アリストテレスの『形而上学』から学ぶ
アリストテレスの『形而上学』を、2011年の1月から3月の
読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
改めて、その巨大さに圧倒された。
世間の言うアリストテレスとは、全く対極にあるアリストテレスを発見した。
■ 全体の目次 ■
(1)『形而上学』を読む観点
(2)アリストテレスとプラトン →その1
(3)「自然科学オタク」としてのアリストテレス
(4)アリストテレスの著作の読み方と、
『形而上学』のアリストテレス哲学体系における位置
(5)アリストテレスの問題への向き合い方 →その2
(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」 →その3
(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり →その4
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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇
(1)『形而上学』を読む観点
アリストテレスの『形而上学』(岩波文庫版。ページ数はこれから)を
2011年の1月から3月の読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
20年以上も前に読んだことがあるが、当時のことはほとんど記憶にない。
対象が巨大すぎて、手も足も出なかったのだと思う。
今回は、確認したいことがあり、そうした観点をもってのぞんだ。
その分、今回は収穫があったように思う。
アリストテレスとヘーゲルは、人類の哲学史上の2つの巨峰である。
ともに、それまでのすべての哲学が流れ込み、その後のすべての哲学が
そこから流れ出た。ヘーゲルは他の誰よりも、アリストテレスから学び、
アリストテレスを絶賛している。その核心部分を理解したかった。
昨年、波多野精一著『西洋哲学史要』のアリストテレスの項を読み、以下を考えた。
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アリストテレスのすごさとは何か。
【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
この3つの最も根源的な問題を、3つともにとりあげていることもすごいのだが、
それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
その結果、【3】を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。
(以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)
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まず、この点を確認したかった。これが今回の最大の観点である。
もう1点、確認したいことがあった。ヘーゲル哲学が、近代世界を
切り開いたものだと言われるのは、その「自我の内的二分」の考えによって、
全世界の中心に人間を置いたからだ。それはアリストテレス哲学ではどうだったのか。
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アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体と
その構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。
対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。
人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。
無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
(以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)
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この点も確認したかった。
なお、以下の前提となる知識は岩波文庫下巻の解説による。
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(2)アリストテレスとプラトン
この確認作業の結果を述べる前に、改めて、アリストテレスの人生や、
歴史上の位置についても考えたので、それを最初に述べたい。
アリストテレスは、紀元前384年ごろの生まれだという。これだけ古い時代に、
これほどの思想、思考レベルに到達していたことに驚く。
アリストテレスとプラトン、この巨人二人の出会いは、アリストテレス17歳、
プラトン60歳の時。その後、プラトンが死ぬまでの20年間、アリストテレスは
プラトンの学園アカデメイアで修業を重ね、次第に頭角を現していた。
しかし、プラトンの死後、学園の後継者(学頭)はアリストテレスではなく、
プラトンの血縁者(甥)だった。アリストテレスは独立し、自らの学園を作ることになる。
なぜ、後継者がアリストテレスにならなかったのかは、不明なようだが、
路線対立があったことは確かだろう。
