昨年夏に、20年以上活動してきた高校作文教育研究会を「終わり」にしました。
その理由や経緯は、機関誌「高校作文教育研究」の終刊号(第44号 2021/10/18)で報告しました。それをこのブログにも掲載しておきます。
ここでも「始まり」と「終わり」をどう理解し、それをどうきちんと作るかが私の強く意識したことの1つでした。
■ 目次 ■
1.高校作文教育研究会(高作研)を終わりにします 中井浩一
2.高校作文教育研究会の20年、私の表現指導の30年 中井 浩一
(1)小休止
(2)対立
(3)私の作文教育との格闘
(4)高作研の立ち上げ
(5)高作研内部の問題と外部との関係の問題
(6)新しい出発
========================================
◇◆ 1.高校作文教育研究会(高作研)を終わりにします 中井浩一 ◆◇
高作研を20年以上やってきて、やるべきこと、やれることをやりきったと思います。これが終わりにする最大で根本的な理由です。
高作研は1998年に古宇田栄子さんと私(中井)で設立し、2人の共同代表制によって運営してきました。
古宇田さんは日本作文の会の常任委員でしたが、高校段階の教員としては彼女一人。
私にとっては、高校段階の全国の実践家、理論家と交流し、自分の実践を見つめ直し、学べることをどん欲に学びたかった。そのためのパートナーとしては、「日本作文の会」(日作)を選んでいました。日作には、日常生活を根拠にする、写実主義、社会主義を背景に持つ、などで私の立場に近かったからです。
しかし、古宇田さんと私、日作と高作研には違いもまた最初からありました。日作には、「ありのまま」の生活を根源とするという明確な立場がある一方で、そこに閉じこもるという経験至上主義的な傾向がありました。
私は、本来は「ありのまま」の生活経験を根拠にしながら、それを徹底的に客観化、一般化・普遍化することでその経験の本当の意味(「あるべき姿」)を明らかにするする必要がある、と考えます。
こうした対立があるので、表現指導の指導過程を、第一段階の自分史、自分の生活経験文、第2段階の調査、聞き書き、第3段階の総合として捉えた時、第1段階から第2段階の聞き書きまでが古宇田さんと一緒にやれることであり、またその最大の可能性が第2段階の聞き書きでした。だから「聞き書き」の共同研究を徹底的に行い、大きな成果をあげられたし、それを『「聞き書き」の力』という本にまとめ刊行することができました。
最初の出会いから20年、ここに最初からあった高作研の可能性のほぼ全てが実現したと思います。その先の第3段階では、古宇田さんと私がともに歩むことはできませんでした。その先は、私は鶏鳴学園と中井ゼミ(大学生と社会人)ですでに実践と理論を積み重ねてきましたし、今後もそうします。
この20年の経緯については、すでにこの機関誌38号(2018年8月1日発行)に文章「高校作文教育研究会の20年、私の表現指導の30年」を発表しています。それを今回も掲載させてもらいます。ここにすべてが書かれていると思います。さらに今、書き加えることはありません。ただ1つ、「その後」を補うと、2018年夏の日作の全国大会でも高作研が高校分科会を担当したのですが、そこで決定的な対立が起こりました。その結果、2019年の5月に古宇田栄子さんは退会しました。この文章の「6.新しい出発」ではまだ先に可能性があるように書いていますが、実際はそうではなかったということです。
古宇田さんとは20年、一緒にこの会を運営してきました。よく喧嘩もしましたが、暴れん坊の私をよく支えてくれたと思います。彼女は大学で日作の中学段階のリーダーである太田昭臣さんの指導を受け、その後県立高校の教員となってからも日作の中で活動してきました。彼女は日作の「模範生」のような面があります。研究会での彼女の司会は常に安定していて、一人一人の報告者を暖かく包み込み、議論が混乱しても、低調でも、最後はそれなりのまとめ方で終わらせて、感心していました。その安定感とそれを支える彼女の努力や誠意は、『「聞き書き」の力』のもとになった『月刊国語教育』の連載「聞き書きの魅力と指導法」を2年ほど続けられたところにもよく出ています。これは研究会の共同討議の内容を録音からまとめ直したもので、貴重な記録になっていると思います。
