日本の近代化と夏目漱石
これからしばらくは、日本の近代化についての私の考えをまとめていくつもりだ。来年の2月か3月に刊行予定の拙著 『ヘーゲル哲学を研究するとはどういうことか』の中で、19世紀から20世紀までの世界史について、それを発展としてまとめたのだが、何よりも日本についてそれを行わなければならないと覚悟したからだ。
もっとも、日本の近代化についての私見をまとめることは、この30年間ずっと考えてきたことで、その準備は常に積み重ねてきたつもりである。それを形にして示す段階になったと思う。
例えばこの数年は近代化においての日本語の問題について研究を重ねてきた。近代化とは後進国においては、西洋の文明、文化の輸入、移植であるが、日本はそれに一応成功したと言える。それはなぜか。
それは日本の翻訳語の役割が大きい。漢字の二字熟語を大量に作成し、それによる自動的な置き換えが可能になった。さらに、日本語の文体の変化の問題である。加藤周一や丸山真男らを参照しながら、調査をしてきた。
近代化について考え始めたのは、30年ほど前にさかのぼる。1994年から2年ほどかけて、福沢諭吉の『文明論之概略』を丸山真男の『「文明論之概略」を読む』を参考にしながら読んだ。
それから、夏目漱石の「日本の文明開化」や「私の個人主義」などの『文明論集』は常に私の傍らにある。これは常に私の話し相手となってくれた。「私の個人主義」は、塾の高2クラスのテキストである。今日本の教育界で大流行の「個性」教育の浅薄さ、軽薄さ。それは夏目の言う「個性」とどれほど違うものか。
さらに、戦争中の山本有三たちのことも考えてきた。それは彼が中心になって、戦争のさなか新潮社から子ども向けの文庫を作ったことに関心を持ったからだ。『日本小国民文庫』である。その中に、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が入っている。そこに編集者として参加したのが石井桃子であり、少年少女のための世界中のすぐれた読み物が収録されている。彼女は戦後の子どもの本のための活動の中心であった。
旧石井邸を訪れた時、その寝室にひっそりと夏目の全集、それも廉価版がおかれているのを見て、納得した。石井たちの試みは、夏目の問題意識をまっすぐに受け止めているのだろうと思う。
山本有三は近衛文麿の友人であり、山本は近衛から東條英機に対する暗殺計画を打ち明けられており、それが成就した時の声明文の執筆を依頼されていた(山本の『濁流』)。これには驚いた。
日本の近代化がどう展開し、どのような終わりを迎えたか。
日本は敗戦後に高度経済成長に邁進した。GDPにおいてアメリカに次ぐ世界第2の地位を得た時の、それに舞い上がった姿。そしてバブルがはじけた後の、今日までの姿。
それは夏目の言う「上滑りの開化」そのものの当然の結果ではないだろうか。
日本の近代化を考えようとする時、私には何人かの日本人が念頭にある。
しかし、この問題を考えようとする時、いつもまず夏目漱石を思う。
私は常々日本が近代化における「後進国」として、一方で強いコンプレックス、弱さ、悲しさを持ち、しかし同時にコンプレックスの裏返しの強烈なプライド、強がり、ナルシシズム、他者への傲慢さ、ナショナリズム、暴力を持つこと、この二面性を考えている。その典型を、ヤクザ映画に見る。
こうした矛盾の問題を、自分自身の問題として取り上げ、 深く考え抜きその答えを出した稀有な日本人。それが夏目だと私は考えている。私が最も信頼している日本人だ。
だから、夏目の学習から始めたいと思う。ただし問題はある。夏目の思考や表現は悟性レベルにとどまっており、理性レベルにはほど遠い。そこでその悟性レベルにとらわれると、夏目の真意がわからないままに終わる。
だから、夏目は理解されてこなかったし、今も理解されていない。いろいろと議論されているが、夏目の真意に届くには程遠い段階である。
そこで私は夏目の悟性レベルのものを、理性レベルで整理し直さなければならない。それを引き受けた上で、日本の近代化を深く考えるための問題提起にしたいと思う。
なお、誤解がありうるから説明する。夏目が悟性レベルであったことは事実だが、それをあげつらう気持ちはない。夏目の思考力は低かったが、夏目はその低い能力にもかかわらず、彼が真理を追究しようとする意欲の強烈さによって、それを超えかかっていた。
問題は、当時も今も、夏目以上のレベルで、この問題を考えられる人がいないことである。まずは夏目を読もう。
本年10月には夏目漱石著「現代日本の開化」の読書会を行った。その記録を掲載する。
■ 目次 ■
夏目漱石著「現代日本の開化」読書会の記録 鈴木英規
