10月 25

「日本教育新聞」(10月24日)に『「聞き書き」の力』の書評が掲載されました。

2月 26

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

その学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

※以下、昨日のつづき。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子 
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

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◇◆ 2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子  ◆◇

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)学習会
                      (第1回、2015年11月8日)
 
「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指す。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。
しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、
いつもどこか不機嫌という家庭像、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、
しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。
それは、本書でこの問題の本質としている、「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、
親から継承してきた人が少なくない。
そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。
しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題をどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
私たちは、まず自分自身の問題に取り組むしかない。子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

(1)生きる目標の問題が核心
初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。
まさにそこが本丸ではないだろうか。
今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、
まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

問題のない家庭を目標とする生き方
学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。
私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。
ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。
しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。
そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には
何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の無気力には、そういう意味もあったのではないか。
問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

家族の幸せを目標とする生き方
別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。
夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、
彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。
そういうことが共依存だが、共依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくという
よい連鎖になるなら、共依存は悪いことではない。また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、
葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。
確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、
依存し合って生きるものである。「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、
人間が生きる醍醐味である。
彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということを
よく考えてこられたのだろうと感じた。子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。
同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事だったんじゃないか
という不安を話された。
子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。
しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

社会的な観点を持つ生き方
 私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。
 さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。
社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

(2)親による無意識の刷り込み
 『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。
「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、
これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、
親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」
 
 私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
学習会で、それに対して、何故私が違和感を持つのかをいう疑問が出された。
親の立場としても、子どもの立場としても、とても重要な箇所だ。
私が「強制する」という言葉に違和感を持つ理由は、親が「世間の基準」が自分自身の基準ではないことを意識し、
さらに、子どもにそれを押し付けていることも自覚したうえで「強制する」ことを意味しているように感じられるからだ。
しかし、実際の「やさしい暴力」とは、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、
それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。その基準に従う以外に、
親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。
確かに、それは正に、子どもにその中で生きることを強いる、「強制」だと言える。親にその全責任があり、
子どもにはそれ以外の人生を選ぶ能力がないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親が自らの子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから
遠ざけると感じる。親は、自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まるのではないか。
また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。
中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。
しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと
考えなければ、一歩も前に進めない。生まれたときから毎日毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、
「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。
そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、
私も含めて誰もが背負っている。
 だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

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◇◆ 3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子 ◆◇

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)学習会
(第2回、2015年12月13日)

私たち大人の「ひきこもり」
                                 
今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70?80万にも上るという
社会問題について学ぶためだけではない。
まず、この問題が、私たちの子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。
一言でいえば、親子の一体化の問題だ。そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、
子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾があると言える。親として、子どもに何をどう指導し、
また子どもの自主性、主体性をどう尊重するするのかという問題は、子育ての中で日々直面するものではないだろうか。

また、子どもの「ひきこもり」増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、
私たち自身を振り返るためのテキストだった。まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、
あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。
斎藤は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を
失うという問題を指摘している。特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する
(=ひきこもる)父親の問題だ。ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化に
つながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。
また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中に
ひきこもっているという見方もできるという意見が出された。主婦が成長の機会に乏しいのではないかと
いう問題提起だったと思う。
私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。多少の仕事や付き合いはあっても、
子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。
20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。
私が授業で接する中学生たちも同じだ。「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が
至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。
私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会を
つくったのではないか。その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの中で生きた昔の人たちも、個人がバラバラでもとりあえず
生きていける私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきた
のではないだろうか。
人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここから
つくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。さて、それはどういう生き方なのか、
それが私たちのテーマだ。

11月 03

◇◆ 旧約聖書を読んで ◆◇              
           
2.旧約についてのメモ

(1)ユダヤ民族の特異性
  1その弱さと強さ それが人間の普遍性の象徴になったことの意味
  2弱小民族の生き残り戦術。巨大国家と強力な民族の間の弱小民族の悲哀。
  「寄寓」「よそ者」。
   土地を持てない(墓のための土地を所有するのが限界)、さすらい人。
    それゆえに、「よそ者」として生き抜いていく戦略が必要で、
   「契約」を中心とする生き方を徹底した。所有、財産への希求の切実さと強烈さ。
  3しかし偉大な人物の多さ。マルクス、フロイト、レヴイストロース、
   アインシュタイン、スピノザ
    
