2月 19

中井の新著『ヘーゲル哲学を研究するとはどういうことか』 が2月1日に刊行されました。
 
これまでヘーゲルとマルクスについて本を書いてきましたが、いよいよ今回は、ヘーゲル哲学を発展させて、中井自身の哲学を生み出したと思っております。

この読書会を5月24日に行います。ぜひご参加ください。

このメルマガでは、この本から「ヘーゲル哲学とその研究 全体の解説」の冒頭部分を掲載します。ここが、この本のタイトルの問いへの端的な答えだからです。

■ 目次 

『ヘーゲル哲学を研究するとはどういうことか』の「ヘーゲル哲学とその研究」から
? ヘーゲル哲学の研究者の心構え
? ヘーゲルへの疑問

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◇◆ ? ヘーゲル哲学の研究者の心構え ◆◇

ヘーゲル哲学は発展の哲学である。そこから、ヘーゲル哲学の研究者には大きくは2つの課題が生まれてくる。

第1に、存在するものは全て発展するのであり、その発展をとらえるのがヘーゲル哲学なのであるから、研究者自身もまた自分を成長、発展させなければならない。また他者に働きかけ、社会に働きかけ、社会を発展させることが使命になる。それをしないでいて、発展の研究はできないだろう。ヘーゲルは人間の発展は「自己との無限の闘争」だと言うのであるから、その闘争に身をささげなければならないだろう。
人間(自分)とは何か、人間(自分)はいかに生きるべきか、それが根源的な問いであるのなら、それをいつも自分の中で自分に突きつけていなければならないだろう。それは社会の大問題だけではなく、自分の日常の生活の小さな諸問題においても変わらない。否、その中でこそ、問題に気づき、それを認識し、解決する能力が問われ、それを育てていくべきなのだ。
研究することを自分の生涯の目的とするのなら、その研究上の先生をどう選ぶのか、仲間や弟子をどう選び、どう関係するのか。これは基本中の基本になる。肉親の親子関係、異性関係や結婚についても避けられない課題だろう。そして就職。サラリーマンや公務員と、起業や自営業をどう考えるのか。こうしたことにおいて、人間(自分)とは何か、人間(自分)はいかに生きるべきか、が問われる。
 それだけではない。第2に、発展の哲学を学ぶならば、その研究それ自体がまた発展でなければならないだろう。
つまりヘーゲル哲学の研究者にとっては、ヘーゲル哲学を真に発展させることがその使命になるのである。
ヘーゲル哲学は、それまでの世界観、自然観と人間観を一掃するほどの大きな思想の変革である。その大きさは、ヘーゲル自身ですら自分が生み出したその思想の全体を理解できず、大きな方向性、大きな柱をいくつか建てることで終わっているほどである。
 それはまだまだ未整理であり、混乱しており、一部に誤りもあるのだ。つまりヘーゲルは その思想の礎を確かに築いたのであるが、その全体像はまだ現れていないのである。
 したがって、私たちヘーゲルの後を追いかける者たちがすべきことは、ヘーゲルがやり残した発展という考えの全体像を更新し、深めていくことなのである。
それは単に細部を完成させるというような意味ではなく、その全体をとらえ直すことによって、発展の運動そのものの理解をも大きく前に進めなければならないと私は考える。
 例えば、マルクスは労働論や唯物史観で、ヘーゲルの発展観の一部を大きく前進させた。しかしそれはヘーゲル哲学の大きさから考えればその一部であり、しかも根本の発展の理解はヘーゲルのレベル以下にとどまっていると私は考えている。
先にヘーゲル哲学の研究を目指す人の条件を挙げた。自ら自身の生き方と、研究のたえざる発展、更新である。
この2つをなしとげることが、発展の研究における理論と実践の統一である。この2つは1つのものであり、切り離すことはできない。
この2つをやっていない人、またやる気が全くない人、研究の目標、目的としてこのことを自分に課していない人。その人は、発展という研究のための必須の条件を欠いている人であり、そこは大きな限界がある。
牧野紀之はこの2つの条件をクリアーした稀有な研究者である。ただし2つともなければ全くダメということではない。この2つの条件のうち1つでも意識されて目的とされているならば、そこには大きな可能性があると言える。例えば、許万元である。彼には第1条件に弱さがある。それは牧野が指摘しているとおりである。しかし、第2の課題を果たしている点で大きな功績がある(彼の『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』などを参照)。
私自身は、当然この2条件を引き受け、それに取り組んできたつもりである。本書においての私の説明(解説、訳文と注釈)に、それがすべて現れているはずなので、それを検証していただければよい。