1.参加者の読後の感想
2.本題(大枠の確認)
3. 参加者の読書会感想
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◇◆ 夏目漱石著「現代日本の開化」読書会の記録 鈴木英規 ◆◇
読書会の記録
? 読書会日時:2025年10月19日
? テキスト:夏目漱石(1911)「現代日本の開化」
テキストは『漱石文明論集』三好行雄編 岩波文庫
形式段落に番号を付けた。ページ数、行数などはこれによる。
? 参加者:(中井さんを含めて)11名
? 作成者:鈴木英規
〇=参加者の発言 ●=中井さんの発言
1, 参加者の読後の感想
〇Aさん:立体的構成の宿題が出たことは「もっとも」で、「ここからはレベルを変えるよ」という意識がある書き方・しゃべり方をしている。こうした論理的なものが漱石の小説の中にある。特に『吾輩は猫である』にクッキリとした立体性を感じる。(今回のテキストは)講演なんだけれど、論理がある。疑問点としては、文明開化で、日本にダーッと入ってきた西洋文明の「(鉄道のような)物質面」が、あんまり意味がないよ、こんなのは本当の発展じゃないよ、と言っていて、もう一方の「精神面」の話は、抜けているのか、わざとしていないのか、とにかくない。漱石は開化の流れを「便利になっていく方向」と「贅沢になっていく方向」に分けて、これらを「物質面」で議論していて、どうして「精神面」の話がないのかな?と思った。
〇Bさん:(自分は)立体的構成をとらえることができないんだなぁ、ということがわかった。わたし個人の内発的な成長には、すごく時間がかかる。中井さんの指導は内発的な成長を促している、外発的ではない働きかけをわたしたちにしている、と思いながら読んだ。
○Cさん:?落語みたいだな、と思った。「やっと気合を懸けてぴょいぴょいと飛んでいく」とか、「ぼつぼつ縫って」といった表現がおもしろい。他の講演でも、漱石は「前置き」が長いな、と思うのだが、その半分は前置きと見せかけて「話の前提」を言っているんだな、と思った。西洋との比較については、自分が英語を専門にしてやっている頃の「欧米人と付き合うことの気持ち悪さ」を感じた。今の自分にある「足の不具合」は、神経衰弱の端くれみたいなものなのか、と思った。わたしの一番のストレスは実家のこと。「完全男尊女卑」「長男だけが大事」から、戦後の「男女平等」「核家族」へと、気合を懸けてピョイって飛ぶこともなく、ただそうなってしまったという「恐ろしい外発的な開化」と、わたしは戦ってきた面がある。それに加えて、50歳頃から(外発的に)ピョイピョイと飛んできて、そうしたことで足が動かないのかな、と思った。疑問点としては、?二種類の活動について、それらは「二つで一つ」ではないのか?例えば電車・汽車は「活力節約」というけれども、電車・汽車を走らせたという科学者の燃えるような思いは「活力消耗」によるのではないのか?それから、?「外発的開化の心理的影響」の説明が腑に落ちない。「西洋が長年かけて戦ってきた歴史」ではなくて、あれなのかな?(中井さんが言うように)「哲学ではなく文学だから」こうなるのか?それとも「日本人の側の空虚さ」を表現するためなのか?
●落語のようなはじまりかた:?夏目の講演のほぼすべてがこう。これにどういう意味があるのか、という問いが立つ。?開化のナカミとして「二種」とは何なのか?開化(近代化)の説明に、こういう仕方は他にない。とんでもない説明の仕方をする、これは何なのか??内発的ではなくてはならないんだという理由を、夏目は説明している。人間の意識は本来、内発的にしか動かないんだ、ということを言っている。
○Dさん:夏目が批判しているのは自分のような人、「西洋を学んで、他者にしたがって、いい気になっている人」なのでは、と思った。疑問に思うこと?「義務(16‐7頁)」について。「積極的な活力消耗」が「義務」で表せることなのか??「パラドックス」の話が、その後の「現代日本の開化」の話と、どう関係するのかわからなかった。
●「パラドクス」の話は、その後につながっていないと思う。1.一般的に近代化には負担がかかる。2.後進国が近代化することがどれだけしんどいか。日本のような後進国が近代化するのは二重にしんどい。それなのに、よくノイローゼにも胃潰瘍にもならずに平気で生きているね、ということ。強烈な皮肉をぶっ放している。
○Eさん:中井ゼミでは内発的な生き方の指導をしているが、国の開化も内発的でなければならないというのが面白いなと思った。疑問点は、開化の活動が、「義務の刺激に対する消極的な活力節約」と「道楽の刺激に対する積極的に活力消耗」とあって、何でこの二つなのだろうか?
