を反映した助詞である。助詞ハがなくとも、「これ、おいしい」とか、
「あれ、鳥」とかいった形での判断の表現が可能であるように、恐らくはこうした表現が何度も繰り返される中で
助詞ハが二項の間に位置するようになったものと思われる。図式化して言えば、名詞Xが分裂して「X─Y」という
二項として外化し、その分裂を意識して生まれたのが助詞ハである。助詞ハは、名詞Xの存在者を表す側面を「Xは」
と明瞭に分離して提示し、述語と結合する。結合される述語は、名詞Xのもう一つの側面であり、(6)では属性である。
この分離と結合は、名詞の内的二面の分離であり、結合はその再統合である。単なる二項の外的結合ではないから、
助詞ハの結合力は強い 。

以上、ハは名詞の内的二分を反映して生成した助詞であるということを論じたが、助詞ハ一般について述べた以上、
触れなければならない諸問題がある。以下、三点に触れる。

第一に、「主題・題目」という用語について。助詞ハによって提示された名詞Xは、「何か」の存在を表す側面が
前面化するため、無規定的で空虚な存在者である。この名詞Xの無規定性に重点をおいた別名が、いわゆる「主題・
題目」である。かたや、(6)の述語「大学生である」は、「山田」という存在者の具体的なあり方を規定するから、
「解説部」となる。ただ、主題論の課題は、デハナイなど、他のハの用法との連続性を説明すること、また、
「対比」と呼ばれる助詞ハのもう一つの用法との関係を説明することにある。本稿では、6節において、「対比」を
「否定」から説明する。

第二に、助詞ハとガの違いについて。たとえば、「犬が歩いている」のような文について、「犬」と「歩いている」
の二項が、助詞ガによって結合されている、と言うことは可能である。しかし、「犬が歩いている」は、個別具体的な
ある現象を捉えた文である。だから、「犬が」の名詞「犬」は、名詞の二側面を分裂させることなくその一体性を保持
し、眼前に個別に存在する「犬」を直接的に反映した表現と考えるべきである。つまり、格助詞ガのついた名詞は、
属性を帯びた個別具体的な存在者、すなわち、主体を表す。それが「歩いている」と結合する時、「犬が」が「歩いて
いる」の内容を限定し、同時に、「歩いている」が「犬」の内容を限定することによって、さらに個別具体的になる。
これが、描写文である。かたや、ハのついた名詞は、具体性をほとんど剥ぎ取られた空虚な存在者である。特に、
「Xとは」とすれば、「Xと呼ばれているものは」となって、名詞Xが名前だけの存在者になる。その内実を明らかに
するのは偏に述語であって、ハの文には、空虚なものがその姿を表す過程、分からないものが分かるようになる認識の
過程が反映している。それは説明文である。

第三に、指定文「犯人は山田である」の問題について。まず、この助詞ハも、犯人たる「誰か」という空虚な存在を
提示したものである点、(6)と同じであって、違うのは、述語名詞「山田」も存在者を表す側面を前面化させていると
ころにある。「(存在者)は(存在者)」となり、その存在者が特定される。このハの用法は、「(存在者)は(属性)」
というハの基本文からの派生用法であると考えられる。

最後に、「XはYである」の「である」について考察する。「である」のない「山田は学生」でも二項の分断結合が
十分に表されている以上、「である」の意味は別に考えなければならない。まず、「Yである」の「で」、ないし
「だ」という形は、名詞Yを属性として表示する形式、指定文の場合はYを存在者として表示する形式である。
まとめれば、名詞Yを述語化する形式である。名詞に二つの面があって、「Xは」とすれば存在を表す側面が前面化し、
「Yで」「Yだ」とすれば属性ないし存在者を表す側面が前面化するわけである。むしろ問題は、「Yである」の「ある」
をどう見るかである。この「ある」は、存在者の面を表すXが「ある」、すなわち、存在を表すものと考える。つまり、
(6)は、「山田という存在者は大学生という属性で存在する」と読める。

3. デハナイ

 3.1 デハナイの構造

 (7) 山田は、大学生ではない。

 助詞ハは、「XはYである」において、主語と述語を明瞭に分離するが、(7)の述語「大学生ではない」の場合、
助詞ハが介在することによって、「大学生で」という連用形と、否定を表す形式「ない」との二項が明瞭に分離された
形になっている。それをはっきり示すと下図のようになる。

