原理・原則を持って生きる
人が生きていく上では、原理・原則を立て、それで自分を律していくことが必要だと思う。それは自分の基準を持つことであり、自分の生き方を自覚しながら生きることになる。
それがない場合はどうなるか。ただ、状況に流される、その自覚もないままに流されるのではないか。それは偶然性の立場である。私はそれに対して必然性の立場に立ちたい。必然性を理解し、その上で生きていきたいと思う。
原理・原則と来ると、すぐに「例外」が問題なる。
どんな原理・原則にもたくさんの例外を挙げられるだろう。それをどう考えたらよいのだろうか。
例外があるなら、その原理・原則は無効だとする意見がある。いや、そう簡単に破産宣告ができるわけではない。
例外があることが意味するのは、大きくは2種類である。
1つはその例外が、原理・原則の根本的な間違いを示す場合と、もう一つは根本の間違いではなく、その部分的な限界を示す場合である。
後者の場合には、その原則は一部の場合にしか有効ではないのだが、そこから次の問いが生まれる。では全体とは何か、それに対して原則の有効である部分はどこに位置づけられるのか。それを調査、観察し、より有効な原則を作ることができるだろう。
しかし、前者の場合では、原理・原則を打ち立てた立場には、根本的な欠陥があり、それを解決するしかない。しかし、例外は原理・原則の欠陥とは何かを考えるヒントになる。
こうして理解は深まっていく。そしてこうしたことができるには、そもそもの原理・原則を立てていくしかないのである。例外は、ただ原則の無効性を示すのではなく、その原則を発展させるものなのである。
原理・原則を待たない生き方には、発展がなく、それは先がない生き方ではないだろうか。
こう考えてくると、原理・原則とは、一般的には「方法」のことになるのではないか。原理・原則を持って生きるとは、「方法」を持って生きることに他ならない。
人は大きな問題に対しては、自分の方法を意識して臨むべきなのだ。問題の解決のためはもちろんだが、その方法を繰り返し反省するためにもそれが必要なのだ。
そしてこの「方法」が反省によって深まった時には、それは自分の「哲学」であり、それが自分の人生を作り、人生を決めていく。
2022年4月30日