3月 25

本論文について 中井浩一

中井ゼミでは、マルクスについては何度も取り上げて検討してきました。資本論の第一巻の通読をしました。その中では第1章の商品論を丁寧に検討し、第5章の労働過程論はドイツ語で詳しく検討しました。第7編の資本の蓄積過程は何度も繰り返し読みました。またマルクスの『経済学批判』の「序説」(特に「経済学の方法」)は繰り返し読んで、ドイツ語でも検討してきました。これらの到達点の一部は、昨年2月に『現代に生きるマルクス』として刊行しています。

安藤雷さんはそれらを踏まえた上で、初版『資本論』第1章への付録、いわゆる「価値形態論」(信山社版、ドイツ語原文と牧野紀之の訳注を収録)を自分で丁寧に読んで検討し、それを大部のメモノートにまとめました。それについて私と安藤さんとで意見交換をしましたが、それを踏まえたうえで、安藤さんが自分の考えをまとめました。それが今回このブログに掲載する論考「交換も人間労働である」安藤雷著です。

マルクスは「価値形態論」で、商品と商品との交換が事実成立することから、その根拠としての商品の価値、またその価値を表現する貨幣の成立をとらえていきます。
安藤さんは、その考察の進め方に、その交換活動そのものもまた労働である(商品である)という側面が抜けていることを指摘します。これはあまりにもシンプルで、根本的な、大きな問題です。それなのに、この問題はこれまで誰からも指摘されてこなかったのではないでしょうか。

どうして、この簡単な欠陥が見逃されてきたのでしょうか。研究者はみな、マルクスが設定した枠組みの中でしか考えられず、その枠組自体を検討することができないからだと思います。
安藤さんは、マルクスの設定した枠組み自体を批判したのです。これは大きな成果であると思います。

この価値形態論についての中井自身の考えは、追って、このブログに掲載したいと思っています。

■ 目次 ■

交換も人間労働である
──マルクスの資本論「価値形態論」における大きな欠陥──  安藤雷

1.はじめに
1?1.附録について
1?2.価値形態論について
1?3.価値形態論の方法・前提の確認
2.価値形態論の欠陥
2?1.形式面:必然性の欠如
2?2.内容面:交換の軽視ないし無視

========================================

◇◆  交換も人間労働である
──マルクスの資本論「価値形態論」における大きな欠陥──  安藤雷  ◆◇

1.はじめに
本稿は、マルクスの資本論初版第一章への附録「価値形態論」を主たる検討対象にして、まとめたものである。

1?1.附録について
マルクスの資本論は「商品論」から始まる。第一編が「商品と貨幣」で、その第一章が「商品」となっている。商品から貨幣を導出し、貨幣から資本を導出し、資本の中に剰余価値のを見るのが資本論である。「商品論」において商品から貨幣を導出する部分が「価値形態論」(Wertform)である。
これは初版では本文だけではなく附録(Anhang zu Kapitel?, 1.)の形でもまとめられている。本文の価値形態論は分かりにくいから補遺が必要だという友人クーゲルマンのアドバイスに従ったものである。価値形態論と附録について、初版の序文では「それまでの叙述よりも弁証法がはるかに鋭くなっているので、それは難解である。・・・(中略)・・・そこでは、事柄を、その科学的な理解が許す限りできるだけ単純に、また学校教師風にさえ叙述するよう努めている。」と書かれている。
他方、エンゲルスは価値形態論を補遺の形でまとめ直す必要はないとしていたが、これに対して、マルクスは1867年6月22日にエンゲルスに宛てた手紙で付録の必要性について次のように書いている。
「相手にするのは俗人ばかりではなく、知識欲のある青年などもいる。その上、事柄はこの本の全体にとってあまりにも決定的だ。経済学者諸君は、これまで次のような極めて単純なことさえも見落としてきた。すなわち、“20エレのリンネル=1着の上着”という形態は“20エレのリンネル=2ポンド・スターリング”の未展開な基礎に他ならないということ、したがって、商品の価値がまだ他のすべての商品に対する関係としてではなく、ただその商品自身の自然形態から区別されたものとして表現されているにすぎない最も単純な商品形態が、貨幣形態の全秘密を、したがってまた、つづめて言えば、労働生産物のすべてのブルジョア的形態の全秘密を含んでいる、ということだ。」(下線は筆者が引いた)
マルクスとしては、どうしても価値形態論を広く理解してもらいたいと考えていたということである。さらに、そのために付録では§とかa) b) c)とかα) β) γ)といった記号を使い、見出しを付け、規定の移行が一目でわかるような工夫もしている。