〇Fさん:?これが書き物ものではなく、講演の記録であることの驚き。講演は語りだが、これだけ論理(特に「対」)を意識的に語っている。それまでのとは違うという感じがした。?傍流として「定義=静的で限界がある」と語って、それで終わると思いきや、開化を運動で説明していく。夏目が、シッカリと組み立てて語りをやっていることがわかった。?開化は外発的ではなく、内発的にやらなければならない、でも実際、日本人は外発的にやっている、というような話を、ただ日本と西洋との比較でするのではなく、話し手である自分と、今目の前にいる聴き手(聴衆)との関係に当てはめて語っている。圧倒的に高い能力の人から教えを受けるとなると、その時点で「外発的」に捉えざるを得ない。中井さんの教えを「内発的」なものとして受け取れるか、それは絶えず受け手の主体性にかかっている。
●(このテキストは)講演であって評論文ではない。書きことばではなく、話しことば。この夏目の語りをどう考えるのか?他にこう語れる人はいない。講演会には、話す人と聞く人に上下関係がある。その上下関係とは、静的で、そもそも外発的になるもの。夏目は、それを絶えず壊していかなければならない。その仕方として、聴き手の立場から具体的に説明する。「俺の話は1時間が限界でしょ?2時間3時間続けたら意識は他にいっちゃうでしょ?だから45分で終わらせます。もうちょっとの辛抱ですよ…」夏目は、こういう語り方をする。相手の立場で具体例を出していく。まさに今、ここであなたに起こっていること、これを例に出していく。自分が使う「内発的」ということばの意味を、とことんわかっている。このレベルの文化人が他にいるのか?こういう人を他には知らない。
〇Gさん:立体的構成の課題に取り組んでみて、改めて、自分の立体的構成力を高めたいと、思った。批判・疑問?「こんがらがって変化して…」「錯綜して混乱した」「入り乱れたる…」といった表現は、なぜ、もっとハッキリと「矛盾の対立を深める」という表現にしないのか??なぜ「パラドクス」のような外来語を用いるのか?「矛盾」と表現しないのはなぜなのか?感想?:(個人に関して)牧野の「先生を選べ」の、「自分の能力は自分で高めるしかない」「人類の精神的財産の真理を、自分の脳力を通して自分で創造する行為」と通じることを感じた。?(社会的に関して)高度経済成長でナンバーワンだと言われながら、この30年の間にGDPでドイツに追い抜かれたのは、日本全体が30年間神経衰弱にかかっていた必然的な結果ではないのか?何を目的に生きていけばいいのか、答えが出せないこととつながっているのではないか?
●夏目の言っている日本の開化がとことん「上滑り」「空虚」「うそ」であること。これを今、僕たちはかみしめているし、かみしめなければいけないと思う。それから、夏目は「ゴチャゴチャ…」「入り乱れて…」という表現を使って、「矛盾」ということばを使わない。夏目は、これをわざと、意識的にそうしている。そうする夏目の側の理由がある。日本では、「日常のことば」と「モノを考えるときのことば」が完全に分裂・分断されてしまっている。それを、夏目は「日常語」ですべてをやろうとしている。夏目にとって、「日常語」と「専門用語」とが何の関係もなくあるのが日本。それらをどうつなぐことができるのか?この意識が強烈にあるのが夏目。これを見て、僕はソクラテスやプラトンを思う。つまり「対話篇」。こうした根源的なところに立ってやっている人って、夏目以外に知らない。何を問題にしようとしているのか、そのレベルが全然他と違う。
〇Hさん:英国留学で神経衰弱にかかった漱石と、ウツで何もしたくなくなった私との同型性に着目せざるを得ない。クリティカル・リアリズムを紹介する際のジェスチャーがあって、左手が現実・世界で、右手がそれを言い表す言葉だよ。要は、それらのバランスなんだよっていう、いわば「日常言語」を用いた説明の仕方なのだが、それを哲学の「専門用語」で説明すると、社会には「自動詞的な側面(intransitive)」と「他動詞的な側面(transitive)」、つまりは「自らの法則・メカニズムで自ずから変化する側面」と、「人が外側から力を加えて状態を変化させる側面」とがある、ということになる。この議論とは、結局のところ、夏目がこのテキストでしている、開化の「内発的な性格」と「外発的な性格」ではないのか?100年前に夏目が悩んでいたことも、クリティカル・リアリズムでわたしが悩んでいることも、それほど変わらないのではないか?そう思った。それから、結論部分の「どうすればいいか?」→「いや、どうにもならないよ」が、わたしのウツ状態に似てるなぁ、と思った。聴き手はこれを聞かされて、どうだったんだろうか?聴衆には一般的な人が多くて、「夏目先生、今日はよい勉強になりました!」のような反応が多くはなかったか?