しかし彼女には日作の「模範生」であることを壊すことはできませんでした。日作の理論や実践を根底から疑ったり、問題提起をしたり、それに代案を出すことはありませんでした。ただし、その枠内においては、私たち高作研の成長、発展のために尽力してくれました。日作の全国大会の終了後に「生活綴方の旅」をする発案は古宇田さんのものでした。またこの20年、高作研の会計をひとり務めてくれたのも古宇田さんです。その縁の下の力持ち的な仕事には彼女の特質が良く出ていたと思います。この20年の尽力にとても感謝しています。
こうした会には対立や分裂がつきものですが、私も古宇田さんも、それを決してしようとはしませんでした。この会が貴重で重要なものであり、私たちは何としても前に歩み続けなければならないことでは、二人は強く一致していました。しかし日作と高作研との対立が決定的になった時、ついに終わる時が来ました。
この数年は、私のライフワークである哲学の仕事に専念する必要があり、高作研の運営には手が回らないという事情がありました。しかし、それが高作研を終わりにする本当の理由ではありません。高作研はその使命を終えたのだと思います。
若い人に、私たちの成果を継承してほしいと思いますが、それを担う人たちは、次の世代の中から必ず現れることでしょう。
私は、表現指導を止めることはありません。これは哲学とともに、私のライフワークの一つですから。その実践報告は今後も公開の場で続けます。
高作研 代表 中井 浩一
◇◆ 2.高校作文教育研究会の20年、私の表現指導の30年 中井 浩一 ◆◇
※この文章は、高作研の機関誌38号(2018年8月1日発行)に掲載したものの再掲載です。字句と数字の訂正と挿入、程塚さんについての文章のタイトルを挿入した以外は、掲載時のままです。
(1)小休止
昨年(2017年)の秋から今年(2018年)の春まで、半年ほど高校作文教育研究会(高作研)の活動は休止状態でした。2、3か月に1回は行っていた例会も行われず、夏の大会を報告する機関誌も配信されませんでした。
私たち高作研に関心を持ち、見守っている方々の中には、心配していた方もあったようです。この休止の意味、その間に何があったのかを報告しておきたいと思います。
話は2年前にさかのぼります。
2016年6月に『「聞き書き」の力』が刊行されました。この本は高作研のこれまでの到達点であり、良くも悪くも、会のすべてがここにあります。指導過程の問題、経験文や聞き書き、小論文について議論。総合学習における表現、聞き書きについて共同研究をしてきた成果。その根底には、研究会の仲間たちの実践とその奮闘があり、それを学び合った時間があります。
その刊行記念祝賀会では、この本の意義を高く評価する声がある一方で、批判や疑問も出されました。その中には、この本の著者である古宇田栄子さん(1章と2章の執筆)と私(3章から6章の執筆)の間に分裂があり、それが統合されないままであるとの指摘がありました。
この指摘は、核心を突いた批判だったと思います。古宇田さんと中井の間には大きな対立があり、それは未解決のままだったからです。
そうした批判を受けて、高作研の内部でも議論があり、古宇田さんからも『「聞き書き」の力』(私執筆部分)や私への批判や疑問が出されました。
私はそれらを受け、「私たち高作研の課題」をまとめて、運営委員に問題提起をしました。これは高作研の根本的な問題点、課題をまとめ、その対策を提案するものでした。
しかし、私のその問題提起は運営委員会で取り上げられることはなく、1年近く放置されました。
2017年の夏の大会後、中井(私)は運営委員に対して共同代表を辞める申し出をし、再度の高作研への問題提起をしました。それが無視される場合は退会する意向も示しました。
その後、私の問題提起がやっと運営委員会で取り上げられ、議論が始まりました。3か月近くの議論を踏まえ、私の問題提起はほぼ受け入れられることになり、私は退会せず、会にとどまり活動することになりました。