(2)一神教の神(ユダヤ教)とは何か 
  1背景 弱小民族の絶望。圧倒的な孤独。満天の空と砂漠。
  2人間と契約をする神 その契約内容が律法
     したがって、人間とダイアログ(対話)をする神である
  3論理的には、自己内二分、自己意識が生んだ絶対的他者
     → 自己と他者との区別の絶対性(先生と生徒)
  4契約関係から、人間の平等の原理が生まれる
  5死後の話はない。今生がすべて

(3)西欧(キリスト教)、イスラム世界における、世界観、社会観の基盤であり、大前提
  1キリスト教の三位一体性(弁証法)はすでに旧約にある
  2西欧の芸術の根源(絵画や小説や音楽) 
   ゴーギャン、ドストエフスキー、ヘッセ、トーマス・マン、スタインベック『エデンの東』など無数
    彼らには、常にキャッチボールの相手がいる。 モノローグにならない 

(4)人間の悪、色と欲望の世界が全面展開されている。圧倒的なリアルさである。
  これでもか、これでもかというまでの、執拗さ
  殺人、かけひき、だましあい、しのぎあい。男色や近親相姦。
  主人公の多くが、悪行をした罪人である。
  罪人なのに神に愛され救われる。善人がバカを見ている。
   →問題は善悪ではなく、その存在の深さが問われている

(5)罪、悪、弱さの自覚の有無とその大きさ(絶望)が、
  神を求め、契約、法を求めさせ、守らせる。

(6)資本主義の大前提(マックス・ウェーバー)
  「契約」の重さ 私的所有と契約
  道徳ではなく契約、リアルな人間関係の認識、能力主義 

(7)「えこひいいき」(神も両親も)と、それへの怒りと人殺しばかりである
  1人間がいかに承認と愛されることを求めるか
  2それは問題はない。問題は、その求める承認のレベルである。
   誰からの承認を求めるのか。それが核心。
   事実としては、それぞれの人のレベルに応じた承認を求めている。
  3神も、両親も、えこひいきをする
    対策は、各自が、神を求め、テーマを作るしかない。

(8)名前とは何か。それは使命を意味する 
    名前が変わるとは、使命が更新されること
    神との契約関係は、どんどん更新されていくべき。
    成長・発展のためだ

(9)旧約は書かれた文書ではない。書き言葉ではない。
  伝承であり、語りであり、音韻と響き、歌やリズムである。
  「民謡」のような繰り返しの多用、語呂合わせの言葉の群れ。
  ムズカシイ顔して読むだけでは、この精神はとらえられない。
  笑い、歌い、掛けあいの世界。掛け声やあいの手が入り、手をたたき、笑う。
  そうした世界だ。
 

11月 02

◇◆ 旧約聖書を読んで ◆◇              
           
1.ごろつきばかりの物語 (本日11月2日掲載)
2.旧約についてのメモ (明日11月3日掲載)

1.ごろつきばかりの物語

私は聖書については、旧約も新約も通読したことはなかった。
今回、「創世記」を初めて通読した。これが旧約かと、たじろいだ。
初回の通読では、ビンビンに感じるどころか、わけがわからなかった。巨大な謎。巨大な矛盾。混沌。

ろくな奴が出てこない。やくざ者ばかり、悪人、犯罪者たち、ごろつきばかりである。
その悪や犯罪もそれほど大きなものではなく、ちんまりしている。
色と欲望、嫉妬、ねたみ、意地とプライド、ばかしあい、だましあい…。
つきあっていられない。低レベルの同じような話ばかりで、退屈でつまらなかった。
こんな連中と関わる神も大したことがないなあ。こんな連中の物語が、なぜ「人類最大の遺産」なのか。わけがわからない。

正直、もう降りたくなったが、テキストに旧約を選んでしまった責任があるし、
外部からの参加申し込みが結構あって、やるしかなかった。
そこで、何冊かの解説書を読んでみた。
背景の古代社会のあり方、ユダヤ民族の歴史、旧約の成立史など、少しずつわかってくることもあった。
さらに「創世記」全体を2回通読し、2部(その内部ではヤコブとその前2代アブラハムとイサクの物語)は3回通読した。

読みながら、気づくことがあった。
ここには、一切の虚飾や粉飾はない。圧倒的なリアルさである。

ごろつきは、ただごろつきである。ヤコブ(イスラエル)などは、ごろつきそのものではないか。
そして、ごろつきがごろつきのままに、神と契約を結び、神との関係の中で生きて行く。
しかしそれによって、善人に生まれかわるようなことはない。ごろつきのままに、深まっていく。それがすごい!
それにしても、これだけごろつきばかりの物語を、自分たち民族の基礎とするユダヤ人とは、これも尋常ではない。
このごろつきヤコブはイスラエルの12部族の始祖なのである。

