10月 18

 この夏に行われた「日本作文の会」全国大会の高校分科会で、鹿児島の中俣勝義氏、都立江北高校定時制の木村信太郎氏の実践から考えたことをまとめました。

◇◆ 刺激的な出会いと学びのあった大会 中井 浩一 ◆◇

 この夏の大会では、刺激的な出会いがあり、学ぶことが多かったと喜んでいます。
 
? 鹿児島の中俣勝義氏

 鹿児島県の中学での実践家として有名な中俣勝義氏との出会いは嬉しいものでした。
 彼は定年後、医療福祉専門学校で「文学」と「教育学」の授業を担当されており、その実践報告をしていただいた。学生は10代から30代までの多様な人々。
  『蟹工船』をテキストにした「文学」の授業では、今の日本社会や、自分の生き方を見つめ直すことを促して、成功しているようでした。
  「教育学」では、その多様な学生に、中学の実践から生まれた生徒作品を整理し、それをぶつけることで、各自の生き方・考え方を見つめ直すことを求めるものでした。受講者からのすばらしいコメントが生まれていました。
 実は、この大会で中俣氏が報告すると聞き、直前に氏の中学での実践記録『先生!行き場がない』(1995年。エミール社)を読んで、心を動かされていました。私の実践と似ていることに驚き、また励まされたのです。それは以下の3点です。

(1)公開の原則
(2)認識の深化のために、観点を与えての書き直しを重視する
(3)生徒同士の読み合いを重視する

 特に、(1)と(2)は私と同じ考え方の方が少ないので、心強く思いました。(1)は(3)のために不可欠です。私は公開か非公開かは生徒の側の選択権だと考えるので、それを教員が奪うようなことは間違いだと思っています。(2)は生徒の認識を深めていくために不可欠と思っていますが、なかなか行われていません。
 中俣氏が医療福祉専門学校で行っている「教育学」の授業では、30代の女性から次のようなコメントが生まれています。

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 私は高校を卒業し、4年大学へ行き、社会に出て、また今、学校に通っています。年を重ねていますので、高校生あたりから自分のことについては、かなり受けとめられるようになってきたと思います。でも、まだまだ未消化で、何かあると自分のことを思い出して、それをずっと考えてしまいます。しかし、以前のように、悲しいこと辛いことの中心に私がいて、そこから抜け出せないということではありません。心の傷は確かにありますが、普段は、哀しみ辛さを脇に避けて置くことが出来ます。それはこれから自分を作っていけるということ、傷を受けとめ、前に進めるということであると思います。
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 この後半部分に私は注目したいのです。「心の傷は確かにありますが、普段は、哀しみ辛さを脇に避けて置くことが出来ます」。これは大切なことです。それは「逃げ」でも「無視」でもありません。いったん「脇に置く」のです。そして初めて、「これから自分を作っていける」のだし、「傷を受けとめ、前に進める」のです。いったん「脇に置く」のは、真にそれに向き合い解決していくためです。
 
 30代の著者が、こうした認識を獲得できたのは、中俣氏が中学生から引き出した作品群を読み合い、みなで考えることによってでした。その作品群は、中学生たちがみなで読み合い書き直しを経て生まれた物です。そして、専門学校での4カ月の授業でも、毎回授業後に感想を書きます。それが10数回積み上げられて、最後の回に、彼女はこうした認識を表現しています。
 表現指導の持つ力、可能性がしっかりと見えました。そのために必要な条件も明らかだと思います。

? 都立江北高校定時制の木村信太郎氏

 都立江北高校定時制の木村信太郎氏の実践では、全生徒の作品を毎年「江北文集」にまとめて刊行しています。ここでも基本的に、実名での公開が原則であり、教員の皆さんも本音で書いた文章を寄せています。        
 そこから、次のような文章が生まれています。