図(1) [大学生で] は [ない]

 まず、助詞ハの前項として表出する「大学生で」という連用形をどう見るか。この「大学生で」は、述語の一部で
あって、助詞ハによって「ない」と明瞭に分離されている。この「大学生で」は、肯否のまだ決しない形で捉えられた
属性、肯定も否定もされていない属性認識である。すなわち、デハナイは、述語をあたかも何かの存在者であるかのよ
うに対象化し、それを否定する。デハナイは、対象化された認識の否定である 。

 かたや、後項の「ない」は、助詞ハによって分断されることによって自立的に現れている。ちょうど「それはない」
という文があって、この「ない」は自立語であるが、この文には、「それが存在しない」という不在の意味と別に、
「それは違う」という意味で否認の意味もある。デハナイの「ない」は、後者の「ない」と近い存在である 。
 以上をふまえ、デハナイの構造図(1)と、(6)の構造図(2)とを比較する。

図(2)  [山田] は [大学生である]

 「山田は大学生である」においては主語名詞「山田」の表す存在者、「何か(x)」の存在が提示されるのに対して、
デハナイにおいては「大学生で」という属性の認識が提示されるという差異がある。この差異がどこから生じるかと言えば、
前者の主語名詞「山田」は、その内的二分の一側面、存在者を分離提示したものであるのに対して、後者の「大学生で」は、
述語の内的二分の一側面、属性認識を、対象化し、あたかも存在者であるかのように提示する。そして、述語のもう一側面
とは、肯定と否定である。つまり、述語の中にも二側面があって、述語「大学生である」の中には、属性認識を表す面と
それを肯定否定する側面とがあるということである 。デハナイは述語の中から抽出され、対象化された認識を否定する。

 なお、このような議論は観念的過ぎると思われるかも知れないが、実際、デハナイは、高度に観念的な否定なのである。
そこで、一見同じ意味の文に見える、下例(8)と(7)との違いを考えてみる。

(8) 山田が大学生であることはない。

(8)の構造図、図(3)を見られたい。比較のため、(7)の構造図、図(4)も並べる。

 図(3) [山田が大学生であること] は [ない]
 図(4) [山田] は [ [大学生で] は [ない] ]

 図(3)を見ると、「(名詞句)は(ない)」という形式であるから、(8)は、「山田が大学生であること」の不在、
ある事実の不在を述べた文であると言える。つまり、(8)は、「お金はない」などと同種の否定文、存在否定文である。
「お金はない」の「ない」は無を表すが、「お金ではない」は否認を表す。前者は存在の否定であり、言うまでもなく、
こちらの方がより根源的であり、単純な否定である。それに対して、デハナイの否定するものは、対象化された認識と
いう観念的存在者であって、この認識構造を反映して(意識して)、そこに助詞ハが介在するのである。3.2と3.3節で
デハナイの「対象化された認識」の具体例を見る。

 3.2 自らの認識の否定
(9) 三冬は立ちどまって、「雪か……」と、つぶやいた。闇の中に、はらはらと白く落
ちてくるものに気づいたからだ。実に、その瞬間である。佐々木三冬の頭上から、
得体の知れぬものが、ばさっと落ちてきた。これは雪ではない。投網であった。
(剣客商売)

 上例を要するに、「これも雪」と思ったがそうでなかった。このデハナイは、自分で前に認識した内容を改めて
取り上げ、否定している。自分の認識を自分で否定しているわけだが、それは再認識であり、そこには自らの認識の
相対化がある。

(10) おれは学校騒動には加担しない。現実を大事にし、自分の立場を大事にしなくて
  はならない。これはエゴイズムではない。社会人としての当然の義務でもある。
  (青春の蹉跌)

 このデハナイは、直前の「自分の立場を大事にしなくてはならない」という文脈から推論される「(自らの考えが)
エゴイズムである」という内容を否定している。この推論は世間一般の有するような意見であり、それを対象化、
相対化して否定している。

(11) 朝子が夜学に通ってくるのは、昼間勤めているためではない。朝子が家業を嫌って
いて、夜学へ通っていれば店の手伝いをする時間がそれだけ少なくなるためだ、と
いう噂も聞いていた。(樹々は緑か)

 この例は、推論というよりむしろ、「(夜学に通うのは)昼間勤めているためである」という一般常識を否定している。
一般常識とは普段無意識的に有している認識のことであり、それを対象化、意識化して否定している。

