8月 30

言語をその起源から考える  中井浩一 その2

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが昨日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは本日30日に掲載。

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三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
さて、判断がある程度、一般的に行われるようになると、 
判断(文)そのものが意識される段階になる。
これが観念世界が観念世界として対象になる段階。メタ言語の始まりである。

なお、これが具体的には二においてのどの段階かは、実証的に調査されるべきだろう。
私は二の(7)の段階だと推測している。
二の(8)で述語部が述語部として意識されるのは、三の(1)を経た、三の(2)の段階だと考えられる。

さて、この文そのものが意識された時に、デハナイの形が現れる。

まず「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識される

それ以前に以下のようなことがありうることはわかっている段階だ。
(これらが「含み」になっていることに注意!)
Aは白い
Aは黄色い
Aは青い

「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識されるとは、
「Aは赤い(赤である)」ハ と意識され、
この判断(文)が疑われ、問われる場合であり、
その中に、
「Aは赤である」ハ ナイ、
つまり「Aは赤デハナイ」
は内在化されている。   
ここに「問う」ということが明確に意識され、
同時に肯定と否定そのものが強く意識される。
つまり、「Aは赤デハナイ」が意識されている

それは
Aを対象として意識した最初の段階が繰り返されることになる。

Aとは何か。

Aは白い
Aは黄色い
Aは青い
以下続く
を検証していくことになる。(これが今後の「含み」となる)

そして、その作業の果てに
(それらを含みとし、「Aは赤デハナイ」が前提として意識され続ける中で)、
結局は
やはり「赤だった」となる場合もある。

それが
「Aは赤デハアル」である(だからこの例は少ない。しかし、それだけの含みを持つ)
それは
「Aは赤デハナイ」が対象化され、それが問われた結果、否定された場合に現れる。

二の(6)で潜在的に現れた存在と無、肯定と否定の理解は、ここで顕在化する。はっきりと意識される。

以上が文から文が生まれる過程だ。1文が分裂して2文が生まれる過程である。
「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…(以下続く)」が
分裂したと考えられる。そして「Aは赤デハアル」は、そうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものと
考えられる。それが「含み」ということだ。

(2)述語部の「対比」「比較」
この段階で、
赤でハナイ、では何か。白でアル。
という形が現れ、それが「対比」「比較」の始まりである。

この「対比」「比較」は、
すでに
Aを対象として意識した最初の段階、
Aとは何かが問われた段階で潜在的には現れている。

Aは赤い(まだ「赤」という意識はない)
Aは白い  上に同じ
Aは黄色い
Aは青い

しかし、
その対比が対比として意識されるには、
判断(文)が判断(文)として否定される段階が必要なのである。

そして、この段階こそ、
述語部が述語として、意識される段階である。
述語の意識が生まれるのは、
判断(文)への違和感、判断の対象化のこの段階からであると考える。

そして、この違和感、差異の意識から
述語が相互に比較・検討され、
その差異が、対立、矛盾へと深まっていくのではないか。

そこから本質、実体と属性、個別と特殊と普遍、類と種、といったとらえかたが成立するのではないか。
※ここで名詞の分類が必要

そしてこの先に、多様な例文が出てくる ※松永さんがたくさんの例を出している
赤でハナク、白でアル。
生物だが、動物でハナイ。
植物だが、薬草でハナイ。

四 実証研究

事実のデータによってこそ、認識を深め、確かなものにすることができる。
しかし、事前に仮説として深い洞察が用意されていなければ、多様な偶然性の中に本質や真理への道を見失うだろう。

実証主義は次の区別をどこまで理解しているか
(1)現時点の言語世界 これまでの発展過程が一切無視されて現象する
(2)歴史的発展の中での、各時点、各段階での言語の状態
 古事記、日本書紀、万葉集、平安文学、随筆、漢文脈、日記、物語、伝承

松永さんが日本語の根源を考えるなら、上代語の文献、古事記、日本書紀、万葉集などのデータの分析
こそ必要なのではないか。
私が一で示した観点から、以下を考えるためのデータ収集が必要ではないか。

