2月 11

2月23日(日曜日)読書会を開催します
正午から3時間ほどオンラインで実施
参加希望者は連絡ください。
参加費は2千円です。

今回は特別で検討するのは
中井ゼミのメンバー2人の小説と論文です。

1つは松永奏吾さんの小説『シドッチ』
もう1つは高松慶さんの論文「語りとは何か ―源大夫説話と俊寛足摺の比較を中心に―」です。

参加者にはテキストをお送りします。

1.『シドッチ』について   松永奏吾

『シドッチ』は、江戸時代中期の史実をもとにした小説です。1708年、九州の屋久島にキリスト教宣教師、イタリア人のシドッチが単身上陸しました。当時の日本は鎖国体制完成からすでに70年経過、厳しい禁教令下にあり、通常であればシドッチは即刻処刑となるはずでした。ところが、幕府で将軍の補佐役にあった新井白石の進言により、シドッチは江戸に召喚され、白石自らが対応することになりました。白石は当時を代表する儒学者でありながら西洋文化に強い関心をもっており、またシドッチには死を覚悟した布教という強烈な問題意識がありました。結果、幕府公式の尋問という形式をとりながらも、ここに東洋と西洋の知性二人による対話が成立しました。

記録に残された二人の会話はほんの一部ですが、私は二人の思想を二人の身体から語らせ、二人の対話をできるだけ深めることをめざしました。私は高校生の頃から小説家を志して、五十歳を過ぎて、ようやく一つの作品を完成させました。大学の卒業論文に書いた「小説は対話である」という理論を形象化したものであり、普通の歴史小説とは違うものになっていると思っています。             

2.「語りとは何か ―源大夫説話と俊寛足摺の比較を中心に―」について 高松慶

今回の論文は、大学院入試のために書いたもので、学部の卒論に相当します。テーマは、語りとは何かです。このテーマを具体的に考えるために、『今昔物語集』から「源大夫説話」を、『平家物語』から「俊寛足摺(あしずり)」を取り上げ、説話集の語りから『平家物語』の語りがいかに生まれたかを考察しました。

説話の始まりは、古代において僧侶が仏教の教えを人々に説明するべく用いた、たとえ話です。説話において、仏教はしばしば理想化されます。古代末期に書かれた『今昔物語集』の源大夫も、理想的な僧侶です。
しかし、中世の『平家物語』で語られる僧・俊寛は、いわば「悪僧」「くそ坊主」です。出家したのに世に執着し、そのことに何の恥じらいも感じません。時の権力者・平清盛にクーデターを企て、絶海の孤島への流罪に処され、世に見捨てられるのに、ひたすら世に執着します。その執着ぶりに、私は笑い、呆れ、圧倒されます。

説話から『平家』が生まれたということが、今日の日本文学者間での通説です。では、なぜ語られる僧の姿は『今昔』と『平家』で対照的なのか。両者の対照ぶりを、古代から中世への時代の変化によって意味づけ、『平家』語りの生成史を考察しました。

参加希望者は以下に連絡ください。

連絡先 
 事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

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