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友の話

 今の僕がいるのは、今までに出会ってきた人たちがいたからです。昔、僕は小学校に入学する前に、よっちゃんという人と万引きをしまくっていた。それが最初の悪い事で、そのことがあって警察につかまったのも小学校入る前で、小学校入学してからは、うそつき健太と呼ばれていた。マジ、うそつきまくっていて、友達はよっちゃんて人しかいなかった。小二までがそのままで、小三になってクラスのみんなとケンカばっかしていて、その時に一対一をおぼえたのだ。女の子に恋というものをしたのだが、女も男もクラスの人からは、まじきらわれていて恋とかいっている場合じゃないことだと思っていたけど、おそかった、と思ったら一人の男子の子がクラスのみんながオレのことを責めているところ、オレに味方してくれて、そのときまじうれしかった。そしてはじめての親友ができた。そのときクラスのみんなとはじめて仲良くなれたときだったんだよ。それから学校が楽しくて楽しくて、まじ学校がいいとこだと思った。だけど、母のことがあって、学校に行けない日が多くなってきて、先生もそのことで心配してくれたし、友達も心配してくれた。そして、なんとか小六の時は、安定して学校に行けるようになった。楽しいことのあとには卒業という別れがおとずれ、その時、自分は大人への一歩なんだと心の中で思いつつ、とても悲しい気持ちで卒業式をむかえ、はるばる卒業したのです。 そして中学生となりました。中学では、案外かんたんに友達ができて、ばか騒ぎしまくったり楽しい毎日ですが、悪いこともおぼえたりした。タバコに酒やケンカもしたり、小学校ではしてはいけませんっていっていたやつをやったり、放火して父にぶっ飛ばされたりもありました。先公がうざくなったり、他校に乗りこんだり、バイクパクったりしたし、女ってもんもおぼえたりしたし、よく警察につかまったりもしたけど、なんだかうまくいって、鑑別に入ってなくてよかったし、行かされなくて中学の友達はみんあ本当にいいやつばっかだったよ。今でもみんなとつるんだりしてるし、なんていうか楽しかった中学校も、高校は、もっといいやつらと友達だと思ったよ。僕のことをいつも心配してくれて電話してきてくれるやつもいたし、よく言いあいになって怒るけど、仲良くなるのがすごく早いやつもいたし、いつもいっしょにいるやつもバイク乗ってて面白くていいノリの人も、かつぜつ悪いやつも、年上なのにとてもやさしくしてくれる人も、おれまじで高校の友は生涯の友だと思ってる。まじいいやつばっかでした。
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 「仲良くなれたときだったんだよ」「中学の友達はみんあ本当にいいやつばっかだったよ」「高校は、もっといいやつらと友達だと思ったよ」などの文末のことばが、私は気になります。この呼びかけは誰に向けられているのでしょうか。なぜ呼びかけているのでしょうか。

 この作文は授業中に書かせたものでしたが、著者は夢中で書いていたそうです。そして、この文章を書いてしばらくして彼は退学したとのことでした。彼は、この文章を書いている時点で、すでに退学の決意を固めていたのでしょう。彼は、この文章が退学後、刊行されて定時制の友たちに読まれるだろう事を意識して、この文章を書いていると思います。

 この文体の中に現れる「呼びかけ」は誰に向けられたものでしょうか。それは自分に対してでしょう。これは「自分とは何か」の答えを出すためのもの、自己確認の文章です。友について語ることは、それを通して自分を語ることに他なりません。直接自分を語るのでないだけに、それは冷静に自分を見つめることを可能にします。
 しかも、それは自分に語りかけているだけではなく、やはり定時制での仲間の一人一人を思いだし、その一人一人に語りかけ、自分との関係を確認しているのです。それが自己確認に他ならないからでしょう。仲間への呼びかけを通して、それは自分ときちんと向き合うことができています。その友との関係が大切なものだからでしょう。
そして、その自己確認を終えて、彼は退学し、次の道を歩き始めました。

 私の解釈が合っているかどうかはともかく、こうした文体の意味にも着目し、その意味を考えていきたいものです。

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