そのリアルさは、個々の人間についてだけではない。
当時の社会矛盾、奴隷、差別、タブーなどが、これまた粉飾なしに赤裸々に語られている。

7月 08

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告 その1

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)の読書会を行いました。
もともと大学生・社会人ゼミ主催の読書会だったのですが、今回のテーマが「家庭論」でしたので、
鶏鳴学園(中学、高校生対象の塾)の生徒や保護者の方々にもご案内しました。
以下の「1.テキストと著者」はその案内文で、
「2.本書の読み方」は参加者に読み方のアドバイスをしたものです。

当日はゼミ生4人以外に、卒塾生(大学生)1人、生徒2人、保護者の方4人が参加しました。
10代から60代までが集って共に議論をするという、壮大で、異色の勉強会でした。
家庭というテーマが、すべての人に共通する、本質的なものであることを、改めて再認識しました。
こうした勉強会を、
今後も用意していきたいと思います。

この読書会の報告を3日にわたって掲載します。
本日は、以下の
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」
まで。

 ■ 目次 ■

1.テキストと著者
2.本書の読み方
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)
4.塾の保護者、生徒の感想
5.卒塾生とゼミ生の感想
(1)T君(大学1年生)
(2)加山 明
(3)畑間 香織
(4)掛 泰輔
(5)田中 由美子
6.おまけ

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1.テキストと著者

少子高齢化社会を迎え、核家族のもとでは両親の介護の問題が深刻です。
私たち自身の老後にも不安があり、男性の定年後の夫婦の生き方の問題もあります。
そうした中で女性の生き方も改めて問われます。
子育てや子供の教育に関しても悩みは多いと思いますが、根底には母子一体化の問題があるように思います。

こうしたことを考えるために、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)を読みます。
1979年刊行の本で、少し古いのですが、根本的なところから家庭の在り方を捉えているので、本書を選びました。

戦後、家族や家庭の在り方に大転換がありました。
3世代の大家族から、核家族になり、マイホームや専業主婦が現れてきました。
そうした変化の背景やその意味を、本書はわかりやすく説明してくれます。
そこからどのような問題が生まれているかを考えてみたいと思います。

松田道雄(1908-1998)は、小児科医であり育児書『育児の百科』(1967年出版)はベストセラーになりました。
開業医として、地域の家庭の変容を見守り、母親、主婦の声に耳傾け、
さらに老人たちやその孫たちの思いもしっかりと受け止めようとしています。
また彼は京都大学の人文科学研究所のメンバーとして共同研究にも参加し、
広く人類の社会と歴史を研究しています。
そうした豊かな視点から、家庭問題を解明しているのが本書です。

                                        

2.本書の読み方

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』は、読みやすくわかりやすく書かれた本ですが、200ページ以上あります。
読書会では読むテキストと論点を絞って議論したいと思います。

一「民主主義のなかの家庭」(前半)は、日本の家庭に敗戦後に起きた大きな変化をとらえたものです。
ここでは、「あなたの家庭はそれでよいか」は省略し、「マイホームと現代」と「親と子」と「一夫一婦制と性」を取り上げます。
「マイホームと現代」は、老人問題を考えています。老人介護の問題が緊急な課題となっている現代では、切実です。
「親と子」では、特に「父親考」が重要だと思います。「おやじと私」は松田自身の父親が書かれており、面白いです。
「一夫一婦制と性」では「自由と男と女」を読めば良いと思います。

二「母親たちの明日」(後半)は、いわゆる「女性の自立」の問題を扱っています。
ここでは「母親へのメッセージ」から「母性愛今昔」と「独立した個人として」と
「主婦の生きがいとは何か」と「子どもの文化・母親の文化」を読みたいと思います。
特に「主婦の生きがいとは何か」が重要です。

                                          

3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)

 「家庭」論は、ムズカシイものです。
「家庭」については皆がよく知っているのですが、
その本質や問題を平易に説明するのは、至難の業です。
それを本書は、楽々と余裕を持って行っていることにまず、感心します。