○認識の発展、名詞の発生
 それぞれの段階
○判断がある程度、一般的に行われるようになり、
判断(文)そのものが意識される段階とは、実際にはどの文献に現れてくるのか。
○述語が比較され、その差異が、対立、矛盾へと深まっていく
本質、実体と属性といったとらえかたが成立する。
この先に、多様な例文が出てくる ※
○名詞の分類との関係
 普通名詞、代名詞、固有名詞 

五 仮定条件と確定条件

松永さんは、この「デハナイ、デハアル」を書き上げた後に、学会用の論文を書き上げた。
そこで複文の仮定条件節と確定条件節におけるデハナイ、デナイの区別を問題にしている。
仮定条件節にはデハナイは現れず、デナイが使用され、確定条件節の内部にはデハナイが現れる。
この事実の説明に取り組んでいる。また、文をまとめた名詞句内にデハナイが入ることが可能であることも
説明している。

仮定条件とデハナイの関係について、松永さんは前回の「デハナイ」でも取り上げていて、
私は「日本語の基本構造と助詞ハ」では、次のように説明した。
「ある文(肯定文)を意識した時に、デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、
今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件「?ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった
肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、
1つの対象(焦点)が意識されては消えていく。関口なら『達意眼目は常に1つだ』と言うだろう」
(メルマガ314号)。この考えは、今も変わらない。

こうした問題を一般的に考えるには、まず、文を文として意識する段階ことから初めて、文から名詞句が
生まれる過程、文から文が生まれる(主文と副文の分裂)過程の説明と、そこでの仮定条件と確定条件の
違いがどこから生まれるのか、そこでの順節と逆説の区別がどこから生まれるのか、これらすべてについての、
論理的な説明がまず先にあるべきだろう。

文が文として意識され、デハナイからデハアルまでの運動を経て、その全体の含みを持って生まれるのが
名詞句ではないか。
文が文として意識されれば、そこには潜在的に文の否定、述語の否定があるから、その文で問題になっている
対象は何かと改めて問われ、新たな述語が意識される。これが文から文への分裂だろう。
つまり、三の(1)は、文から文が生まれる過程なのだ。そこで書いたように、これは1文が分裂して
2文が生まれる過程である。「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…
(以下続く)」が分裂したと考えられる。そしてそうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものが
「Aは赤デハアル」なのだ。そこにはたっぷりとした「含み」がある。
この過程は名詞が生まれる過程、定存在の分裂とその止揚である独立存在への運動と同じである。
そしてここまでの過程を踏まえて最初の文を意識した時に、名詞句が生まれるのではないか。
そこにはたっぷりとした含みがある。だからそこにはデナイ以外にデハナイもデハアルも含まれているのだ。
含まれているものは外化する。ただし実際にはデハアルは例がないらしい。それは、意識が一度には1つの
ことしか意識できないことから説明できるのではないか。

また、対象世界の認識において、対象の変化を原因と結果でとらえることができるようになっている段階
(二の(5))を前提として、文のレベルでの分裂でも、A→Bの原因と結果の捉え方から、確定条件と
仮定条件が生まれる。
 他方で、順節と逆説は、文と文との対比、比較の意識(三の(2))から生まれてくる。

では、確定条件と仮定条件の違いは何か。
確定条件とは現実、現在の直接性に止まり、それが肯定される段階であるのに対して、現実や現在が否定
されるのが、仮定条件である。それは未来や過去が意識され、現在とは違う状況を意識する。
これはより高度な段階である。
現実や現在の直接性が肯定される確定条件内のデハナイは、現実、現在の直接的内容だけが意識されているのであり、
現実が、現在が否定された仮定条件では、その「否定」(?ならば)に意識が集中しており、現実、現在の
直接的内容には意識は向かないのではないか。
意識は常に、その時々で、1つのことしか意識できないからだ。

おわりに
 拙稿はすべてが仮説である。しかしこれらの仮説の根底には、私の立場があり、その論理的な必然性が
あると考えている。それを具体化して提示するためにも、これらの仮説を提出しておきたかった。
 なお、松永さんがデハナイ、デハアルに着目したことの意味の大きさを強調しておきたい。
外的対象を意識する段階と、文(認識)そのものを意識する段階には発展段階として決定的な違いがある。
この後者のメルクマールがデハナイである。ここに着目したのは松永さんの資質と姿勢の賜物だと思う。

2016年8月10日

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