6月 02

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
生徒のレポートは紙面をご覧ください。

6月号の第3回 理科系のレポートと「主観的な感想」

1 自分のテーマを持つ
前回は、木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)で説明されている理科系のレポートや論文の書き方を紹介した。そこでは「原則として『感想』を混入させてはいけない」。これは文科系のレポートでも同じだとされている。
しかし、「主観的な感想」を排除して、本当に良いのだろうか。そもそも「主観的な感想」とは、学習に対してどういう意味を持つのだろうか。この問題を高校生段階で、具体的に考えてみたい。

例に取り上げるのは千葉県立小金高校の総合学習「環境学」。「総合的学習の時間」が導入される五年前から実施された。生物の川北裕之氏と彼を支える教師集団が中心になり、三年生の自由選択科目「生物?」の約半分、一単位分を使い、年間を通した取り組みである。事前学習の後、班ごとに研究テーマを設定して、フィールドワークを含む調査研究をしたうえでレポートをまとめ、発表する。

目を引くのは、事前指導の期間が三ヶ月と長く、そこでも体験学習が中心になっていることだ。休日を利用して、三番瀬を観察し(ついでに潮干狩りも)、近くの里山では竹の間伐を体験する。それらの体験をもとにディベートもする。これは探求学習の「方法」を教えると同時に、予行演習にもなっていたのだろう。
これだけ豊かな事前学習を用意したのは、生徒一人一人が自分にとって意味あるテーマを設定するためだ。「探求学習では、一番難しいのは、生徒自身が興味のある課題(テーマ)をきちんとした形で課題化できるかである」。川北氏は、広すぎるテーマ、一般的なテーマではなく、自分にとって本当に知りたいと思うこと、身近なことで興味があるものを選ぶように指導している。

総合学習は、従来の一方的な知識詰め込み型に対する、問題解決型学習であるが、川北氏はその総合学習にも二種類あると言う。ひとつは教科的(模倣的)研究で、初めから正解が用意されている。これは研究の手法を学ぶには良いが、生徒にとってのテーマの切実さに問題がある。もうひとつは、生活的(変容的)研究で、個々の生徒にとって切実で身近なテーマを取り上げるが、すっきりとした解答が出せるとは限らない。

もちろん両者が必要なのだが、川北氏が追求するのは後者だ。総合学習の目的を、各自が自分の問題意識を深め、自分の進路を切り開くことに設定しているからだ。
この二種の総合学習を比較すると、前者が「答え」と「対象理解」を重視するのに対して、後者は「問い」の深まりと「自己理解」を重視すると言える。木下氏の方法論を考えれば、それがそのまま通用するのは前者の場合であることがわかるだろう。
では後者の場合に有効な方法とは何か。そのレポートはどのようなものになるのか。構成と文体での違いはあるのか。

2 くつがえされる予測
 川北氏の生徒たちのレポートも、構成としては木下方式と大きな違いはない。多くのものが、一テーマの設定理由、二研究の方法、三調査の報告、四まとめ(結論)となっている。最後に「感想」の項目を置いている班があることが違うぐらいだ。

「PETボトルは何処へ?リサイクルの現状と対策?」というユニークなレポートを見てみよう。
1の「テーマ設定理由」を読むと、高校生の身近に溢れている五〇〇mlのPETボトルに目をとめ、それがリサイクルされているのだろうか、という素朴な疑問から出発していることがわかる。
最初は文献で調べ、PETボトル推進協議会で説明を聞く。それが3で紹介される。この段階では、リサイクルはうまくいっていると納得した。リサイクルの意識を高めれば問題は解決できる。
しかし、次に訪れたリサイクル工場で彼らは大きなショックを受ける。工場は悪臭と騒音がひどく、そこで働いているのは知的障害者だった。彼らはリサイクルのクリーンなイメージはうそであること、何か根本が違っていることに気づき始める(4の「いざ、工場へ」)。
そして出会った新聞記事が、彼らの考えを大きく飛躍させることになる。その記事には容器包装リサイクル法の矛盾が告発されていた。PETボトルが予想を上回って回収されたために各地の自治体がその保管に苦労していること、つまり企業が作り出したPETボトルを、自治体が税金を使って分別回収し保管しているという事実(5から)。
こうして彼らは、初めの仮説に変えて、よりよい社会にするためには、義務教育に環境学を取り入れること、再生できないものは売ってはいけないこと、消費者はそれを拒否すべきであること、容器包装リサイクル法は見直すべきであること等を考えるに至る(6の「理想社会」)。

3 成功した学習とは何か
もし調査が最初のPETボトル推進協議会で終わっていれば、それは予定調和の世界のママだった。当初のクリーンなイメージのままのリサイクル観が維持できただろう。しかし、彼らは実際のリサイクル工場を見学し、その甘い幻想を打ち砕かれた。この時初めて、彼らの体を通った問題意識が生まれたのではないか。そしてそれゆえに、普段なら見過ごしたかも知れない新聞記事に飛びつくことができ、一応の結論を出す。しかし、それが当座の結論でしかないことも彼らはわかっている。

この調査全体を通して、彼らの心が激しく揺れ動き、それが彼らの認識を深めるための大きな力になっていることがわかる。こうした調査報告は、「主観的な感想」をきちんと反映したものでなければならないだろう。

図はそのレポート4の部分だが、イラストが彼らの思いを生き生きと伝える。また、傍線1や傍線2が、彼らの主観的思いを率直に語っている。

6の「理想社会」では、遠大な理想を言う事への突っ込みも入る。「ちょっとすぐに手を出せる領域ではないから、ずるいと言えばずるいけれど、考えるのは勝手でしょう」。7の小見出し「ひとまず、本当に今できることは」からは、これが当座のものでしかないとの自覚がうかがえる。

8の「まとめ」は以下だ。「私たちはリサイクル=いいことという関係しか見ておらず、PETボトルをリサイクルに出したという満足感だけでその後のことを考えていなかったようです。それではリサイクルしたとはいえないでしょう。つまり、これからの地球環境のためには何かしたいという意識だけではだめです。そのためのちゃんとした知識とその知識や意識を使う行動力、そして使う場、いわゆる法律が必要なのです。そうしなければいつまでたっても何も変わらないでしょう」。

ここには対象理解だけではなく、自己理解(自己反省)の深まりが確かにある。
最後の9の「感想」から、あるメンバーのコメントを紹介する。「ずっとめんどくさかったけど、やっているうちに手放せなくなってしまった。特に、自分の手の届かない領域の話をするのは、無責任な気がしてもどかしかった。でも私もそのうち社会に出るはずなので、そうしたときに、ここで感じた無責任をそのままにしないで行動しよう」。

しかし、これで終わりではない。川北氏は、このレポートとは別に、さらに「学びのストーリー」を書かせている。一年間にわたる学習の中で、どう行動し、何を学んだのかを書かせるもので、対象理解と自己理解を更に深めていく試みだ。

高校生にとって成功した問題解決学習とは、当初の自分の理解の浅さを思い知り、学んでいく強い意欲が持てた場合を言うのではないか。

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