2017年の夏合宿の報告です。
いつものように八ヶ岳のふもとの清里で、8月に3泊4日の合宿を行いました。
今年も、私の他に、社会人が5人、学生が1人参加しました。6人中男性は2人、女性が4人。
この数年、参加メンバーが実に多様になりました。
まず女性が多い。50代の女性が2人います。1人は専業主婦でした。
もう1人は今は鶏鳴学園で教えていますが、50歳までは専業主婦でした。
この春に大学を卒業したばかりの20代の女性は、演劇の世界で生きようとしています。
もう1人の30代の女性は、新聞社で記者として活動しています。
男子は少ないのですが、高松君は雅楽の笛の演奏の練習をしながら、雅楽の背景となる歴史や文化面を学んでいます。
今年の学習内容ですが、
前半の原書講読はヘーゲル論理学の「制限と当為」の関係の箇所を読みました。
特に、小論理学の92節の本文と付録と大論理学の該当箇所を初版で読みました。
ここはヘーゲル論理学のまさに「始まり」「根源」だと思います。
すべてがここにある。ここにその後のすべてを読みとれなければならない。
後半は、必然性についてと、発展とは何かについての中井の文章と関連する文献を、みなで検討しました。
発展の理解や必然性の理解は、「制限と当為」にまでさかのぼり、そこからとらえられなければならないと思い定めました。
そのために原書講読でこの範囲を読んでみたのです。
私には最近の心境の変化があります。
それはヘーゲル哲学のキーワード集を独自に作らなければならないと思い定めたことです。
それをしない限り、しっかりと私自身の考えを積み上げていけないと覚悟しました。
そのための準備として、「発展」と「必然性」の項目に何をどう書くかを検討したのです。
いつも合宿では、合宿でしか起こらないこと、できないことが起こります。
合宿でもいつものように「現実と闘う時間」があり、各自の課題を考えていきます。
毎晩あるのですが、休み時間や食事の時間、すべての学習の時間で、その課題が話されます。
4日間、3日間を一緒に過ごすことで、互いの理解が深まっていくのが感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。
6人の参加者の感想を掲載します。一部仮名です。
具体的な叙述が少なく、わかりにくい文章もありますが、それぞれが一生懸命自分の課題と向き合おうとしています。
■ 目次 ■
1.「他者は自己である」に関しての問題意識 岩崎 千秋
2.自分の言葉にすることで限界を越える 高松 慶
3.ウサギの制限を超える 塚田 毬子
ここまで本日
以下は明日
4.人は自らの中に否定=限界を持つ 田中 由美子
5.自分の心の動きを意識する 黒籔 香織
6.存在論の中にある発展の論理 松永 奏吾
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◇◆ 1.「他者は自己である」に関しての問題意識 岩崎 千秋 ◆◇
今夏、ゼミ合宿に初めて参加した。これまでは、漠然と母との関係に疑問を持ちながらも胸の奥に潜在的に
ある生き辛さが何であるのかを認識することが出来なかった。しかし、2年前よりゼミに参加することで
これらが外に現れて行き、母という対象がはっきりした。それが、発展の運動であることまでは理解していた。
今回の合宿では、さらに先に進むことができた。ヘーゲルは発展の存在論の中で他者への自己の外化を
「移行(変化)」の運動とすること、更に、他者への自己の外化は同時に自己の自己への内化であり、
これを本質論において他者への反照、反省の運動とすることを学んだ。つまり、他者のように見えた母が、
実は私自身であり、しかも本当の私の姿であるというのだ。母は、相手が母に対してぞんざいな接し方や
話し方をすることをとても嫌がっていたので、表面的で形式を気にする母と同じであるとは思いたくなかった。
しかし、母が私に伝えたかった内容や目的を考えることをせずに、母がどのように言ったのか、
どのようにすれば良かったのかと、形式や手段ばかり気にしていた自分をこの合宿で初めて認識して反省することが出来た。
この移行(変化)と反照、反省を合わせて理解出来るのは、ヘーゲルの概念論の段階であり、概念論こそが
発展であると学ぶことができた私は、これからも目的をはっきりさせて自己実現するために発展していきたい。
そして、母が私に子育てを通じて何を伝えたかったのか深く考えたい。
◇◆ 2.自分の言葉にすることで限界を越える 高松 慶 ◆◇
ヘーゲルを4日間勉強するというのは私にとっては初めての経験であり、それゆえ緊張していた。
合宿というもの自体が、そこでの目的と、一緒に勉強する先生や仲間たちと24時間を共にするというものである。