新たな方針で、新たな組織での再出発となります。
(2)対立
その再出発の意味を説明するには、そもそもの高作研の問題とは何だったのかを説明しなければなりません。
高作研の問題とは大きく言えば、共同代表である古宇田さんと中井の表現の系統的指導をめぐる対立であり、組織としては日本作文の会と高作研との関係の問題です。この2つはつながっています。古宇田さんは日本作文の会の常任委員だったからです。
私と古宇田さんとの間には最初から違いがありました。もっとも、それは古宇田さん個人というよりも、当時の日本作文の会(日作)の主流の考え方と言った方が適切だと、今は思います。
私と古宇田さんの基本の立場は一致しています。それは、表現の根底には、人の生活経験、つまりその生き方や社会関係そのものがあり、そこから始めるという立場です。それがすべての根源だということです。私には、そこを明確にした活動は、生活綴り方運動しかないと思っています。だからこそ、日本作文の会、つまり古宇田さんと一緒に研究会を立ち上げ、活動してきました。
しかし、私と古宇田さん(日作)との間には最初から違いがありました。その違いとは、生活経験から始めるとしても、そこからどこに向かうのか、どこをゴールとするのか、そこの違いです。
私は、ゴールはその経験の本質の認識だと思います。それは個人の経験のレベルを超え、社会と人類の本質にまで迫るものでなければならないと思います。その段階まで到達して初めて、最初にあった経験の本当の意味が明らかになるからです。そのゴールを目標にして、それにどうしたら到達できるかを指導過程で真剣に考えなければならないと思います。
ところが、それを日作や古宇田さんは、それをやろうとしません。または、そこが曖昧なままです。
小学生なら個人的な経験だけをしっかり考えればよいでしょう。しかし思春期を迎えた中学生、進路・進学を決めなければならない高校生、大学に入学する学生は、この社会や人類についての本質認識がどうしても必要です。
そして、この課題は、高校生や大学生に限らず、私たち大人や教師全員が取り組まなければならない課題なのだと思います。
つまり、表現指導の目的とは、個人の経験から始まり、現実の人間関係や現実社会の調査、そしてその本質の本質としての理解(論文)まで高めることだと思います。
これには前提があります。私は次のように考えます。人間が生きるとは自分の問い、問題意識を持ち、その答えを模索し、問題を解決するために努力していくことです。その問いが深まると人生のテーマとなり、そのテーマがその人の全人生を貫くのです。そして「自分とは何か」「自分はどう生きるのか」の答えを出し、その答えを生きるのです。
高校生段階では人生のテーマまでは無理ですが、その芽になるような問いを立て、本を読んだり、現場で取材などをして答えを出す努力をしていくことはできます。その過程で、彼らなりに、「自分とは何か」「自分はどう生きるのか」を考えていくのです。それは彼らの進路・進学の指針となり、彼らが大学生となり、社会人となってからも、彼らを支えるはずです。
そしてそうした問いを作るためには、表現指導は、経験に始まり、明確な問いを立てるまでの過程が必要だと思うのです。
さて、私と古宇田さんとの間には、こうした違いはありましたが、表現指導の根源についての一致が大きかったので、当初はそれが会の活動を阻害するほどではありませんでした。表現指導の根源である生活経験から始める限り、その違いを脇において、実践と理論を深めることができたのです。
しかし、会が発展し、その活動が深まれば、次の発展の方向をめぐって、元々あった違いが大きな問題となってくる段階があります。それが今なのだと思います。
表現指導のゴールをどこに設定するかで私と古宇田さんとは一致しませんから、私と古宇田さんが共に取り組めるのは、その途中まで、つまり今回の聞き書きまでだということになるのだと思います。
こうした私と古宇田さんとの違いは、私と日作主流派との違いのようです。古宇田さんを通して、日作との関係は常にあったと言えるのですが、そのプラスの面が大きかっただけではなく、そのマイナス面もまたあり、その面が拡大してきたと思います。