さて、こういう立場に立つ以上避けられない大きな問題は、ヘーゲル自身はどうだったかである。発展を研究するための2条件は、ヘーゲル自身にも突き付けられなければならない。

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◇◆ ? ヘーゲルへの疑問 ◆◇

今回テキスト3つを丁寧に読み直してみて、その叙述にはかなり問題があると思った。
対象を発展的にとらえた理性的なものであると、うならせられる箇所よりも、悟性的な図式主義、お説教臭い道徳坊主に成り下がることがあまりにも多い。3対7、2対8ぐらいでそうだ。
 初めは、それが講義であり、聴講生のノートがもとになっている(テキスト 1 、テキスト2の付録の 123、テキスト3の付録)という事情が大きいのではないかと考えた。しかし ヘーゲル自身が書いたとされる、テキスト2やテキスト3の本文や注釈でも、それは大きくは変わらない。
次に、これは本論の前の「序論」である(テキスト2、テキスト3、またテキスト1は歴史哲学の全体の序章という位置づけになるだろう)ことから仕方がないのではないか。そのようにも考えた。
ヘーゲル自身も次のように言う。「科学的な証明をすることができるのは、ただ私の哲学体系全体によってのみなのである。とりあえずここ(「序論」)では、精神の概念を表象(イメージ)に対して説明することしかできない」。
本当の論理的な説明は本論で、序論では表象的な説明しかできない。しかし、こうした説明がすでに悟性的なのではないか。
もちろん、序論は前提の確認や本論での主張の概要を述べて、本論を理解してもらうための準備をするものであり、そこにはわかりやすい図式的な説明が必要である。そこでは表象的な説明が必要だし、そのことには問題はない。
しかし、ヘーゲルの説明は、理性的説明か悟性的説明かという二者択一の考え方でしかなく、序文と本論の機械的切り離しが行われている。本来は悟性的思考の中から理性的思考を生み出していけるはずである。
わかりやすく数値化して説明する。本論では本当の説明と表象的な説明の割合が9対1であったとして、序文ではそれは無理でも、では何を目指すべきなのか。それが示されない。
私は5対5ぐらいまではできるはずであり、それをするべきだと考える。それをしないのはサボりであり、手抜きである。または聴講生のレベルが低すぎてそれができないと考えているのか。
なお、ヘーゲルの名誉のために、例外を示しておく。テキスト3の5段落後半に、有限な精神における対自然の労働の過程を発展の3段階で説明し、そこから無限な精神への高まりに言及する展開がある。私はここに、ヘーゲルのすばらしさを感ずる。有限な精神の中に、すでに無限な精神は内在しているのだ。ここでの悟性と理性の比率は4対6ぐらいで理性が勝っているのではないか。やろうと思えばやれるのである。テキスト3 の解説(4―3?2 )