3.3. 相手の認識の否定

(12) 「いったい文太郎はなにをしているのだろうね、こっちの気も知らずに」
「もうしばらくお待ちください。文太郎は必ず来ます。文太郎に限って、約束を
たがえるような男ではありません。きっとなにかあったのです。(孤高の人)

 この例は、相手の発言内容から、相手が「(文太郎が)約束をたがえる男である」と考えていることを推論して
否定している。相手の推論を対象化、表現して、否定している。

(13) 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の
前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で
息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のよ
うに執拗く黙っている。(中略)そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔
らげてこう云った。
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の
者だ。(羅生門)

 この例には、(12)と違い、相手の発言がない。ただ「黙っている」だけの老婆の心中を推し量り、
「(下人が)検非違使の庁の役人だ」という老婆の認識を対象化、表現して否定している。

(14) 行助はちょっと考え、いや、寄らないことにしましょう、と院長を見て答えた。
「寄りたくないのか」
「いえ、そうではありません。仮出所する目的がちがうのですし、それに、安の
葬儀だけで時間がいっぱいだと思います」(冬の旅)

この(14)は、相手の発言を、指示語「そう」で受けて、直接的に否定している。この種のデハナイは、
「そうではありません(そうではない)」というこの形のままで一文相当になりかけているように思われる。

 以上、デハナイの本質は、対象化された認識の否定というところにある。認識とは、感覚的な知覚、想像、
推論、常識などであるが、それらが否定の対象として助詞ハによって明瞭に意識され、提示されるところが
デハナイの本領である。それでは、デハナイと、形容詞や動詞の一般的な否定である「美しくない」とか
「食べない」という否定とでは何が違うのだろうか。この問題を次節で扱う。

12月 30

日本語の基本構造と助詞ハ  その1

松永奏吾さんの日本語学の論文「デハナイ」と、それに対する私の考えを掲載します。

松永さんの論文「デハナイ」は今年2014年3月に東大大学院の野村剛史氏のゼミで発表されたものです。
注の部分は省略しました。

また、この論文の概要(構成の説明と要約)を松永さん自身が野村ゼミでの発表のためにまとめた
ものを最初に出しました。これを読んでから、または並行して眺めながら論文を読むと、
読みやすいでしょう。

■ 目次 ■

一 「デハナイ」論文の概要     松永奏吾

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
→ ここまで本日 2014年12月30日に掲載

2. XはYである
3. デハナイ
→ ここまで12月31日に掲載

4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
→ ここまで2015年1月1日に掲載

6. 否定と対比
7. おわりに
→ ここまで1月2日に掲載

三 日本語の基本構造と助詞ハ  中井浩一
 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
 → ここまで1月3日に掲載

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一.「デハナイ」論文の概要           松永奏吾

1 全体の構成

(1)デハナイの一般性……1節
・「デアル/デナイ/デハナイ/デハアル」の数値比較。1533/12/134/2
・「デナイ:デハナイ=1:10」によって、デハナイの一般汎用性を示す。
・終止法で比較すると、「デナイ:デハナイ=1:20」。

(2)「XはYである」の論理……2節
・「XはYである」、ないし、助詞ハの生成する論理の考察。
・主語名詞Xの内的二分(存在者と属性の二側面、主語性と述語性)から、
「XはYである」が生成した。

(3)「XはYではない」の論理……3節
・「XはYである」から「XはYではない」が生成する論理の考察。
・「XはYではない」の構造  [Yで] は [ない]
・述語名詞「Y」の内的二分(属性と肯否の二側面)から、「Yではない」が生成。
・デハナイとは、対象化された認識の否定。認識の認識。否認。

(4)クナイ、シナイとの違い……4節
・クナイ(形容詞の一般否定形)は、属性の否定であると同時に対立属性を意味する。
・シナイ(動詞の一般否定形)は、運動の否定であると同時に未実現状態を意味する。
・クナイもシナイも対立を意味するが、デハナイ(「名詞+ではない」)は差異しか意味しない。
・シナイは否定の範囲が曖昧になり得るが、デハナイは否定の対象を明瞭に提示する。

(5)デナイとの違い……5節
・仮定条件でデハナイが避けられる(デナイが選択される)のは、
デハナイの仮想提示と低条件が重なるため。
・デナイ終止法(69例)の分析によれば、形容動詞の否定形「容易でない」など、
そのほとんど(59例)が対立を意味する点、クナイやシナイと同類の否定である。