1?2.価値形態論について
マルクスは価値形態を全部で4つの式から構成している。アルファベットは商品である。なお、ややこしくなるため、ここでは量的規定は抜いてある。
?式 単純な価値形式 商品A=商品B
?式 全体的または展開された価値形式 A=B,C,D,E,・・・
?式 普遍的な価値形式 B,C,D,E,・・・=A
?式 貨幣形式 A,B,C,D,E,・・・=貨幣(〇〇円、〇〇ドル等)
先に引用したエンゲルスへの手紙にあるように、最も単純な商品形態が?式であり、ここにはすべてが含まれていて、資本論全体にとって決定的なものであるとマルクスは考えている。そして、?式から?式まで展開されて、貨幣が導出される。この展開において、マルクスは?式から?式の「逆転」、その際に起こるA以外のすべての商品が?式において「排除」されることを、最も難しいとしている。
「貨幣形式を理解する上での困難は等価物の一般的な形式の理解に絞られ、したがって価値の一般的な形式つまり第?形式の理解に絞られるのである。」(附録の最終節 「商品という在り方の単純な形式は貨幣形式の秘密である」より)

1?3.価値形態論の方法・前提の確認
実際のマルクスの方法としては、大きく言って以下の???の前提に立って展開させており、その結果として?の展開になっている。
? 左辺を価値表現・価値形式における相対的価値形式、右辺を等価物形式と呼び、両者は対極にある。左右が入れ替わると、形式が真反対となり、まったくの別物になる。
? ある商品は相対的価値形式と等価物形式の両方の形式を同時に取ることはできない。
? 相対的価値形式の位置にある商品は、自らの価値を表現するためには、等価物形式を取る商品、自らとは異なる別の商品を必ず必要とする。
? 等価物形式を取る商品は何でも良いのだが、人間の抽象的労働力の支出の結果として生み出された労働生産物でなければならない。
? その理由は、価値の実体は人間の抽象的労働力の支出だから。
? アリストテレスが価値概念を理解できなかったのは、奴隷制社会に生きた影響から価値の実体が人間労働であることを理解できなかったから。
? Verkehr(注1)の内部においてのみ、労働生産物は価値・商品という性質を持つ。
? 等価物形式を取る商品として、?式では任意の1つが選ばれる。?式ではA以外の全商品が選ばれる。?式ではそれが逆転して、逆に、他の全商品から排除されたAだけが選ばれる。?式ではAとして金が社会的慣習や社会的過程(注2)によって選ばれて、貨幣形式に到達する。

2.価値形態論の欠陥
価値形態論はA=Bを展開させたものである。この最も単純なものが貨幣になり、資本になり、全世界を覆い尽くすという発想のスケールはあまりに大きく、一元論の行き着く最大規模のものと言えると思う。実に画期的なものである。この始まりの部分に力を込める点にマルクスのマルクスたる所以があるだろう。
しかし、この始まりの部分に大きな欠陥があることもまた確認することができる。それは、商品Aと商品Bをつなぐ交換行為に焦点が当たっていないということだ。交換行為も労働のはずだが、それが押さえられていないのである。交換行為とは分業と言い換えても良く、社会的分業にまで至った際のその意義の大きさはマルクス自身が認めているものなので、マルクスにとっても決して軽い問題とは言えない。
この欠陥は形式・内容の両面で問題を引き起こす。何より、始まりにおける重大な欠陥である以上、資本論全体に影を落とすことになるだろう。

2?1.形式面:必然性の欠如
三つ目の項目である交換が捨象されることから、二項関係のみで展開されることになる。これが形式面での最大の問題であり、必然的な展開にできなくなってしまう。まず、二項関係だけでは商品から貨幣を必然的な形で導出できず、実際に「逆転」「排除」という方法を使っている(注3)。この導出方法では貨幣・資本が「疎外態」となり、断罪されることになる(注4)。
次に、何かある概念を導出する際にも、必然的展開ではなく、唐突に出すか、定義・前提の形で断定的な出し方をしている。例えば、価値の実体が人間の労働力の支出であることや、使用価値と交換価値と価値の関係のところなどが、重要な部分にも関わらず該当する(注5)。
そして、何より、「止揚」(aufheben)や「全体性」(Totalität)という方法を取ることができていないために必然的展開にならない、とも言い換えられる。「止揚」「全体性」といった捉え方であれば、必ず事物の意義と限界の双方を捉えることになる。しかし、「疎外態」として捉えると一面的な理解になりやすく、特に意義の理解が飛びがちになる。
本来なら、商品Aと商品Bを媒介する交換行為の中にすべてが含まれていると捉え、交換行為の意義と限界を見ながら貨幣を導出・展開するのが必然的な形式だろう。Aを生み出す労働、Bを生み出す労働、交換行為という労働の3つの労働の媒介関係として捉えるべきところ、交換行為を労働として捉える意識が弱く、むしろ悪として断罪する意識が強いために、AとBしか見えなくなっている。何かを無視・全否定する態度から必然性を出すのは難しい。マルクス自身が資本論第二版への後記に「弁証法は、・・・(中略)・・・現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、一切の生成した形態を運動の流れの中で捉え、したがってまたその過ぎ去る面から捉え、何物にも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的である」(下線は筆者が引いた)と記しているように。