●夏目の結論はいったい何なのか?この講演の結論っていったい何なのか?ここが重要だと思う。夏目は「専門用語」を使っていない。ごく普通の人に、ごく普通の人がわかるように語っている。普通の結論とは違う。普通の結論とは、聞いた人がホッコリするとか、ちょっと元気になるとか、「今日はよい話を聞けて良かったなぁ」「明日からまた頑張ろう!」というようなもの。ところが夏目はみんなに水をぶっかけた。最後までみんなが集中して聴いてくれて、わかってくれないと、水ぶっかけられたこともわからないで終わるから、「水ぶっかけられたんだ」とわかるように話しているわけ。とにかくすばらしい。他と全くレベルが違う。僕が日本人で一番信頼している人が夏目漱石。
〇Iさん:参加の理由:自分に読解力がないことに気づいたから。感想:夏目が現代に生きていたらどういう感想がでてくるのだろうかと思った?
1. 本題(大枠の確認)
●立体的構成
普遍:一般的な近代化(西洋の近代化)
特殊:日本の近代化(後進国の近代化)
●今回の課題は、「普遍」と「特殊」の二段階が読み取れていなければならない。この講演は、どこから「普遍」の話が始まっているのかが悩ましい。「特殊」の話へは12段落で移っている。
●テーマ・結論の解答例:「神経衰弱にかからない程度に内発的に変化するのが良い」「内発的に推移していない日本の開化はウソだ」「近代日本の開化の特殊性とは、本来開化が内発的に行われるべきなのに外発的に行われることで、日本人の意識に対し苦しみを減らしも維持もせず、むしろ増すことだ」「神経衰弱を覚悟せよ」など。(正解は)これらのレベルではない。
●この講演の目的は、聴衆に水をぶっかけること。聴衆に水をぶっかけたら、この講演の目的は達成したということ。この講演は神経衰弱になれないお人よしを相手にしている。神経衰弱になれる人はマシ。何か異常が起こったとわかるから。それがわからない人がいるから、水をぶっかけるしかない。みなさんはお人よし。夏目にお人よしの面はない。夏目の腹には「悪意」と「作為」がたくさんある。
●夏目は何を目的に語っているのか?この講演は、日本が日露戦争にかろうじて勝ったころ、日本中が浮かれていたときに行われた。そのころの日本の在り様(軽薄さ)を、夏目は苦々しく思っていた。そうした状態に夏目のできることは何か?できることなどないとはわかっていても、それでも夏目にできる精一杯のことが、その頃の浮かれている日本人に水をぶっかけることだった。
●1段落。冒頭(8頁)「はなはだお暑いことで、こう暑くては…定めしお苦しいだろうと思います」おちょくっているというか、落語の話のつかみのような、聴き手を笑わせ、ゆるませ、そういうことをやる。夏目の講演は全部がそう。これが何のためなのか?「今のままでは遅かれ早かれ日本は破綻するよ!」これを伝えたいわけ。なのに話は実にゆるーく始まる。
●2段落。「その開化をどうするのだと聞かれれば…あなた方のご高見にお任せするつもりであります」(10頁・2行目)「結論なんかない」と言っている。開化を説明して、そこからどういう結論を導き出すか、それはあなた方ひとりひとりの自由です。あえて結論は言わない。水をぶっかけるのが目的なのだから。
●3段落。11頁:「開化」を定義すると言いつつ、定義をしない。定義がいかにインチキかっていう話をし始める。じゃあ定義の話はしないのかと言えば、する。こういうのを「韜晦(とうかい:自分の才能や本心を何かほかのことで隠すこと)」という。わざと話をわからなくする。「定義はこう→次はこう→次はこう→次はこう→結論はこれ!」というのが普通のやり方。それを、わざとはずしている。型通りのものをはずしていく。「早くやれ!」って怒られても、夏目はシレーッとやり続ける。ヘロヘロ・ヘナヘナする。ゆるーくやっている。なんという図々しさ。
●4段落。13頁・後から2行目:「いよいよ開化に出戻り致しますが…」本題への入り口にやっとたどり着く。「玄関」までゆうに7頁ある。冒頭の枕話が長い。それを夏目はわざとやっている。これは何の目的でやっているのか?どういうメリットが夏目にあるのか?