(6)否定と対比……6節
・「AではなくB」(20例)、「Bであって、Aではない。」(6例)、「Aではない。B」(37例)
のようにパターン化すると、デハナイ87例中(疑問用法47例を除く)、対比を示す用例が63例ある。
・「対比」が否定から導かれることの考察。対比否定起源説。

2 全体の要約

 形容詞や動詞の否定と異なり、デアルの否定には助詞ハが介在してデハナイとなるのが一般的である。
そもそも「XはYである」とは、主語名詞Xの内的二分(存在者と属性)が「X─Y」と分裂し、
その分裂を反映(意識)した助詞ハによって一文が二分された文である。
「Yではない」は、助詞ハによって、述語名詞Yの内的二分(属性と肯否)が意識された述語であり、
対象化された認識の否定、である。

一方、クナイやシナイは否定と同時に対立を意味する点、それと、否定の範囲が明瞭でない点が
デハナイと異なる。
(デハナイは否認と同時に差異しか表さないが、クナイやシナイやデナイは否認と同時に対立を意味する。)

デナイもまた本質的にクナイやシナイと同類で、対立を意味する。仮定条件でデハナイが避けられるのは、
デハナイの仮想提示と仮定条件が意味的に重なるためである。
デハナイには「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」などのパターンで
対比を示す例が多い。(デハナイは差異しか表さない場合が多く、その場合、対立規定が文脈上に現れる。)
対比は、助詞ハが否定の対象を明瞭にすることによって、対象外とされた存在者が暗示される、
という論理から生じる。

※「XはYである」→「XはYではない」→「XはYではなくZである」という展開。

2014/03/15 

                                         

二.デハナイ 松永奏吾

0. はじめに

 (1) 山田は大学生である。
 (2) 山田は大学生ではない。
 (3) 山田は大学生ではある。

 助詞ハは、(1)のように主語と述語とを二分するような位置に現れる一方で、(2)や(3)のように、
「述語内部」とも見えるような位置にも現れる。(2)は否定述語内部に、(3)は肯定述語内部に、
それぞれ助詞ハの現れた一例である。そして、そのこと自体は、動詞述語でも形容詞述語でも同様である。

(4)に否定の例を、(5)に肯定の例を、述語の形だけ挙げる。
(4) 食べはしない  美しくはない 
(5) 食べはする  美しくはある 

 以上の(2)-(5)は、その形態的特徴から見るだけならば、諸品詞の違いを越え、かつ、肯否の区別とも関
係なしに、ただ一様に述語内部に助詞ハが現れる、という現象を示しているだけのように見える。
しかし、(2)の「?ではない」だけは、他の(3)(4)(5)と根本的に異なる。以下、結論を先取りして述べる。
 まず、(3)の「大学生ではある」は、(1)の「大学生である」という一般的な述語に対する特殊な述語であり、
同様に、(4)もそれぞれ、「食べない」「美しくない」の方が一般的、(5)も「食べる」「美しい」の方が一般
的な述語である。つまり、助詞ハを内部に含んだ(3)(4)(5)は特殊な述語の形であって、助詞ハの特殊用法と
言って構わない。しかし、(2)の「大学生ではない」だけは、助詞ハを含んだこの形で、一般汎用的に使われる。
すなわち、「?でない」ではなく「?ではない」が、「?である」と肯否の対を為して使われる、一般的な述
語の形なのである。のみならず、(1)のような「XはYである」という形式の文を日本語の基本文の一つと見る
ならば、その否定文としての(2)もまた「XはYではない」というこの形式で基本文と見るべきである。故に、
そこに現れる「?ではない」という用法は、助詞ハの基本用法の一つと言い得る重要性をもつはずである。

 本稿の1節では、調査報告により、「?ではない」の一般汎用性を事実として確かめる。2節では、「XはY
である」という基本文の問題を論じ、それをふまえて、3節で、「?ではない」が一体いかなる否定述語なのか
を考察する。4節で形容詞や動詞の否定形との違いを述べ、5節では助詞ハのない「?でない」という否定形と
の違いを述べる。最後に6節で否定と対比の問題を論じる。