2?2.内容面:交換の軽視ないし無視
以上の形式面の問題は、内容にも影響を与える。それは3つある。
第一に、貨幣が疎外態になってしまう。マルクスの「経済学批判」のうち、「序説」は出版されていないが、その中の「経済学の方法」では、資本にすべてが含まれており(止揚されており)、経済学について叙述する際には資本から始められるべきと結論付けられている。そして、その資本を直接的に生み出すものが貨幣である以上、その貨幣にもすべてが含まれている。だが、マルクスの価値形態論では、貨幣は他のすべての商品から排除・除外されたものに過ぎず、「疎外態」になってしまっている。貨幣は商品を止揚したものとしている以上、そこには分業・交換や労働や価値の在り方も含まれている。本当ならさらに「発展」「展開」させ「止揚」される対象のはずである。マルクス自身も最も単純な商品形態の中に貨幣の秘密があると言っており、本来のマルクスもこの考え方に立つはずである。しかし、疎外態という理解になってしまうと、除去対象にまで引き下げられることになる。
第二に、商業・サービス業・経営といった営みの重さが捉えられず、その結果として剰余価値の導出が軽薄なものになっている。
例えば交換行為に勤しむ商人のことを「寄生虫」として扱っている(資本論第四章[国民文庫288頁])。資本家の経営努力も、恐らく文章としては言及が一切ない。形式面の問題で確認した、「意義」の理解がおざなりになってしまう問題がこのように現れている。
交換行為の重さを捉えられないことで、マルクスにとって決定的なまでに重要な剰余価値の導出がいい加減で軽薄なものになっている。そもそもマルクスは商品→貨幣→商品の交換行為について「この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない」(資本論第四章[国民文庫277頁])と述べており、交換行為を労働と見ていない。このため、形態変換の中で発生する剰余価値を賃労働者からの労働力の搾取としか捉えられない。そして、「我々の資本家はハッとする。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでおらず、したがって、貨幣は資本に転化してはいない」(資本論第五章[国民文庫333頁])と書き、「我々の資本家には彼を嬉しがらせるこのような事情は前から分かっていたのである。・・・手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである」(資本論第五章339頁)と進める。
剰余価値の発生は「手品」で済ませるものではないだろう。剰余価値は交換過程において生まれるが、この軽薄な捉え方では、交換過程を真に捉えることは難しいだろう。剰余価値の発生というマルクスの問題提起は大きなものだが、これではその大きさが矮小化されてしまうのではないか。
第三に、論理と歴史の矛盾である。マルクスは商品が価値になるのはVerkehrの内部においてのみだと言う。だが、このVerkehrについては、「価値形態論」ではなく第2章の「交換過程」で言及される。また、等価物形式を取る商品が1つだけに絞られるのは社会的過程の結果とされているが、それも「価値形態論」ではなく「交換過程」で言及される。
マルクスは「経済学批判」の未出版部分の「経済学の方法」において、上向法と下降法、歴史と論理といった方法論の枠組みを出しているが、「価値形態論」が論理に、「交換過程」が歴史に該当するのだろう(注6)。「交換過程」では「経済学の方法」と同じく、共同体の縁・際で交換が始まり、そこから貨幣が生まれていくとしている(注7)。共同体間をつなぐ交換活動は文字通り命懸けの行為だったはずだが、歴史におけるその重さと、貨幣導出の論理がつながっていないように思う。歴史と論理を分けるという方法自体の是非は置いておくにしても、共同体と貨幣の歴史と論理が有機的に結合した議論になっておらず、このように分離・独立した状態では、歴史の豊かさを取り上げきれないのではないか。

【注】
1.牧野紀之によると「ドイツ・イデオロギー」では生産関係という概念の未熟なものして使われていた単語で、社会、関係、交換といったような意味。牧野は「交通」という訳語を当てている。筆者の理解ではA=Bという交換行為が成立している状態を示す言葉。
2.社会的過程の詳細は「価値形態論」では言及されず、第2章「交換過程」で扱われる。
3.その他にも、商品の「完全枚挙・数え上げ」や等式の両極の対立の「度合い」とその「固定化」で、必然性を事実上語るなどしている。
4.中井浩一『現代に生きるマルクス』でフォイエルバッハの「疎外」の立場がいかにマルクスに決定的影響を与えているかが示されている。
5.この点は内容にも大きな影響を与えているはずだが今の段階では明確に指摘できない。
6.中井浩一氏による中井ゼミでの指導による。
7.余談だが、「経済学の方法」における共同体と貨幣の関係(崩壊しつつある共同体でこそ貨幣経済が発達する、傭兵には貨幣で賃金が支払われる等)や富の源泉の発展(金属から主体性・人間労働に移行していった)についての描写は抜群に面白かった。歴史に言及している箇所でのこの面白さとマルクスの論理はどうつながっているのか。つながっていないのではないか。