2000年から、日本作文の会の夏の大会の分科会の中に、高校分科会が設けられることになり、その運営管理を私たち高作研が任されることになりました。それまでの中学・高校分科会から高校が独立した形になったのです。そしてその分科会の運営は高作研に任されることとなったのです。これは古宇田さんの力があってのことでしょう。
高作研は日本作文の会とは独立した組織です。私は、高作研は自立した組織であり、日作とも対等な関係であることを主張しました。私たちは日作の下部組織ではなく、そこに上下関係を認めません。しかし、古宇田さんにとってはそれは難しいことです。
具体的には高校分科会の報告者の選定の問題なのですが、現地実行委員会からの推薦があった場合、それを無条件に受け入れていたのです。また、高校分科会の名称が「青年のことばと表現(高校・大学・専門学校)」と変わり、予想外の推薦が相次ぐようになりました。日作の会員で元小学校で教えていた教員が定年後、大学の初年次の表現指導を担当することが増えてきて、その実践報告の場として推薦がなされるようになったことです。これは私たちの高校分科会の趣旨とは違います。私たちは高校段階の思春期特有の自立と葛藤の問題を深めたいのです。私にとっては高校生に自分の問いをはっきりと意識させることが目的です。
こうした高校分科会をめぐる規定や変更はすべて、古宇田さんが決め、受け入れていたことです。私や運営委員に相談はなく、常に事後報告を受けるだけでした。
私は、古宇田さんは日作の言いなりであり、その結果、高作研が日作の下部組織のようになっていると思いました。そこで何回か、激しくやりあうこともありました。
私はこの2つの問題を深刻に考えていました。しかし、当時の高作研にはこうした問題をオープンに議論する場がありませんでした。そして私たち高作研のこの組織の欠陥こそが、最後のそして最大の問題だったのではないかと、今思います。
(3)私の作文教育との格闘
この問題の意味を良く理解してもらうためには、高作研のそもそもの始まりの時点に、さらには私自身が作文の指導を始めた時点に戻らなければなりません。
私は30歳からの約20年を、牧野紀之氏のもとでヘーゲル哲学とマルクスの唯物史観を学びました。それと並行して、国語専門塾・鶏鳴学園を立ち上げ、そこで国語教育という名のもとに、「哲学」教育を試行していました。対象は最初は高校生でした。塾を始めたのは、生活のためという理由もありますが、私自身が哲学を学ぶ一方で、哲学の教育をも実践してみたかったのです。その両方をすることで、私の理解が深まり確かなものになると思ったからです。
さて、国語教育ですが、そこでの読解については牧野さんから学んだ方法がそのまま使えました。しかし、作文教育や小論文の指導には困りました。牧野さんからのエッセイや論文の指導は受けていても、高校生対象に具体的にはどのように指導したらよいのかがわかりません。高校生が自前の問いを作り上げるために、少しでも本格的で真っ当な指導方法を求めて、いろいろな本を探しました。そこで出会ったのは、大村はまと国分一太郎です。
大村からは本当に多くを学びました。彼女の技術的な方法はすべてマネしてやってみました。その上で使えるものと使えないものを区別し、使えるものはそれを改良しながら実践を重ねました。また、彼女の教師としての姿勢(『教えるということ』)の部分も、学びました。
しかし、大村から学べるのはそこまででした。私は表現を、より深い人間観、世界観や、人間の発達や認識論的な観点からとらえ、そうした強固な基盤の上で指導したいと願っていました。
つまり、私が学んでいたヘーゲル哲学を根底に置いたような表現指導を行いたかったのです。調べてみると、その試みはすでに日本に存在していました。戦前からの生活綴り方運動がそれです。小学校の教師たちによる自主的な運動でした。東北を中心としながらも、全国的なネットワークを作って、熱心な教師同士で協力し合い、研鑽したようです。それが戦争中には弾圧を受けて壊滅状態に陥りました。しかし、敗戦後、民間教育運動が大きく盛り上がり、教育の分野で大きな役割を果たすようになると、生活綴り方運動はその中心の1つとしてよみがえりました。それが日本作文の会であり、そのリーダーとして理論面と組織の指導者として大活躍をしたのが国分一太郎です。