●5段落。夏目の定義を出している。「開化は人間活力の発現の経路である。その活力には2種類の活動がある。
●6段落。15頁:開化には「積極的なもの」と「消極的なもの」とがある。「活力節約の行動」と「活力消耗の趣向」。「義務」と「道楽」。近代化とは何かが問いなのに、こういう説明をする。そんな人は他にはいない。これをヘーゲルに聞かせたら、何を言っているのかわからないと思う。
●7段落。17頁・後から4行目:道楽が進んで文学になり、科学になり、哲学になる、と言っている。ここでは、いわゆる精神文化の話をしている。その反対が「物質面(産業)」の話。(マルクスのことばで言えば)生産力と生産関係の話。その話が前半部にあって、それに対する上部構造の話が、夏目の言う「道楽」の話。夏目は敢えて(八割がた)わかってこういう言い方をしている。このあたりはものすごく雑な言い方をしている。ちゃんと考えたらこんな枠組みでは考えられない。例えば、科学や哲学が物質面とどういう関係にあるのか?こう考えなければならない。ただ、二つがあって、ゴチャゴチャして…なんて言い方ではわからない。下部構造と上部構造は、下部が上部を規定しているが、結局は上部が下部を規定していく。下部構造と上部構造とは、二つで一つ。本来はこう説明すべき。でも、夏目はそういう説明の仕方はしない。どうしてしないのか?→誰が聴きに来ているのか?聴きに来ている人がどれだけの深さで理解できる人なのか?それはもう、理解できない人たちであるとわかっている。理解できない人たちに問いかけて、目的はただ一つ、水をぶっかけたい。水をぶっかけるところまでは連れていかなければならない。(もう1つの理由は夏目自身の能力不足だが、それはここでは問わない)
●8段落。17頁・最後:「消極的な活力節約」と「積極的な活力消耗」が「互に並び進んで、コンガラガッて変化して行って…」これは科学のことばではない。夏目は、一方で、科学のことばを使おうと思えば使える。でも、落語でやっている。
●9段落。20頁:道楽の話。和歌の浦のエレヴェーターの話。これは、科学が発展したことでこの道楽が成立している。だから、二つは一つ。
●10段落。21頁:ヘーゲルで言えば、まず欲求・衝動から始まる、それが精神的なものへと発展していく。基本的に、内発的なもの以外に発展はない。そうした発展の中で、人間が自然とのかかわりで生産力を高めて、社会が発展する。内面的には人間の欲求・衝動が満たされていく。それが精神的な欲求・衝動へと高まっていく。これが実際の原動力で、社会を変えていく。夏目はこうした小難しいことを一切言わない。
●11段落。21頁:夏目の「パラドックス」=「ちょっと聞くと可笑しいが、実は誰しも認めなければならない現象」。鶏鳴学園での「パラドックス」=「対」かつ「言い換え」。
●夏目の説明は科学的ではないが、近代化は現時点での発展の最高レベルであるから、精神面の物質面も発展してきたんだが、それはいったい何のためなのか?
●22頁:近代化でわれわれの生活が楽になるのか?生産力が上昇する。ものが豊かになる。交通が便利になる。しかし、近代化とは「生活が楽になり」「便利になっていく」なんてことばで済むものではない。ヘーゲルのことばではexistence(現実存在)の段階であるということを、関口存男が言っていて、それを牧野が説明している。
●日本が江戸時代の農業国で、まだ商業が発展していないとき、自然の成長・発展は大きな変化が起こらないから、自然のリズムで生きていればよかった。遠い所へ行けないし、ずーっと同じところで生活するし、絶えず同じ人たちと生きている時代だった。そうした自然から切り離されて、工場労働者になって、生産性は飛躍的に伸びたけれども、生活が幸せになったか?マルクスの解答:そうではない。プロレタリアートはただ搾取され続けるだけ。ドンドン苦しくなるだけ。だから革命が起こるんだ。生産性が上がれば上がるほど、社会構造が変わってみんなが幸せになる、とはならない。
●22頁:夏目の説明の仕方「開化が進めば進むほど競争がますます激しくなって生活はいよいよ困難になる」「この開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的やわらげられたというわけではない」夏目のこの説明を聴衆はどのくらいの実感をかんじていたのだろうか?