2023年3月12日

2月 20

◇◆ 17 再生医療の矛盾と倫理 ◆◇ 

再生医療は困難を極めるのだが、それはなぜなのだろうか。
動物の細胞には、培養下において、全ての組織に分化し得る能力を持つ細胞(万能細胞)が存在する。しかし、これらの細胞を適切な条件で培養しても、秩序だった組織は形成されず、細胞の塊ができるだけである。それはなぜなのだろうか。
また、臓器移植では、ドナーに由来する臓器を移植する際に、拒絶反応が起こる。人体は自分と他者を厳密に区別するのだ。こうした「拒絶反応」は再生医療への大きな障害であり、再生医療とは「拒絶反応」との戦いである。
しかし、そもそも「拒絶反応」はなぜ起こるのだろうか。「拒絶反応」をただの障害、邪魔者と考えることを止め、私たちは逆に、なぜ「拒絶反応」は起こるのか、万能細胞はなぜ組織にならないのか、その意味を深く、深く理解する必要があるのではないか。私たちが何者であるかを理解するためである。

再生医療の問題を考えるには、生物の進化の過程を考える必要があると思う。私たちの地球の歴史である。
地球は物質で構成されていたのだが、ある段階で生命が生まれた。生命にはその「中心」、つまり「目的」が明確な形で現れて来る。それは自己保存、自己保持である。つまり「生きる」こと、「生き続ける」ことである。
生命は単細胞から始まった。そして単細胞が集まって多細胞の生物が生まれる。細胞が全体の中に組織され、より機能分化が進んだ生物が生まれる。すべては目的を果たすためだが、この進化の過程で個々の細胞の自立性は失われていく。生物の目的、生きるために、その部分は全体の要素としての機能を果たすようになる。目的のためのものでしかなくなる。
こうした生物の進化の最初の段階は植物である。植物では基本的には組織切片から全体を再生することができる。挿し木を思えばよくわかることだ。これは自らの成長過程を、元に戻して再生できるということだが、それは原始的な機能を持っているから可能なのである。
しかし、動物が生まれ、さらに人間が生まれてくる過程で、こうした再生機能は失われていく。動物では、受精卵以外の組織はこうした能力を持たない。トカゲのしっぽ切りが有名だが、それはしっぽだけの再生であって、自分の丸ごとの再生はない。
物質から生命が生まれ、植物から動物、人間が生まれるまでの過程は、後者は前者の低さを克服(止揚)していく過程であり、よりよい機能分化、機能の高度化の過程である。その過程では、原始的な生物の持っていた機能(例えば再生機能)は失われてきた。進化の過程は高度化をめざすバトンリレーであり、そこでは何かを犠牲にして、高度化が進んできたのであり、それをもとにもどすことはできない。
しかし、ではその進化の目的とは何なのか。なぜ進化が起こり、機能分化が進み、高度化が進むのだろうか。なぜ人間は生まれたのだろうか。人間は他の動物と同じく、ただ生きるために、生き続けるために存在しているのだろうか。人間とは何なのか。
ここで人間の使命、進化の意味が問われる。これにどうこたえるかで、再生医療への評価はまるで違うものになる。
地球から生命、植物、動物、人間と生まれてきた。この地球の進化の最先端にある人間は、ついに自己意識(「自分とは何か」)を持ち、思考の能力を形成し、認識ができるようになった。
その目的は、自然界の進化・発展の意味を理解し、その全過程を完成させることである。その全過程に対して責任を持ち、その完成を実現するのが人間の使命なのではないか。
したがって、人間がその使命をはたさないで、人間だけの幸せを考えることは許されないのではないか。

 ここでヘーゲルの力を借りたい。彼の『精神哲学』は精神(人間)が地球からどのように進化してきたか、その進化の意味と、人間の使命を説明する。その『精神哲学』から生物の発生と、植物から動物までの進化の過程の説明部分を引用する。

———————————————————–
生物(植物)
 〔ここまでは物質について触れてきたが、物質の最後に言及した「中心」がより明確に現れるのが生命を持つものである〕。生物においては、生命を持たないものを支配している必然性より、もちろんより高い必然性 が現れる。すでに植物にあっては、その〔個体内において〕中心が周辺(葉脈や神経など)に注がれ、〔逆に〕諸区別は中心に集中されている。〔他方で、その成長発展の過程でも〕内から外に向けての自己展開が起こり、自己自身を区別し、そうした諸区別からつぼみができ〔次の種子ができる〕ということで、自己を一つの統一した植物として次々と外に現わしていく 。これは植物の「衝動」 といっても良いだろう。
しかしこの統一性〔生命のサイクル〕は不完全なものにとどまる。なぜなら植物が分肢していく過程は植物の主体が自己を外化するものであるが、その各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである。