私は何を言いたいのか。ここにヘーゲルの精神の緩み、弛緩を感じるということである。強く言えば彼の精神的な堕落、退廃の香りを感じるのである。以前からヘーゲルを読みながらそうしたことを感じていたと思うのだが、今回ほど強くは感じなかった。
人は誰もが自分の哲学を作り上げる過程で激しく戦う。ヘーゲルも20代では同じである。相手はカント哲学であり、同時代のドイツ哲学者たちとの戦いである。それが終わり、自分の哲学を一応作り上げる。
ヘーゲルにあってそれは30代後半から40代にあたり、『精神現象学』『大論理学』『哲学の百科辞典』をまとめた時期がそれだろう。
その後、ヘーゲルはドイツ哲学界のトップとして祭り上げられ、世界中から聴講生が訪れ、そこに弟子筋が集まり、ヘーゲル学派が形成された。この時期以降は、ヘーゲルには精神的な緩みが生じていたのではないだろうか。今回取り上げるテキスト3つはこの時期に当たる。
ヘーゲルの50代は、『法の哲学』といった時代との闘いはあっても、超一流との生死をかけた戦いはもはや終わっている。ヘーゲルは動物の成長は量的拡大でしかないとしているが、哲学者も一旦出来上がってしまえば、その後は量的拡大だけになってしまう。ヘーゲル自身がそうではないか。

ヘーゲルは、研究のたえざる発展、更新は行ったようだ。しかしそれは量的拡大のレベルであったように思う。
研究者が、自分の立場を作った上で、その後もながく研究をその質的な発展(そこには必ず自己否定を含む)を行えるか否かは、その研究対象(自分固有の他者)により、また研究の仲間たちとの関係性で決まると思う。
今回のテキストでは、創世記(テキスト2付録3)はヘーゲルの本気を感じられる対象だが、その展開にも結論にも不満がある。
大きく言って、ヘーゲルにあっては、その弟子たちの問題、その関係の問題がある。ヘーゲルのもとに集まった弟子たちは、どのレベルの人間だったのだろうか。後にヘーゲル左派から、フオイエルバッハやマルクスが生まれるが、それ以前の段階においての問題である。そこに互いへの根本的な批判をかわし合う、厳しくも信頼で結ばれた関係はあったのだろうか。
研究者にとって、その先生を誰にするか、生徒を誰にするかは決定的に重要である。人は自らの先生と生徒によって規定されるからだ。ヘーゲルの先生とはカントである。それはよし。しかしその仲間や弟子たちはどのような人だったのか。その関係性はどうだったのか。ヘーゲルがその師弟関係を本気で考えた形跡がない。
 私は、キリスト教の三位一体の説明で、ヘーゲルが精霊を完全な現実性と真実へと到達させている「キリスト教の教団」だとしている点に、ヘーゲルの深さと現実性を強く感じた。
宗教においては迷いが多く起こる。何が真実かは容易にわからなくなる。そこでは自らの主観性を超える客観性が、切実に求められる。その客観性はどのように得られるのだろうか。
それが教団なのだ。それはある世代においての師弟関係を示すと同時に、それが長い歴史の中で、師から弟子へ、その弟子が師となりまたその弟子へと、連綿と引き継がれて、その系譜が真理や神に向かう王道として客観的に存在している。キリスト教でも、仏教でもそれはかわらない。修行者はその伝統と系譜の中で、現実の師弟関係の中で、客観性を獲得し、より確かに生きることができる。
しかし、これは宗教だけではなく、哲学的思想においても必要不可欠ではないか。ヘーゲルとその弟子たちはどうだったのだろうか。
そしてここまで考えて来ると、私はヘーゲルの生き方そのものに問題を感じるのである。ヘーゲルは長く、大学の教員という公務員であり、サラリーマンであった。それが悪いと言いたいのではなく、それを超えるような師弟関係、研究の共同体を作り上げる試みはなされなかったことを問題にしたい。彼の実際の師弟関係は、ヘーゲルが夢見ただろうキリスト教の共同体とは全く違うレベルの低いものにとどまったのではないか。それを創ることを試みた形跡はない。こうした批判で読者はすぐにマルクスの唯物史観、その人の思想は下部構造(公務員、サラリーマンの生き方)が決める、をすぐに思うだろう。しかしその視点がないことで、ヘーゲルを批判したいのではない。彼が自分の研究そのものを大切にしたなら、そしてそのために師弟関係を真剣に考えたなら、大学の教員という生き方に限界を感じなかっただろうかと、思うのだ。また、ヘーゲルが本気で発展について教えようとしたなら、弟子たちの能力を本当に理性レベルまで引き上げようとしたなら、その指導方法にもっと改良、改善の試みがあって当然ではないだろうか。ヘーゲルは人間の日常生活、社会生活、経済生活の問題に、具体的に踏み込むことが少なすぎる。
そしてこのことを考える時、古代ギリシャのプラトンとそのアカデミアのことが私には思い出されるのである。