●23頁3行目から:「(昔は)死ぬか生きるかの競争」→「(今日は)生きるか生きるかの競争」ここで夏目は、話についてこれるよう、聴き手にわかるような具体例を出す。「人力車を引く人」→「自動車を運転する人」人力車のレベルで生きていた人が、自動車の方へシフトしないと、生活が成り立たなくなる。自動車を持たなければならなくなる。そこで取り残される人も出てくる。こうした競争が社会に組み込まれている。絶えず前に進むしかない。置いて行かれれば負け犬。楽になることはない。ただ苦しくなる。
●25頁真ん中:「開化の生んだ一大パラドックス」そこには自由選択があって、競争から降りることもできなくはないけれど、それは難しい。本来、成長とは内発的なもの。それなのに、よい大学に入りたい、よい会社へ入りたい、その中で出世したい、これって内発的なのか?これが外発的になっている面があって、会社が生産性をあげるために、いろいろな組織的な動きを作っていく。内発的にやらせながら、それ自体を外発的にやっている=ペテン。会社は社員に内発的なふりをさせながら、外発的にやらせている。目の前にエサをぶら下げられて、走らされている。でも、結果的に走っている。前に進んでいる。ここに大きな矛盾がある。世界中どこでも人間の発展・成長は内発的。でも、それを外発的に、とりあえず起こるようにすることが社会の発展になるという側面は、リアルな現実。
●12段落。25頁目:これまでの話は一般的な矛盾であって、ここからが今日の本題である日本の話。そもそも近代化には矛盾があって、前進しても生活は楽にならない。しかし、日本の近代化はこれだけでは済まない。
一般的な矛盾
日本の特殊なケース
●13段落。26頁:西洋の開化は内発的、日本の開化は外発的。
近代化は基本的には内発的な力で生じるが、社会の外発的な強制力で実現している。このことは、西洋の中にすでにある。それを、西洋(先進国)対日本(後進国)という関係に置くことで、内発性と外発性の矛盾がよりハッキリと表れる。これが論理的な説明だと思う。しかし夏目はそう説明はしないけど…
●近代化一般は、内発と外発が「二つで一つ」で動いて、そこには絶えず「強制力」がある。マルクス唯物史観で言うなら、社会の発展は内発的な力が推し進めるものだけれども、そこには絶えず階級闘争があって「強制力」がある。敗れる側の階級は、絶えず内発的に前進して、「強制力」によって外発的につぶれていく。それらは切り離せない。同じことは西洋(先進国)と後進国との間にも当然あって、西洋の産業構造の、原料の供給地であり市場の提供地が植民地。後進国は植民地化され、日本もそうなっていく。これは「強制力」で外発的。自分で近代化しなければ植民地になってしまう。それがいやなら、自分の力で近代化しなければならない。日本は独立するのか?それとも西洋の属国になるのか?
●26頁・後から3行目:「自己本位の能力が失われた」この表現に注目。この先の課題「わたしの個人主義」でも、すべてが「他者本意」になり、西洋の言いなりになっていく。自分たちの内発性でやっていけない。外発的な力でムリヤリ近代化をするしかない。
●27頁5行目:「我々よりも数十倍労力節約の期間を有する開化」「我々よりも数十娯楽道楽の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備した開化」これは量的な説明であって、低レベル。本当は、日本が近代化しなければ西洋の属国になってしまう、という話。強制力の話であって、日本の近代化・開化は外発的に決まっている。夏目は、なんでそれをハッキリと言わないのか?この程度にとどめているのか?
●14段落。28頁3行目?32頁5行目:内発性の説明。
少し先回りして15段落はじめ:「これだけ説明して置いて現代日本の開化に後戻りしたらたいてい大丈夫でしょう」2回目のセリフ。本筋の話から脱線する箇所をたくさん設けて、次のレベルについてこられるよう、夏目は用意してくれている。そういうところ(14段落)は大事なところ。
●28頁:何とかついてきてよ、もうちょっとの辛抱だから…と言いつつ、間奏曲が長い。「これを意識というのであります」ここで、ヘーゲルを学んでいるわれわれは「内的二分」の話かなって思わなければならない。これこそがノイローゼを生むのだから。しかし、その話は難しいから、夏目はしない。「こんな話をすると、かえって込み入ってむずかしくなるかも知れませんが…」眠りそうになってしまうから、夏目は「起きて!起きて!」と入れるが、もうこの時点で、ほとんどの聴衆が寝ている。なんとか起きて!という必死の作業をしている。「意識はのべつ幕なし動いていく」この夏目の表現にダイナミズムはない。「意識は絶えず分裂しながら、分裂をひとつにしながら進んでいく」これが本当。
●29頁・後から2行目:「集合的意識」から「時代精神」の話へ。
「あなた方という多人数の団体が、今ここで私の講演を聴いておいでになる」。今、ここの聴衆あなたに呼び掛けていく。「ちょっとした話が…」今、ここにいるあなたたちが外発的、その反対が内発的。こうやって、何とか話についてきてもらおうとしている。
●31頁:「日本人総体の集合意識は…日露戦争の意識だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領された時代もあります」ここが、最後に水をぶっかける準備。日露戦争に勝って、日本は浮かれまくっている真っただ中。更に日英同盟まで結ぶことができて、ある種、西洋に肩を並べることができたということで、みんな大喜びの時代。その中でこの話は聴衆に届く話だと思う。
●教育とは、基本的には内発的なものである。成長したいという欲求が、学ぶ者の中にあるから可能になる。しかし、ただ学ぶ者の内発性にまかせているだけの教育はありえない。カリキュラムがある、つまり発展段階に応じて、内発的な発展を前に進めていくための外的な働きかけが行われる、これが教育。外発だからダメ、とはならない。外発的な強制力が本当に内発的な発展を保障しているのか、それを問うのが本当の話なんだと思う。外発的か?内発的か?その「どちらか?」はない。
●15段落。32頁:これを言うのが、この講演の目的。日本の開化が非常に軽薄。今、浮かれているあなたたちの生き方が浅はかでバカ!