動物全般
こうした外的自立性の克服 について、植物よりもさらに歩みを進めた のが動物の有機体である。動物にあっては各分肢は他の分肢を生み出し、すなわち各分肢は他の分肢の原因であり結果であり、手段と目的であり、従って自分自身であると同時に自己の他者 である。〔しかし、これだけなら植物と同じである。ところが動物は〕それだけではなく、その全体 が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕。
———————————————————–
以上は『精神哲学』第381節(岩波文庫では第5節)。訳文、小見出しは中井。

「植物の各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである」。
挿し木が、この具体例である。葉や枝から全体が再生する。ここでの論理がクローン技術、再生医療の論理である。
動物は「全体が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕」。
私がここで考えたのは人間の再生医療、「臓器移植」などがなぜ難しいかの根拠である。植物の段階では各部分は相互外在的であり自立性が高く、相互に入れ替えが可能で、全体の再生も可能だった。全体の契機になっている程度が低いのだ。動物、ましてや人間は、各部分の自立性は低く、相互の入れ替えや全体の再生は不可能で、他の動物(人間)との入れ替えもムズカシイのだ。それは部分が全体の契機になっている程度が高いと言える。
そして人間に到っては、個々の個体が自己を完成させ、他者との間に絶対的区別を持つ。それが自己意識を生み、個性がそこに確立する。それは自分が自分以外の何者でもないこと、自分は自分という一回性の生を生きるものであることを意味するのではないか。そしてこの個体性が各人の自立性の根拠であり、各人の思想の独立性へと発展していくのである。
同時にまたそれが「拒絶反応」を引き起こすのである。人間が自分以外のものを拒否する機能は、人間が自己意識を持った証であり、地球の進化の最先端にあることの証でもあるのではないか。

人間の尊厳性とは何を意味し、何を根拠とするのだろうか。
それは、人間が自然の進化の過程の最先端にあることであり、人間を生んだ目的であり、人間の使命である。この地球の全自然過程を完成させること、それが人間が人間であるという意味なのであり、ヘーゲルはそれを人間の概念と呼んだ。
そうであるならば、人間が自らの概念を実現する努力をし続けている限り、物質から人間が生まれるまでの過程は、基本的には正しかったことになる。
ところが、再生医療とは、この進化の過程に抗い、それをもとに戻す試みなのである。人間をまた植物レベルへと戻すこと、退行させることなのである。
私はそれは基本的に間違いであり、絶対的には無理があるのだと思う。私たちは植物レベルに戻らないし、戻れないのではないか。
私たちは自分の使命に責任を持つべきであり、自分を生み出した進歩、進化の過程に責任を持つべきではないか。それが再生医療における「倫理」、クローン技術、遺伝子操作における「倫理」なのではないか。
もちろん、人間の使命、その概念の正しさは、私たちが何をするかで決まることである。私たちはどちらを選択するのか。概念の実現を自らの目標としその使命を全うするのか、できずに終わるのか。それこそが私たちの最後の倫理であり、正しさの基準なのだ。

2023年1月31日

2月 19

◇◆ 16 「iPS細胞」の姑息 ◆◇ 

京都大学の山中伸弥は「iPS細胞」の研究・開発によって2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
iPS細胞の目的は再生医療の実現にある。拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されているのだ。

再生医療の研究は数十年前にさかのぼる。
1981年には、マウスの胚盤胞から「ES細胞」を作ることに成功した。 ES細胞は受精卵が胎児になるプロセスで、分裂が始まった後の胚盤胞の中にある細胞を取り出して培養されたもの。あらゆる組織の細胞に分化することができる多能性幹細胞である。
 その17年後、1998年に「ヒトES細胞」を作ることに成功した。ヒトES細胞を使い、人間のあらゆる組織や臓器の細胞を作り出すことにより、再生医療が可能になると期待がふくらんだ。
しかしES細胞の技術をヒトに適応するには問題が多い。受精卵(胚)の採取が母体に危険を及ぼすこと。ヒトになる可能性を持つ胚を壊すことは、ヒトを救うためにヒトを殺すことであるから倫理的な問題が伴う。そのためにその作製や実験等には厳しい制約を課す国も多い。
また、患者本人のES細胞を作ることは技術的に難しく、他人のES細胞から作った組織や臓器の細胞を移植した場合、拒絶反応が起こるという問題がある。
 そのため、胚からではなく、皮膚や血液など、比較的安全に採取でき、かつ再生が可能な組織からの分化万能性をもった細胞の発見が期待されていた。
そこに山中のグループが2006年にマウスの、2007年に人間の皮膚細胞からiPS細胞の樹立に成功したのだ。
「iPS細胞」の技術とは、皮膚などの細胞に遺伝子操作を加えることで「ES細胞」のような幹細胞を作ることである。これなら受精卵のようなレベルの倫理的な問題はない。
また、再生医療への応用のみならず、治療薬の候補物質を探る「創薬」の可能性が期待されているのだ。患者自身の細胞からiPS細胞を作り出すことで、今まで治療法のなかった難病に対して、その病因・発症メカニズムを研究したり、薬剤の効果・毒性を評価することが可能となるからである。
もちろんいいことだけではない。iPS細胞は遺伝子操作によって生み出すために、その安全性(ガン化のリスクなど)の課題が指摘されている。つまりリスクにおいては完璧なものではないのだ。
以上については、「ウィキペディア(Wikipedia)」、京都大学 iPS細胞研究所のホームページ、「再生医療ナビ」を参考にした。

