2015年11月14日から16日まで広島を旅した。掛君が同行した。
15日午前には福山市の広島県立歴史博物館(企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」)、福山市美術館。午後には広島市の頼山陽史跡資料館(頼山陽史跡資料館開館20周年記念特別展「風流才子の交わり」 ?頼山陽と田能村竹田を中心に?)、広島原爆ドームと平和資料館。
16日は終日、下浦刈島で蘭島文化振興財団の事務局長の取材と2つの美術館などの文化施設を回った。ここは「歴史と文化のガーデンアイランド 下浦刈島」としてサントリー地域文化賞を受賞している。取材は、地域資源経営を考えるヒントになると思ってのもの。
下浦刈島に行ったのは、蘭島閣美術館(秋季特別展『靉光とゆかりの画家たち』)、三之瀬御本陣芸術文化館(『須田国太郎の足跡をたどる』)の展示を見たかったのだが、 靉光や須田の絵画がなぜどのようにして、ここに集まっているのかを知りたかった。
下浦刈島の蘭島文化振興財団については別稿にまとめることにし、今回は、広島県立歴史博物館の常設展示と企画展を見て回り、企画展では学芸員さんに教えてもらったこと、そこから考えたことをまとめておく。
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◇◆ 文化意識と国防意識と 中井浩一 ◆◇
(1)菅茶山と平田玉蘊
福山市の広島県立歴史博物館の企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」を見た。
学芸員の方に案内をしてもらい、江戸時代後期・文化文政期の日本の文化状況を教えてもらった。それは面白く、刺激的だった。
平田は尾道の豪商の娘だったが、当時すでに尾道や福山、神辺、竹原、広島などを結ぶ地域の文化のネットワークがあり、
その文化センターが神辺(現在の福山市内)の儒学者・漢詩人の菅茶山(1748?1827)であった。
菅茶山は当然ながら、平田玉蘊(1787?1855)のパトロンであり、庇護者、支援者であった。
頼山陽(1781?1832)も、若き日に放蕩三昧で実家を追い出され、菅茶山のもとにおいてもらっていた時期がある。
そこで頼と平田は出会ったらしい。2人は恋に落ちたが、悲劇的な別れが待っている。
その後、平田は尾道を拠点にして職業画家として生きたらしい。
そして、平田にとっては、菅茶山はつねに変わることない庇護者だった。
例えば、平田が伊藤若冲や蠣崎波響などの作品の模写をしているのだが、その事実は菅茶山が当時の文化の最先端の絵画を所有し、それを平田が自由に閲覧できたことを物語っている。
この歴史博物館には菅茶山関係の資料が集まっており、その解読、分析が進んでいる。
(2)全国各地と地域を結ぶ文化のネットワーク
当時の日本には、全国各地と地域を結ぶネットワークができあがっていた。知識人、文化人のネットワークの完成である。
それがそのまま政治、文化に関する情報ルートとなっており、文化に関する多様な情報も、そのネットワークを通じて全国に流れていた。
中央には江戸の知識人たちがいるのだが、幕府のトップである松平定信(1758?1829)自身がそうした全国的な文化のネットワークの中心にあり、
そのネットワークの完成者として自覚的な動きをしている。各地の文化のセンターたる文化人たちはその事業の協力者だった。
例えば、『集古十種(しゅうこじっしゅ) 古画肖像之部』の刊行である。集古十種は、日本全国の古美術の木版図録集(目録)であり、
1859点の文物を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房(文房具)、印璽、扁額、肖像、書画の10種類に分類し、その寸法、所在地、特徴などを記し、模写図を添えたものだ。
その編纂は松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの学者や家臣、
画人としては谷文晁、喜多武清・大野文泉(巨野泉祐)・僧白雲・住吉廣行・森川竹窓などによって4年の歳月を掛けて行われ、
寛政12年(1800年)に第一次の刊行がなされた。
絵師らは奥州から九州まで全国各地の寺社に赴き、現地で書画や古器物を写しとった。
現地調査以外に直接取り寄せることや模本や写本を利用することもしている。(以上の集古十種の説明はウィキペディアに依っている)
この編集作業のための全国各地の協力者たちがいた。それが当時の知識人、文化人のネットワークであった。