ヘーゲルが一応の立場を作り上げた後に、もはや真の自己批判、自己否定はない。ヘーゲルは40代で終わっていると思う。それをさらに壊して前に進むことはできなかった。
しかし、プラトンの『国家』などを読むと、哲学への自己批判の激しさに驚く。プラトンには、絶えざる自己チェックがあった。自分を壊し、作り続けたように見える。
プラトンにはアカデミアの実践があり、現実との戦いがあった。それは研究の共同体づくりの試みでもあったろう。
プラトンは死ぬまで、前に進もうとした。彼は堕落できなかった。なぜか。プラトンには ソクラテスがいたからだろう。プラトンのソクラテスに対する愛は、常に自分を徹底的に壊し、前に進むことをうながした。「無知の知」が至上命題だったからだろう。
 ヘーゲルの『哲学史』を読むと、ヘーゲルにはプラトンの本当の凄さがわからなかったように思う。これは偶然ではなく必然である。
 もう一つ。ドイツが当時のヨーロッパの後進国であったことも考えておきたい。
ヘーゲル哲学のような壮大な思想が、また偉大なカントの『純粋理性批判』も、イギリスでも、フランスでもなく、ヨーロッパの後進国であるドイツから生まれたということの意味を考えておく必要があると思う。
これは マルクスの革命の思想にも通ずることであり、マルクスも後進国ドイツにおいて 唯一世界に誇れるものとして、ヘーゲル哲学を挙げ、他方ではプロレタリアートを挙げたのだ。ヘーゲルのこの世界最高峰の哲学、この壮大な哲学は、やはり先進国のイギリス、フランスから生まれることはなく、その逆の後進国のドイツから生まれたものであるということ。
アダム・スミスの『国富論』、経験主義のロックや不可知論のヒューム、フランスの啓蒙思想。それらとヘーゲル哲学の違いを感じていただきたい。マルクスは当時の先端思想であるフーリエ、サンシモン、オーエンの思想を空想的社会主義として切り捨てた。
そこに、近代化における後進国のコンプレックスと、その裏返しの強いプライド、それに裏打ちされた強いナショナリズム、そうした問題がそこにはあるのではないだろうか。それは私たち日本人にとっても同じではないか。
 ソクラテスとプラトンは当時のギリシャ世界の最先端の国家アテネの市民であった。それに対して、壮大な哲学体系を構築したアリストテレスは、後進国出身の外国人であった。
 こうした問題に、ヘーゲルは気づいているように見えない。それを深めると、大きな問題提起になっただろう。
 以上の私の批判に対しては、ヘーゲルも時代の子であり、それを超えることはできなかったのだ、といった擁護の声が上がるだろう。しかし、それはそういう自らを甘やかしているだけにならないだろうか。

さて次章からはヘーゲル哲学の全体についての解説になるのだが、それはあるがままのヘーゲル哲学の説明ではない。
私は、ヘーゲルが直接に説明していることをそのままで真理とし、その解釈に終始しようとしていない。ヘーゲルが始めた発展という立場に立とうとはするが、それをさらに深め、その根本から見直し、再構築しようとした。それはヘーゲル哲学を発展させることを目指すものであり、ヘーゲルに対しても徹底的に批判しようとするものである。もちろんそれはヘーゲルを乗り越えるためである。否定の否定が発展なのだから。
この姿勢は、テキスト1?テキスト3の解説においても同じである。
それがもし目標通りに成功しているならば、それはヘーゲル哲学の説明、批判に止まらず、私自身の哲学の表明になっているはずである。

読書会参加希望者は以下までメールをください。

 事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

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