さて、私はこうした経緯を知ったことで愕然とした。「夢の IPS 細胞」と謳われているが、これほど姑息でペテンに近い技術だったのか、という驚きである。とても情けなく、うら悲しい気持ちになった。
それは要するに、「倫理問題」を消したのだ。それが目的だったのだ。
問題を本当に解決するのではない。これは問題をなくしてしまうという解決法であり、問題を考えなくて良いとしただけなのだ。問題はあるし、残されている。それをそのままにして、問題を見ないで済むようにしたのだ。
本来は、この真逆の方向に進むべきではないか。
倫理問題や、再生医療の問題、クローン技術の問題、遺伝子操作の是非など、大きな問題は、本来は、徹底的に深め、矛盾を深化させて考えていかなければならない。ところがここではなんと軽く、浅く、問題を素通りしたことだろうか。
「母体への危険」とか「ヒトになる可能性を持つ胚を壊す」とかといった、現象的で表面的で感情的なレベルにとどまり、再生医療や遺伝子操作が持つ本質的な問題をとらえようとしない。そこに現れる「拒絶反応」も、ただ再生医療の障害としてしかとらえられていない。問題は「消す」。なくなったことにしてしまえばよいのだ。なかったことにしてしまえばよいのだ。
クローン技術や遺伝子操作、再生医療はどこまで許されるのか。その根拠は何か。人間の尊厳とは何か、生きるとはどういうことか。
これらの問いに、山中や山中にノーベル賞を与えた責任者たち、iPS細胞の追従者たちは自分の答えを出すべきであり、私たちも自らの答えを出さなければならないのではないか。

                 2023年1月30日

2月 18

◇◆ 15 ジョブズと『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ) ◆◇ 

昨年11月に、NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」シリーズで「世界を変えた“愚か者”フラーとジョブズ」が放送された。
それをたまたま見ていて、そこに『Whole Earth Catalog』(『全地球カタログ』)が出てきて驚いた。あのジョブズが、「反文化」の運動の真っただ中から生まれていたのだ。知らなかった。
 番組の宣伝では以下のようになっている。
「宇宙船地球号」という概念を唱え、人類と地球との調和を説いた思想家バックミンスター・フラー。「現代のレオナルド・ダビンチ」とも「狂人」とも称されたフラーの思想は、無数の若者たちを突き動かす。その中に、若き日のスティーブ・ジョブズがいた。フラーの思想は、時空を超え、ジョブズに受け継がれ、世界を変えていく。そして生まれた伝説のスピーチ。常識に抗い続けた、ふたりの「愚か者」が起こした奇跡の物語である。