『形而上学』には、「1」や数学(ピタゴラス主義)とイデア論を
批判的に検討する部分が多く、全体の3分の1ほどある。
これは、アカデメイアで当時強まっていたイデア論の数学化、
神秘化への断固たる批判なのだろう。プラトン主義、そのイデア論についても
徹底的で執拗な批判が繰り返されている。
しかし、こうした批判をする以前に、アリストテレスには
プラトンの下で学んだ20年間がある。したがって、批判は、
プラトンの下で学んだことを発展させるためのものであったと理解するべきだろう。
それがアリストテレスの発展の立場から、アリストテレス哲学を
理解することになるだろうから。
アリストテレスが、プラトン(ソクラテスも)から学んだことは何だろうか。
第1に、哲学する姿勢であり、第2にその能力であろう。
現象ではなく、対象の「それ自体」としてのあり方(イデア論)を問うこと。
超感覚的なイデアの世界で考え、そこに生きること。
つまりたんなる現状肯定、現状追認ではなく、それを変革していくこと。
そして、対象の「それ自体」(イデア)を考えるための方法と能力。
それはプラトンによって対話編として展開されるから、言葉の研究、
判断(定義)の形式の研究になっていく。その時に、その対象は、専門用語ではなく、
日常用語、生活の言葉や思考の形式であったことを改めて確認した。
そのことに新鮮な驚きがあった。
例えば、『形而上学』でアリストテレスは「教える」ことの意味を次のように説明する。
「また一般に、ひとが物事を知っているか知っていないかについては、
そのひとがそれを他に教えうるか否かが、その一つの証拠になる。
そして、この理由からするも、技術の方が経験よりも
より多く学問〔学的認識〕であるとみなされる。
けだし、技術家は教えうるが、経験のみの人々は教ええないからである」
(1巻1章。上巻24ページ)。
このように、「教える」という日常的な行為を取り出し、
その根源的で普遍的な意味を大きくとらえる捉え方に感心する。
また、これに関連して、経験と技術(理論)の違いを他の箇所では次のようにとらえる。
まず、経験家が個別のことにつては、理論化より、しばしば上手く
処理できることを認める。例えば、医術でも「(理論家が)概念的に
原則を心得ているだけであるなら、したがって、普遍的に全体を
知っておりはするが、そのうちに含まれる個々特殊については無知であるなら、
しばしばかれは治療に失敗するであろう」と述べるが、
「しかし、そうは言うものの」と論を転じて、
「『知る』ということや『理解する』ということは、経験によりも
いっそう多く技術に属することであると我々は思っており、
したがって、経験家よりも技術家〔理論家〕の方が、いっそう多く
知恵ある者だと我々は判断している、このことは、「知恵」なるものが、
いずれの場合にも、「知ること」の方により多く関するものであることを
意味するのであるが、そのわけは、後者〔理論家〕は、物事の原因を知っているのに、
前者はそうでないから、というにある。けだし、経験家の方は、
物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それの
なにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の人は
なにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している」
(1巻1章。上巻24ページ)。
この「なにゆえに」つまり「原因」が実体であり、アリストテレスの研究対象になる。
こうした考えの進め方は、まさに「生活の中の哲学」そのものだ。
当たり前のことだろうが、当時は、日常用語、生活の言葉と、
学術用語の区別がなかったのだ。哲学者も生活の言葉で考えている。
アリストテレスは、哲学用語をその言葉の生活面での使われ方から考えている。
それはさらに言えば、日常と哲学などの専門学術が分裂していなかったことを意味する。
アリストテレスの用語は、生活から地続きなのだ。
その後、西洋でも両者は分裂するが、近代化の過程で日本などの「後進国」は
西洋の学問を輸入する過程で、この日常語と思考の言葉の間に完全な分裂が
起きている。この問題は、明治の夏目漱石らの先人達が押しつぶされそうに
なりながらも取り組んだ問題だが、私たち日本人には今も重くのしかかっている。
さて、アリストテレスはプラトンから学ぶ一方で、プラトンを
激しく批判している。その批判点は何だったのか。
それは、プラトンのイデア論では運動の説明ができないことにあった。
アリストテレスは、プラトンによって「自然についての研究は壊滅されるしかなかった」
(1巻9章。上巻67ページ)とまで言っている。
アリストテレスの第1の関心は自然研究だった。
自然界には生成・消滅や変化があり、物理的な運動があるが、それが研究対象だった。
生物の世界、植物や動物の世界の分類、体系化がテーマだった。
ところが、それがイデア論では説明ができない。
その限界を、イデア論を全否定するのではなく、イデア論を発展させることで
乗り越えることがアリストテレスの課題だったと思う。
アリストテレスは、プラトンの死後、アカデミアを去って自分の学園を作った。
すでに40歳をすぎていた。ここからアリストテレスが自らの哲学を確立するための、
プラトンから真に自立するための、本当の闘いが始まったと思う。
そして、生涯をかけて自らの課題と取り組んだ。
そのアリストテレスの回答は『形而上学』にまとめられている。