私は彼の本を読みまくりました。そして5段階(経験作文から論文・総合的な文章まで)からなる指導過程でとらえる考え方や、その個々の段階での実際の指導方法から学びました。
当時、私はさらに学びたいと思い、日本作文の会の夏の全国大会にも参加したのです。しかし、そこでは失望しました。高校分科会が存在しないのです。小学校段階では1年生から6年生まで、各学年に1つの分科会が用意されていたのですが、中学と高校はまとめて1つの分科会になっていたのです。また、その分科会の実践報告には、私の問題意識に響くものはありませんでした。日作は小学校の先生方が中心であり、残念ながら、高校段階としては機能していないことがわかりました。他に、教科研や国語教育学会の大会にも参加しましたが、私が求めるものはそこにはありませんでした。
そこで、私は一人でやっていくしかないと思い定め、実践してきました。大村はまと国分一太郎をたえず、傍らに置き、相談相手としていました。
(4)高作研の立ち上げ
私は、1995年から2年間ドイツに留学し、ヘーゲル哲学を学びました。その傍ら、ドイツの作文教育について調べてみました。ドイツも作文教育がさかんなようだったので、ドイツの研究者や実践家と意見交換をしました。その結果ですが、日本で感じた問題と同じ問題がそこにあるように思いました。小学校・中学までは計画的な指導体系がしっかりと作られているのですが、それが高校段階以上とつながっていないのです。そこには大きな断絶があり、2つの別々の表現指導があるようでした。それでは人の生活・生き方と、その人の思想とがしっかりと結びつかないでしょう。私が以前日本作文の会の大会で見た問題は、日本だけの特殊な問題ではなく、どこでも解決の難しい問題なのだと思いました。
私は、生活・生き方と思想との溝、その断絶の中に、表現指導の問題の核心があると思いました。そして、それを超えられるような表現指導の体系を作り上げたいと強く思いました。それはヘーゲル哲学を根底に置いた表現指導になるでしょうし、国分一太郎の5段階からなる指導過程をより具体的に発展させたものとなるはずです。
私は、その指導体系の構想を論考にまとめ、ドイツの研究者と意見交換をしました。その原稿を日本の出版社や雑誌編集部に送ったりもしました。そして帰国後は、その構想をぜひ実現していこうと思い定めたのです。
97年に帰国して、また高校生対象の鶏鳴学園の授業に復帰すると、私は私の構想を掲載してもらえる雑誌を探し、『月刊 国語教育』誌を見つけ、そこに投稿を開始しました。
また、私の構想を日本で実現していくには、どうしても日本に仲間が必要だと思いました。それまではほぼ一人でやっていたのですが、全国で意欲的に取り組んでいる方々、学校現場(中学、高校、大学)や塾、予備校などのさまざまな現場での実践家と交流し、自分の理論と実践を鍛えなおしたいと強く願ったのです。
その時、私の念頭にあったのは日本作文の会(日作)でした。常に国分一太郎の方法論を参考にしており、そこに仲間意識を持っていたからです。しかし日作には高校段階の組織がありません。「それがないなら、自分で作ろう」。私は日作の中に、新たに高校段階の組織を作るしかないと考えたのです。
私は日本作文の会に手紙を出し、会の中に高校段階の組織を作る提案をしました。参考として私の作文教育についての論考(5段階からなる指導過程)を同封しました。
そして古宇田さんとの出会いがあったのです。古宇田さんは茨木県の県立高校の教員でしたが、日本作文の会の常任委員を務めていて(高校段階では唯一の常任委員)、私の手紙は古宇田さんに回されていたのでした。
古宇田さんには彼女の地元の土浦まで呼び出され、駅近くのファミレスで、4、5時間は話したと思います。私を生意気だと思った古宇田さんが、私の覚悟ややる気を確かめていたのでしょう。塾経営者の私と、公立校の教員の古宇田さんとは、様々な点でかなり意見が対立しました。しかし、高校段階に独自の研究の場が必要なことに関しては、一致しました。いな、それは互いの切実な思いだったのだと思います。この点では、完全に一致していたと思います。