私はすでに「反文化」と『全地球カタログ』については、10「『反文化(カウンター・カルチャー)』運動の3人」と11「『カタログ』文化」で簡単に述べている。20代の私は大きな影響を受けた。しかし、その限界にもぶつかり、その後30代からはヘーゲルとマルクスを学んできた。
この番組の私にとっての意味は、あのジョブズもまた「反文化」の運動の真っただ中から生まれていた、ということを知ったことだ。調べてみると彼が生まれたのは1955年、私が1年早い。つまり同世代である。同じ時代の空気の中で生きた「仲間」だった。
さて、改めてこの番組で知ったこと、確認したことは以下のようなことだ。
『全地球カタログ』は60年代から70年代の反文化の運動、ヒッピーたちのバイブルだった。これは商品のカタログなのだが、本や思想、その思想の実践のための様々な道具が紹介され、現代文明批判とそれに代わる生き方の指南書だった。
『全地球カタログ』は1968年に創刊され、年2回の刊行。数百ページ。この創刊号にはバックミンスター・フラーが紹介されている。「宇宙船地球号」の提唱者である。『全地球カタログ』のネーミングにもフラーの「宇宙船地球号」の影響があるだろう。このカタログの熱烈な支持者の中に若き日のジョブズもいた。
『全地球カタログ』は一時は250万部が販売されたが、70年代半ばにはその終刊号が出た。その裏扉には「ハングリーであれ、愚かであれ」が書かれた。ラストメッセージである。
終刊号を出した後、残された2万ドルの収益金をどうするかが問題になった。結局、若者たちが次の世界を創るための資金とされ、それによって教育プログラムやプロジェクトが用意された。ジョブズはその一つに参加しコンピューターのプログラミングを学んだ。それがジョブズがジョブズになる始まりの一歩になった。
その後のジョブズ物語は有名であり、私でも知っている。ジョブズは友人とアップル社を立ち上げCEOを務めたが、1985年には失脚しAppleを去った。11年後の1996年、業績不振に陥っていたAppleに復帰し、2000年CEOに就任。完全復活である。
彼の業績としてはApple ? ?、iPod、iPhoneおよびiPadなどを世に送り出したことが挙げられる。科学技術のイノベーターであり、すぐれた工業デザイナーであり、起業家であり、経営者である。Apple??が世に出た当時、コンピュータとは巨大政治機構、軍事機構、大企業の独占物だった。それを、すべての民衆のものへと解放した。ITによって人々の生活と文化に革命を起こしたと評される。
他方で、人を人とも思わない傲慢な態度、会社内での独断専行が問題にされる。番組でも取り上げられていた。
その彼が死を前にして2005年にスタンフオード大学の卒業式に呼ばれ、祝辞を述べた。その中に、自分が大きな影響を受けたものとして『全地球カタログ』を挙げ、周囲に流されず、自分の信ずる道を行くように励まし、最後にその終刊号にあった「ハングリーであれ、愚かであれ」を贈る言葉とした。

ではこの番組で私は何を考えたか。
ジョブズは現代の「英雄」であろう。コンピュータをすべての民衆に解放した。彼のスマホはSNS社会を創った。マルクス流に言えば、下部構造の決定的な変革を推し進めた。反文化の中から彼が生まれたことには大きな感慨がある。
しかし、反文化は、どこまで彼の思想や生き方に影響していたのだろうか。調べると、若き日の彼が反文化の価値観の中で生きていた証しはたくさんある。LSD、仏教、ベジタリアン、風呂に入らない、いつも裸足かサンダル履き、等々。その影響は後年まで続いたようだ。例えば、癌で亡くなる際にも、最初は西洋医学を拒否し、東洋医学や民間療法に頼ろうとした。しかしそうした影響は、どこまで彼の世界観や人間観の根底にせまっていたのだろうか。彼がイノベーターであり、デザイナーであり、起業家であり、経営者であることに、どう関係していたのだろうか。
もちろん、コンピュータをすべての民衆のものへと解放したことは大きい。しかし、その民衆たち自身が抱えている諸問題には、どれほどの自覚を持っていたのだろうか。SNS社会は肯定面だけではなく、不信、疑心暗鬼の不安に満ち満ちた世界を生んだのではないか。民衆の間の断絶と軋みを深めたのではないか。
学生たちに贈った言葉「ハングリーであれ、愚かであれ」は、死を前にしたジョブズの言葉としては、あまりにも表面的で軽い言葉ではないか。そこからは、彼の人間認識、世界認識をうかがうことはできない。
私の強い違和感は、そこには「批判」がないということである。『全地球カタログ』や反文化への賛辞だけで、その不十分さ、未熟さへの反省の言葉がない。
そこには自らの若き日々への反省がない。自分の若き日をどう反省するか、その時に受けた影響をどう総括するか。それが示されないで、思い出の垂れ流しがされている。
本来は、「反文化」の運動を総括し、スナイダーの「四易」について、生態学と仏教について、資本主義や社会主義についてのジョブズ自身の立場を示すべきではなかったか。そうした批判の姿勢を示すことこそが、卒業する学生たちへの祝辞にふさわしいのではないか。
私には「反文化」への批判がある。それはすでに述べたことだが、ここで再度出しておく。
「『反文化』の運動の限界とは『疎外』『根源』の理解の不十分さ、つまりそこには発展についての深い理解がなかった」
「(カタログ文化の)あり方は、現在のネット文化の中での知識や技術の扱われ方の先駆けだったのだ、と今思う。これは「学問」や「教養」といった権威や階層性、その意識のこわばりを徹底的に解体しようとするもので、そこに覚悟と清々しさがあるのだが、人類の歴史、技術史、科学史、哲学史を踏まえた全体性や体系性を持たないという決定的な弱さをも持っている」。
こうした私の批判は、そのままジョブズに当てはまる。否、その問題が一層拡大された姿で現れていると思った。
彼はITによって人々の生活と文化に革命を起こしたが、その結果の現在と未来について、何が課題で、どう解決できるか。それを真剣に考えていただろうか。そこでの自らの責任についてどう考えていたのだろうか。
多くの人がジョブズの、人を人と思わないような傲慢さについて述べているが、彼には人間の悪の面、弱さの面に十分な自覚がないように思われる。それは自分に対してだけではない。自らが開発したITの問題点についてであり、人間の未来の文明文化の在り方についてである。
最後に、この番組についても述べておく。この番組がジョブズの原点である反文化を紹介したことには意味がある。
しかしそのひどさも言わなければならない。そこに批判精神がないことである。フラーやジョブズに対して手放しの賛辞しかない。ジョブズの傲慢さの指摘は出て来るが、ジョブズへの根本的な批判がゼロである。つまりジョブズと彼が変えた世界を深く認識しようという意志と覚悟がない。この番組には、反文化や『全地球カタログ』をどう評価するかという立場もない。無責任極まるものである。
そして実はそこに、ジョブズ自身の姿が重なるのである。そもそもジョブズ自身にそれがなかったのではないか。