その背景には、国防意識やナショナリズムの高揚があったようだ。当時、日本各地にヨーロッパ列強の影が現れていた。
ロシアが南下を開始し、北海道に迫っていた。オランダに代わって、フランスやイギリスがその勢力をまし、日本沿岸に現れていた。
日本を舞台にしてそれら列強が覇権を争うような事態も想定できた。その対策に当たったのが松平定信だった。
彼は、当時の最大の文化人の1人として、国防意識と文化意識が一体となった事業を遂行していった。
国防意識やナショナリズムの高揚と地方の文化振興策は一体となって進んだようだ。
(3)尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワーク
各地の拠点はその地域での文化の広がりや浸透に大きな役割をはたした。
そこに文化の保護者、パトロンの存在があり、各地の自立性があった。
西日本の一大センターが福山の神辺の菅茶山だった。それは四国、九州、中国地方におよぶ大きな文化圏を形成していた。
広島だけでも、尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワークがあったことは、歴史的にもうなずける。
そうした中に、頼山陽や平田玉蘊が生まれ、九州の田能村竹田らとの交流も保障されているようだ。
尾道は商業都市として経済的に栄え、都市としての自立性もある程度持っていたようだ。
平田玉蘊の父親がそうだったように文化的なパトロンも多く、田能村竹田はそうした後援者のもとを何度も訪ね、ある年は半年も滞在している。
そうした伝統は近代、現代になっても続いているように思った。
私の大好きな画家・須田国太郎のパトロンがいたし(その1人は岡林監督の父〔開業医〕だったらしい。福山にも彼の支援者たちがいた)、
彼の親友だった小林和作は尾道が気に入って住み着いてしまったのだが、後に尾道の文化のセンターとして地域のボス的存在にまでなっていたらしい。
小林は須田の絵画の販売や保護、文化的な位置づけまでを決定する役割を果たしている。
(4)文化の成熟と国防意識
私は若いころは日本文化を低く評価していた。ちまちまとまとまっていることが嫌だった。
洗練はあっても激しさや強靭さが弱いと思っていた。ハチャメチャで激烈で広大な世界こそがあこがれだった。
しかし、今は少し違っている。日本文化の総体に、文化の成熟、爛熟、高い美意識を見出し、それを評価するようになったのだ。
この「日本文化の総体」という意識は江戸時代の後半に成立すると思うが、それは日本人の自己意識の深まり、日本文化の総体の反省の上になりたっていると考える。
それが日本文化の成熟、爛熟をもたらしていると思う。
こうした日本人の自己意識の深まりは、過去の作品の収集と整理、その分類から始まる。
そうした作業の1つが集古十種の編集作業だったろう。江戸時代に手鑑(てかがみ)の類が多数作成されたのもその現れだろう。
手鑑とは数多くの古筆・名筆を鑑賞する目的で作成された手(筆跡のこと)のアルバム。
奈良時代から南北朝・室町時代の各時代にわたる古筆切が、台紙に一枚から三枚ほどが貼り付けられ、その台紙を50枚ほどつなげて、帖(じょう)に仕立ててある。
ここにあるのはコレクション、編集・編纂、異文化のコラボ、プロデュースの意識である。
そしてその強烈な自己意識は他者意識との響き合いで強まり、高まる。
その背後には諸外国の影と国防意識やナショナリズムの高揚があったことを今回、意識した。
(5)「海の道」
福山市の広島県立歴史博物館は、美術館ではない。それがこうした女流画人の企画展を行うのも面白い。
ここでは学芸員が全員まわりもちで、企画展を実施するようにしているのだ。
これは福山市の市立美術館でも同じだった。そうしたことに感心する。
そもそもこの博物館は、福山市の草戸千軒町遺跡の発掘調査の成果を展示するために生まれた。
草戸千軒とは、福山市街地の西部を流れる芦田川の川底に埋もれた中世の集落跡である。それは中世の瀬戸内に栄えた港町・市場町であった。
今もこの常設展では、その港町・市場町の様子が再現され、遺物や関連資料が展示されている。
ここ瀬戸内海は古くから九州と近畿地方とを結ぶ物品と文化の大動脈だったのだ。その交易の様子なども展示されていた。
そうした展示を見ながら、「海の道」を強く意識した。
私にとっては陸の道が普通であり、空の道が例外で、海の道には縁が薄いのだが、近世までは海の道こそが中心だった。
瀬戸内海はその意味で、物流と文化の基幹道路だったことに目が開かれた気がする。
瀬戸内海の拠点は、そうした意味での拠点群であり、尾道もその1つだったのだ。