そして、結論としては、日本作文の会の内部ではなく、外部に私たちの研究会を立ち上げることで一致しました。それが高作研なのです。それは97年の秋だったと思います。そして記念すべき第1回の研究会が98年2月に開催されました。
会の運営面は、共同代表に私と古宇田さんがつき、他に茨城の県立高校で長く実践していた程塚英雄さんや正則高校の宮尾美徳さんがいました。その後は古宇田さんと私と程塚さんや宮尾さんを中心として、会を運営してきました。
(5)高作研内部の問題と外部との関係の問題
この会ができてしばらくは、私は仲間ができたことで嬉しくて仕方がなかったことを思い出します。私は宮尾さんの正則高校に取材に行きましたし、程塚さんにはその指導の方法を根掘り葉掘り教えてもらい、すべてを吸収しようとしました。
程塚さんとの出会いは大きなものでした。40歳を過ぎて、友人ができた、親友と出会えたと思いました。これは程塚さんが、私と同じく、表現指導の最終段階(論文や総合的な文章)の指導方法を確立することが私たちの使命だと考えており、その点で一致していたからです。程塚さんにはずいぶんと支えてもらいましたが、それはすべてこの点があったからだと思います。彼との関係についてはすでに別の文章で詳しく書きました(「ただ一人の友・程塚英雄 ?贖罪と鎮魂と再生?」。関心のある方は連絡ください)から、ここでは省略します。
高作研の約20年間の歩みの大枠については、『「聞き書き」の力』のあとがきに書きました。
古宇田さんは日本作文の会の常任委員でしたし、国分一太郎が指導したのが日作でしたから、私は自分との違いを感じながらも、日作を尊重する思いは常にあり、親近感を持っていました。
そして2000年から、日本作文の会の夏の大会の分科会の中に、高校分科会が設けられることになったのです。これは大きなことでした。優れた全国の実践家と出会うことができたからです。彼らの多くは日作との関わりがあり、少なくとも日作に親近感をいだいていました。この出会いには本当に感謝しています。それは日作の過去の実績のおかげです。
他方で、国分の5段階の指導過程を改めて学び直しながら、日作の戦後の歴史を眺めてみると、その運動は決して平たんなものではなく、いくつかの転換点があり、理念や方針も変わってきたことがわかりました。日作の組織にも、その理論や実践にも、対立や分裂があったのです。
80年代にはその運動も曲がり角を迎えたと思います。社会全体が豊かになり、貧しさが表面からは見えにくくなりました。社会主義の敗北は決定的で、東西冷戦が終わろうとしていました。国分一太郎が存命中はまだ、彼の力でまとめていたのでしょうが、1885年に彼が亡くなると、本当の中心が見えなくなったように思います。
90年代になり、ソ連が崩壊し、情報化社会になり、もはや従来の理念や方法論は有効ではなくなりました。国の教育政策も改革に次ぐ改革が断行されていました。その中には、従来は革新や組合が求めていた総合学習が取り入れられたりもしました。
90年代になると、日作では「表現」よりも「表出」が重視されるようになり、国分の5段階の指導理念や指導の系統案は、棚上げ状態になっていました。そもそも小学校段階だけを考えるなら、最終段階は考える必要がないと言えます。それが大勢の流れでしたが、古宇田さんの考えもそれと一致していました。
私や程塚さんは国分の5段階の指導理念や指導の系統案こそが重要で、論文や総合的文章の指導を具体的に示すことで、それを具体化し、発展させることを、私たちの使命と考えていました。しかし古宇田さんはそれには終始消極的でした。消極的であることに、強くこだわっていました。古宇田さんとの対立は様々ありますが、根底にはこの対立がありました。
それがよくわかるのは、私の本の扱い方です。私は、高作研の活動をしながら、国語教育に関する2冊の本を出しています。『脱マニュアル小論文』(大修館)と『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)です。後者は読解方法の提言ですが、前者は時代のもとめる小論文に対して、世間のマニュアル小論文に対する代案を出そうとするもので、高作研での成果を踏まえたものでした。