2023年1月30日

2月 17

◇◆ 14 ヘンデルのメサイア ◆◇ 

ヘンデルのメサイアに親しむことになった。自宅の近くに女子大があり、そこで毎年12月になるとメサイアを上演しており、そこで聞くことが重なっている。毎回感動する。素晴らしいと思う。ある箇所では毎回泣いてしまう。しかし、今回言いたいのは音楽のすばらしさについてではない。
 初めて聞いた時に、テキスト(歌詞)をざっとながめて驚いた。そのことを話したい。なぜ驚いたか。イエス・キリスト〔イエスはキリスト(メシア=救世主)である〕を讃える楽曲であるから、バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲のように、新約聖書からの引用で埋められていることを想像していたのだが全く違ったからだ。
 テキストの多くが新約聖書ではなく旧約聖書からの引用で埋められていた。特にイザヤ書であり、それはユダヤ民族のバビロン捕囚の奴隷状態からの救いをメシアの出現に求める内容であった。それを説明する本がいくつか刊行されている。
家田足穂著『メサイア テキストと音楽の研究』を読むと、教父アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えがキリスト教の基本にあるようだ。この考えは、旧約時代の古い契約としての予言はメシアの新しい契約によって成就され、予言が成就されることで旧約聖書と新約聖書が一致するという思想になった。
これがメサイアの歌詞台本のもとになっている。ここから旧約聖書の予言書や詩編の言葉を用いて「メシアの救いのわざ」やその「救いの完成」がうたわれるのだ。
これを読んで、アウグスティヌスの構想の壮大さにうたれる。これは発展という考え方の見事な例示である。すごいものだ。

さて、以下は、あくまでも私の想像であり、妄想である。しかし、妄想にも真実、真理の一片があると、私は考えている。
随分前になるが、中井ゼミの読書会で旧約聖書と新約聖書を読んだ。そこでイザヤ書の役割の大きさも理解していた。私は旧約聖書からは創世記やモーゼの物語は知っていたが、その後のユダ王国の崩壊と、バビロン捕囚による奴隷状態、そこからの再度の解放を求めたこと、それがイザヤ書の内容となっていたことなどは知らなかった。
そしてその学習の中でエジプトから奴隷状態のユダヤ人を解放したモーゼと、「バビロン捕囚」においてその奴隷状態からの解放を説いたイザヤが、ともにユダヤの民衆たちの怒りや恨みによって殺されたという説があることを知った。モーゼの墓はどこにも残されていない。解放を説くモーゼはユダヤ民族に自らの神への絶対的信仰を求め、神との契約、立法を打ち立て、その厳守を求めた。奴隷状態からの解放の過程でも辛酸をなめた民衆からは、奴隷のままの方が良かったと言う声も上がっただろう。イザヤも同じであろう。
2人は殺されたという説が正しいかどうかは別にして、そこには民衆とリーダーの関係の問題がよく現れていると思った。
受難はイエスだけではなく、何度も繰り返されてきたということになる。そして受難とは外の敵からではなく、むしろユダヤ民族という内なる敵、民衆の中に受難を生む要因はあった。イエスを裏切るユダはその象徴ではないだろうか。私は、古代ギリシャにおいてソクラテスが民衆によって死罪になった裁判も思い出す。
 そうした悲劇の中からイエス・キリストが出現している。メシアの出現の背景にはそうした人間の闇、弱さ、悪がある。だからこそ、メサイアは美しく、圧倒的な感動を私に与える。
アウグスティヌスの「旧約聖書の中に新約聖書が隠されており、新約聖書の中で旧約聖書は顕かにされる」という考えは、こうした問題のただ中から理解されるべきだと私は考える。

2023年1月20日