 これまで私が読んだ家庭論では、ヘーゲルの『法の哲学』の家庭論を別格とすると、
社会主義者の堺利彦の『家庭の新風味』がダントツです。
子どもを「次の時代の働き手」と規定し、それゆえに子どもとは人類と両親にとっての「夢」そのものであることを示します。
そこから「子どもは社会からの預かり物」として大切に愛し育てなければならないという規定。
それは「子どもを親の私物化することを許さない」というまっとうな方針を含みます。
こうした大きな原理原則を踏まえながらも、日常の基本的生活の実用書でもあります。
戦前に、こうした著書があったことを嬉しく思います。

本書は、それに匹敵するもので、20世紀後半の日本社会の家庭の大きな変化の本質と問題をあざやかに示しています。

特に、明治維新後の大きな変質の指摘にはうなりました。
明治維新の指導者(旧武士)たちは日本に近代国家を作るために、
それまで国民にあった「家」を守るための原理「親孝行(孝)」を基礎に置きながら、
天皇と国民を疑似親子関係とした「天皇制」の上に人工国家を作りました。

それはそれまでの「家内安全」の家族主義を国家規模にまで拡大するもので、
「孝行(孝)」の原理を、「忠君」の原理に取り込んでしまったものです。
国家を大家族としてとらえたのです。

これは上手いやり方でした。
ここから国家のためには「家」(両親、妻子)も犠牲にする「忠君愛国」の兵士と労働者が誕生し、
彼ら壮年の男子と家を守る女や年寄との分業も進み、
日本は近代化と戦争と海外の植民地化に向けて邁進することになりました。
もちろん「忠君愛国」は「家内安全」を犠牲にするところにしか成り立ちません。

敗戦後に生まれた核家族とマイホーム主義に対しても、松田の批判は辛辣です。
アメリカ占領軍は、封建制解体、家長による大家族制の解体の方針を出しましたが、
それを受けて、いっきょに3世代の家族のありかたが壊滅し、核家族とマイホーム主義が覆い尽くしました。
それは「強制」だけではなく、むしろ国民自身が望んだことでした。

これは封建制に対する民主化の「つもり」だったのですが、
それはあまりに短絡的で視野が狭かったと、松田は批判します。
人間は、子供時代と老年期に人の助けを必要とします。
そのために、人間たちは「家」を守ることを必要とした。
それを解体するのなら、老人が切り捨てられることになる、と松田は指摘します。
松田は、高齢者の「年を取ってから楽をする権利」は「基本的人権」だと主張します。
私は、こうした指摘を自分自身への厳しい批判として重く受け止めました。

松田は全体として常に「自立」「自己決定」「基本的人権」を問題にします。
それが生きること全体を貫く原則として示されていることに感心します。
それは松田自身がそう生きていることの表れでしょう。
彼は京大の人文研のメンバーとしても活躍していますが、もともとは町医者です。
そして、彼の父もまたそうであり、その父の方針から多くを学んだようです。

彼は患者の自己決定権を大切にしようとします。
「症状があっても、その症状が本人の現在の生活にとって支障になっていなかったら、
医者は治療という名で、その人の生活に立ちいるべきではない」94ページ
さらには「安楽自殺の権利を要求するところまでいかないのは、
自由意思で生きようという老人が少ないせいだろう」(61ページ)とまで述べています。
「ここまで言うか」と驚きました。

女性の自立についても、女性が外で働けば解決ではありません。
むしろ奴隷化が強まる可能性もあるのです。松田はそこを見逃しません。
「指図してもらわないと落ち着かないからというような自由恐怖症の女だけが働くことになれば、
女の地位は今よりよくはならない」183ページ

家庭の問題は、誰にも身近だからこそ、どうしても感情的になったり、一面的になりやすいものです。
本書は違います。
ここには広い視野に基づくおだやかさ、
過激な問題提起を含みながらも、人間を見つめるまなざしの温かさがあります。
それに改めて感心しました。

松田は何も触れていませんが、
本書の論考は、梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」に触発されて書かれたように感じました。
梅棹の問題提起を受け、その不十分さを補いながら、それをさらに客観的に深めているように思います。

松田の論考は70年代で終わっています。その先を私たちは進まなければなりません。
そこでは社会における「家族主義」を改めて問題にしなければならないと思います。
明治維新後に「孝行(孝)」が「忠君」に取り込まれたのは、
それほどに「家族主義」的な感情が私たちに強く作用するということでしょう。
それは身内の一体感を大切にしますが、ひとたび身内でないと判断すれば、徹底的に排除する論理です。
それは国家にも会社にも役所にも学校にも、マイホームにも根付いているのではないでしょうか。
そこを解決していかなければ「自立」「自己決定」は不可能であり、先の展望は開かれないと思います。

                              2015年7月5日