ところが、この2冊が高作研で取り上げられることはありませんでした。それを読書会で取り上げたり、検討されることは全くなかったのです。古宇田さんには、まったくその気がありませんでした。私もそれを押して、そうした機会を持とうとは思いませんでした。
この対立は大きなものでしたが、それを表面化させないようにしていました。それは、2人の対立を決定的にして、高作研が分裂すること、それを恐れていたからです。高作研は、高校段階の表現指導の学習の場として、重要で、それを壊してはならないと思っていたのです。古宇田さんもその思いは同じだったと思います。
しかし、そうすると、大枠で一致できることしかできなくなります。それが聞き書きだったのです。自分史と聞き書きは、日作の実践の中にも長い歴史と実績があり、古宇田さんはそれを実践していましたし、さらに学ぶことに意欲的でした。程塚さんは単なる国語科の授業を超えて、総合的な学習を組織して活動しており(まだ総合学習が学習指導要領に掲げられるはるか以前です)、その中に聞き書きも取り込んでいました。
私は聞き書きという方法を知りませんでしたが、高校生にリアルな現実に向き合わせる必要を強く感じて模索していましたから、それにはピッタリだとその意義はすぐにわかりました。また程塚さんの実践にも強く共感しました。こうして、総合学習における表現指導の在り方、さらに聞き書きについての共同研究が行われ、数年間は集中的に討議を行いました。その成果は『「聞き書き」の力』に発表した通りです。
しかし、そこにも対立はありました。私や程塚さんにとって、その聞き書きは、指導過程の中にしっかりと位置づけられるべきものであり、それは最終的には論理的な総合的な文章として完成するものでした。
私はそれを常に意識し、研究会でも議論を重ねていました。しかし、古宇田さんは聞き書きを指導過程全体の中に位置づけようとはせず、最終的な文章までの1つの段階としてとらえることに反対でした。
『「聞き書き」の力』では、古宇田さんには基本的な方法論を書いてもらい、それを補足する意味で、指導過程の全体とその中での聞き書きの位置づけや、他教科のレポートとの関係、文体論などを、私が書くことになりました。それは聞き書きの共同研究の際に、繰り返し議論され、考えてきたことなので、それをどうしても入れておき、後世に残したかったのです。この本は、今後聞き書きに言及する人の基本的文献になる。50年、100年と残る本になる。これが私の確信です。
さて、『「聞き書き」の力』を刊行した後は、その後の研究テーマが問題になります。ここで再度、私と古宇田さんとの対立がはっきりとします。次のテーマとは、古宇田さんにとっては経験文であり、私にとっては論理で本質をとらえることであり、そこまでの全指導過程の関係の問題です。
程塚さんは『「聞き書き」の力』の刊行の1年前に亡くなり、古宇田さんと私の調整役はいなくなりました。
(6)新しい出発
私と古宇田さんとの対立は最初からあった問題です。それを誤魔化しながらやってきました。古宇田さんは問題を先送りし、私もそれを黙認してきました。私と古宇田さんとは常に対立をはらみながら、協力できるところで、一生懸命に学び合ってきました。
古宇田さんと私の様々な対立にあって、それを仲介するのが程塚さんの役割でした。それは有効でしたが、それに頼りすぎた面があったと思います。また、それが有効だったとの意味は、分裂しないためであり、議論を深めるためではありませんでした。
本当はどうだったのでしょうか。私たちはもっと早く、しっかりとぶつかりあうべきだったのではなかったでしょうか。
またそれには高作研の組織上の問題もあります。共同代表の古宇田さんと私とで運営上のすべてを決め、実行してきたことです。日作との関係にあっては事実上、古宇田さんにまる投げでした。運営委員と運営委員会の制度はありましたが、形だけでした。ですから、議論をしたり、結果を反省する場がなかったのです。