●33頁・後から4行目:「ただ西洋人が我々よりも強いから」戦争やったら負けるよ。それやったら植民地にされるよ。こうした強制力の中で日本が近代化していく。対等な関係なんて最初からありえない。上下関係の中で、下っ端は下っ端のやり方で、なんとか押しつぶされないように頑張ろう。これが日本のやっていたこと。
●34頁・8行目:「これは開化じゃない」「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」これが夏目の言いたかったこと。あなたたちは上滑りの生き方をしている。本当にそれでいいのか?
●16段落。35頁:(あとは付け足しに過ぎない)
こうしたら何とかなるんじゃないですか?という人がでてくるかもしれない。「百年の経験を十年で上滑りもせずやり遂げようとするならば年限が十分の一に縮まるだけわが活力は十倍に増さなければならん…」基本的に量的な説明。わかりやすい説明をするときは、量的な説明になる。しかし、内発的・外発的は量的な説明ではつかない。意識の在り方の説明だから。
●17段落。36頁:「既に開化というものが…」ここはまとめに入っていて、開化一般の話。外的な強制力から競争されられることの息苦しさ、これは西洋であろうが日本であろうが、近代化した社会の在り方において必然的な結果である。その上に日本は… と続く。「ああしなさい、こうしなさい、はない」この終わらせ方が夏目。どうしなければならないか?それは、あなたが自分で答えを出しなさい。これが内発性。内発性を尊重するってそういうこと。
●37頁:モーパッサンの小説の引用。夏目がどういう人間かがわかる、心の震える箇所。男性が、ある疑いを女性に持ち、それを口にしたがために、女性は半身不随になるという結果をもたらす。そのことでわかったこと(=真実)を、人間は本当に欲しいのか?真実とはどれくらい厳しいものなのか?あなた方に、今、私が語っている真実の話を聞く覚悟はあるのか?夏目の講演は、聴き手に水をぶっかけるのが目的、その後は、水をぶっかけかけられた聴衆が各自で考えてくれればそれでいい。
●38頁・後から6行目:「神経衰弱にかからない程度において、内発的に変化して行くのがよかろうというような体裁のよいことを言うより外に仕方がない」夏目に「体裁をつくろう気」はない。そんなこと言っても何の意味もないから。「苦い真実を臆面もなく諸君の前にさらけ出して…」これが夏目の目的。夏目の責任はここまで。これから先は一人一人がそれをどう受けとめるか、それぞれの責任。これが夏目の考える「個人主義」。今日の話を踏まえて「わたしの個人主義」を読むと、夏目が立体的にわかるはず。
●ヘーゲルの「発展の立場」から考えたとき、夏目はここでハッキリと「あなたの限界は何か?」ということを示した。ここまでが、他者がやること。限界をどう受け止めて、前に進むためにそれをどう活かすのか?それは一人一人が自分で責任をもってやるべきこと。夏目は、誰も限界に直面していると思っていないので、「あなたたちの限界はここですよ」と、ハッキリと示した。これをどう活かすかは、われわれ一人一人にかかっている。
3. 参加者の読書会感想
〇Aさん:中井さん解説で、読みにくさに意図があることがわかった。ただ、これは語りなので、その相手である聴衆の情報がほとんどないのが残念(調べても出てはこない)。この講演が行われたのが明治44年。まだ「自由」「経済」「方法」「精神」「事実」といった「近代漢語」が生まれて40年程しか経っていない頃だが、そのくらい経てば、特にインテリではない一般人にも通じていることがわかった。おそらく大学生よりも下の「普通の人」が聴いていたのだろう。ほとんどの聴衆が寝ていたのではないか?