1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル

 本節は、助詞ハの介在した「?ではない」という述語の一般汎用性を、調査事実によって明らかにする。
以下、「?である」という述語を、デアル述語と略称し、「デアル」という表記によって、述語としての「?で
ある」を意味して使う。同様に、「?でない」を「デナイ」、「?ではない」を「デハナイ」、「?ではある」
を「デハアル」と略記する。

次の二点を留意されたい。

一、デアル述語は、「大学生である」「穏やかである」
「ゆっくりとである」「行くべきである」「行くわけである」等々あって、「である」の上接語は多様であること、

二、デアル述語には、口語的な「だ」、敬体の「です」「であります」等も含めて考えること、またデハナイの
口語体「じゃない」も含めること、の二点である。

 さて、デアル、デナイ、デハナイ、デハアルという四種の述語について、文庫本約210ページ 中におけるその
出現数を調べたところ、表(1)の結果が得られた。

表 1. デアル述語の出現数比較
デアル デナイ デハナイ デハアル
1533 12 134 2

この調査によって、次の事実が確かめられる。まず、肯定述語の数値に関して見ると、デアル1533例に対して
デハアル2例であるから、助詞ハを介在させたデハアルが非常に特殊な存在であることが分かる。ところが、
否定に関して見ると、デナイ12例に対して、デハナイが135例であるから、その出現率においてデハナイの方が
圧倒的に優勢であり、デナイの10倍以上である。つまり、肯定の場合と関係が逆転し、助詞ハを介在させた述語、
デハナイの方がむしろ普通一般の存在であることが分かる。
 さらに、この「デナイ/デハナイ」の関係に絞り、より詳しく内実を見る。下の表(2)と表(3)は、それぞれ表(1)
のデハナイ134例とデナイ12例について用法分類したものである。

表 2. デハナイ134例の用法分類
終止(主文文末の用法) 57
単純接続1(「?ではなく(て)」 20
単純接続2(「?ではないし」) 2
順接・確定(「?ではないので」「?ではないから」) 5
逆接・確定(「?ではないが」「?ではないけれども」など) 3
疑問(「?ではないか」「?ではあるまいか」など) 47
計 134

表 3. デナイ12例の用法分類
終止(主文文末の用法) 3
単純接続1(「?でなく」) 1
順接・仮定(「?でなければ」「?でなくては」) 7
逆接・仮定(「?でなくても」) 1
計 12

 なお、用例が1例もなかった用法は項目を略した。さて、表(2)と表(3)を比較すると、次の四点の事実が注目
される。

 第一に、各表中の一段目、終止用法について比較すると、デハナイの終止用法57例に対して、デナイの終止
用法はわずか3例である。主文末終止用法こそが最も基本的な述語の在り方であるとすれば、デハナイがデナイ
の20倍近い比率で終止用法に現れるというこの結果は、デハナイの一般汎用性を改めて示す事実である。

 第二に、「単純接続1」とした用例について比較して見た場合も、「?ではなく(て)」20例に対して、
「?でなく」1例という極端な差がある。かつ、この「?ではなく(て)」20例は、表(2)のおよそ15%を占め、
終止と疑問を除けば際立って用例数が多い。

 第三に、仮定条件のみ、デナイが優勢を示している。どころか、デハナイの仮定条件用法は1例もない。
順接仮定条件の「?でなければ」とか「?でなくては」という用例7例に対して、「?ではなければ」とか
「?ではなくては」といった用例は1例もなく、逆接仮定条件の「?でなくても」1例に対して、「?ではなくても」
といった用例は1例もなかったということである。これは、さしあたり、デハナイの一般汎用性に反する事実である。

 第四に、表(2)の「疑問」とした項目を見れば、「?ではないか」とか「?ではあるまいか」といった用例数が
47例ある。かたや、デナイにそれに類した用例は1例もなかった。付言すれば、肯定のデアル1533例中、疑問用法
の数は50例あったから、それと比較しても、デハナイの疑問用法が47例あったという事実は特筆すべきものである。

 以上、「デナイ/デハナイ」の用法比較により、注目すべき事実四点を挙げたが、本稿は第四点、すなわち疑問
用法についての考察はしない。疑問用法のデハナイは「否定」から生じたものではあっても、すでに「否定」を離れた
デハナイの特殊用法である。本稿は、第一点、すなわち、デアル述語の一般的否定形が、助詞ハを含んだデハナイである
という事実のもつ意味を明らかにすることを中心課題とし、第二点、第三点についても論じる。