私は大いに反省し、2016年の秋に「私たち高作研の課題」をまとめて、運営委員に問題提起をしました。以下のような内容でした。
○自主学習会の問題と対策
?問題 立場の曖昧さ、立場を決めない
1つに徹することができない。なあなあで深まらない。学び合いが不徹底
?対策
それぞれの立場を示し、その成果で競争すればよい。
互いの違いを明示しての、対立・葛藤や激烈な批判合戦があってこそ、次のステップ(総合)に進める
?遠慮や配慮
古宇田さんと決裂することを恐れた。程塚さんに甘えていた部分がある
あまりに厳しい基準を求めると、メンバーがいなくなってしまう。
○会の問題、課題
?全体をおさえ、論理的に考える力が弱いことだと思う。
?人間の発展に即して、表現の指導過程を定式化すべき
?教師自身の相互批判が弱い
?中井の論トレ本、脱マニュアル小論文を、検討し批判し合う場を持つべき
○会の問題、課題と対策
?相互学習をもっともっと意識的に追及すべき
?論理的思考力を養成する
?議論では、代案を求める
?教師自身が文章を書くべき。その発表と批判の場
ところが、この「私たち高作研の課題」は取り上げて議論されることはなかったのです。また、この時点では、私は日作との関係の問題、夏の大会の高校分科会の問題は挙げていません。
そして、2017年の夏の大会の高校分科会を迎えました。その報告と議論は低調でした。私の堪忍袋の緒が切れました。8月末に私から古宇田さんと運営委員に対して再度の問題提起をし、運営委員会で12月末までに何度も話し合いを持ちました。高作研の20年近くの歴史の中で、初めての根底的で厳しい議論や批判が展開されました。私は一歩も引かない覚悟で臨み、場合によっては会を辞めるつもりでした。
その結果ですが、最終的には私の提案が、古宇田さんも含め、運営委員のみなさんに了解されました。この過程で、運営委員会が初めて機能しました。私にとってこの場しか議論をできる機会はなかったのです。
この厳しい話し合いに参加して、すべての議論につきあってもらった運営委員には本当に感謝しています。こうした過程で運営委員も厳選されました。私と古宇田さんと宮尾さん以外の運営委員は、久保有紀さん、冨田明さん、田中由美子さんです。今後も、運営委員は、実際に運営に関われる人にだけお願いするつもりです。
おそれていた分裂はなく、新たな目標に向けて、運営委員の意志がまとまり、意欲が高まったと思います。もっと古宇田さんや運営委員を信頼し、もっとはやく、できれば10年前に、程塚さんが存命の内にこれをやるべきでした。
組織を大きく変えました。これまでは共同代表だった古宇田さんと私の2人ですべてを決め、ほとんどすべての仕事をしてきました。しかし今後は、運営委員会ですべてを決めていくことになりました。代表から古宇田さんと私は降りて、新しく田中さんに代表をお願いしました。田中さんのフレッシュさとやる気を高く評価して、私が推薦しました。
古宇田さんと私が一手に引き受けてきた仕事を運営委員に分担してもらい、その引き継ぎを進めています。古宇田さんと私は身軽になって、高作研の研究活動に専念することになりました。古宇田さんは自分史や経験作文を、私は指導過程の全体と論理的で総合的な文章の指導です。
運営委員間の相互研鑽を深めることも同意され、互いの文章の相互批判も始めました。表現指導をする教師自身が、誰よりも厳しい批判をし合うべきだと、常日頃方思っていたことが実現しました。
日作との関係も改善の方向に進んでいます。大きかったのは、高校分科会の報告者の選定は、最終的には高作研に権限があることを確認できたことです。まだ名称などの課題が未解決のままに残っています。今後も日作との話し合いを重ねていくつもりです。
さて、本当にこれからです。私の改革案が通った以上、私にはもう言い訳は許されません。高校生たちがこの社会の中で自分を貫いて生きて行くこと、それをしっかりと支えられるような表現指導を行うこと、そのための理論と実践を明らかにすること。それが私たち高作研のするべきことです。その高い理想に向けて、運営委員の方々と努力していきたいと思います。読者のみなさんも、ぜひ仲間になってください。