〇Cさん:内発の中にも外発があったり、外発の中にも内発があったり、ということをぜんぜん考えられていなかった。
〇Jさん:モーパッサンがすごいと思った。
〇Dさん:日本の歴史的な意識に自分がそのまま染まっていると思う。だからといって、夏目の話を聞いたから壊せるか、と言えば、それは難しいと思った。
〇Hさん:例えば「今日、和歌山に来たのは他でもなく、みなさんに水をぶっかけるため…」というような語り方では、当然聞いてもらえないし、「水ぶっかける」ということ自体が外的なアプローチであるから、自分の言いたいことと矛盾してしまうため、そうした語り方はしないだろう。でも、「韜晦」という煙に巻くような表現の仕方を、自分のスピーチの手法として、夏目は取り入れなければならなかったのか?言いたいことはハッキリ言えばいいのではないのか?煙に巻きながら聴衆を取り込んでいくようなアプローチが、夏目の語り口なのかなと思った。
●「水ぶっかけるため」なんだけれど、それをどういうかたちで最初から最後まで語るか、っていうことは大事。夏目は、「上の人間が下の人間に教えを垂れる」っていう形式をとっていないのだと思う。「偉い人間が下々に向かって真実を教えてあげる」この形式を夏目はわざと壊しているんだと思う。そこに夏目の信念がある。語りがどうでなければならないのか?わたしは夏目を、思想家であり哲学者であると思っている。夏目の哲学はどのように語られなければならないのか?それは、このように語られなければならない。「いやぁーお暑いですね…」「汗かいて、大変ですよ…」この語り口で最後まで行く。これを夏目は適当にやっているのではない。考えて、考えて、考え抜いた上でこの形式を採っている。ここでわたしは、プラトンの対話編のことを考える。アリストテレスの論文形式を敢えて採らない。そのことの意味を考えなければならないと思う。こういうことを考えて実行している人間と、そういうことを問いとして自分の中に持っていない人間との違いは、決定的に大きいと思う。
〇Bさん:「水ぶっかけに来ました」という結論を、結論とは受け取らないで、「神経衰弱にならない程度にやったらいい」という体裁のよいことを言った自分、それを結論ととらえた自分、それが自分なのだと思った。
〇Gさん:「インテリ」と「庶民」という階層間の「ことばの断絶」に、夏目としては強い問題意識があり、「矛盾」と言ったらそれだけで庶民は離れるのがわかっているからこそ、「こんがらがって…」のような表現を敢えて使っているんだ、ということが理解として深まった。それから、内発性の保障。余白を敢えて残す。担保する。わかっているけれども全部正解は言わない。(なぜなら)それをくみ取るのは聴き手だから。それぞれが能力を高めて、その答えにたどり着くための選択と行動をする。そのことを促すのが講演の目的だったのだろう、ということが理解として深まった。
●みんな答えが欲しい。答えを求めている。答えをもらえると安心する。ソクラテス・プラトンは敢えて答えを言わなかった。答えを欲しがっているのがわかるから、与えると安心して寝てしまうのを知っているから、与えない。ここが内発性。内発性がわかっているかどうか。
〇Fさん:わかった気になりやすい。よく整理されているし、バカっぽく演じられてもいるし、笑いもあって、「氷水が欲しがっちゃうのが内発性」のような表現で、わかった気にさせられやすい。東京からお偉い先生が来るっていうのでガチガチになっていた聴衆が、聴いているうちに徐々に心を開いていって、ヒョコッて顔を出したところにアイスピックをガって刺せるのが夏目。深く刺せるっていうのが、内発的にやっていると言えると思った。
●夏目としては、対話をやろうとしている。対話が成立する条件として、お互いに心が開かれている、お互いが心を開いていく。そういう関係性が作れないと何もない。ただ知識を与えられたって、そんなものは1時間もすれば消えてしまう。自分の心の中に何かが起こるかどうか、となると、まず開いて、開いたところで水をぶっかける。
〇Eさん:夏目は厳しい人だなと思った。水をぶっかけた上で、真実を見る覚悟があるのか、と問いかけたり。それから100年後の日本も上滑りしていると感じるのはなぜだろうか?
●それは、依然として上滑りしているから。本質に目を向けようとしていないから。教育とはいったい何なのか考えるときに、もちろん生徒の内発性が中心になければならない。内発性が根底になければならない、このことを疑ったことは一度もない。では、外的な働きかけをどこにどう位置付けるべきか?この問題で、牧野とかなりぶつかることがあって、牧野は外的なものが絶対に必要とする立場。私はできる限り、内発性を根底において進めるべきだという立場。では、中井は今どう考えているか。内発性だけでやれることはない。外発的なものはどうしても必要。内発的なものだけで成長できるのであれば、先生はいらない。放っておけばいいだけ。では、どの段階で、どの局面で、外的なものは必要となるのか?それを理解できるっていうことがポイント。それが「発展」をわかっているということ。※注参照
〇Iさん:自分で読んだときよりも、夏目はこう言いたかったのかということがわかった。モーパッサンの小説で「本当に真実に向き合う覚悟はあるのか?」と問われて、ハッとした。「あなたの限界は何か?」それを知って責任をもって前進することが大切、という中井さんのことばに、自分で読んでみてこんな感想は出てこなかった、読むとはこういうことなのか、と思った。
注
中井の『脱マニュアル小論文』を牧野に贈った際、牧野から「自然発生性に拝跪している」(大衆追従)、「外部注入が必要だ」という批判を受けた。中井は、牧野は逆の「引き回し主義」(大衆への外的押し付け)だと反論した。これはレーニンの「『何をなすべきなのか』にある用語である。この問題についてはその後、繰り返し考えてきた。