人とあまり接してこなかった私にとっては苦行というイメージしかなかった。
そして、実際に苦しかった。2日目のドイツ語でヘーゲルを読む時間までで体力が尽きてしまったのだ。
中井さんの話は聞くが、あくまで声が聴こえてくるくらいのもの。あまり頭が働いていなかった。
しかし、逆に言えばそれは2日間だけでもしっかりと考えられたということだと思っている。
2日目までのドイツ語の時間では初版『大論理学』の存在論より「制限と当為」、
『小論理学』定存在の項より同じく制限と当為に関わる92節とその周辺を読んでいた。
私はその中で特に、限界はそれと気づかない限り越えられないものであるという説明に圧倒された。
何故なら、私が今まで自分の現状に気付いてこなかった、そのことを合宿の前と合宿の中で気付かされたためだ。
私は親の価値観を超え、新たな自分を作るために中井さんとの師弟契約を考え、親ともそれにかかる
お金の話をしたうえで無事師弟契約をした。しかしそこで私はもう親を超えられたと思ってしまい、
親との関係を放置気味にしていたからだ。そして8月に入ったあたりから、大学を卒業した後の進路で
親と考えがぶつかりあった。そして親と話し合っている中で、親の価値観に共感するばかりか、
そこに十分な反論ができない自分がいるとわかったからだ。
身近な大人、つまり親やその祖父母の価値観との戦いは、私のような大学生、さらには20代の人たちに
とって本当は避けられないもので、1度超えたらもう後は安泰、というものではない。安泰だと思っているのは、
そこで止まってしまっているということだ。その時には恐怖を感じていない。不足や欠点があると分からない。
運動したら、そこではぶつかり合うことへの怖さが生まれる。その怖さを避けてしまっているからだ。
自分ではそれに気づかず、それでいいとむしろ肯定している。そのことにもぞっとする。
限界を制限にするには、自分の深いところの本音をどこまで意識できるかなのだと思う。
何かに出会ったときに自分がどう感じ、考えたかは勿論のこと、前触れもなく急に自分の将来について
不安になるなどということ1つ1つの過程、背景をどの深さまで捉えられるか、言葉で後追いできるか、
その意志があるかということが大切だと思う。
あと、限界を意識し、制限だと分かったうえで乗り越えることは苦しさもあるが、そこには本当の喜びが
あるように感じる。止まっているときは安泰ではあるが、感情もその分だけ動かなくなってしまうのだと思う。
合宿所のロッジで私と同じ年くらいの人たちが楽しそうに大騒ぎしていたが、その根底で変化を求めている
からそうしているのだろう。自分の心の底から変わりたいと思い、それが多少なりとも実現した時、
本当の喜びがあるのではないか。
◇◆ 3.ウサギの制限を超える 塚田 毬子 ◆◇
中井ゼミの合宿に参加した。これで二回目となる。前回である昨年は半分の参加だったが、
今回は全日参加で、大きく異なるのが原書講読への参加だった。
合宿で扱う範囲を予習するために、8月に入ってからはゼミ生同士での予習会に追われた。
他に何をやっていたか覚えていないほどだが、ここで一気にドイツ語を詰め込んだことで自分のドイツ語
理解がかなり進んだ。合宿でも自分が訳していった範囲は理解しやすかった。私にとって語学は鬼門であり、
ドイツ語も嫌々やっていたのだが、少しだけ分かるようになり面白くなってきたというのが今年の夏に
起きた変化の一つである。しかし、原書で力を使い果たして後半の日本語文献では集中できず、
ほとんどが頭を通過するだけだった。この集中力の無さが今の自分の制限であると思う。
また、4日間中井ゼミで過ごすのはとても異様な感じだった。中井ゼミの人間は、言葉をそのまま
文字通りに受け取る。世間の人が忖度したり慮って気を使い合うことを一切せず、引っかかったら即突っ込んでくる。
それはテキトーなことを言えない緊張感でもあるが、何より自分が発する言葉に自分が意識的になる。
こう言ったらどう受け止められるだろうかと常に考える。あやふやなまま口に出した言葉には案の定突っ込み
が入り、反省して寝られなくなる。上っ面な会話は一切ない。そのような環境の中で、自分の深くから自分でも
驚くような生の言葉が出てくることがある。
昨年の合宿で何よりも大きかったことはこの先やるべきことが決まったことだったが、今年もそうなった。
機が熟したのでやるしかない。毎年合宿に来てブレている自分を軌道修正してもらっているが、
私は「ウサギと亀」のウサギである自分を寝かさないように、外的に制限を作りながら下半期を頑張りたい。
※中井注 塚田さんは、ソフォクレスの『アンティゴネー』を改作し、その上演をすることになった。
そのためには自分の劇団を立ち上げる必要がある。さあ、見ものである。